第118話「八十ミリリットルの取り合い」
必要なものを誰かへ求める時、量だけでなく、断れる道も残さなければなりません。
けれど求める相手が気になる時、理屈だけでは片づかないこともあります。
転移から四か月目の終わりごろ――。
レイルの単語帳は七冊目へ入り、ノアの採血記録は、本人の不満とは裏腹にフィアの手で一枚も欠けず増えていた。
その日、灰環継路組合から受けた依頼は、街道結界の修理だった。
古い散響結界柱は、隊商が発する足音や魔力音を周囲へ散らし、大型魔物へ正確な位置を悟らせない設備である。
しかし北東街道に並ぶ十二本のうち、三本が白環式の閉鎖文法へ書き換わり始めていた。
セレネとノアが術式修理を担当し、レイルたちは周囲の警戒と資材運搬へ回る。
「三本を同時に調べる必要はありません。一つずつ分離して、どこから白環文法が混入したか確認します」
セレネが薄青色の紙へ術式を写し取る。
ノアは赤縁眼鏡を押し上げ、結界柱の裏面へ顔を近づけた。
「慎重すぎます。混入経路を閉じる前に、三本の差分を並列比較した方が早いでしょう」
「早くても、同じ命令が三本へ走れば全部を失います」
「その時は私が止めます」
「九十九%で止まる方に、最後を任せろと?」
ノアの瞳が輝いた。
「うーん、実にいい。良い否定です。今の言い方はかなり鋭い。もう少し具体的に、私の設計上の弱点まで踏み込んでください!」
「褒めていませんよ!」
「分かっています。だから価値があるのです」
アルドが資材箱を置き、レイルへ小声で尋ねた。
「あいつ、なぜ否定されて嬉しいんだ」
「理論が強くなるらしい」
「俺には分からない」
「俺にも全部は分からない」
朝から大規模な演算を続けたせいか、ノアの声は次第に低くなっていた。
美しい白い肌からさらに血の気が引き、赤紫色の瞳が濃くなる。唇の端から小さな牙が覗いたところで、フィアが記録札を開いた。
「ノア。血素不足の兆候を確認しました。ただちに演算を中断してください」
「あと一本だけです」
「前回も同じことを言いましたよ」
「前回の一本と今回の一本は別の結界柱です」
「身体は前回から連続しています」
リィナが吹き出した。
「フィア、それ私にも言った」
「同じ失敗には、同じ条件が適用されるものです」
ノアは不満そうに口を閉じた。
それから隣のアルドへ向き直る。
「アルド。腕を出しなさい」
「前回から日が足りないだろう?」
フィアが即座に記録札を確認した。
「次回提供可能日は三日後です」
「では、レイル。八十ミリリットルです」
(なぜ名前を呼ばれただけで、左右から視線が刺さるんだ)
採血より先に説明すべき危険が増えた気がして、レイルは無意識に背筋を伸ばした。
「お、俺か?」
「血液型、体調、前回提供日、現在の魔力循環を照合した結果です。貴方が最適です」
リィナとセレネが同時に振り返った。
「どうしてレイルなの?」
「なぜレイルなのですか?」
二人の声がぴたりと重なる。
ノアはこめかみを押さえた。
(どうして血を選ぶだけで、こんなに空気が面倒になるのですか。必要量と相性だけを見れば済む話でしょう)
そう理屈を立てた直後、自分がアルドではなくレイルを選んだことへ二人が反応した事実だけは、妙に気になった。
「医療判断です。恋愛的な選抜ではありません!」
「誰も恋愛とは言ってないけど」
「私も、判断根拠を確認しただけです」
『二人とも反応速度が完全に同じでしたけど。ニアちゃん的には、かなり分かりやすい感じです』
「ニアは余計な解析を止めてくれる?」
『解析じゃなくて、見たままの感想でーす』
レイルは自分の腕と二人の顔を交互に見た。
「八十ミリリットルなら、俺たちの年齢では普通の提供量だろ。今朝の体調も――」
「説明は結構です。そこにお座りなさい」
血素不足が進んだノアは、完全に相手を管理するドS口調へ変わっていた。
「さっさと右腕を出して。袖は肘より上。肩の力を抜く。勝手に魔力を集めないでください」
「さっきより命令が増えてないか?」
「黙って座る」
「はい」
「......もう! 素直すぎます! もっとこう、少し逆らうとか......いや、なんでもないです」
怒られた理由が分からず、レイルは椅子へ座った。
ノアが滅菌済みの採血器を用意する横で、フィアが手順を確認する。
「提供量、八十ミリリットル。現在の年齢区分における標準提供量です。途中拒否可能。気分不良時は即時中断。採血後は五分間の圧迫止血を行い、二十分間、激しい運動および魔法の使用を禁止します」
「二十分も?」
「十分では、貴方がすぐ訓練へ戻るためです」
「実績に基づく延長か」
「はい」
細い針が腕へ入る。
リィナは平静を装いながら近くの木箱へ座った。セレネも結界図へ視線を戻したが、同じ一行を三度なぞっている。
ニアだけが楽しそうにレイルの脈拍を表示していた。
『緊張なし。血圧も安定。むしろ周囲二名の心拍が上がってます』
「表示しなくていい!」
「非公開にしてください!」
『はいはい、プライバシー保護しまーす』
八十ミリリットルの採血には、数分を要した。
ノアは採血器の目盛りを何度も確認しながら、規定量を越える直前で針を抜いた。
止血布を当て、レイルの肘を曲げさせる。
「五分間、その姿勢を維持してください。その後も二十分間は走らない。魔法を撃たない。重い物を持たない。――リィナの訓練を見て反射的に助けない」
「最後の条件は採血と関係ない」
「貴方の生活習慣へ必要な補足です」
採血した血が補給術式へ少しずつ吸収されると、ノアの頬へ色が戻っていった。
同時に、自分が何を命令したかも思い出したらしい。
赤縁眼鏡を直しながら、わずかに顔を背ける。
「......先ほどの発言は、血素不足による一時的な管理口調です。忘れてください」
「いつもより分かりやすかった」
「褒めないでください。いえ、改善点があるなら具体的に指摘してください」
「結局、喜ぶんだな」
「厳密な否定は理論を強くします」
フィアが記録札を開いた。
「では四項目あります。一つ、提供者の着席前に拒否確認を省略。二つ、命令口調への移行を自己申告していません。三つ、採血後の禁止事項へ医療外の内容を混入。四つ、標準量とはいえ八十ミリリットルを提供する相手へ、採血後の水分と食事の確認を行っていません」
「待ってください。そこまで一息に言われると、少し嬉しすぎて整理が追いつきません」
「喜ぶための査読ではありません」
「分かっています。続けてください」
「先にレイルへ水分と補給食を渡してください」
「はい。そこは即時修正します」
ノアは荷物から水筒と、小さく固められた果実入りの穀物菓子を取り出した。
「レイル。これを食べてください」
「急に丁寧になったな」
「査読結果を反映しただけです」
「食べさせてもらえるの?」
「自分で食べなさい!」
「聞いただけだ」
『今のノア様、一瞬だけ手で食べさせるところまで想像しました?』
「していませんから!」
アルドは二人を見比べ、首を横へ振った。
「やはり分からん、女性というものは」
修理作業を再開して間もなく、結界柱の上部から白い粉が落ちた。
ニアの猫耳が跳ねる。
『上です! 術式線に多数接近!』
空を見上げると、灰白色の蛾が数十匹、結界柱の周囲を旋回していた。
羽の表面へ、細い環状紋が浮いている。
「【環喰蛾】です!」
ノアが叫ぶ。
「術式線へ卵を産みます。成虫を追うより柱を守ってください!」
「リィナ、右群。アルドは柱の根元!」
レイルは立ち上がろうとした。
その肩を、リィナとフィアが左右から同時に押さえる。
「レイルは二十分、魔法禁止」
「採血後の制限時間が終了していません」
「でも、結界柱が――」
「私たちがいる」
「提供直後の八十ミリリットルを軽視しないでください」
レイルが止められている間に、灰白色の蛾が一斉に高度を下げる。
リィナが【瞬駆】で右群の正面へ回り、剣の腹で風を叩きつけた。
アルドは結界柱の根元へ盾を立て、蛾の降下経路を塞ぐ。
セレネが無詠唱【硬土】を発動し、柱の周囲へ薄い土壁を形成した。
「レイル、座っていてください。今日は貴方が守られる番です」
「まだ動ける」
「動けることと、動いてよいことは別です!」
押し返された蛾の群れが、今度はフィアへ向かう。
ラガンの鉤縄が空中を裂き、先頭の数匹をまとめて絡め取った。
ノアは補給した血素を術式へ回し、柱の表面へ封鎖膜を展開する。
「卵を術式線へ触れさせなければ、閉鎖文法の増殖は止められます!」
ミュラの投げた石が、左側から回り込もうとした蛾を正確に撃ち落とした。
ニアが空中へ接近経路を表示する。
『右上、残り十二! セレネ様の壁を越えます!』
「見えています!」
セレネが【微風】を土壁に沿わせ、蛾の群れを中央へ押し戻す。
そこへリィナが踏み込み、横薙ぎの一撃で群れを地面へ叩き落とした。
最後の一匹を、ラガンの鉤縄が捕らえる。
戦闘が終わると、レイルは曲げたままの右腕を見下ろした。
「……俺が何もしなくても、終わったな」
「それ、少し不満そうに言うこと?」
リィナが剣を鞘へ戻しながら、レイルの前へ立つ。
「レイルは、自分が動かないと誰かが傷つくって思いすぎ。私たちだって戦えるんだよ?」
「分かっている。ただ、目の前で敵が動けば、身体が先に――」
「それを止める練習をしてるのは、私だけじゃないってこと」
リィナはレイルの右腕を指差した。
「八十ミリリットル採った直後に魔法を撃ったら、いつもの魔力循環と違うでしょ。そこで無理に三つも重ねたら、体調がおかしくなるかもしれない」
「三つ重ねるとは言っていない」
「言ってなくても、レイルならやるもん」
「否定しにくいな」
「私が停止線を越えた時に止めたんだから、レイルも止まって。自分だけ『少しなら大丈夫』にするのは、ずるいよ」
「……分かった。制限時間が終わるまでは座っている」
「終わってからも、今日は出力を落とす」
「それは別の話だ」
「フィア」
「本日は基礎魔法一件までです」
「まだ何もしていないのに決定された」
『ニアちゃんも一件派なので三対一でーす』
「知らんうちに増えた」
結界柱の修理を終え、ノアが採血器を片づけようとした時だった。
八十ミリリットル分の目盛りが刻まれた透明な筒へ、白い文字が浮かぶ。
【提供者候補】
【完遂個体:高安定】
【中心対象:高出力】
【標準量八十ミリリットル】
【交互使用を推奨】
ノアの顔から、先ほど戻った血色が別の意味で引いた。
「私の栄養管理へ勝手に入り込まないでください」
採血器を机へ叩き伏せる。
『ノア様、それ“食事管理”って言い切ると、レイルたちが微妙な顔してますよ』
「栄養摂取です」
「今、食事って言わなかったか?」
「聞き間違いです」
白い文字は消えた。
その代わり、修理報酬として渡された札の束から、赤い祭礼札が三枚ずつ配られる。
「環越祭、食券」
「環越祭は、この大陸での年越しの大きな祭りだ、この日だけはみなが立場を忘れ、楽しむ」
ミュラが言った後に、
ラガンが補足すると、リィナの目が一気に輝いた。
「一人何枚?」
「三枚」
「祭りまでに、もう一件受けられない?」
「明日は休養日だ」
「休養日に食券を稼ぐのは?」
「それは労働だ」
「食べるためなら休める!」
「意味が逆になってないか?」
リィナはすでに、誰の食券が余りそうかを目で数えていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
八十ミリリットルの血液を提供し、戦闘が始まっても仲間たちから強制的に座らされた少年。
・リィナ・アルセイル
自分の制動訓練を棚へ上げず、採血直後のレイルにも同じ停止条件を突きつけた剣士。
・ノア・エルグラム
血素不足でレイルを完全管理し、回復後はフィアの四項目査読へ妙に満足した九十九魔導士。
・アルド・クロイツ
ノアの反転性格を最後まで理解できず、それでも提供間隔だけはきちんと守った少年。
・セレネ・グランツ
レイルを戦闘へ参加させず、自分たちだけで結界柱を守り切った設計者。
・フィア・レコード
八十ミリリットルの提供手順と採血後の停止条件を、戦闘中も容赦なく適用した目録官。
・ニア
少女型のギャル口調で恋愛反応と脈拍を拾い、採血後の戦闘参加にも反対票を入れた疑似精霊。
【今回の能力・設定メモ】
・血液提供量
レイルたちの現在の年齢区分では、一回八十ミリリットルが標準提供量。提供間隔、血液型、体調、魔力循環を確認し、本人の同意を得たうえで実施する。
・採血後の制限
五分間の圧迫止血を行い、その後も二十分間は激しい運動、魔法使用、重量物の運搬を禁止する。
・【環喰蛾】
術式線へ卵を産みつけ、孵化した幼虫に結界文法を食わせる魔物。白環式の閉鎖文法を媒介する個体も存在する。
【次回】
王核大陸の年越し大祭で、魔王種たちが空へ王域を咲かせます。
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