第110話「海の向こうは同じ空」
遠すぎる場所は、別の世界に見えます。
けれど同じ月が昇るなら、届かない距離にも道を作る余地があります。
古書市で手に入れた本の中に、人間圏の文字が一冊だけ混じっていた。
表紙は潮と砂で削れ、題名の半分が消えている。
【西方外洋・第三次観測航海記録】
人間圏の航海士が書いた百年以上前の記録だった。
転移から四十七日目の夜、レイルたちは灰橋宿の地図塔最上階へ集まった。
机の上には、航海記録、王核大陸の星暦、断片的な白環観測板、漂着した人間圏貨幣、セレネが作った月齢表が並ぶ。
「結論から言います」
セレネは眼鏡の位置を直し、二枚の星図を重ねた。
「王核大陸は異世界ではありません。人間圏と同一の天体上に存在する、遠隔大陸です」
誰もすぐには声を出さなかった。
知識として予想していた者はいる。
空に同じ月があり、星の動きも似ていた。漂着貨幣も、人間圏の古い鋳造規格と一致する。
それでも、帰還座標のない転移で落とされ、言葉も文明も違う場所に立てば、別世界と考える方が自然だった。
「確証はあるのか?」
レイルがそう尋ねると、フィアが記録札を開く。
「今までのデータから第一。月の公転周期が一致。第二。北方星群の相対位置が一致。第三、人間圏の古銅貨が王核大陸東岸で漂着物として記録されています。第四――」
セレネは航海記録の頁を示した。
「人間側の調査船が、断航海域を越えて王核大陸沿岸へ到達した記録があります」
「何だと、到達してたのか?」
アルドが身を乗り出す。
「三度のうち一度だけ。滞在は二日。上陸地点は東岸の白環廃墟近辺です」
「二日で、大陸全体を魔物支配地域と判断した?」
レイルは航海記録をめくった。
【統一国家を確認できず】
【異形種の群れが石造建築へ巣食う】
【言語的意思疎通は成立せず】
【恒久交易の価値なし】
地図塔の窓の下では、灰橋宿の共同井戸に順番札が並び、四腕族の職人が荷車を修理し、小角族の子供が明日の地図を写している。
「異形種の群れ、かあ」
リィナが不機嫌そうに呟く。
「町を町だって分からなかっただけじゃんね」
「灰環は王を持たず、都市ごとに契約が違います。調査隊は“統一国家がない”ことを“社会がない”と誤認したのでしょう」
セレネの声は冷静だが、頁を押さえる指に力が入っていた。
「言葉を学ばず、二日間で結論を出した。調査としてはまったくもって不十分です」
「不十分というより、ずさんといっても過言ではない」
ノアは赤縁眼鏡を押し上げた。
「百二十年前の調査手法として見ても、再現性がありません。上陸地点が白環廃墟なら、住民が追われた土地だけを見た可能性も高い」
「にんげんたち、教科書、間違い!」
ミュラは短く言った。
レイルは自分の【大陸史概論】を取り出し、余白へ書き始める。
【魔物支配地域――訂正。複数文明圏】
【交易路なし――訂正。人間圏との恒久航路なし】
【国家なし――訂正。国家以外の統治形態あり】
「待ってください」
セレネが筆を止めた。
「学院教本へ直接書き込む前に、出典と頁番号を付けてください」
「後で清書するつもりだが?」
「その“後で”は、帰還後に提出できる状態を意味しますか?」
「もちろんだ」
「では、訂正表を別紙で作ります。教本へ書くのはそれからです」
「間違ってると分かったのに残すのか?」
「訂正不能になる書き方を避けるのです」
レイルは不満だったが、昨日買った文法書の欠けた頁を思い出した。
書き直す余地を残すことは、曖昧にすることとは違う。
「分かった。別紙にする」
「素直ですね」
「この大陸で学んだからな」
セレネは僅かに笑った。
虎獣人ラガンが巨大な海図を広げる。
人間圏と王核大陸の間には、通常の航海図なら海だけがあるはずだった。
しかし灰環の記録では、海域全体へ幾重もの危険印が刻まれている。
「【断航海域】か」
ラガンが指で海を横切る。
「季節と月齢で海流が逆転する。空の魔力嵐は方位具を狂わせ、浮遊岩礁が夜のうちに位置を変える。海中には王核級の魔獣もいる」
「飛んで越えるのはできないのか?」
アルドが聞く。
「補給地点がない。人間の上級飛行術師でも、嵐の中で何日も飛び続けられんだろう?」
「転移なら?」
「座標を結ぶ間に海域の魔力層がずれる。固定した出口が、翌日には嵐の内部へ入る」
レイルは海図を見つめた。
ここは異世界ではない。同じ世界にいる。
それなのに、普通の船では越えられず、飛べず、転移座標も安定しない。
近くなったはずの故郷が、別の形で遠くなったのを実感した。
(でも、世界が違うわけじゃない。座標を作れば届くはずだ)
「断航海域の魔力変動を、未完で止められないか?」
「海全体を、ですか――?」
セレネが眉を寄せる。
「無理だ。範囲が大きすぎる」
「即答できるなら、なぜ言ったのですか」
「無理な案を除外するため」
「除外案も一度口にするのですね」
「頭の中だけで捨てると、後で同じ案を何度も考える」
フィアが記録札へ書く。
「却下案として登録します。断航海域全体の完成留保、実行不能」
「記録するのか」
「次回の重複検討を防ぎます」
レイルは少し複雑だったが、理に適っていた。
その時、最上階の窓から月光が差し込み、白環観測板へ触れた。
板の表面に、白い文字ではない光が走る。
白へ淡い金色の縁が重なっている。
『通常の白環表示とは、魔力波形が違います』
ニアが少女型へ変わり、レイルの前へ立つ。
光の中から、人の輪郭がゆっくりと形を取った。
性別も年齢も判然としない。白い衣のように見えるものは、布ではなく文字列が流れているだけだった。
「また会いましたね、欠環の魂」
声は穏やかだった。
リィナが即座に剣を抜く。
「あなた、レイルから離れて」
「私は彼へ触れていません」
「名前は?」
レイルが聞く。
「私は、アルケイン。案内を担うものです」
「アルケイン……」
その名を記録するより先に、レイルの中で過去の三つの出来事がつながった。
「赤い樹液を飲めと表示したのも、休憩所で北壁の第三石を示したのも、あなたですか?」
「はい。いずれも、あなたたちの生存と帰還可能性を高めるための案内でした」
「赤い樹液の適量と副作用は説明しなかった。第三石の先にあった帰還門が、一人分だということも」
「尋ねられていない情報を、すべて提示したわけではありません」
「それを、説明不足と言うんだ」
リィナが剣を構えたまま、一歩前へ出る。
「じゃあ、沼で私に“彼が終えるまで待て”って言ったのも、あなた?」
「私の分割投影です。あなたには、別の姿に見えていたはずです」
「やっぱり。言っておくけど、私は待たないから」
「記録しています」
ニアの前へ、三枚の半透明な記録札が開いた。
『過去記録を照合。正体不明の助言二件、リィナへの接触一件。発信者名を【アルケイン】へ仮登録しまーす』
「仮、ですか?」
アルケインが初めてニアへ顔を向けた。
『同一人物っていう根拠、今のところ本人申告だけですから。神様っぽくても本人確認は必要案件です』
「合理的な判断です」
『おっ、評価はプラス一。でも説明不足でマイナス二です』
アルケインは怒らなかった。
その反応まで、以前の白い文字と同じだった。
「白環の仲間か?」
「白環を利用します。白環そのものではありません」
「目的は?」
「あなたが最も苦痛の少ない形で、適切な終端へ到達すること」
「その終端は誰が決める?」
「完成可能性が最も高いものを選びます」
「俺の希望ではなく?」
「希望も条件へ含めます」
答えはすべて整っている。
嘘をついているようには聞こえない。だからこそ、不気味だった。
「人間圏の座標を知っているか?」
「完全ではありません。しかし、東の旧観測塔へ行けば、一度だけ人間圏側の光を見られます」
全員の空気が変わった。
「今すぐ行くぞ!」
アルドが言う。
「アルド、少し待て」
レイルは短く止めた。
「条件を聞こうか」
「観測塔は白環旧網へ接続されています。起動には、矯正対象群のうち三名以上と、白環文法を読める媒体が必要です」
「危険は?」
「回収網へ存在を通知する可能性があります」
「可能性はどれくらい?」
「現在の情報では算出不能です」
「通知された場合、何が来る?」
「回収獣、または矯正執行端末」
「観測後に塔を止められるか?」
「停止手順は存在します」
「俺たちにもできる?」
「適切な順序を守れば」
「順序を間違えたら?」
「再起動します」
質問を重ねるたび、アルケインは淀みなく答えた。
ニアが横で記録を続ける。
『助言が正しいかは、まだ検証できません。危険の説明も一部だけ。採点は、いったん保留でーす』
「神託を採点するのですか?」
セレネが小声で聞く。
「神を信じる前に記録する」
「慎重なのはよいですが、神格らしき相手へ失礼では?」
「失礼で危険が減るなら安い」
アルケインは怒らなかった。
「その姿勢は、あなたを長く未完のまま保つでしょう」
「褒めてるのか?」
「評価です」
ニアが小さく手を挙げる。
『追加質問です。観測塔の情報、なんで今になって出したんですー?』
「彼らが同じ大陸にいると理解したからです。別世界だと考えたままでは、正しい座標を選べません」
『答えの筋は通ってます。でも、動機はまだ分かんないままです』
「そのとおりです」
自分から不明を認める。
レイルはますます信用し切れなかった。
「東の観測塔へは行く。ただし、今すぐではないぞ」
アルドが振り向く。
「おいレイル! 人間圏が見えるかもしれないんだぞ」
「だからこそ準備する。白環へ見つかる可能性がある。経路、撤退、停止手順、現地の許可が必要だ」
「遅れて窓が閉じたら?」
「――月齢条件は?」
レイルがアルケインへ聞く。
「次に最適となるのは、二十八日後です」
「なら、その日までに準備する」
「了解しました」
アルドは拳を握ったが、やがて頷いた。
「二十八日後だな。始める準備を完遂する」
「準備を完遂したら、それで満足するなよ」
「お前に言われたくない」
初めて、少しだけ普段の空気が戻った。
アルケインの姿が薄れる。
「レイル・アルヴァート。......あなたに一つだけ助言します」
「何だ」
「帰還を望むことと、今いる土地を愛することは矛盾しません」
その言葉だけを残し、金縁の光は消えた。
地図塔の窓から、同じ月が見える。
人間圏でも、家族や師匠がこの月を見ているかもしれない。
リィナがレイルの隣へ立った。
「一緒に帰ろうね」
「ああ、帰るさ」
「でも、ここにもまた来たいなぁ」
「航路がない。断航海域を越えるだけでも、今の俺たちには――」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、帰るためにここを嫌いになる必要はないでしょ。私はミュラにもラガンにも、また会いたい」
「……俺もだ」
「じゃあ作ればいい。レイルが難しく考えて、私が簡単に言う。それでいつも進んできたでしょ!」
セレネも反対側へ立ち、購入した文法書を胸へ抱えた。
「帰還後、正式な調査隊として再訪する方法を研究できそうです」
「もう再訪の計画なのか? 気が早いな」
「帰還だけを成功させて、ここで得た関係を終了させる必要はありませんよ」
レイルは海図へ新しい線を引いた。
現在は存在しない、人間圏と王核大陸を結ぶ線。
実線ではなく、途中で切れた点線にした。
それは――今はまだ、完成していない道だった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
王核大陸が”同じ世界”にあると知り、帰還だけでなく再訪まで見据えた未完成の線を海図へ引いた少年。
・セレネ・グランツ
月齢、星図、漂着物、航海記録を照合し、人間側の二日間調査が残した誤りを訂正した術式設計者。
・リィナ・アルセイル
帰る意思と、ここへまた来たい気持ちをどちらも迷わず口にした幼なじみ。
・アルド・クロイツ
人間圏を見られる可能性へ即座に動こうとしながら、二十八日間の準備を受け入れた騎士。
・アルケイン
正確な観測塔情報と危険の一部を提示し、目的だけは明かさなかった白い案内人。
・ニア
アルケインの助言を記録し、正確度と動機を分けて採点保留とした案内役。
・フィア・レコード
実行不能な海域全体の未完化まで却下案として残し、同じ検討の反復を防いだ目録官。
・ノア・エルグラム
百年以上前の航海記録を研究手法から批判し、白環廃墟だけを見た可能性を示した研究者。
・ミュラ・ノクテ
人間側の教科書が故郷を誤って記している事実へ、短い言葉で怒りを示した案内人。
・ラガン・ティグリス
反転海流、魔力嵐、浮遊岩礁を含む断航海域の現実を海図から説明した案内役。
【今回の能力・設定メモ】
・【断航海域】は反転海流、魔力嵐、浮遊岩礁、大型海棲魔獣により通常航行が困難な海域。
・王核大陸は異世界ではなく、人間圏と同じ世界に存在する遠隔大陸。
・アルケインは白環を利用するが白環そのものではなく、最も完成可能性の高い一案を提示する。
海図へ引いた点線のように、まだ届かない道も一話ずつ伸びていきます。ブックマークとフォローで断航海域の向こうまで伴走し、レビューで同じ月を見上げた感想を残していただけると嬉しいです。




