第103話「星を渡る者たち」
手を伸ばしても届かない距離があります。
それでも、同じ星空の下にいると確かめられたなら、次は届く方法を探せます。
転移から三十日目の夜明けと同時に――、犬型ニアが灰橋宿の北東門を飛び出した。
黒銀色の四肢には細い魔力線が走り、鼻先は靴底の魔力、紙札の繊維、剣を抜いた時に散る金属粉を同時に照合している。
『対象候補、二名。痕跡鮮度、半日から一日。北東から灰橋宿方向へ接近中です』
「距離は?」
『六千から九千歩。山と谷があるので、誤差はマジ広めです』
「探索中にも入れるのか、その語彙」
『意味が変わらない範囲なら、親しみやすさ優先でーっす』
レイル、セレネ、ミュラ、アルド、ノア、ラガンが後を追う。
学院外套を着た十三歳の少年少女、補修だらけの旅装をまとった小角族、泥にまみれても背筋の伸びた騎士、赤縁眼鏡の古い魔導士、そして傷だらけの虎獣人。人間圏の冒険者名簿なら同じ一隊へ書かれることのない姿が、今は一匹の黒銀犬を追って同じ道を走っていた。
セレネの淡い金髪とノアの同系色の髪が風に流れるが、印象はまるで違う。セレネは乱れを気にして耳へ掛け、ノアは薬品粉が落ちても構わず痕跡だけを見ている。
宿守は仮継路札へ外出時刻と門の方角を書き、日没までに戻れない場合は灰色の信号光を三回上げるよう伝えた。
「必ず帰るとは書かないのか」
「分からないことを必ずって書くと、事故でも嘘になる」
ミュラの答えに、レイルは頷いた。
谷道には、尾の先を鈴のように鳴らす路鈴鼠の群れがいた。白環魔力を嫌い、安全な街道へ集まる小型魔物だ。
路鈴鼠の進路、ニアの痕跡探知、ミュラの【地脈聴歩】が、同じ北東を示した。
「三つの情報が一致しています」
セレネが言う。
「よし、この道で進む」
アルドが右側の細道を見る。
「右は距離が短そうだ」
「......行かない!」
五人の声が重なった。
「まだ提案しただけだ」
「提案を即!却下しただけです」
ノアが淡々と返す。
その後、アルドは右へ行かなかった。
代わりに左の岩陰から子供の泣き声を聞き、何も言わずに隊列を離れた。
「アルド!」
見つけた時、彼は崩れた荷車の下から小角族の子供を抱き上げていた。
「救助を優先した」
「それは正しい。でも、一言伝えろよ!」
「時間がなかった」
「石を投げる、手を上げる、何でもあるでしょう!」
ノアが本気で怒っていた。
アルドは子供を家族へ返した後、少し考えて頷く。
「次は伝える!」
『アルド様、方向感覚より先に連絡習慣を修正する案件ですね』
「案件という言葉を便利に使いすぎだ」
『便利だから残ってる言葉なんじゃないです?』
昼過ぎ、学院製の発煙剤が燃えた跡を見つけた。
青い粉。三回分。
フィアが使う配合と一致する。――二人は近そうだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その頃、人間圏の王立結着学院地下では、冒険者Sランク探索隊【天渡り】が断航海域を越えた遠隔大陸へ、針穴ほどの観測窓を開いていた。
立ち会うのはエルシア、ユノ、カイン、ロッテ、そしてレイルの両親。
小柄なエルシアは、灰紫色の長髪をいつもの大きな外套へ流し、右目の魔導単眼鏡を観測式へ合わせていた。毛先の銀色も、琥珀色の瞳も落ち着いて見える。だが、弟子の座標が数値へ現れるたび、杖を握る指だけが僅かに強くなる。
ユノの藍色の髪は徹夜で乱れ、カインの携帯石板には何度も書き直した白墨跡が残っている。誰も、見つけた喜びだけで門を開けられる顔ではなかった。
旧勇者塔の記録から、完成した救助門は白環の単独回収へ転用されると分かっている。開けるのは観測だけ。一呼吸より長く維持しない。
窓の向こうへ、知らない二つの月と紫色の光帯が映った。
岩壁には、白墨の矢印がある。
右側の線だけが、僅かに長い。
「あれ、レイルの矢印ですわ!」
エナが即座に言った。
「あの子、急いで書くと、右の線だけ長くなるんです。子供の頃から」
ロッテがオムニアの損傷周期を照合する。
「信号もある。弱いけど、生きてるようだ」
エルシアは窓へ手を伸ばさなかった。
白い環が観測縁へ重なり、【単独回収】の文字を出したからだ。
「閉じるよ」
「え、せっかく見つけたのに?」
ユノが歯を食いしばる。
「今広げれば、一人だけ引き抜かれ、残りをまた散らしてしまう。見つけたからこそ、壊すわけにいかない」
観測窓が閉じる直前、王核大陸側のニアが空を見上げた。
犬型の耳が震える。
『誰かが、こっちを見ましたワン』
「白環か?」
『違います。怖い見方じゃない。ガチ心配系……たぶん、帰ってこいって見方です』
レイルは胸元のオムニアへ触れた。
「師匠か、母さんたちかな」
『断定はできません。でも、向こうも探してくれてるみたいですね』
胸の奥へ、安堵と痛みが同時に落ちた。自分たちは帰り道を失ったのではなく、道の両端から掘り進んでいる。そう思えば心強い。それでも、窓の向こうで待つ顔を想像すると、今すぐ声を返せない距離が急に重くなった。
(待っていてくれ。俺たちは、誰か一人を置いて帰ることはしないから)
セレネが空を見上げる。
「なら、私たちが一方的に迷っているわけではないってことになりますね。......少しずつでも、二つの側から距離を縮めています」
その後夕方、尾根の向こうに青い煙が上がった。
短く、長く、短く。
学院の野外信号だ。
【生存者あり/負傷者あり/移動可能】
「リィナとフィアだ!」
レイルは走り出しかけ、ラガンの視線に気づいて足を止めた。
息を吐く。地面を見て、止まれる歩幅で進む。
「ミュラ、安全な道を頼む。ニア、追跡継続。全員で行こう」
今度は、レイル一人で先へ行かなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
二人分の煙を見つけても単独で走らず、仲間全員と安全な道を進むことを選んだ少年。
・ニア
明るい少女語彙を探索報告へ混ぜながら、遠い人間圏から届いた心配の視線を感じ取った同行者。
・セレネ・グランツ
二つの大陸が互いに距離を縮めていると整理し、レイルの焦りを進路へ変えた計算役。
・アルド・クロイツ
正しい救助のために無断離脱し、次回は行き先を伝えるという新たな完遂条件を得た騎士。
・エルシア・ヴァント
弟子の痕跡を見つけても単独回収を拒み、全員を帰すため自ら観測窓を閉じた師匠。
・エナ/バルド・アルヴァート
筆跡から息子の生存を確かめ、届かない窓の向こうへ帰還を待ち続けた両親。
【今回の能力・設定メモ】
・【天渡り】極小の観測窓を世界間へ開くSランク探索隊です。
・完成した単独救助門は白環の再分離へ利用されるため、現時点では全員を同時に帰せません。
【次回】
尾根の向こうで、レイルとリィナが再会します。怪我の報告と謝罪が終わる前に、五人を再び揃えた白環の再統合命令が動き始めます。
一呼吸だけ開いた窓のように、レビュー、ブックマーク、フォローが荒海の向こうへ物語の光を届けてくれます。




