第96話「母の血は使わない」
嫌いな力を使えば、嫌ってきた自分まで間違いになるのでしょうか。
それとも、使い方を自分で選んだ時から、力の意味も変えられるのでしょうか。
転移から十五日目。
アルドとノアが灰環隊商を見つけたのは、乾いた川床を南西へ進み始めて半日後だった。
正確には、方位術の矢印へノアがアルドの外套を結び、逆方向へ歩けないようにしてから半日後である。
隊商は、背中へ荷台を載せた六脚獣三頭と、十人ほどの旅人で構成されていた。小角族、犬獣人、四腕族、顔の半分を布で隠した人間らしい男。荷台には灰麦、修理用金属、乾燥茸、水樽が積まれ、子どもが二人乗っている。
人間圏の記録では、王核大陸の移動集団は「魔王種へ供物を運ぶ従属民」と説明されることが多い。
しかし隊商の先頭に王の紋章はなく、代わりに期限の書かれた札と、開いた灰色の環がいくつも下がっていた。誰が代表を務めるか、どこまで同行するか、その都度変わるらしい。
隊商はアルドの剣を見て警戒し、ノアの赤い瞳を見てさらに距離を取った。
ノアは灰環交易語らしき言葉で話しかけた。発音は古いが、アルドには記号のようにしか聞こえない。
「◇△、血、契約。☆○、道、白環」
隊商の老いた犬獣人が眉を上げ、ゆっくり返す。
「古語、硬い。お前、何歳だ」
「百三十を越えたところです」
アルド以外の全員が黙った。
「見た目よりだいぶ上だな」
「研究者へ年齢評価を先に行う文化は改善すべきです」
どうにか敵意がないことは伝わった。隊商は完全な同行を認めず、昼食と道の情報を交換する短い休憩だけを許した。
灰麦平焼きは石のように硬かった。水へ浸すと少し柔らかくなり、塩漬け葉と乾燥肉を挟んで食べる。アルドが無言で噛み続ける横で、ノアは一口ごとに水を飲んだ。
「血を飲むなら、普通の食事は不要だと思っていた」
「それは吸血種を血液だけで永久稼働する魔導炉だと思う無知です。私には、水分、塩分、糖分、睡眠が必要です」
「なら、もっと食べろ」
「受領した分は契約へ追加します」
「食事に毎回契約が必要なのか?」
「必要な場面と不要な場面を分けるために、私は必要だと言っています」
隊商の子どもが、二人のやり取りを聞いて笑った。その時、六脚獣が一斉に足を止めた。
地面の下から甲殻が擦れる音。岩陰へ赤い光が点り、一つ、二つ、五つへ増える。
「尾砲蠍です」
ノアが立ち上がる。前回より数が多い。尾の砲器官が一斉にこちらへ向き、隊商の荷台と水樽を狙っている。
老犬獣人が叫び、四腕族が荷台を盾へ変える。子どもたちは六脚獣の腹の下へ潜った。アルドは隊商の前へ出た。
「護衛を開始する。ノア、防壁を頼む」
「形成します。ただし完成率は九十九%ですよ。隙間位置は固定可能です」
「俺の正面へ集めろ!」
半透明の防壁が広がる。隙間はアルドの剣が届く高さへ集められた。第一射、第二射。アルドが弾く。
三射目は荷台の下を狙った。防壁の外にいた子どもが一人、転んで動けない。
「右、子どもだ!」
アルドが進路を変えた瞬間、左肩へ圧縮弾が当たった。鎧が割れ、身体が横へ飛ぶ。ノアの防壁が揺らぐ。
彼女の胸元には、小型術式筒がある。父から受け継いだ銀の筒。その内側へ、百年以上開けなかった細い封管が一本だけ収められている。中身は、母であるノエラ・ヴェインが自分の意思で残した血。
ノアはそれを使わずに生きてきた。魔法理論と研究で、自分が吸血種の血だけに価値を持つ存在ではないと証明するために。
(これを飲めば、今まで使わなかった百年は何だったのですか)
子どもへ尾砲が向く。アルドは立とうとしているが、左腕が動かない。
(違う。”今問われているのは研究の正しさではない”)
ノアは封管を取り出した。誰かに飲めと命じられたのではない。母の道へ従うためでもない。目の前の子どもを守る手段として、自分が選ぶ。
「使用目的を宣言します。生存者の救助。使用時間は三分。対象殲滅ではなく、砲器官の無力化」
封を折り、血を飲んだ。
【原血励起!】
瞳が深紅へ染まり、淡い金髪の内側へ夜紫色が混ざる。首筋から腕へ赤黒い血紋が走った。次の瞬間、ノアの姿が消えた。
尾砲蠍の背へ着地し、砲器官を両手でつかむ。魔法ではない。純粋な筋力で甲殻をねじり、根元から引きちぎった。
「アルド。下がりなさい。今の貴方は邪魔ですわ!」
声まで冷たく変わっている。アルドは負傷した肩を押さえた。
「子どもを先に」
「命令の順序まで指示しないでください」
そう言いながら、ノアは子どもを片腕で抱え、荷台の下へ戻した。二体目の尾を踏み砕き、三体目の射線を素手で逸らす。
隊商の四腕族が残る二体へ縄をかけ、老犬獣人が警告笛を吹いた。砲器官を失った蠍たちは、追撃されないと分かると岩陰へ退く。戦闘が終わった瞬間、ノアの膝が落ちた。
血紋が消え、瞳が元の赤紫へ戻る。彼女は自分が言った言葉を思い出し、両手で顔を覆った。
「......さっきのは忘れてください」
「助かったぞ」
「感謝ではなく忘却を要求しています」
「なぜ嫌うんだ??」
ノアはしばらく答えなかった。隊商の者たちは負傷者の処置と荷の確認へ散り、二人の周囲だけが静かになる。
「はぁ、それがですね。私自身の百二十年の研究より、血を一滴飲んだ方が強いからです。魔法で閉じられない防壁を作り続けた私より、母の血を飲んで甲殻を壊す私の方が、ずっと簡単に人を救えるんですよ」
「だが、使うと決めたのはノアだろう」
「力は母のものです」
「判断はノアのものだし、やったのもお前だ」
アルドはそれ以上、慰めなかった。嫌うなとも、誇れとも言わない。ノアは唇を噛み、やがて顔から手を下ろした。
「……その反論は、保留します」
隊商は二人を追い払わなかった。救助の対価として水、灰麦平焼き、地根芋、乾燥肉を渡し、【灰橋宿】へ向かう道を教えた。人間圏の貨幣は使えないが、白環部品と尾砲蠍の砲殻は修理素材として交換できるらしい。
老犬獣人は地図へ三本の道を描き、そのうち一本を大きく消した。
「白い塔、近道。使うな。帰る道、閉じる」
ノアが訳す。
「白環設備の近道は、通過者の帰還条件を固定するため避けろ、という意味です」
「遠回りする」
「即断ですね」
「近道を始めれば、最後まで進みたくなる」
アルドは自分の【完遂】を分かっている。子どもの一人が、出発前に乾燥した赤果をノアへ差し出した。ノアが戸惑うと、少女は言った。
「強い女、腹減る。食べる」
ノアは受け取り、契約札を探しかけてやめた。
「ありがとうございます」
それだけで受け取った。
(”借りを記録しない食事”も、存在するのですね)
赤果は強烈に酸っぱく、ノアは盛大に顔をしかめた。アルドが初めて少し笑った。
【今回の登場人物】
・アルド・クロイツ
九十九%防壁の隙間へ立ち、負傷後もノアの力ではなく使うと決めた判断だけを認めた騎士。
・ノア・エルグラム
母の血を嫌う気持ちを消さないまま、隊商の子どもを救うため自分の意思で封管を開いた研究者。
・灰環隊商の人々
異邦人を即座に仲間へせず、短い休憩と交換から関係を始め、救助後には灰橋宿への道を渡した旅人たち。
【今回の能力・設定メモ】
・【原血励起】はノアのダンピール体質を一時的に強く表面化させます。
・灰環隊商は王や国家へ永続的に従属する集団ではなく、期限つきの同行と代表権で移動します。
【次回】
セレネは演算石を守る水と、自分が歩き続けるための水を天秤へかけます。
酸っぱい赤果を契約なしで受け取った小さな変化のように、レビュー、ブックマーク、フォローが登場人物の選び直しを支えてくれます。




