第97話「計算より先に飲む」
道具を守れば、いつか誰かを助けられるかもしれません。
けれど、その道具を運ぶ自分が倒れたら、計算はどこにも届きません。
セレネ・グランツは、水筒を日の光へ透かした。残りは底から指一本分。演算石の冷却へ使えば、およそ二時間の解析ができる。飲料へ回せば、今夜まで歩ける可能性が高い。どちらにも使わないという選択肢はない。
転移から十七日目。セレネは一人で、白い石柱が点在する荒れ地を歩いていた。
学院外套は左袖が裂け、眼鏡の片側には細い傷が入っている。演算石は熱を持ち、一定時間ごとに術式を停止しなければ内部記録が損なわれる。食料は灰色の木の実が三個。安全性は、少量を口にして半日経過を確認しただけだった。
十七日間、同じ水筒だけで歩いてきたわけではない。岩窪の雨水を二度濾過し、途中で出会った老人からも水を分けてもらった。それでも、最後に補給してから三日が過ぎている。
安全な実を見分けるまでに二度腹を壊し、演算石を冷やす水を飲料へ回したこともあった。
(演算石を止めれば、レイルたちの座標へ近づく手掛かりを失う)
石の中には、転送直前の白環残響が記録されている。中心対象レイル、関連対象四名、依存関係分離。断片的だが、解析できれば誰がどちらへ飛ばされたか分かるかもしれない。
(でも、”私が倒れれば解析結果も運べない”)
学院では、セレネは精度を優先した。自分の睡眠や食事は誤差として後回しにできた。周囲には教官がおり、寮があり、倒れれば医務室へ運ばれる。――だが、ここには誰もいない。
セレネは演算石の冷却溝から布を外し、水筒を口へ運んだ。
一口で止めるつもりだった。身体は二口目を要求した。喉の痛みが和らぎ、頭の奥の霞が少し晴れる。
「計算を続けるために、先に私を維持しなければ」
声へ出すと、言い訳ではなく方針になった。演算石を布で包み、日陰へしまう。解析は歩きながらできない。自分が移動する時間と、石を冷やす時間を分ける。
荒れ地には、一定間隔で灰色の板が立っていた。板の表面へ複数の文字と、簡略化された絵が刻まれている。
人間圏の大陸史は、王核大陸に統一文字も道路標識もないと記していた。
しかし標識には、小角族の道札、四腕族が四方向から読める配置、翼持ちが上空から確認できる色帯が重ねられている。単一の文字へ統一していないからこそ、複数種が同じ道を使えるよう作られている。
(”統一されていないことを、存在しないと記録した”のね)
セレネは標識を写し取った。
一枚目には水滴の絵。
二枚目には開いた環と、右へ伸びる線。
三枚目には掌を前へ向けた人物。
同じ文字が、それぞれ別の位置へ繰り返されている。
「水。道。待て」
音は分からない。それでも用途は推測できる。近くの岩陰から、山羊角を持つ老人が現れた。背中へ籠を負い、杖の先へ小さな鈴をつけている。
「☆○、水? ◇△、道、待て」
セレネは水滴の標識を指し、自分の水筒を見せた。
「水。欲しい。交換」
人間圏共通語は通じない。老人はセレネの演算石を見て、冷却溝を指した。次に自分の水袋を示し、片手で小さな石を拾う仕草をする。
水と引き換えに、道端の中性石を集める仕事らしい。セレネはすぐに頷かず、地面へ数を書いた。
一袋の水。石は何個。期限はいつ。危険区域はどこ。老人は最初こそ困った顔をしたが、標識の裏から簡単な交換札を取り出した。
石十個。
水一袋。
日没まで。
白い柱の内側へ入らない。
途中でやめる場合、集めた数だけ水を分ける。
退出条件が最初から書かれている。
(人間圏の商取引より、ずっと短いのに”逃げ道が明確”だわ)
セレネは石を集めた。中性石は、高濃度魔力へ触れても属性を帯びにくい。灰環道標や水の検査、仮設術式の切れ目へ使うらしい。学院では価値の低い石として扱われるが、この大陸では生活に欠かせない。
十個を渡すと、老人は約束より少し多い水をくれた。セレネは交換札を指し、余分だと返そうとする。
老人は彼女の裂けた袖と乾いた唇を見て、追加分を自分の胸へ当ててから差し出した。仕事の対価ではなく、本人の意思で与える分。セレネは受け取った。
「ありがとう」
言葉は通じなくても、頭を下げる動作は伝わった。老人はそのまま岩棚の向こうへ手招きした。そこには十数軒の店と倉庫が、道を挟んで細長く並んでいた。恒久的な城壁も領主館もない。代わりに、入口と出口を示す灰環札、共同の水槽、荷物を計る大秤、翼持ち用の上段通路がある。老人はそこを「鈴坂路市」と呼んだ。
定住者より、道を通る商人や採集人の方が多い小さな町だった。小角族が地図札を売り、四腕族が二つの鍋を混ぜながら残る二本の手で客へ釣り銭を返し、嘴を持つ鳥人が高い棚から乾燥香草を下ろしている。荷車の下では、首輪も鎖もつけていない知性魔獣が、自分の名前らしい札を前脚で押して荷運びの順番を主張していた。
人間圏の遠征史には、王核大陸の路上集落を【略奪者の野営地】と分類した記録がある。だが、略奪者の野営地にしては秤の重さが公開され、井戸の利用順と荷運びの賃金が三種類の文字で掲示され、子どもが間違えた釣り銭を店主へ返していた。
(都市として認める条件を、”人間の城壁と役所だけ”に置いていたのね)
セレネは中性石の交換札を見せ、共同水槽の利用許可を得た。見慣れない人間へ視線は集まったが、誰も即座に武器を抜かなかった。代わりに、外套の学院紋、演算石、傷の状態を順に確認され、白い柱へ近づかないことと、日没前に路市を出ることを身振りで念押しされた。
町のやり取りは親切だけではない。水は計量され、追加分には仕事か素材が必要で、宿営場所には退出時刻が定められている。それでも、規則の理由と終わる時刻が見えるだけ、人間圏で聞いた【魔王の気分で生死が決まる土地】という説明より、ずっと予測できた。
老人は道の先を指し、何度も「待て」に似た言葉を繰り返す。白い柱の間を夜に通るなという警告らしい。セレネは標識へ触れ、白環残響を調べた。
到着座標は消失していない。最後の固定だけが欠けている。転送対象が通過した場所では、白環の残響が僅かに乱れ、完成しきらない波形を残している。レイルの【未完】に似ている。
(近い。少なくとも、この道を誰かが通った)
演算石を冷却し、最低限の解析だけを行う。波形は北西へ続いていた。夕方、地面へ低い振動が伝わった。
一定ではない。三回、間、二回。地質魔法で安全確認を行う時、レイルが使う癖に近い。岩の表面には人間圏式の矢印と、見慣れない灰環の道札が並んでいた。さらに、演算石へ微弱な信号が入る。
『……危険……使用者……水……』
音声は欠けている。それでもニアの声だった。セレネは歩く方向を変えた。
「待っていなさい、レイル。今度は私が座標を合わせます」
(”生きている。まだ断定はできない。でも、そう思って歩いていいはずだ”)
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ夕方、レイルはルク水窪村から続く高台で、ミュラと罠糸を張っていた。
村からもらった灰麦平焼きは残り二枚。途中で捕まえた石殻魚を石焼きにし、赤果を薄く搾って臭みを消した。ミュラは一番大きな魚をレイルの葉皿へ置く。
「また大きい方を渡してる」
「レイル、魔力、吸われる。多く食べる」
「ニアの吸引は上限を決めた」
『本日ノ吸引量、規定内デス』
「なら三等分でいい」
レイルが魚を切り分けると、ミュラは自分の分を少しだけニアの前へ置いた。
『食事機能ハ存在シマセン』
「でも、一緒」
ニアは返答まで僅かに時間を置いた。
『香気ト温度ヲ記録シマス』
三人で囲む食事は、量こそ少ないが、最初の夜より静かではなかった。ミュラが村の話を、分かる単語だけで説明する。
「王核、大きい。王、一人じゃない。魔王、種族じゃない。強い王、でも王じゃない時もある」
「魔王種は種族名ではない?」
人間圏では、魔王種は魔族の最上位個体、魔王を生む血統と説明されていた。ミュラは地面へ円を描き、その中心へ小石を置く。
「王核。持つ。自分の決まり、周り変える。怖いのもいる。守るのもいる。村、王いない。道の約束、みんな」
ニアが候補を整理する。
【王核個体:固有の法則を周辺へ成立させる存在】
【魔王種:種族ではなく到達分類の可能性】
【統治者と同義ではない】
【翻訳精度:五十八%】
レイルは単語帳へ書いた。学院資料の【魔王種国家】という括りは、王核を持つ個体がいる地域を一つの支配国家として外側からまとめただけかもしれない。
ミュラの説明は拙い。けれど、拙いからこそ、彼女が実際に暮らして知っている範囲と、知らない範囲が分かる。
「ミュラの村には魔王種がいる?」
「いない。近く、ラガン。まだ王じゃない。強い。怖い。ご飯、くれる時ある」
「最後だけ評価が生活寄りだな」
「ご飯、とても、大事」
否定できない。食後、ニアが顔を上げた。
『人間圏術式反応。接近中』
レイルは立ち上がった。
「リィナか?」
『術式傾向、非一致。演算処理、反復。セレネ・グランツノ可能性』
胸の奥が大きく脈打つ。
(”無事だった”)
まだ姿は見えない。信号の誤認もある。それでもレイルは高台の先へ走り、途中で足を止めた。焦って転べば迎えに行けない。
右足裏へ短い風圧を通し、速度を殺しながら坂を下る。ミュラも後ろからついてくる。傷はまだ完治していないのに、レイルの外套をつかんで離れない。
岩山の向こうから、眼鏡を押さえた少女の影が現れた。セレネは最初、歩いていた。レイルを見つけた瞬間だけ走った。直接の再会まで、あと数十歩だった。
【今回の登場人物】
・セレネ・グランツ
演算石の冷却より自分が歩き続けるための水を選び、標識と交換札から王核大陸の言葉と契約を解き始めた少女。
・山羊角の採集人
中性石の仕事へ退出条件を示し、報酬とは別に自分の意思で水を分けた現地の生活者。
・レイル・アルヴァート
ミュラの説明から魔王種が単一の血統や統治者ではないと知り、学院資料の分類を再検討した少年。
・ミュラ・ノクテ
魚を分け、王核と魔王種を知っている範囲だけで説明し、セレネを迎えに行くレイルから離れなかった妹分。
・ニア
食べられなくても食卓へ魚を置かれ、香りと温度を記録することで三人の“一緒”へ参加した相棒。
【章中間・現在ステータス】
【レイル・アルヴァート】
年齢:十三歳
所属・立場:王立結着学院二年生/王核大陸遭難者
冒険者資格:人間圏Eランク。王核大陸では参考資料のみ。
固有律:【未完】
安定保持:一件
魔法:六基礎現象、初級魔法、杖なし掌形成、短い足裏風圧制動
装備:破損した【万式魔導環】、魔法使用不能の【七環導杖】
言語:水、食べる、返す、待て、道、痛い、嫌、止めるなどの生活語を学習中
現在の制限:帰還座標なし。仲間の大半と未合流。二件保持は実戦使用不可。
【ニア】
主表示:幼い少女型
補助形態:猫型、犬型
半実体:【周環摂魔】により短時間
制限:王核大陸の周辺魔力へ依存。使用者魔力吸引弁が破損。翻訳は候補提示のみ。
章内更新:ミュラへ初めて触れ、形態を自分で選ぶ意思を表明。
【ミュラ・ノクテ】
年齢:十三歳前後
種族:小角族
立場:灰環隊商路の地図師見習い
固有技能:【道耳】
技能:罠糸、投石、地脈確認、水場と可食部の判断
状態:右脚負傷、回復途中
章内更新:レイルへ道を貸し、生活知識を教えながら妹分として距離を縮めている。
【セレネ・グランツ】
年齢:十三歳
所属:王立結着学院二年生
技能:並列演算、白環残響解析、標識からの言語推定
状態:脱水傾向から回復。レイル班へ合流直前。
章内更新:演算石より自分の生存を優先し、単独で現地交換を成立させた。
【リィナ・アルセイル】
年齢:十三歳
同行者:フィア・レコード
剣術:【無終剣・継歩】
状態:肩へ軽傷
章内更新:討伐可能な魔物を殺さず水場を借り、選択放棄を求める白い案内を拒絶。
【フィア・レコード】
年齢:十三歳
同行者:リィナ
技能:記録、条件整理、食料と負傷管理
状態:足首負傷、歩行可能
章内更新:不明を空欄のまま保持し、進行用と合流用の二種類の地図を作成。
【アルド・クロイツ】
年齢:十三歳
同行者:ノア・エルグラム
固有律:【完遂】
状態:左肩負傷
章内更新:九十九%防壁の隙間を担当し、ノアの血ではなく本人の選択を評価した。
【ノア・エルグラム】
種族:第二世代の半吸血種
状態:母の血使用後の反動、発熱、空腹
魔法:大規模術式を九十九%まで形成
新規使用:【原血励起】
保持物:白環環状部品
章内更新:母の血を拒むだけでなく、救助のため自分で使うことを選んだ。
【人間圏捜索側】
・学院から家族へ直接説明済み
・死亡認定は保留
・エルシアがAランク救難捜索へ参加
・ユノとカインが王核大陸および一人用帰還門の記録を提出
・王立結着学院へ共同捜索本部を設置
【次回】
最初に再会するのは、計算の外で生き延びていたセレネ。
彼女が拾った白環の痕跡をたどり、レイルたちはアルドとノアが残した足跡と、壊れた杖をつなぎ直すための手掛かりへ近づいていきます。
飲むために残した一口の水と、食卓へ置かれた一切れの魚のように、レビュー、ブックマーク、フォローが物語を歩き続けさせてくれます。




