第119話「環越祭――空に咲く王域」
帰れなかった者の席を片づけない祭りがあります。
終わらなかった約束を、失敗として捨てないための夜です。
王核大陸へ転移して、五か月目。
人間圏とは異なる暦が、レイルたちより一足先に年の終わりを迎えた。
灰橋宿の朝は、いつもの鐘ではなく、鍋を叩く音から始まった。
炊事場、修理工房、地図塔、共同井戸。
宿のあちこちで大きさの違う鍋や金属板が鳴らされ、道沿いには一箇所だけ切れた灰色の環が吊るされている。
「これは、一体何の警報だ?」
レイルが寝台から起き上がると、隣の部屋から飛び出したリィナが叫んだ。
「お祭りだよ! 朝ご飯、外で無料だって!」
「理由を先に説明してくれ」
「無料より先に必要な理由ある?」
「ある」
「じゃあ歩きながらミュラに聞こう。早くしないと、無料の一椀がなくなる!」
レイルは上着を着る間も与えられず、片方の袖へ腕を通した状態で廊下へ引っ張り出された。
地図塔前では、ミュラが新しい道札を子供たちへ配っている。
「【環越祭】。古い年、環を閉じない日」
「閉じない?」
「終わらなかった約束、新しい期限を書く。帰らない人の席、一つ残す。喧嘩した人、来年も話すか聞く。旅の人、一品食べる」
「全部、終わらなかったものを持ち越す行事なのか」
「持ち越すだけじゃない。続けるか、やめるか、もう一回決める」
レイルは灰色の環を見上げた。
人間圏の年越しなら、古い年を終え、新しい年へ切り替える。
灰環では違う。
完了しなかった約束を恥じて隠さず、続けるのか、ここで降りるのか、本人へ選び直させる。
(前世の俺なら、期限を書き直すことを言い訳にして、また何も終わらせなかったかもしれない)
けれど、この祭りは続けることだけを美化していない。
やめる者の契約札も、広場の火へ投げ入れられている。
「レイル、難しい顔してないで行くよ」
「警備依頼が先だ。食べ歩きは担当区域を回った後」
「警備しながら屋台の場所を確認するのは?」
「職務上必要な範囲なら」
「じゃあ全部必要!」
「そうはならない」
環越祭の警備は、灰橋宿の灰環継路組合から正式に受けた依頼だった。
フィアは広場を六区域へ分け、アルドへ番号札を渡す。
「第一区域から第三区域まで、番号だけを追ってください。方角は見なくて結構です」
「方角を見ない方がいいのか?」
「前回までの記録では、その方が到着率が高いです」
「それなら迷わない」
「なぜ少し誇らしそうなのですか」
「自分の適性を理解しただけだ」
アルドは本当に一度も迷わず巡回を終えた。
戻ってきた時、フィアは時刻札を見て僅かに目を見開く。
「......予定より五分早いです」
「番号は分かりやすかった」
「方向指示は一つもしていません」
「フィアの指示は、終点が分かるんだ」
「それは……任務評価として記録します」
「事実なら書けばいいだろう?」
「個人的な意味が含まれる可能性を検討中です」
「ん、何の意味だ?」
「未確認です」
フィアは記録札を閉じ、先に歩き出した。
その耳だけが少し赤い。
警備の交代時間になると、リィナは待っていたとばかりにレイルの腕を掴んだ。
「今日は保存食の調査じゃないからね」
「灰麦包みは三日程度なら持ちそうだ。帰還ゲート探索の携帯食として――」
「保存期間の話をしたら、その串は私が食べちゃうもんね」
「今持っているのも俺の串だぞ」
「じゃあ、今日は食べさせて?」
「自分で持てるだろ」
「そういう意味じゃない!」
リィナは言った直後、自分でも何を要求したか気づいたらしい。
頬を赤くし、串焼きへ視線を逃がす。
「その……祭りだし。私たちにも、そういう食べ方あるでしょ」
「あるのか?」
「知らないけど!」
「知らないのに要求したのか」
「いいから一回! 嫌ならいいけど」
レイルは周囲を見た。
家族同士、恋人同士、子供と保護者。互いの皿から料理を分け合う姿は珍しくない。
安全上の問題もない。
そう整理してから、串焼きをゆっくり、リィナの口元へ差し出した。
「熱いから小さく――」
リィナは一口で肉を半分以上かじり取った。
「一口の量じゃない」
「レイルが遅いから」
「噛む速度の問題では?」
「次も食べさせて」
「今度は小さく――」
「説明しないの!」
怒りながら笑っているので、何が正解か余計に分からなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
リィナはまだ食べるというので、レイルは彼女と別れて祭りの中を歩いて行った。古書市の前では、セレネが同じ棚から同じ本を三度取り出し、三度戻していた。
レイルが近づくと、何でもない顔で別の本へ手を伸ばす。
「リィナさんとの食事は終わったのですか。ずいぶん長い休憩でしたから、屋台の調査だけではなかったのでしょう」
「警備の休憩時間内だ。担当区域も一周して、危険物の確認も――」
「聞いているのは分類や職務報告ではありません。二人で歩いて、楽しかったのかと聞いています」
「……楽しかった。リィナは保存期間の確認を嫌がったが、灰麦包みも串焼きも美味かった」
「そうですか。では、私にも本の話だけではなく、祭りを楽しんだ感想を一つくらい聞かせてください。共同研究者としてではなく」
「分かった。セレネと古書市を見るのも、楽しみにして来た」
「最初からそう答えれば、光球を余計に出さずに済むのですが」
短い返事とともに、セレネの淡い金髪の周囲へ小さな光球が二つ浮かんだ。
「この棚は王核古語です。研究資料として有用ですが、祭礼価格でも銀片貨が八枚。今後の修理費を考えれば、今回は――」
「その索引、探してただろ」
「必要ではあります。ただし、共同研究の費用を私物へ使うわけにはいきません」
「俺の予備費で買うぞ」
「なぜですか」
「セレネが読めば、俺たち全員が使える。それに――」
レイルは言葉を探し、本の表紙を見た。
「研究が終わっても、セレネが持っていればいい」
「研究が終わった後も?」
「セレネの本だから」
光球が四つへ増えた。
「……その一言だけでよかったのですが」
「前の説明は不要だったか?」
「不要ではありません。でも、最後を先に言えるようになると、もっとよいと思います」
セレネは本を胸へ抱き、僅かに笑った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
別の屋台では、アルドが自分の食券をリィナへ差し出していた。
「これ、一枚余った」
「アルドの分は?」
「もう食べた」
「嘘。まだ何も持ってないじゃん」
「俺はそれほど腹が減っていない」
「じゃあ半分ずつ食べよう!」
リィナは三種類の料理を買い、その一つを見て言った。
「これ、レイルが好きそう。香草少なめだし」
「二人で食べるのではなかったのか」
「みんなで食べた方がおいしいでしょ。セレネにも甘いの買っていこう。フィアは手が汚れないやつ。ノアは……血じゃない方がいいよね?」
アルドは笑った。
(俺へ半分をくれる時より、レイルへ持っていく料理を選ぶ時の方が楽しそうだ、な)
気づかなければ、もう少し長く勘違いできたかもしれない。それでも、リィナが笑っている理由を嫌いにはなれなかった。
「そうだな」
胸の奥へ生まれたものが、届かない可能性を初めて知った。
それでも、渡した食券を取り戻したいとは思わなかった。
日が傾く頃、ノアの血素が低下した。
祭りの高密度魔力と長時間の警備で、補給術式の消耗が予想より早い。
「アルド。八十ミリリットルです」
「昨日はレイルだっただろ」
「毎回同じ提供者へ偏らせないためです」
「今ここでか?」
「人混みの中で倒れるよりましでしょう。裏の診療天幕へ来なさい」
少女型ニアが両手を叩いた。
『わあ、ノア様、祭りデートへの誘い方としては色気ゼロなんですけど』
「診療ですこれは!」
「俺はデートとは言っていない」
「貴方もそこで真顔にならないでください!」
フィアが提供間隔と体調を確認し、許可を出す。
採血後、ノアはアルドの腕へ丁寧に止血布を巻いた。
「五分間は重い物を持たないでください」
「警備用の盾は?」
「重い物です」
「剣は?」
「重い物です」
「俺自身は?」
「その質問をする知能が残っているなら、大人しく座っていなさい」
アルドは素直に座った。
フィアは提供時刻と量だけを記録し、二人の距離については何も書かなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
真夜中。
灰橋宿を囲む灯りが、一斉に消された。
暗闇の中、複数の魔王種が広場中央へ進み出る。
彼らは一夜限りの共同契約を結び、自らの王域を地上ではなく空へ向けて開いた。
正式名称は【王域花火】。
最初に、影を扱う魔王種が夜空を深い黒へ染める。
次に結晶角を持つ魔王種が、青白い光の枝を空一面へ伸ばす。
火を扱う魔王種の七重火輪が、その枝の先で赤、紫、金色の花を咲かせた。
最後に現れたのは、大鍋を担いだガズル・ヴァルグだった。
「今年も腹を空かせた奴がいるブヒ」
巨大な鍋炉へ魔力を注ぐ。
黄金色の火柱が空へ昇り、無数の小さな椀へ分かれた。
光の椀は灰橋宿、街道、避難所、遠くの集落へ流れていく。
誰かを焼くための火ではない。
【今年も、飢えた者へ一椀が届くように】
願いを形にした魔法だった。
(人間圏の教科書には、この夜のことが一行もなかった)
魔王種の力は、人間を脅かす火力としてしか記録されていなかった。
けれど目の前では、同じ力が年を越す祈りと、食卓へ戻るための約束に使われている。
花火の下で、リィナがレイルの袖を引いた。
「来年も、またこれ見られるかな。帰りたいってずっと思ってるのに、帰れたらこの花火を見られないの、少し変な感じがする」
「帰還できていたら、来年の今頃は人間圏にいる。少なくとも、普通ならここにはいない」
「普通じゃなくていいでしょ。帰ってから、今度は事故じゃなく自分たちでまた来ればいい。今度はお土産も持って、家族にもここの話をして!」
「断航海域を越える方法と、王核側の受け入れと、安定した転移ゲートが必要になる。帰還だけでも完成していないのに、再訪まで約束するのは――」
「私は、できるって保証してほしいんじゃない。レイルも”また来たい”と思ってるかを聞いてるの。条件じゃなくて、気持ちを先に教えて」
レイルは言葉を止めた。
条件を並べる前に、答えるべきことがある。
「……俺も、また来たい」
「最初からそう言えばいいのに、いっつもそう」
レイルはリィナへ手を伸ばした。
少し離れていたセレネにも、もう片方の手を差し出す。
セレネは一瞬迷い、それから指先だけを重ねた。
ニアが二人の間から顔を出す。
『ニアちゃんの席もありますよね? そこ、三人で綺麗に締めるのはナシです』
「三人じゃない。四人だ」
『今の修正、かなりアゲです!』
四人で最後の花火を見上げた。
その残光へ、白い文字が混じる。
【関係群:次年度へ継続】
【剣士個体の分離処理:延期】
さらに、その上から欠けた逆向きの文字が重なった。
【この夜を終わらせなくてもよい】
【幸福な時刻を固定すれば、失う必要はない】
レイルは花火から目を離さなかった。
「終わるから、次へ行けるんだ――」
誰が聞いているかは分からない。
新しい年の最初の火が、夜空からゆっくり消えていった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
王核大陸へまた来たいという本音を、条件より先にようやく口へ出せた魔法使い。
・リィナ・アルセイル
食券も串焼きも花火の約束も、レイルと分ける前提で考えていた幼なじみ。
・セレネ・グランツ
祭りの古書を贈られ、研究が終わった後まで自分の物だと言われて光球を増やした少女。
・アルド・クロイツ
食券をリィナへ渡しながら、彼女の視線が自分の先へ向いていることを知った少年。
・フィア・レコード
番号だけでアルドを迷わせず、個人的な意味だけは未確認として記録しなかった目録官。
・ノア・エルグラム
祭りの診療天幕でアルドを採血し、誘い方の色気のなさをニアに指摘された九十九魔導士。
・ニア
少女型のギャル口調で花火見物へ割り込み、四人目の席を自分から確保した疑似精霊。
・ガズル・ヴァルグ
黄金の椀を空へ打ち上げ、飢えた者へ一椀が届くよう願った冠魔王。
【今回の能力・設定メモ】
・【環越祭】
終わらなかった約束へ新しい期限を与え、帰れなかった者の席を残す灰環圏の年越し祭礼。
・【王域花火】
複数の魔王種が王域を空だけへ開き、攻撃ではなく祈りと祝祭へ変える共同魔法。
【次回】
同じ空の下、人間圏では王核大陸へ渡る転移ゲート実験が始まります。
空へ咲いた王域花火のように、皆様の応援も遠くの物語へ届く光になります。レビュー、ブックマーク、フォローで、来年も見たい景色を一緒に残していただければ幸いです。




