第102話「仮継路札」
名前を書く札は、人を縛るためにも、帰る道を残すためにも使えます。
大切なのは、いつまで有効で、嫌になった時にどう外せるかが書かれていることです。
白環警報が解除された翌朝、レイルたちは灰橋宿の地図塔へ呼ばれた。
受付台には、七日間有効の【仮継路札】と、灰色の紙束が並んでいる。
人間圏の学院証は身元資料として扱われたが、それだけで信用を得られるわけではない。
「ここで何をしたか。何を壊したか。危険な時に誰へ言うか。それを書く」
ミュラが宿守の説明を訳す。
レイルは危険申告欄へ、【未完】、オムニアの破損、白環からの追跡、仮導杖の制限を書き始めた。
一枚目が埋まる。
二枚目も埋まる。
宿守が三枚目を差し出した。
「書くこと、多い人?」
「まだ把握できていない危険もあります」
「把握してないこと、全部書けない」
「だから“詳細不明”と書いて、考えられる条件を――」
セレネが、ひったくるようにレイルから紙を取り上げた。
「もう。三項目へまとめます。本人の能力、白環の追跡、破損装備。未知の危険については、変化があれば再申告と書きます」
「それでは詳細条件が落ちるだろう?」
「必要なら別紙で保管します。受付へ全部書いたら、緊急時に読み終わる前に事が起きます」
宿守がセレネへ頷いた。
「そっち、分かりやすい」
「俺の説明も正確ではあるんだが――」
「長い正確さは、急ぐ時には使えません! やっぱりレイルはレイルですよね」
次はニアの登録だった。
書記は最初、【所有物/魔導具付属人格】の欄へ印を付けようとした。
少女型ニアが受付台へ両手をつく。勢いで黒銀色の髪が揺れ、猫耳は抗議するように前へ向いた。
足元はまだ薄く透けているが、上半身だけを見れば、人間の少女が自分の席を守ろうとしているようにしか見えない。
『ちょい待ちです。それ、ナシ寄りのナシ。ニアちゃん、オムニアの機能でもありますけど、今は同行者なんですケド――!?』
宿守が目を丸くする。
ミュラが訳すと、書記は所有物欄を二本線で消した。
【同行者/媒体依存型疑似精霊/分類継続】
『分類継続って、なんか未完成でよきですね!』
「普通は、きちんと分類されたいものじゃないのか?」
『今のニアちゃんを一語で決められるより、これから増やせる方がアガります』
レイルは、その言葉を記録しておきたいと思った。
けれど今回は、本人が話した直後に紙へ逃げず、声で答えた。
「分かった。ニアは同行者だ。それに、これから増えていく」
『はい。今の回答、好感度高めです!』
ノアの札には、定期的な血液摂取が必要だと記載された。
「提供者本人の同意。量。途中の拒否。飢餓時の隔離。母の血封管を使う条件」
宿守が一つずつ確認する。
「私は百三十歳を越えています。子供のような管理は不要です」
「年齢と、他人の血を取る時の約束に何か関係があるのか?」
レイルが言うと、ノアの赤紫色の瞳が少し輝いた。
「正論です。もう少し厳しく、具体的に決めてください」
「おい、ノア。なぜ嬉しそうなんだ」
「良い否定は理論を強くします!」
そう答えた直後、ノアは細い赤縁眼鏡を押し上げた。
なぜだかその瞬間、眼鏡の縁と、その奥の目が輝いたような気がした。
一度。
続けて、もう一度。
その視線が、受付台に置かれた新品の採血器へ吸い寄せられている。
昨夜、【灰環仮導杖】を組み上げるため、大規模な演算を続けたせいだろう。
普段から白い肌が、今朝はさらに血の気を失っていた。赤紫色の瞳も僅かに潤み、閉じた唇の端から小さな牙が覗いている。
「ノア。大丈夫なのか?」
レイルが尋ねると、ノアは答えず、隣に立つアルドへ顔を向けた。
「アルド。腕を出しなさい」
「負傷確認か」
「血が要ります」
「分かった」
アルドは一切迷わず左袖をまくった。
さらに腰の短剣へ手を伸ばしたところで、ノアがその手首を両手で止める。
「待ちなさい。なぜ刃物を抜くのですか!」
「血が必要なのだろう?」
「必要量は十ミリリットルです! 腕を切り開く必要はありません!」
「早い方がいいと思ったんだが」
「豪快なのは嫌いじゃありませんが、自分の身体をそんなに雑に扱わないでください!」
地図塔の中に、ノアの声が響いた。
宿守が、開いたままの登録札と二人を見比べる。
「今、書いた約束。量、説明。嫌なら嫌と言う」
「その通りです」
ノアは咳払いし、乱れた呼吸を整えた。
それからアルドの正面へ立ち直り、研究報告を読み上げる時と同じ口調へ戻ろうとする。
「血素不足を補うため、十ミリリットルの血液提供を申請します。滅菌済みの採血器を使用し、直接吸血は行いません。途中で気分が悪くなった場合は即座に中止します。拒否権もあります」
「分かった。提供する」
「即答しないでください」
「説明は聞いた」
「聞き終わった直後に了承しただけでしょう。もう少し自分の身体を大事にしてください」
「必要なのだろう?」
「必要ですが、簡単に差し出されると、それはそれで腹が立つんですよねえ」
アルドが困ったようにレイルを見る。
「どう答えるのが正解だ、おい」
「俺に聞くなよ。たぶん、ノア自身にも分かってないんじゃないか?」
「分かっています。適切に検討したうえで、自発的に提供すると答えるのが正解です」
「適切に検討した。自発的に提供する!」
「ああ、もう。早すぎます!」
『同意手順、ガッチガチですねー。でも大事なので、ニアちゃん的には高評価でーす!』
少女型ニアが受付台へ腰かけ、半透明の脚を楽しそうに揺らす。
ノアは採血器を手に取った。
「ニア。提供者の意識、脈拍、魔力循環を監視してください」
『りょーかい。アルド様、嫌になったら、いつでも“ナシ”って言ってくださいね』
「嫌ではないぞ」
『決断が速い! 男前というより、契約書を読まないタイプでしょー、あなた!』
「今回は読んだぞ」
「普段から読んでくださいね」
ノアはアルドの腕を消毒し、細い針を当てた。
「はい、動かないでください。腕はその位置。呼吸を一定に。こちらを見なくて結構です」
血素不足の影響か、先ほどより声が低い。
普段は叱責されることさえ研究刺激として喜ぶノアが、今は完全に相手を管理する側へ回っていた。
赤紫色の瞳が鋭く細まり、アルドの姿勢から指先の力まで、一つずつ修正していく。
「肩の力を抜いて。そうです。勝手に筋肉へ力を入れない。採血が遅くなります」
「分かった」
「返事は一度で十分です」
「……分かった」
「今ので二度目です」
「む……」
アルドは黙った。
目盛りが十ミリリットルへ届くと、ノアは即座に針を抜き、止血布を押し当てた。
「終了です。五分間は重い物を持たないでください。止血布は、血が止まるまで押さえていてください」
「荷車の荷下ろしが残っているが」
「五分間です」
「しかし――」
「いいから座りなさい!」
アルドは素直に椅子へ座った。
レイルは目を瞬かせる。
(アルドが一言で座ったぞ……)
ノアは小瓶を術式筒へ装着した。
赤い液体が細い管を通り、魔導衣の内側に組み込まれた補給術式へ吸収されていく。
青ざめていた頬へ、少しずつ血色が戻った。
唇から覗いていた牙も、ほどなく目立たなくなる。
「どうだ」
アルドが尋ねる。
「質問が雑ですよ」
「身体に合わなかったか?」
「鉄分は十分。筋肉疲労が多く、塩分も過剰です。昨日から水分補給が足りていません」
「他には?」
ノアは赤縁眼鏡を押し上げ、真面目な顔で答えた。
「方向感覚に関係する成分は、検出できませんでした」
「最後は血液と関係がないな」
「現状から導いた補足所見です」
『採血しても方向音痴の原因、分からず! 研究継続案件ですね!』
「継続しなくていい」
アルドが止血布を押さえたまま答える。
ノアは空になった採血器を丁寧に洗浄し、僅かに顔を背けた。
「……提供には感謝しています」
「聞こえなかった」
「聞こえているでしょう。今の一文は記録しなくて結構です」
『音声記録、ばっちり完了してまーす!』
「消してください」
『保護設定で永久保存しときますね!』
「それは削除ではありません!」
いつもの調子を取り戻したノアを見て、レイルは小さく息を吐いた。
登録札へ書かれた「同意」「量」「途中拒否」という言葉が、単なる規則ではなくなった。
守らなければならない約束であると同時に、ノアが誰かへ頼るための手順でもあった。
また、アルドの札には、昨夜までの証言から【単独道案内禁止】と書かれた。
「俺はノアを連れて到着しただろ!?」
「偶然見つけた荷車が、”たまたま灰橋宿へ向かっていたから”です」
「途中の護衛は完遂しているぞ!」
「道案内とは別ですねー」
宿守は迷わず印を押した。
登録後、ミュラが最初の灰環交易語を十語だけ教えた。
水。飲む。食べる。危険。待て。助ける。止める。嫌だ。帰る。出口。
「ありがとうより、“嫌だ”を先に覚えるのか」
レイルが尋ねる。
「知らない人と約束する時、嫌って言えないと危ない。出口、知らないと帰れない」
セレネが頷いた。
「開始の言葉より、撤回と終了を先に覚える。合理的です」
『“嫌”と“出口”、超だいじ。ニアちゃんも無断吸引はナシって学びましたし』
「その言い方だけは説得力がある」
昼食後、セレネはレイルの隣へ座り、ノアの術式図について小声で尋ねた。
「本当に、一枚だけですか」
「一枚だけだ。名前も知らなかった」
「疑っているわけではありません」
「では、なぜ聞く」
「確認です。私は三年分でしたから。レイルのことです。知らずに何枚もやっている可能性があります」
また同じ比較を口にし、セレネは少しだけ俯いた。
整えた淡い金髪が頬へ落ち、眼鏡の奥の青紫色の瞳を隠す。
理屈で勝ち負けを決められない話になると、普段の堂々とした美しさが、同年代の少女らしい不安へ変わる。
(セレネでも、研究以外で比べずにはいられないことがあるんだな)
それを嬉しいと思った自分へ気づき、レイルは少しだけ困った。
「私らしくありませんね」
「……嬉しかった」
「何が?」
「さっき、やっぱり俺はレイルだと言ったこと。余白魔導士と呼ばれて、ここへ来る前の自分まで見つけてもらった気がした」
セレネは目を上げた。
「そうですか」
それだけ答えたが、頬は僅かに赤かった。
「では、七年前の一枚に嫉妬したことは、計算誤差として処理します」
「嫉妬していたのか」
「今、言葉にする必要はありませんでしたが、事実です」
セレネの髪の周囲に、小さな光球が二つ浮かんだ。
本人は見えていないふりをしているが、ミュラは面白そうに目で追っている。
レイルは、ここで笑えば怒られると分かっていた。
それでも、胸の奥へ温かなものが広がるのを止められなかった。
『セレネ様、素直イベント発生!』
ニアが机の下から顔を出す。
「聞いていたの?」
『偶然です。たまたま音声記録範囲にいまして』
「それを盗み聞きと言います」
『反省しまーす。記録は保護設定で非公開にしときます!』
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
仮継路札を受け取ってからの二日間、一行は灰橋宿の仕事を返しながら、周辺の捜索範囲を少しずつ広げた。
転移から二十八日目。
レイルは修理工房で【灰環仮導杖】の冷却周期を測り、セレネは地図塔に保管されている街道記録と、学院製記録札に使われる繊維の特徴を照合した。
ノアは杖の魔力経路を再点検し、アルドは荷車の護衛を引き受けた。
ただし、行き先を決める役目だけは任されなかった。
「北東門までの道くらい、俺一人でも分かる」
「昨日、西門へ向かいました」
「朝日で方角を確認していた」
「夕方でしたよ」
「雲が出ていたからだ」
『言い訳の方向まで迷子ですねー』
転移から二十九日目。
ミュラは地図塔で古い道札を調べ、リィナとフィアが残しそうな印をレイルたちへ教えた。
「リィナ、剣。石、深く切る。フィア、紙、木の高いところ。雨で流れない」
「二人で動いているなら、剣痕と記録札が近い場所へ残っているはずですね」
セレネが捜索地図へ印を付ける。
ニアは朝から犬型となり、北東門から続く三本の谷道を順番に探った。
一度目は荷車の轍。
二度目は小角族の子供が残した靴跡。
三度目は、古い隊商の布切れだった。
日が傾き始めても、探している二人の痕跡は見つからない。
(もう少し先か。それとも、違う道へ進んだのか)
レイルは焦りを押し込み、地図へ印を増やした。
同じ場所を何度も探せば、見つけたつもりになる。
急いで範囲を広げれば、今度は小さな痕跡を見落とす。
セレネが決めた区画を、ミュラの順番で一つずつ調べるしかなかった。
そして、二十九日目の夕方。
犬型ニアが、灰橋宿の北東門で突然足を止めた。
黒銀色の耳がぴんと立ち、鼻先を乾いた地面へ近づける。
『剣靴痕、二名。学院製記録札の繊維あり。痕跡鮮度、半日から一日前。灰橋宿方向へ近づいていますワン』
レイルの胸が強く鳴った。
「リィナとフィアか」
『断定はできません。でも、かなりそうっぽいですワン!』
セレネが地面へ膝をつき、細い繊維を採取する。
「学院の記録札で間違いありません。切断面も、自然に裂けたものではない。道標として意図的に残されています」
「フィアのやり方だ」
レイルが答えると、ミュラが剣靴の痕を指した。
「こっち、強く踏む。右足、痛い」
「リィナは負傷しているのか」
「歩ける。でも、速くない」
今すぐ痕跡を追いたかった。
けれど、日が落ちれば谷道の地脈が動く。焦って痕跡を踏み荒らせば、明日の捜索まで失う。
レイルは拳を握り、ゆっくり開いた。
「仮継路札へ、明日の外出予定を書き足そう。夜明けと同時に、全員で出る」
『了解ですワン。勝手な先行、ナシでお願いします』
「分かってる」
「その返事は、記録しておきます」
セレネが僅かに微笑んだ。
仮継路札へ、翌朝の外出予定が書き足された。
転移から二十九日目。
七日間の滞在札を得たその日ではなく、灰橋宿で二日間働き、探し、待った末に――ようやく、帰ってくるかもしれない二人の痕跡を見つけた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
危険申告を三項目へまとめられ、セレネの嫉妬を聞き逃さず言葉で受け取った少年。
・セレネ・グランツ
長すぎる登録文を整理し、七年前の一枚へ自分でも意外な嫉妬を覚えた余白筆談の相手。
・ニア
所有物欄を拒否し、分類継続の同行者として登録された明るい少女型疑似精霊。
・ノア・エルグラム
血液摂取を本人同意と拒否権のある契約へ書き直し、良い否定を喜んだ九十九魔導士。
・アルド・クロイツ
救助実績と方向感覚を別項目へ分けられ、単独道案内禁止を正式に記載された完遂者。
・ミュラ・ノクテ
感謝より先に拒否と退出を教え、仲間らしい二人分の痕跡を一行へ示した案内人見習い。
【今回の能力・設定メモ】
・【仮継路札】は七日間有効で、本人が切片を返せば期限前でも登録を解除できます。
・少女型ニアは【同行者/媒体依存型疑似精霊/分類継続】として記録されました。
【次回】
二人分の足跡を追う一行。人間圏ではSランク探索隊が針穴ほどの観測窓を開き、二つの世界が同じ星空を一呼吸だけ共有します。
嫌だと言える言葉と出口を残すように、レビュー、ブックマーク、フォローが物語を閉じ込めず先へ送り出してくれます。




