第95話「二人分の地図」
二人で歩けば、地図は一枚で足りるとは限りません。
前を見る人と、戻る道を残す人では、同じ景色にも別の線を引くからです。
リィナがフィアを背負って菌糸林を抜けたのは、転移から十二日目の朝だった。
最初の四日間、二人は菌糸林の根洞からほとんど動けなかった。フィアの足首が腫れ、リィナの右肩も剣を振れる状態ではなかったからだ。
五日目からは、一日に進む距離を決めた。午前に移動し、午後は記録札と剣痕を残す。雨の日は進まず、食べられる茸と水を探した。
そうして転移から十二日目の朝、ようやく菌糸林の外縁へたどり着いた。
青い光を放つ巨大茸の森は、遠目には美しかった。近づけば胞子が喉へ張りつき、湿った地面は歩くたびに沈み、夜になると茸の根が動いて昨日の道を塞ぐ。
フィアの額の傷は止血できたが、足首を捻っている。リィナも右肩へ浅い裂傷があり、剣を振るたび痛みが走った。
「もう歩けます」
「歩けると速く歩けるは違うでしょ。今日は私が荷物を持つ」
「訂正します。私は歩行可能ですが、通常速度での長距離移動は不可能です」
「最初からそう言って、めんどくさいから」
フィアは反論せず、食料袋を開いた。残りは乾燥パン一枚、硬い果実二個、学院支給の塩包み。リィナが空腹を訴えるたび、フィアは同じ量へ分け直した。
「私は前衛だから、多く食べた方が合理的じゃない?」
「戦闘時の消費量は高いですが、私は地図と記録、傷の処置を担当しています。片方が動けなくなれば捜索継続条件が失われます」
「じゃあ、半分ずつ?」
「現在は半分ずつです。追加食料を得た場合は役割と負傷状態で再計算しましょう」
リィナは果実を一口かじり、顔をしかめた。酸味が強く、舌が痺れる。
「これ、食べて平気なのかなぁ?」
「昨日リィナが先に二個食べましたよね」
「昨日平気だったから今日も平気とは限らないって、レイルなら言う」
「同意します。今後は一度に二個食べないでくださいね」
レイルの名前を口にした途端、二人の会話が止まった。
(”無事。絶対じゃなくていい。無事でいて”)
リィナは胸の内だけで言い、剣の鞘を握り直した。怖いと口にすればこれ以上一歩も歩けなくなる気がした。フィアは何も言わず、記録札へ現在位置の推測を書き足す。湿地の先に水場が見えた。
しかし、水面の周囲には背丈ほどの鳥が三羽いる。首が二つに分かれ、それぞれの喉が違う音を出していた。一方は低い震動で地面を揺らし、もう一方は甲高い声で森の奥へ合図している。
「双喉沼鳥です」
フィアは学院の魔物誌を思い出す。
「危険度は成体でD相当。片方の喉が威嚇、片方が群れへの連絡。水場付近の巣を守るとあります」
「倒せば水が取れそうだね」
「ですが、巣があります」
水辺の高い草の中に、青い卵と小さな雛が見えた。リィナは舌打ちしそうになり、やめた。空腹で判断を乱雑にしたくなかったのだ。
「追い払うだけなら、別の獣が巣を襲うかもしれない」
「水場の全占有を解除させる必要はありません。反対岸の一部だけ使用できればよいです」
二人は遠回りして風下へ移動した。フィアが石を投げ、水面へ小さな波を作る。親鳥の一羽がそちらへ注意を向ける間、リィナは低く走った。剣は抜くが、刃を当てない。地面へ鞘を打ち込み、鳥の低音へ別の振動を返す。二つの喉が同時に鳴いた。空気が震え、リィナの平衡感覚が揺らぐ。
(右の喉が群れ。左が足止め。左を止めれば動ける)
リィナは【無終剣・継歩】の踏み込みを短くつなぎ、親鳥の正面へ出ないまま横へ回る。剣の腹で左喉の空気だけを叩き、声を途切れさせた。フィアが反対岸へ布を振る。
「こちらです。巣から離れた水面だけを使用します。攻撃はしません」
そういっても、鳥に言葉は通じない。それでも、巣へ近づかず、同じ場所へ留まらず、武器を向け続けない行動は伝わったようだ。親鳥は本能から二人を追い切らず、雛の側へ戻った。
水を汲む前に、フィアは表面の青い膜を布で除いた。リィナが【清水】を使おうとすると、止める。
「学院資料では、菌糸林の水には魔力胞子が残る可能性があります。【清水】だけでは除去条件が不足しています」
「じゃあ煮たらどう?」
「煮沸後、沈殿を待ちます。先に飲まないでくださいよ?」
「分かってる」
リィナは鍋を火へ置き、五秒後に蓋を開けた。
「まだです」
「見ただけ!」
食料は得られなかったが、水辺の外へ転がっていた無精卵を一つ見つけた。フィアは親鳥が回収しないことを一分確認し、取得条件を記録する。卵を焼くと、黄身は二つあった。
「半分ずつだね」
「二つあるため、一つずつです」
「これだけで足りるかな」
「足りません。しかしゼロではありません」
二人は背中合わせに座り、卵を食べた。リィナは殻の一片へ、レイルが使う矢印を描いた。フィアは布片へ日付と人数を書き、木の枝へ結ぶ。
「こんな小さい印、見つけられるかな」
「レイルなら探します」
「どうして言い切れるの?」
「彼は、見つからない可能性を嫌います。そのため、見つかりにくい印も確認対象へ入れます」
リィナは少し笑った。
「面倒くさい性格が、初めて頼もしく聞こえた」
(”早く会いたい”。会ったら、まず怒れそうだもん。怒ってから……たぶん、泣く)
その夜、二人は一本の木を背にして見張りを交代した。
リィナが眠りへ落ちかけた時、白い人影が水面に立った。
顔は見えない。声だけが、遠い記憶へ触れるように響く。
「以前も、彼が終えるのを待った」
リィナは剣へ手をかけた。
「誰の話なの?」
「待てばよい。彼はいつか選ぶ。今度こそ、完成するまで」
胸の奥へ、理由の分からない痛みが走る。知らない駅のホーム。送られなかった言葉。長く待って、結局何も始まらなかった時間。
(”なにこれ。――知らない。私の記憶じゃない”)
別の声が、もっと近くで囁いた。
【どの道も選ばなくてよい】
【選ばなければ、失わない】
リィナは立ち上がり、剣先で水面を切った。
「待たない」
白い人影が揺れる。
「前の私が誰だったかなんて知らない。でも、今の私は待たない。レイルが迷ってるなら探しに行く。違う道へ行ったなら、追いついて文句を言ってやるんだから!」
水面の白が消えた。フィアが目を覚まし、周囲を確認する。
「敵ですか?」
「分からない。でも、道を選ぶなって言われた」
「現在の方針と矛盾しますね」
「だから無視だね」
フィアは記録札へ一行だけ書いた。
【正体不明の案内:選択放棄を要求】
【採用:しない】
翌朝、二人はレイルが残したものに似た地質魔法の痕跡を見つけた。ただし経過時間も、本人のものかも確定できない。リィナは剣痕を一本、進行方向へ残す。
「二人分の地図を作ろう。私たちが進む地図と、あいつらが追いつくための地図」
フィアは頷き、二枚目の記録札を開いた。
【今回の登場人物】
・リィナ・アルセイル
巣を守る魔物を殺さず水場の一部だけを借り、前世を匂わせる白い案内へ“待たない”と答えた剣士。
・フィア・レコード
空腹、水、所有条件を記録し、進むための地図と仲間が追いつくための地図を分けて作り始めた目録係。
・双喉沼鳥
水場を独占する害獣ではなく、巣と雛を守りながら周囲の生態へ警告を送っていた二つ喉の魔物。
【今回の能力・設定メモ】
・王核大陸では、討伐可能な魔物でも巣、幼体、縄張りの役割を考慮し、必要な範囲だけ退かせる判断が重要です。
・何らかの声がリィナへ選択を放棄させようとしています。
【次回】
アルドとノアは、隊商の子どもを守るため、百年以上使わなかった血の封管を開きます。
二人分の地図へ残した剣痕と布片のように、レビュー、ブックマーク、フォローが離れた仲間を同じ物語へ結びます。




