第117話「止まれなければ、ただの通過だ」
速く進めるようになった時ほど、止まる場所を決めなければなりません。
たどり着くだけでは、帰ってきたことにはならないからです。
王核大陸へ転移して、四か月目が過ぎていた。
灰橋宿の朝霧が薄くなる頃には、レイルたちは宿守から「異邦の子供」ではなく、正式な仕事札を持つ客員冒険者として呼ばれるようになっていた。
その日の夜明け前、宿の外れにある訓練場へ、三本の白い杭が立てられた。
一本目は加速開始地点。
二本目は斬撃位置。
三本目は停止限界。
リィナは二本目の杭を睨み、靴底を地面へ押しつけた。足裏の【生体導出端】へ魔力を流し、腰を落とす。
「吐け」
その背後でラガン・ティグリスが言った。
「息なら吐いてる」
「ただ漏らすな。腹、腰、膝、足裏へ順番に落とせ。一息で全部を動かそうとするから、身体だけ先へ飛ぶ」
「そんなに細かく考えてたら遅くなるじゃん」
「考えるのは今だけだ。身体が覚えれば、戦場では考えずに済むのだ」
ラガンは自分の胸へ手を当て、短く三度、息を吐いた。
一度目で巨体が沈む。
二度目で腰が前へ出る。
三度目――足裏から灰色の魔力が弾け、二メートル近い身体が音もなく三歩先へ移った。
【裂息駆動】。
彼が飛び上がったのではない。地面を蹴った動作すら、ほとんど見えなかった。ただ、ラガンの立っていた場所だけに霧が渦を巻き、次の瞬間には三本目の杭の横へいる。
「うわ、速っ……! 今、地面を蹴ったところが全然見えなかった。足裏から一気に噴かせたの?」
「速さだけを見るな。胸が沈んだ瞬間と、腰が前へ出た順番を見ろ。足裏は最後だ」
「息は見えないし、胸と腰を別々に見る余裕なんてないよ。戦ってる最中なら、なおさら無理」
「だから今、身体へ覚えさせる。戦場で考えずに済むよう、考えられる時に分けて練習するんだ」
「説明を諦めてるわけじゃないんだね。難しいことを、私が分かるまで同じ言い方で押し切る気なんだ」
リィナが不満そうに眉を寄せる横で、レイルは記録帳へ呼吸の間隔を書き込んでいた。
「一息目と二息目の間が〇・二秒。三息目だけ足裏出力が――」
「お前も書くな。やれ」
「構造を理解してからの方が再現率は上がる」
「走る時に全部喋ろうとするから転ぶんだぞ」
ラガンの太い指が、レイルの記録帳を閉じた。
リィナが吹き出す。
「レイル、走りながら説明しすぎなんだよ」
「リィナは息を全部加速へ使って、止まる分を残していないじゃないか」
「今は私の話じゃないでしょ」
「二人とも同じだ」
ラガンは二人の額を順番に指で押した。
「速くなる前に、”帰ってこられる息”を残せ」
(速さを増す訓練なのに、最初に教えられるのが帰り方なのか。先生を思い出すな)
レイルは、その順番がエルシアの授業とよく似ていることに気づいた。撃ち方より消し方、始め方より終わらせ方。王核大陸の戦士もまた、別の言葉で同じ責任を教えている。
リィナは口を尖らせながらも、もう一度、一本目の杭へ立った。
吸う。
腹へ落とす。
腰を進行方向へ向ける。
足裏から短く噴く。
「【噴歩・瞬駆】!」
土が弾け、赤栗色の髪が一直線に走った。
二本目の杭が斜めに斬れる。
リィナは勝ったように笑った――直後、三本目の杭を越え、訓練場の土壁へ肩から突っ込んだ。
「斬れた! 今の踏み込みなら、同じ距離にいた敵は絶対に避けられないよ!」
「ああ。斬れたことは認める。だが、お前自身は止まれていない。敵を倒した直後に壁へ刺さる剣士を、隊商は前衛とは呼ばんぞ。お荷物だ」
「敵が倒れてるなら、その間に立てばいいでしょ。すぐ起きれば、次にも間に合う」
「その先に仲間や守るべき客がいたら、お前が倒してしまう。速さを強さと言い張る前に、斬った後も自分の足で立っていろ」
訓練を見ていたヴァルカ・ゼインが、四本の腕を組んだまま言った。
四腕族の女剣豪は、今朝から一度も剣を抜いていない。それでも、リィナが壁から起き上がるより早く、三本目の杭の位置へ立っていた。
「じゃあ、どうすればいいの」
「進んだ方向と逆へ噴け。剣より先に、自分を止めろ」
「前へ行くために出した魔力を、後ろへ使うの?」
「違う。前へ出した力を消すために、別の力を出す」
「もったいない」
「止まれず死ぬ方が、よほど無駄だ」
ヴァルカは三本目の杭の手前へ、剣先で一本の線を引いた。
「ここで止まれ。足だけで止まろうとするな。息を残せ。腰を落とせ。刃を振り抜いたまま身体を放り出すな」
「注文、多くない?」
「命は一つだ。注文が少ないと思うか?」
リィナは返事をせず、再び一本目へ戻った。
今度は二本目を斬った直後、右足から逆向きの魔力を噴く。
【噴歩・逆制】。
身体が急に引かれ、右膝が内側へ折れかけた。
「痛っ……!」
倒れる前にレイルの【微風】が背中を支えた。
無詠唱で生まれた風はまだまだ弱い。それでも転倒の向きを横へずらし、リィナは肩から地面へ転がった。
「右膝は?」
「平気。ちょっと捻っただけ」
「ちょっとの定義を――」
「助けるな」
ヴァルカの声が落ちた。レイルは右掌を閉じる。
「壁へぶつかる」
「致命傷にはならん」
「分かっていて見ていろと?」
「こいつが自分で止まる訓練だ。お前が止めれば、またお前を頼るだろ」
胸の奥へ、冷たい石を押し込まれたようだった。
(助けないことが訓練だとしても、見ているだけなのは嫌だ......)
リィナが土を払いながら立ち上がる。
「レイル、今のはありがと。でも次は、私が”自分で止まる”ところまで見ていて」
(助けてもらえて安心した自分がいる。だからこそ、このままでは駄目よね)
リィナは痛む膝へ力を入れ、レイルの風がなくても立てることを確かめた。
「膝を壊したらどうする」
「壊さないように止まる練習をしてるの」
「壊す前に止める方が安全だ」
「安全の話だけしてるんじゃない。私が自分でできるって、少しくらい信じてよ」
そこで初めて、レイルはリィナが痛みより悔しさを隠していると気づいた。
(心配しているつもりで、失敗する権利まで奪っていたのかもしれない)
認めたくない考えだった。だが、自分の魔法だけは何百回失敗しても続けたことを思えば、否定する言葉は出なかった。
「信じてないわけじゃない」
「じゃあ、なんで毎回先に手を出すの?」
「……失敗した後では遅いから」
「私だって失敗したいわけじゃない。でも、一度も失敗しないまま上手くなるなんて無理でしょ。レイルは自分の魔法なら何百回でも失敗するくせに、私の失敗だけ先に取るの、ずるいよ」
長く言い切った後、リィナは息を乱した。
ラガンは何も口を挟まなかった。
レイルは反論の形を作れないまま、握っていた掌を開いた。
「……次は、危険線を越えるまで手を出さない」
「危険線って?」
「三本目の杭から半歩先」
「まだ条件つけるんだ」
「全部放っておくとは言ってない」
「じゃあ、それでいい。半歩までは私が止まる」
言葉で完全に折り合ったわけではない。
それでも、次の一回へ進む条件だけは二人で決められた。
その後訓練は昼まで続いた。
フィア・レコードは回数と足裏温度を記録し、十二回目が終わったところで札を閉じた。
「本日の【瞬駆】は終了です。【逆制】は六回。右足裏の熱量が基準を超え、膝の軸も二度ずれています。続行を認めません」
「まだできるよ。最後の二回は、さっきより停止線へ近づけた。ここで止めたら、その感覚まで逃げる」
「現在の問題は、今この一回を出せるかではありません。明日も同じ足で立ち、今日の感覚を試せるかです。壊して覚える方法は記録上も非効率です」
「じゃあ、あと一回だけ。成功したら終わるし、失敗しても終わる。それなら条件は同じでしょ」
「昨日も同じ交渉をし、その一回を追加しました。結果、今朝の開始時点で回復が一割遅れています」
「昨日の一回と今日の一回は別だよ。今日の私は、昨日より上手くなってる」
「技術は更新されています。しかし身体は昨日から連続しています。上達した貴方が明日も訓練できるよう、今日は終了です」
リィナがレイルへ助けを求めるように見る。
「レイルはどう思う?」
「フィアが正しい。足を壊したら帰還ゲートを起動できても歩けない」
「そういう話じゃない!」
「じゃあ、どういう――」
「もういい。あんたは自分の練習してて!」
リィナは木剣を抱え、訓練場を出ていった。
レイルは残された土の足跡を見つめる。
ニアが少女型で隣へ浮かび、黒銀色の猫耳を伏せた。
『レイル、今の回答、正解ではあるんですけど、気持ちへの点数はかなり低めですねー』
「俺は怪我をしない方を――」
『それはリィナも分かってます。たぶん欲しかったの、“明日ならできる”とか、“今日はここまで一緒にやった”とか、そっちです』
「先に言ってくれ」
『ニアちゃんが言ったら意味ないじゃないですか。本人から言わないと、好感度イベントは成立しません』
「何のイベントだ」
『そこからです? 恋愛シミュレーションゲームとかやったことないんでしたっけ?』
夜。
リィナは一人で訓練場へ戻ってきた。
三本の杭はそのまま残っている。
もう一度だけなら、誰にも見つからず試せると思った。
だが、一本目の杭の前にはアルド・クロイツが座っていた。
「規定回数は終わった」
「見張ってたの?」
「監督を頼まれた」
「誰に?」
「フィアとヴァルカとラガンとレイルだ」
「うわ、多すぎ!」
「全員、同じことを考えたらしい」
リィナは木剣の先を地面へ突いた。
「レイルなら、もう少し話を聞いてくれるのに」
「俺はレイルではない」
「分かってるよ」
「なら、止める。お前が怒ってもだ。明日、最初の一回だけ付き合う。今日は帰れ」
「約束だからね。寝坊したら承知しないよ」
「開始した約束は完遂する」
「道を間違えて来なかったら?」
「ここで寝る」
「そこまでしなくていい!」
リィナは呆れた末に笑った。
翌朝、アルドは本当に訓練場へ来ていた。
ただし柵の外側で待っていた。
「来てるなら入ればいいじゃん」
「入口が二つあった」
「一つしかないよ」
「なら、こちらは出口だ」
「朝から真面目な顔で何言ってるの!」
笑いながら始めた最初の【逆制】は、停止線を一歩だけ越えた。
前日より、半歩短かった。
誰もいなくなった後、斬られた杭の断面へ白い文字が浮かぶ。
【剣士個体】
【停止能力:不足】
【中心対象による補助を確認】
【分離訓練による最適化を推奨】
ニアだけが、その文字を記録していた。
【今回の登場人物】
・リィナ・アルセイル
速くなるほど止まれなくなり、失敗までレイルへ取られたくないと初めて言葉にした剣士。
・レイル・アルヴァート
危険を先に取り除く優しさが、相手の練習を奪うこともあると突きつけられた魔法使い。
・ラガン・ティグリス
【裂息駆動】を二人へ教え、速さより先に帰ってこられる呼吸を残せと命じた虎獣人。
・ヴァルカ・ゼイン
斬撃の成功より、斬った後に自分と仲間が立っているかを問う四腕族の剣豪。
・アルド・クロイツ
入口を間違えても約束の場所には到着し、夜間訓練だけはきっちり止めた完遂の少年。
・フィア・レコード
リィナの「あと一回」を、昨日から連続する身体の記録で封じた目録官。
・ニア
少女型の明るい口調で、レイルの安全回答へ恋愛点だけ低いと採点した疑似精霊。
【今回の能力・設定メモ】
・【裂息駆動】
呼吸、腰、膝、足裏を順番につなぐ王核式の瞬間加速戦技。
・【噴歩・逆制】
進行方向と逆へ脚部魔力を噴射し、突入後の身体を間合いへ残す制動技。現在は訓練段階。
【次回】
ノアの血素不足が、レイルとアルドの腕を巡る妙な争いを起こします。
停止線を半歩ずつ縮めるリィナのように、物語も一話ずつ次の景色へ進みます。レビュー、ブックマーク、フォローで、その足元を支えていただけると嬉しいです。




