第124話「空いた席と夜番」
誰かがいなくなった時、日常はすぐには新しい形へ馴染みません。
鍋の量も、朝の足音も、呼びかける癖も、少し遅れて不在を知るのです。
転移から六か月目。
リィナが灰橋宿を離れて三日が過ぎても、朝食の鍋だけは以前と同じ量で煮込まれていた。それを見るたび余計、彼女がいなくなったことを思い出してしまう。
「多いですね」
セレネが鍋と空いた椅子を見比べた。
「明日の携帯食だ」
「温かい煮込みなのに?」
「冷ませば保存できる」
『レイル、言い訳の保存性が低すぎですケド?』
「ニアは黙ってろ」
レイルはいつもの三倍ほど盛った椀を見てから、無言で保存容器へ移した。
ミュラが空いた席へ、小さな木札を置く。
「”戻る席”。片づけない」
「邪魔にならないか?」
「邪魔になるくらい、がいい。忘れない、でしょ」
レイルは答えず、木札が倒れないよう椅子の背へ紐で結んだ。
朝食を済ませた後は訓練場へ向かう。
リィナが決めていた走り込み、受け身、短杖防御。
今までは彼女が回数を数え、少なければ追加し、多ければ食事へ急いだ。
今は少女型ニアが空中へ数字を出す。
『八回目、成功。九回目、出力ちょい弱め。十回目――レイル、そっちは壁です』
「分かってる」
『分かっててぶつかる人の動きじゃなかったんですけど』
「走りながら形成すると視野が狭くなる」
『じゃあ次の課題、“前を見る”。基礎だけど超重要でーす』
レイルは【裂息歩法】で横へ滑りながら、左右の掌へ無詠唱【微風】と【灯光】を形成する。
足裏の噴射へ息を使いすぎると、灯光が消える。
魔法を優先すると、身体が止まる。
百日以上続けても、移動と形成を完全には分けられなかった。
「リィナは一息を強く使いすぎた。俺は細かく分けすぎてるのかな」
『二人とも極端なんですよねー。真ん中を仲良く半分ずつ持てばいいのに』
「技術の話か?」
『そこはご想像にお任せしまーす』
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夕方、アルドとフィアが夜番へ出た。
「第一地点は井戸、第二地点は北東門、第三地点は修理工房です。順番は変えず、道札の番号だけを追ってください」
「分かった。番号が見えなくなった場合は、その場で止まる」
「はい。方角を見て自己判断しないでください。貴方は方角を確認した直後ほど、正しい道から外れます」
「それも分かった。だが、理由は自分でも不明だ」
「私も原因は特定できていません。ただし、再現性は十分です。貴方の場合、方向感覚を使わないことが安全手順になります」
「欠点を封じれば任務へ使えるなら、それでいい。フィアが終点を示してくれる限り、俺は途中を完遂する」
「……そういう言い方をされると、私も終点を間違えられませんね」
フィアは答えを記録せず、番号札だけをアルドへ渡した。
二人は灰橋宿の外周を回る。
夜の街道では、昼に消えた魔物の足跡が淡く光り、古い白環溝から低い音が聞こえる。
アルドは正面を警戒し、フィアは時間と位置を記録する。
「リィナのことを考えていますか?」
第三地点へ向かう途中、フィアが尋ねた。
「なぜ分かった」
「第二地点で同じ道札を二度見ました。迷った時とは視線が違います」
「俺は迷っていない」
「承知しています。だから聞きました」
アルドは少し歩いてから答える。
「戻ってくると思っている。だが、戻った時に俺を選ぶとは思っていない」
「選ぶ、とは」
「言葉どおりだ」
「……記録してよい内容ですか」
「好きにしろ」
「では記録しません」
「なぜだ?」
「今の言葉は任務へ必要ありません。それに、誰かの気持ちを本人より先に台帳へ固定したくないので」
アルドはフィアを見る。
「お前は、白い文字と逆だな。あれは人の気持ちを先に決めるが、お前は本人が選ぶまで空欄を残してくれる」
「それは、褒めていますか。それとも記録者として遅いと評価していますか」
「褒めている。俺は急いで結論を出しすぎる。お前が空欄を残すから、間違った完遂を止められる」
「……なら、受け取ります。私も、貴方が実行してくれるから判断を空欄のまま放置せずに済みます」
夜番は一度も道を外れず終わった。
入口では、ノアが腕を組んで待っていた。
「アルド。健康検査をしますよ」
「今からか?」
「夜番後は循環状態の確認が必要です」
「昨日も検査したのだが」
「昨日と今日は別です」
フィアが即座に記録札を開く。
「本日の採血は不要です」
「採血するとは言っていません」
「腕を見ています」
「脈拍確認です」
「手首で足りますよ」
「……良い否定です。しかし、少し腹が立ちますね」
アルドは二人を見比べる。
「なぜお前たち、張り合っている?」
「張り合っていません」
「医療判断です」
『回答が重なったので、ニアちゃん的には張り合い認定でーす』
ノアとフィアが同時にニアを睨んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
一方、リィナはヴァルカと灰色の街道を進んでいた。
レイルたちと離れて三日目。
宿へ着く前に、ヴァルカは街道脇の地面へ一本の線を引いた。
「人形を斬れ。その線の前で止まれ」
リィナは【瞬駆】で人形を斬る。
線を二歩越える。
「斬れた。今の踏み込みなら、前より深く入れたよ」
「だが、止まれていない。深く入れた分だけ、戻る距離も増えている」
「敵なら倒してる。倒した後に向きを変えれば――」
「その先にレイルがいたらどうする気だ。敵を倒した勢いのまま、守りたい相手へ刃と身体を運ぶのか」
「……それは嫌だ。だから、もう一回。今度は斬った後の場所まで自分で決めるんだから!」
リィナは黙って元の位置へ戻った。
十回。二十回。三十回。
足裏の皮が裂け、息が乱れても、線を越える。
夕方、ヴァルカが訓練終了を告げた。
「まだできる」
「続ければ足を壊すぞ」
「壊さないようにやる」
「その言葉を、誰かから聞いたことはないか?」
レイルの顔が浮かんだ。
リィナは木剣を下ろす。
「……明日は止まれるよう頑張る」
「今日止まっておけ」
「訓練を?」
「そうだ」
夜、毛布の中で欠けた文字が浮かんだ。
【止まる必要はない】
【進む自分も、戻る自分も、どちらも残せばよい】
リィナは毛布を頭まで被る。
「どっちも選ばないのは嫌い。私は止まる」
翌朝。
人形を斬った直後、リィナは自分から肩を落とし、地面へ転がった。
綺麗な停止ではない。
それでも線の手前で止まる。
「今のは失敗だ」
「線は越えてない」
「なら次は、立ったまま止まれ」
リィナは土まみれの顔で笑った。
初めて、止まるための失敗を一つ作れた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
リィナの分まで煮込みを作り、一人でも朝練を続けながら壁との距離だけはまだ測り損ねた少年。
・アルド・クロイツ
リィナへの気持ちをフィアへ話し、記録へ固定されないことで少し救われた少年。
・フィア・レコード
任務外の感情を台帳へ閉じず、番号だけでアルドを一度も迷わせなかった目録官。
・ノア・エルグラム
夜番帰りのアルドを検査しようとして、フィアと無意識に張り合った九十九魔導士。
・リィナ・アルセイル
線の手前で転がるという不格好な失敗を、自分で止まる最初の一歩へ変えた剣士。
・ヴァルカ・ゼイン
速さも根性も褒めず、今日の訓練を今日止めることから教えた剣豪。
・ニア
少女型のギャル口調でレイルの壁衝突と、ノア・フィアの張り合いを遠慮なく採点した疑似精霊。
【今回の能力・設定メモ】
・停止線訓練
敵を斬る成功より、斬撃後に設定地点へ自力で残ることを優先するリィナの基礎修行。
【次回】
アルドとフィアが二人だけで霧の谷へ入り、行方不明の測量班を救助します。
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