第108話「市場で一番高い昼食」
値段の高い料理が、いちばん贅沢とは限りません。
二人で食べるために勇気を使った昼食は、食券だけでは買えないものでした。
灰橋市場は、三本の街道が交わる日だけ大きくなる。
普段は荷車置き場だった広場へ、布屋根の露店が何列も並び、焼いた肉と香草、鍛冶炉の煤、甘い蜜酒の匂いが谷風へ混じって行きかう人々の鼻をくすぐる。
人間圏の市場と違うのは、並ぶ商品だけではない。
四腕族の料理人が四つの鍋を同時に混ぜ、影型の商人が日除けそのものへ溶けながら客を呼ぶ。小角族の子供は地面へ耳を当て、近づいてくる荷車の品を音だけで当てていた。
「すごい……あれ、全部食べ物かな?」
リィナの金茶色の瞳が、戦闘前より真剣に光った。
「少なくとも右側は食べ物だ。左の青い塊は染料か薬品の可能性がある」
「串が刺さってるよ」
「染料を乾かしているのかもしれないぞ」
「匂い、おいしそうだけど?」
「匂いだけで判断すると――」
「もう!全部食べて聞けば分かるでしょ!」
リィナはレイルの袖を引き、青い串焼きの露店へ走ろうとした。
「待て。今日は二人で食べると言っただろ」
「だから二人で行くの!」
「そうじゃなくて、予算と店の順番を決めないと、最初で全部使っちゃうぞ」
「レイル、私がいくら食べると思ってるの?」
「平均的な昼食の四・七倍――」
「細かっ!そんな食べてるかな私......」
「学院での過去二十回は――」
「ええ、いちいち数えてたの!?」
「食料計画に必要だったからな」
リィナは怒るべきか呆れるべきか迷い、最後に袖を離して両腕を組んだ。
「じゃあ聞くけど、私がたくさん食べるの、レイル、嫌?」
声が少しだけ低くなった。
市場の騒がしさの中でも、レイルにははっきり聞こえた。
これは食費の質問ではない。
(たぶん、違う答え方をすると怒られるやつだなこれ)
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「でもな。一緒に依頼へ行くなら必要量は把握したい。空腹になるとリィナは返事が短くなって、剣の振りも――」
「そういうところ!」
ぺちんと叩かれ、やはり怒られた。
だが、リィナは背を向けなかった。
「”嫌じゃない”で止めればよかったのに」
「理由も言った方が信用できると思った」
「女の子には、理由を足すと減る答えもあるの」
「数値が減るのか?」
「気持ちがでしょ!バカ」
リィナは頬を膨らませたまま、レイルの手をつかんだ。
「はぐれるから、手を出して」
「袖をつかめば十分だ。人混みで手を塞ぐと、何かあった時に――」
「今日は”手”がいいの。安全条件じゃなくて、私がそうしたいから」
「どうして?」
「デートだから! そこまで言わせないでよ!」
勢いよく言い切った直後、リィナの耳まで赤くなった。
レイルも足を止めた。
「今、何て?」
「聞こえたなら聞き返さないで!」
「市場の騒音で正確性が――」
「デート! 二人でご飯食べるデート! これで正確!?」
やややけくそ気味のリィナだが、周囲の何人かが笑い、リィナはさらに赤くなる。
レイルはつながれた手を見下ろした。
前世の知識なら、二人で食事へ行くことをデートと呼ぶ場合がある。それくらいは知っている。
だが、知識として分類できても、実際にリィナがそう呼ぶと胸の奥が落ち着かない。大体彼は、そういうことに前世でも意識をしてこなかった。だからこそ最後まで答えを出せなかったわけだが――。
「分かった。デートとして行く」
「……うん」
「ただし、帰還時刻と予算は――」
「はーもうそれでいいわ。レイルだもん」
諦めたような言葉なのに、リィナは手を離さなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
二人で最初に買ったのは、青い香草を塗った【岩甲魚】の串焼きだった。
見た目は鮮やかな青だが、味は塩気の強い白身魚に近い。表面の香草が舌へ触れると、後から柑橘のような香りが広がる。人間圏の感覚でいうと見た目はおいしそうには見えない。
「......これ、おいしい!」
「毒性反応なし。塩分は高い」
「ええ......一口目の感想がそれ?」
「おいしい」
「順番!!!」
次は灰麦の薄皮へ肉と根菜を包んだ【道巻き】。その次は角蜜を練り込んだ焼き菓子。リィナは一つ買うたび半分をレイルへ差し出した。
「全部半分にしたら、リィナの量が足りなくないか?」
「足りなかったら追加するだけだもん」
「予算が――」
「レイルも食べないと、二人で来た意味ないでしょ」
レイルは道巻きを受け取った。
食べ物を分けること自体は珍しくない。幼い頃から何度もしている。
それでも、今日は一つずつ選ぶたびにリィナが自分の顔を見て、好みを確かめている。
(俺も同じことをしてるな)
香草が強い店は避け、リィナが好きそうな肉の焼ける匂いへ足が向く。無意識に選んでいたことへ気づくと、妙に恥ずかしくなった。
広場の中央では、四腕族の道具商が剣帯を並べていた。
一本の帯に、鞘を固定する留め具が二つ。走っても剣が跳ねにくく、脚部導出端の魔力を妨げないよう腰の左右が開いている。
リィナが足を止めた。
「これ、いいな」
「今の剣帯は、右側の留め具が擦れてる」
「見てたの?」
「朝練で鞘がずれる回数が増えた」
「そういうのは気づくんだ」
「危険だから、よく見てるんだ」
「……まあ、いいけど」
リィナが値札を見て、すぐに帯を戻した。
「ん-高いね。今はご飯の方が大事」
「装備の方が――」
「今日はデートなの。冒険前の装備を整える時間じゃない」
その時、露店の反対側からアルドが現れた。
白銀の髪を整え、普段より少しだけましな外套を着ている。手には、まさに今リィナが戻した剣帯があった。
「リィナ。これを――」
言いかけたアルドの視線が、つながれた二人の手へ落ちた。
リィナは何も気づかず、明るく手を振る。
「アルドも市場に来たんだ!」
「……ああ。装備を見に来たのだ」
「その剣帯、私も見てた。使いやすそうだよね」
「そうか」
「アルドの剣には短くない?」
「俺のではない」
「じゃあ誰の?」
アルドは一瞬だけ黙った。
それを見たレイルの胸の奥で、理由の分からないざらつきが生まれた。
帯の長さ。留め具の位置。色。どれもリィナの装備へ合う。
(あいつ、リィナに贈るつもりだったのか?)
「......これは――隊商の予備だ」
アルドは真面目な顔で言った。
明らかに苦しい説明だったが、リィナは素直に頷いた。
「そうなんだ。ねえ、アルドも食べる? 道巻きおいしいよ」
「これは二人の予定ではないのか」
「ご飯は多い方がおいしいでしょ」
リィナはレイルの手を離し、アルドの分を買おうと露店へ向かう。
離れた手の温度が急に消えた。
レイルは自分でも驚くほど、そのことを気にした。
『レイル、顔が固くなっているにゃー。赤なのは予算ではなく、嫉妬の方では?』
肩の上で猫型ニアが囁く。
「違う。予定人数が変われば予算配分も変わる」
『リィナの食事量は、最初から予算の想定幅を超えているにゃ』
「そこも問題だ」
『論点を避けましたねね』
「ニア、お前、声を小さくしろ」
『今は猫型なので、これ以上は小さくなれません!』
アルドがこちらを見る。
「何を話している」
「食費の再計算だ」
「俺の分は自分で払うが?」
「そういう話では――いや、そういう話か」
レイルはパニクったのか、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
リィナが三人分の道巻きを抱えて戻る。
「はい、アルド。こっちは辛くないやつ。レイルは香草少なめ」
「俺の好みを覚えてたのか」
「何年一緒にいると思ってるの?」
当然のように言われ、胸のざらつきが少しだけ消えた。
だが、アルドの手にある剣帯は残っている。
「その帯、隊商の誰に渡すんだ?」
レイルが尋ねると、アルドは正面から見返した。
「今は、まだ決めていない」
彼は、嘘を重ねなかった。
リィナは二人の間へ視線を動かす。
「何か変じゃない?」
「変ではない」
「問題ありません」
レイルとアルドの声が重なった。
「絶対変だけどなぁ」
リィナは道巻きを一口かじり、二人へ半分ずつ押し付けた。
「食べて。お腹空いてるから変な顔になるんだよ」
アルドは受け取り、レイルも反射的に口へ運んだ。
辛くないはずの香草が、少しだけ舌に残った。
午後、三人は一緒に市場を回った。
最初の二人きりという予定は崩れたが、リィナは楽しそうだった。アルドは荷物を持ち、レイルは価格と保存性を記録する。
途中でアルドが北側の道へ曲がろうとし、リィナが腕を引いた。
「そっち、出口だよ」
「市場を一周するつもりだった」
「まだ半分」
「広いな」
「お前が方向音痴なだけだ」
レイルが言うと、アルドは否定しようとして、道の先に灰橋宿の外門が見えることへ気づいた。
「……戻る」
それ以上は言わず、素直に方向を変える。
最後に、リィナは大鍋料理の店へ入った。
石鍋の中には、肉、根菜、灰麦団子が山のように積まれている。店主はリィナの細い身体を見て、小盛り用の椀を出した。
「大きい方」
「二人分?」
「一人分」
店主がレイルを見る。
「止めないのか?」
「足りないよりはいい」
「レイル!」
「嫌じゃないと言っただろ」
今度は理由を足さなかった。
リィナは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「うん。じゃあ、半分あげる」
「半分は多い」
「嫌?」
「嫌じゃない」
短く答えると、リィナの笑顔がさらに大きくなった。
店を出る頃には、夕方の鐘が鳴っていた。
アルドは途中で隊商の荷車へ戻り、剣帯は結局、自分の荷物へしまった。
帰り道、リィナはまたレイルの手をつかんだ。
「帰りも?」
「デートは帰るまででしょ」
「依頼と同じなんだな」
「そう。帰るまで!」
市場の明かりが背後へ遠ざかる。
レイルは手をつないだ理由を、安全確認とも混雑対策とも言わなかった。
言えばまた、気持ちが減る答えになる気がした。
「リィナ、今日は楽しかった」
代わりにそう言うと、リィナは前を向いたまま小さく頷いた。
「私も!」
しばらく歩いてから、彼女が付け加える。
「次は、二人だけだからね」
「アルドが迷って合流した場合は?」
「連れて帰ってから、やり直そっか!」
その回答なら、レイルにも分かりやすかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
食費と安全条件へ逃げながらも、最後には理由を足さず「嫌じゃない」「楽しかった」と伝えた少年。
・リィナ・アルセイル
二人の食事を自分からデートと呼び、食べ物も好みも手の温度もレイルと分け合った幼なじみ。
・アルド・クロイツ
リィナ用の剣帯を渡せないまま市場へ合流し、二人の距離を見て淡い感情の置き場を探し始めた騎士。
・ニア
レイルの不機嫌を予算ではなく嫉妬と診断し、猫型の小声で最も触れられたくない部分を正確に突いた同行者。
【今回の能力・設定メモ】
・灰橋市場は三本の街道が交わる日に拡大し、複数種族の食文化と道具が集まる。
・リィナの大食いは体質と日々の鍛錬によるもので、レイルは食料計画のため量と好みを把握している。
・アルドのリィナへの好意は、この時点では本人も明確に言葉へできていない。
大鍋を半分にしても気持ちは減らなかった二人の昼食でした。ブックマークとフォローで次のデート候補を見守り、レビューで市場の食券よりうれしい一言をいただけると励みになります。




