第109話「本屋へ行くだけです」
本は、遠い場所の誰かが残した声です。
それを贈ることは、読み終えた後の時間まで相手へ渡すことなのかもしれません。
リィナとの市場デートから三日後、レイルは灰橋宿の井戸裏で【灯光】を無詠唱形成していた。
右掌の上に、親指の爪ほどの光が浮かぶ。
明るさは蝋燭より弱い。輪郭も歪み、少し歩くと揺れて消えた。
少女型ニアが言う。
『【灯光】の無詠唱形成、持続四・八秒! 昨日より一・一秒アップですぅ』
「六秒までいけば、歩きながら単語帳を読めるな」
『え、夜道を歩きながら読む気です?』
「時間を増やせる」
『増えるの、勉強時間より転んでる時間じゃないですか?』
ニアの指摘を無視し、二度目を作ろうとした時、よく知る淡い金髪が視界の端へ入った。
セレネは今日も灰色の外套をきちんと留め、革の鞄を両手で抱えて立っていた。眼鏡の奥の青紫色の瞳は、いつもより少しだけ落ち着かない。
「レイル。訓練中でしたか」
「もう終わるところだ。何かあった?」
「境界都市から来た隊商が、今日だけ古書市を開いています」
「古書?」
「灰環交易語の辞書、白環旧文法、四腕族拍節語の術式資料があるそうです」
セレネの声は普段どおり整っている。
ただし、説明の順番が少し早い。最後まで聞く前から、行きたい気持ちが先へ出ていた。
「一緒に行く人が必要なのか?」
「資料の価格と状態を確認するだけなら、一人でも可能です。ただ、白環旧文法と貴方の【未完】反応を、その場で照合したいのです」
「それなら最初から、同行してほしいと言えばいいだろ」
「言うつもりでした。……それに、古書市は今日だけです。見つけた時、貴方と一緒に見たいと思いました」
「共同研究だから?」
「今は、理由を一つへ決めなくてもよいでしょう?」
セレネは一度言葉を切った。
「荷物が増える可能性があります」
「分かった。持つ」
「いえ、そうではなく――」
「違うのか?」
「……違いません。ですが、最初から荷物持ちとして誘ったわけではありませんよ」
レイルは考えた。
「ん、なら共同調査か?」
「はい。共同調査ですね」
セレネは即答し、少しだけ安心した顔になった。
その直後、背後からリィナが木剣を肩へ乗せて現れた。
「二人でどこ行くの?」
「古書市です。資料調査としてレイルを借りますね」
「借りるって何?」
「同行を依頼するという意味です」
「私は朝練で先に予約してるけど?」
「朝練は終了時刻が決まっています。古書市は昼までです」
「昼ご飯は?」
「戻ってからです」
リィナはレイルを見る。
「レイルは行きたいの?」
「行きたい。王核諸語を覚える資料が必要だ」
「そっか――」
リィナは少しだけ口を尖らせたが、木剣を下ろした。
「じゃあ行ってきて。セレネ、本を見始めると周り見えなくなるから、帰りの時間だけ見てて」
「私は時間管理を誤りません」
「学院の図書室で閉館鐘を二回聞き逃したじゃん」
「あれは資料の章立てが予想外だっただけです」
「レイルも記録始めると止まらないから、二人とも危ないんだよ」
「リィナも食事を始めると――」
「それ以上言ったら朝練三周追加するけど?」
「う、行ってくる」
身の危険を感じたレイルは即座に話を切り上げた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
境界都市から来た古書市は、灰橋宿の地図塔の下階に開かれていた。
木箱の上へ積まれた本は、人間圏のものより形が揃っていない。薄い石板を綴じたもの、樹皮を重ねたもの、金属糸へ文字を編んだものまである。
店主は輪郭の半分が煙へ溶けた影霊混血の老人で、客が近づくたび顔の位置だけが少しずれた。
「読む手、二つ。買う財布、一つ?」
ニアとミュラの助けを借り、店主の灰環交易語を理解する。
「財布は別です」
セレネが答える。
「ふたり、夫婦研究者、違う?」
「違います」
「違う」
二人の声が重なった。
店主の煙の口元が笑った形へ揺れる。
「同じ速さで否定。息、合うね」
「否定の時刻が一致しただけです」
「同じ意味だろ」
「違います!」
今度はセレネだけが早かった。
レイルは返答せず、棚へ目を向ける。
灰環交易語の基礎書は、絵と生活語が中心だった。
水。食事。待つ。嫌だ。出口。契約。帰る。
最初にミュラから教わった十語と同じものが、違う順序で並んでいる。
「“ありがとう”より“嫌だ”が先にあるんだな」
「この大陸では、言葉を知らない旅人が最初に不利な契約を結ばされないよう、拒否と退出を先に教えるのでしょう」
「人間圏の教本は挨拶が最初だよな」
「挨拶は関係を始めます。こちらは、始めない権利を先に渡しています」
セレネは一冊を開き、余白へ細かな書き込みが残っていることに気づいた。
「旧所有者は、拍節語の音を共通語へ置き換えようとしています。失敗例まで残っている」
「買うのか?」
「状態は悪いです。三頁欠損。綴じ糸も交換が必要。価格は……」
値札を見たセレネの指が止まった。
隊商依頼二回分に近い金額だった。
「うーん、高いですね」
「必要なら、共同研究費から出せばいい」
「共同研究費は帰還用の媒体購入を優先します」
「俺の予備費を使え」
「駄目です」
セレネは本を閉じた。
「レイルの予備費は【灰環仮導杖】の補修と、オムニアの媒体交換に必要です」
「全部使うわけじゃない」
「その本は私が欲しいものです」
「俺も必要だ」
「灰環交易語なら、もっと安い教本があります」
「でも、その書き込みはセレネが欲しい理由だろ?」
レイルは本を取り上げ、欠けた頁を確認した。
「三頁足りないなら、残りを探せばいい。綴じ糸は直せる。失敗例が残ってる方が、完成した辞書より役に立つ」
「それは研究上の評価ですか?」
「そうだ」
セレネの表情が少しだけ固くなる。
何か答えを間違えた気がした。
「……それだけですか」
「それだけ、とは?」
「研究上の価値がある。それだけが、貴方がこの本を私へ渡したい理由ですか?」
「セレネが欲しそうにしていたからだ。帰った後も、セレネが持っていたらいいと思ったんだ」
「それを先に言ってください。余計な計算をしてしまいましたよ」
彼女は本を戻そうとした。
レイルは反射的に手首をつかむ。
「待って」
「何ですか」
「セレネが欲しいなら、買っていいと思う」
「理由が戻っています」
「戻る?」
「共同研究に必要だから、ではなく?」
レイルはようやく、何を聞かれているか少し分かった。
市場でリィナに言われたばかりだ。
理由を足すと、気持ちが減る答えがある。
「セレネに持っていてほしいんだ」
口に出すと、自分でも驚くほど直接的だった。
「王核大陸を出た後も、その本を使ってほしい。帰ったら学院の図書室にもないだろうから」
「研究が終わった後も、私が持っていてよいのですか」
「セレネの本として買うんだから、当然だ」
セレネの周囲へ、小さな光球が一つ浮かんだ。
本人は気づいていないふりをした。
続けて二つ目。三つ目。
術式形成ではない。感情が魔力へ漏れた時に出る、彼女特有の癖だった。
「……では、半額を私が負担します」
「贈るなら俺が――」
「全額を受け取ると、私が一方的に嬉しいだけになります」
「嬉しいならいいんじゃないか?」
「よくありません。貴方も共同で使う権利を、私からもらってください」
「なら、半分だな」
「はい。共同購入です!」
セレネは嬉しそうに本を抱えた。
表情は落ち着いているが、光球は五つまで増えていた。
店主が煙の指を鳴らす。
「夫婦研究者、半分ずつ」
「それは違います!」
「違うって!」
また同時だった。
古書市の奥には、触れた者の心拍で文字が浮かぶ本があった。
レイルは白環の感応記録かと思い、表紙へ指を置く。
薄桃色の文字が開いた。
【あなたを見ると、胸の音が一つ増える】
「恋愛詩集です」
セレネが即座に本を閉じた。
「術式資料では?」
「心拍感応式を使った恋愛詩集です。内容を確認する必要はありません」
「感応条件は参考になる」
「なりません」
「白環の対象認識と似た――」
「レイル」
珍しく、セレネが名前だけで止めた。
頬が赤い。
「その本を読むなら、私は別の棚へ行きます」
「分かった。読まない」
「即答ですね」
「嫌そうだから」
「……それで正解です」
昼の鐘が鳴るまで、二人は本を選び続けた。
帰りには革鞄が三倍に膨らみ、レイルは両腕で抱えることになった。
「荷物が増える可能性がある、と言っていましたね」
「可能性ではなく確定してたんじゃないか?」
「予算次第では二冊で終える予定でした」
「七冊あるぞこれ」
「必要な資料が七冊あったってことです」
「リィナの食事と同じ理屈だ」
「一緒にしないでください」
地図塔を出たところで、レイルの視界へ白い線が浮かんだ。
セレネの背後。誰もいない空間へ、冷たい文字が並ぶ。
【設計個体:中心対象への代替依存を確認】
レイルは足を止めた。
「どうしました?」
「動かないで」
セレネの肩越しへ手を伸ばす。
白い文字は触れた指をすり抜け、消えた。
「白環表示ですか」
「セレネを“代替”と呼んだ」
「何の代替でしょう」
「たぶん、リィナの」
言った瞬間、セレネの顔から熱が引いた。
「そうですか」
「俺はそう思ってない」
「白環の評価です。貴方の考えではありません」
「でも、言っておく。セレネは”誰かの代わり”じゃない」
セレネは本を抱く腕へ少し力を入れた。
「では私は、貴方の何ですか?」
答えを求める声だった。
レイルは関係を一語へ決めようとして、止まった。
(決められないんじゃない。一つへ減らしたくないんだ)
仲間。友人。共同研究者。同級生。
どれも間違いではないが、一つだけでは足りない。
「今は、一緒に帰る仲間で、共同研究者で……”大事な友達”だな」
「項目が多いですね」
「一つに減らす必要があるのか?」
「いいえ、今は――」
セレネは小さく笑った。
「今は、そのままで構いません」
白環は関係を役割へ固定しようとする。
レイルは決め切れないのではなく、一つに減らさないことを選んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
帰り道の途中、セレネが新しい本を開いた。
「歩きながら読むと転ぶぞ」
「レイルの無詠唱【灯光】が六秒持てば、夜道でも読めますから」
「ニアにも止められたよ」
「では、私も止めますね。読むのは宿へ戻ってからです」
「自分で読み始めたのに?」
「……共同購入者として、預かっていてください」
レイルは七冊目の本まで抱え直した。
古書市へ行く前より荷物は重い。
だが、不思議と必要以上の重さには感じなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
共同研究という理屈から始まり、最後にはセレネへ「持っていてほしい」「誰かの代わりではない」と伝えた少年。
・セレネ・グランツ
稀少な文法書を共同購入し、研究が終わった後の時間までレイルから贈られた術式設計者。
・リィナ・アルセイル
二人を引き止めず、読書中に周囲が見えなくなるセレネと記録中に止まらないレイルをまとめて心配した幼なじみ。
・ニア
無詠唱【灯光】の成長と夜道読書の危険を同時に記録し、同行前から現実的な警告を続けた案内役。
・古書店主
二人の否定速度から夫婦研究者と判定し、最後まで訂正を受理しなかった影霊混血の商人。
【今回の能力・設定メモ】
・王核大陸の本は紙だけでなく、樹皮、石板、金属糸など複数の媒体で作られる。
・レイルの無詠唱【灯光】は数秒の低出力。移動しながらの実用にはまだ不足している。
・白環は人間関係を「中心」「代替」「依存」といった機能へ置き換えて観測する。
欠けた三頁があるからこそ二人で続きを探せる文法書でした。ブックマークとフォローで次の頁を一緒に開き、レビューで古書の余白へ感想を書き加えていただけると嬉しいです。




