第128話「母と呼ばなくていい」
血がつながっていれば、失った年月まで自動的に埋まるわけではありません。
それでも、今から隣へ座ることはできます。
王核大陸へ転移して、八か月目。
灰環盟約の大評議が結論を出せないまま終わった夜、ノア・エルグラムは、百年以上会わなかった母親と同じ食卓へ座ることになった。
灰橋宿の奥にある小さな食堂は、普段より静かだった。
壁際の炉では、冠魔王ガズル・ヴァルグが持ち込んだ大鍋から、香草と骨付き肉の濃い匂いが立っている。だが、誰もすぐには椀へ手を伸ばそうとしなかった。
机の片側にはノア・エルグラム。
淡い金髪は肩甲骨の下で乱れ、細い赤縁眼鏡の奥では、深紅に近い赤紫色の瞳が硬く細められている。焦げ跡と補修跡だらけの魔導衣は、いつもなら研究者としての意地を示す鎧に見えた。今夜だけは、胸元に下がる銀製の小型術式筒を守るための壁に見える。
対面にはノエラ・ヴェイン。
ノアよりもさらに小柄で、年齢を感じさせない白い肌と、夜色を溶かしたような長い黒紫髪を持つ女だった。細身の身体には魔性と呼ぶほかない艶があるのに、今は両手を膝の上へ置き、娘へ近づかないために自分を縛っている。
レイルたちは同じ部屋にいたが、二人の間へ入らない位置を選んでいた。
「ノアよ、妾がおぬしを産んだ」
最初に口を開いたのはノエラだった。
ノアは眼鏡の位置を直した。指先が、ほんの僅かに震えていた。
「結論としては受理します。血統反応、父の残した封管、年齢の整合性、貴方の魔力構造。反証できる材料はありません」
「ならば……母と呼んでくれるのか?」
「血縁の証明と、母親としての実績は別の審査項目です」
ノエラの表情から、期待が一枚だけ剥がれた。
「百年以上の空欄は、容易には埋まらぬか......」
「空欄ではありません」
ノアの声が強くなった。
「それは、”父と私が生きた時間”です。貴方がいなかったからといって、勝手に空白扱いしないでください。父は私を育て、魔法を教え、失敗報告を捨てずに残し、私が何度同じ爆発を起こしても研究室から追い出さなかった」
ノアの指先が、胸元に下がる銀製の小型術式筒へ触れた。
冷たい銀の感触とともに、百年以上前の光景が蘇る。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
まだノアの背が今より低く、父の髪にも白いものがほとんどなかった頃。
半地下研究室の奥で、組み上げた試験術式が爆発した。
床へ描いた魔法陣は中央から裂け、机の上に積んでいた羊皮紙は半分近く焦げている。煤けた天井から細かな砂が落ち、薬品棚では赤い液体が不吉な音を立てて泡立っていた。
爆発音を聞きつけた父が、扉を開けて飛び込んでくる。
「ノア、怪我は?」
「術式は失敗しました。第三環と第五環の接続が反転し、出力先が――」
「術式の話は後だ。ノア自身は動けるのか」
「……動けます」
「指は?」
「十本あります」
「目は見えるか」
「父さんの顔まで見えます。ひどく煤で汚れていますね」
「なら、まずまず成功だ」
父はそう言って、ようやく大きく息を吐いた。
ノアは納得できず、焦げた研究帳を拾い上げる。
「成功ではありません。形成率は九十七・四%で停止し、完成前に全経路が破損しました。この記録は使えません」
「なぜ使えないと決めつける?」
「失敗したからです」
「失敗した理由を書けるなら使えるだろう」
ノアは焼け残った頁を破り取ろうとした。
父の手が、その手首を止める。
「消すな」
「ですが、計算も結果も間違っています」
「だから残すんだ。再現できない成功より、原因を追える失敗の方が次の研究者を遠くへ進ませる」
「次の研究者などいません。これは私の術式です」
「なら、明日のノアがそれを読むのだ」
父は焦げた頁を机へ戻し、欠けた数式の横へ日付を書いた。
「完成しなかったなら、それも一つの結果だ。お前が今日ここまで考えた時間を、失敗にして捨ててはいけない」
「完成していないものを残せば、誤りまで私の研究として扱われます」
「誤ったのもお前だ。直すのもお前だ。それでいいんだ」
当時のノアには、その言葉が甘い慰めに聞こえた。
だから次の日、父へ見つからないよう新しい研究帳を用意し、同じ術式を最初から書き直した。
だが、焦げた古い頁も捨てなかった。
父の髪が少しずつ白くなり、杖なしでは階段を上がれなくなっても、二人は同じ机で検証を続けた。
ノアはわずかに背が伸びたが、その顔立ちはほとんど変わらなかった。
しかし父の指だけが年ごとに細くなっていった。
父と過ごした最後の冬。
父は震える手で、焦げ跡の残る最初の研究帳を開いた。
「ノア、まだ持っていたのか」
「記録の保存は研究者の義務です」
「昔は燃やそうとしていたなぁ」
「あれは保存価値を正確に判断できていなかっただけです」
「そういうことにしておこう」
父は笑い、最初の失敗頁をゆっくり指でなぞった。
「私がいなくなった後も、これを捨てるな」
「研究帳は保管します」
「帳面だけの話じゃない」
父の指が、ノアの胸元へ下がる銀の術式筒へ触れた。
「完成しなかった日も、答えが出なかった日も、お前が生きた時間だ。後から現れた誰かに、なかったことへさせるな」
「父がいなくなった後の話を、確定事項のように話さないでください」
「では、仮説として残そう」
「反証します」
「ああ。できるだけ長く反証してくれ......頼んだぞ」
その仮説だけは、覆せなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
ぱち......ぱち......
食堂の薪が爆ぜ、ノアは現在へ戻った。
胸元の術式筒を握る指へ、僅かに力が入る。
「私は、その父の研究と記録を百二十年以上引き継ぎました。完成しなかった術式も、間違えた計算も、父が年老いていく間に交わした会話も、すべて私の時間です」
ノアはノエラを真っすぐ見た。
「そこへ今さら現れて、失われた母娘の年月などという”綺麗な題名”を付けないでください。私と父が生きた時間を、貴方がいなかったという理由だけで欠落へ分類しないでください」
「……すまぬ」
「謝罪は受理します。関係の成立は保留します」
ノエラは、言い返さなかった。
また、炉の薪が爆ぜた。
ノアは続ける。
「守るために父へ託した。追跡者と白環と、吸血種を狙う者から私を隠す必要があった。そこまでは推測できます。ですが、何も知らせず離れた人が、後から『選ばせたかった』と説明するのは矛盾しています。私は何も知らなかった。選ぶための情報を持っていなかったのですから」
「妾は、血縁を理由に娘の人生へ戻ることを恐れた。父親と穏やかに生きておるなら、その日々を乱す方が罪だと思うたのじゃ」
「その判断を、私に相談しましたか」
「できなんだな......」
「では、それは貴方の選択です。私のためという言葉だけで、私の選択にしないでください」
ノエラは目を伏せた。
「分かっておるつもりで、分かっておらなんだ」
「その言い方は、以前よりましです」
「厳しい査読じゃのう」
「もっと厳しくできます」
「それは、少しだけ嬉しいのじゃが」
「喜ぶ場面ではありません」
ノアは眉を寄せたが、声から僅かに力が抜けた。
ガズルが鍋の蓋を上げた。
「てめぇら、話が終わったならまずは――食え!」
「終わっていません」
「なら食べながら続けろ。腹が減っている時の話し合いは、誰でも少し余計に怒っちまうわ」
「私の論理性が空腹で変動すると?」
「さっきから鍋を三回見とるで」
「観測対象が視界へ入っただけです」
「四回目だブヒ」
ノアは黙った。
ガズルが椀へ煮込みを盛り、母娘の前へ同時に置く。ノアとノエラは、浮いていた赤い香辛子をほぼ同じ順番で端へ避けた。
ノエラの口元が緩む。
「辛味を避ける順まで妾に似ておるのじゃな」
「その観測結果は却下します」
「却下しても、右から二つ目、左端、中央の順じゃよ」
「今の会話を記憶から消してください」
「難しい注文じゃのう」
深刻な空気が、完全ではないにせよ少しだけ緩んだ。
食後、ノアは誰にも告げず食堂を出た。
夜の灰橋宿には、冷たい風が通っている。石造りの外階段へ腰を下ろすと、指先の震えが隠せなくなった。
(仮説は当たった。血縁は証明された。なら、なぜ私は少しも安心していないのでしょう)
足音が一つ近づく。
振り返らなくてもそれが誰か分かった。
「......今は、放っておいてください、アルド」
「分かった」 そういいつつもアルドはノアの後をついていく。
「分かったのなら、なぜついてくるのですか」
「一人で考えたいとは聞いた。一人にしろとは聞いていないぞ?」
「言葉の隙間へ入ってこないでください」
「戻れと言うなら戻るが」
ノアは「戻ってください」と言おうとした。
けれど、声が喉の奥で止まった。
(本当に戻られたら、今は少し困るんです)
「……そこにいてください。ただし、質問は禁止します」
「了解した」
アルドは隣ではなく、一段下へ座った。
無理に慰めない。 母親の話を聞き出そうともしない。
ノアが何も言わないなら、アルドも黙っていた。
その沈黙が、今はありがたかった。
しばらくして、アルドがノアの手元を見る。
「寒いのか」
「違います」
「指が震えているが」
「感情と血統反応の相関を分析しています」
「終わりそうか?」
「……終わりません。変数が多すぎます」
「なら、分析を休めばいい」
「簡単に言わないでください。考えなければ、何を感じているか分からない」
「分からないままでも、今夜は終わる」
「それが困るのです。終わった後、次に何を言えばいいか決められない」
「次に会ってから決めればいい」
「貴方じゃないですか、始めたことを最後まで終えたがるのは?」
「今夜だけで母娘を終わらせる方が間違っている」
ノアは、自分の十分の一しか生きていない、隣の少年を見た。
アルドはいつもと変わらない真面目な顔をしている。整った銀髪には夜露が薄く乗り、真っすぐな目だけがノアへ向けられていた。
アルドは自分の右手を差し出す。
「使うか」
「何にですか」
「分からない。だが、何か握っていた方が落ち着くなら」
「採血ではありませんよね」
「分かっている」
「魔力循環の検査でも、提供前の脈拍確認でもありません」
「それも分かっている」
「私が命じたわけでもありません」
「俺が出したんだ」
ノアはその手を見つめた。
いつもなら、血流、体温、前回提供日、採血可能量を先に確認する。
今夜は、測らなかった。
ノアの方から、アルドの手を握る。
掌は思ったより温かい。
「……”しばらく、このままで”いてください」
「ああ」
「強く握らなくて結構です」
「痛いか?」
「違います。逃げない程度で十分です」
「なら、このままにする」
アルドは握り返さず、離れもしなかった。
(誰かの血が欲しいのではない。ただ、ここにいると確かめたい。こんな感覚は、どの研究記録にもない)
その時、階段の上に人影が立った。
フィアだった。
淡い灰銀色の髪を乱さず束ね、片手にノアの外套、もう片方に湯気の立つ飲み物を持っている。いつもの記録札も脇に挟まれていた。
彼女は、手を握る二人を見て足を止めた。
(――あれは、医療行為ではありません。血液提供でも、戦闘補助でもない)
記録項目が見つからない。
それなのに、胸の奥へ細い針を差し込まれたような痛みがあった。
(なぜ私は、記録する必要のない光景を、見なかったことにできないのでしょう)
ノアがフィアに気づき、反射的に手を離そうとする。
「そのままで結構です」
「ですが――」
「夜間の気温が下がっています。外套を持ってきました。今の接触でノアの震えが減っているなら、継続を止める理由はありません」
「これは診療ではありません」
「はい。ですから診療記録へ含めません」
「見ていたのですね」
「見ましたよ」
フィアは外套をノアの肩へ掛け、飲み物を隣へ置いた。
表情は普段と変わらない。
だが、記録札を支える指だけが白くなるほど強く曲がっている。
アルドが尋ねた。
「フィアも座るか」
「……今は結構です」
「寒くないか」
「私は震えていません」
「震えていたら座るのか?」
「その質問への回答条件が不足しています」
フィアは数歩進み、立ち止まった。
「ただし、十分後には戻ってください。ノアの体温低下、アルドの明日の警備、双方へ影響します」
「命令ですか」
「はい。二人への命令です」
ノアはアルドの手を握ったまま頷いた。
「受理します」
フィアは宿へ戻った。
階段を上がり切ったところで、一度だけ記録札を開く。
今日の日付。母娘血統確認。
ノアの震え。 アルドの接触。
そこまで書いて、筆が止まる。
フィアは一行を消した。
【記録対象外】
そう書くことさえ、今は正しくない気がした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌朝。
フィアはノアへ、昨夜の外套を返してもらうため訪ねた。
「昨夜の接触は、医療記録へ入れていません」
「あれは医療行為ではありません」
「はい。ですから記録しませんでした」
「……何か意見はありますか」
「まだ適切な言葉がありません」
「フィアにも、記録できないものがあるのですね」
「あります」
フィアは少し間を置いてから再び話し出す。
「最近、増えているんです」
ノアは返事を選べなかった。
その時、二人の間へ白い文字が浮かぶ。
【血統関係:確認】
【母子役割:復元可能】
【欠落期間:削除】
【標準家族関係へ矯正】
「削除しないでください」
ノアが言った。
食堂の向こうで、ノエラも同時に立ち上がる。
「妾も望まぬ。娘が生きた年月を消して得る母親の席など、空より軽い」
二人の魔力が白い文字を左右から弾いた。
完全な和解ではない。
それでも、白環に決められた家族を拒む時だけは、母娘の声が重なった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ夜、人間圏。
王立結着学院地下の大陸間転移実験室で、ロッテ・ベルクマンが観測板へ身を寄せていた。
栗色の髪を作業用の布でまとめ、油と煤で汚れた頬へ何度も手を当てる。前回の転移ゲート実験では、出口が断航海域の上空へ開き、先遣役のユノとカインまで失いかけた。
「また揺れました。前回より明確です!」
エルシア・ヴァントが、金色の髪を掻き上げながら波形を見る。
「自然な海域反射じゃないね。間隔が揃いすぎている」
「今度こそ、こちらから越えられるのではありませんか」
勇者候補ユノが転移陣へ一歩踏み出す。
「あぁ、駄目だ」
エルシアの声が低くなる。
「前回は出口が空中で裂けた。次に同じ失敗をすれば、捜す側まで消える」
「では、見ているだけですか。向こうで誰かが助けを求めているかもしれないのに」
「違う。今度は渡るんじゃない。向こうが戻るための目印を作る」
黒髪のカイン・ヴェルドが、声の代わりに石板へ文字を刻む。
【受信杭。複数必要】
ロッテが頷く。
「一人分ではなく、全員分の魔力特性を探します。レイル君だけへ合わせたら、他の子が座標から外れる可能性があります」
「何人いるかも分からないよ」
「だから、枠を先に閉じません」
エルシアは観測板へ手を置いた。
「生きているなら、今のあいつらが帰れる装置を作る。一年前の状態へ戻す装置じゃない」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
また場所は戻って、王核大陸では、ノエラの血統反応によって新しい地点が地図へ浮かんでいた。
白環血統庫。
そこには、オムニアの修復部品と、帰還ゲートへ必要な分散座標が眠っている。
ノアは地図を見た後、ノエラへ視線を戻した。
「同行を申請しますか」
「母親としてではなく、血統鍵としてなら役に立つ」
「その条件で受理します」
母娘の関係は完成していない。
だからこそ、次の話を続ける余地が残った。
【今回の登場人物】
・ノア・エルグラム
百年以上の時間を空白と呼ばせず、母親を保留したまま、初めて採血以外の理由でアルドの手を握った九十九魔導士。
・ノエラ・ヴェイン
母親の席を要求せず、娘が父と生きた時間を消す白環の矯正を拒絶した第一世代ダンピール。
・アルド・クロイツ
慰めの言葉を押しつけず、自分の手だけを差し出し、ノアが離すまで隣へいた少年。
・フィア・レコード
手を握る二人を見て初めて記録不能な痛みを覚え、それでも二人の時間を壊さなかった目録官。
・ガズル・ヴァルグ
母娘の重い話へ鍋を差し入れ、空腹による余計な怒りだけを減らした冠魔王。
・エルシア・ヴァント
人間圏からの再突入を止め、渡るのではなく帰還者を受け止める受信杭の建設を決めた師匠。
・ロッテ・ベルクマン
断航海域の波形を生存信号として解析し、一人分へ閉じない帰還設備を作り始めた魔導技師。
・ユノ
危険を承知で再突入を求めたが、今度は受信側を守る役目を引き受けた勇者候補。
・カイン・ヴェルド
石板へ【受信杭。複数必要】と記し、人間圏側の帰還計画を一人中心から変えた少年。
【今回の能力・設定メモ】
・白環血統庫
長命種、吸血種、魔王種の血統情報を保存していた白環旧施設。ノアとノエラの血統反応により位置が判明した。
・人間圏側の受信杭計画
断航海域を無理に越えるのではなく、王核大陸側から届く複数人の魔力特性を受け止めるための固定設備。
【次回】
ノアは母親を許さないまま、その血を使うかどうかを自分で選びます。
【読者応援文】
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