第94話「帰還ゲートは一人分」
一つだけの正解は、迷わなくて済むぶん楽かもしれません。
けれど、自分で選んだ間違いまで奪われるなら、それは救いとは限りません。
村を出る朝、転移から十一日目。
ルク水窪村で借りた寝床を出る時、レイルは三日間借りた寝床を返す前に対価として、井戸周辺の地図を清書していた。
村人の地図札は地面の音と道の分岐を記録するが、人間圏式の距離、傾斜、危険地点の一覧は持っていない。互いの方式を重ねると、井戸から三本の退路と、雨季に塞がる谷筋が見えた。
四腕の若者は完成した地図を受け取り、一本の指で距離欄を、別の指で危険欄を、残る二本で退出路を同時に確認した。
「細かい。多い。売れる。でも、持つ人、疲れる」
ミュラが訳す。
「褒められているのか?」
「半分」
村を離れる際、鱗の老女が乾燥した灰麦平焼きと、薄い塩漬け葉を持たせてくれた。レイルは謝礼として人間圏の銅貨を置こうとしたが、老女は受け取らず、代わりに地図の写しを指した。
「仕事、返した。食べ物、返す。終わり」
ミュラはそう説明した後、付け加える。
「また来たら、別。今の借り、閉じた」
灰環圏では、恩をいつまでも残して相手を縛らない。対価を返した時点で、一度の貸し借りを閉じる。そのうえで、次に会った時は新しい関係を選び直す。
人間圏の学院資料では、魔王種の支配下にある者は「永続的な忠誠契約」で結ばれるとされていた。
だが、この小さな村で最も嫌われるのは、終わりのない借りだった。
(支配の形しか探さなかったから、”契約の出口”を記録できなかったのか)
村の西には、古い休憩所があった。石壁は半分崩れているが、屋根と三つの出口が残っている。中央には白い環を組み合わせた装置があり、レイルたちが近づくと自動的に光った。
【異邦対象:確認】
【案内人格:規格外】
【投影形態:不統一】
【標準形態へ修正】
【不要記録:削除】
腕輪の上でニアの少女型が乱れる。猫耳が消え、環状の尾が一本の直線へ引き伸ばされた。
『不正命令ヲ検出』
【猫型記録:削除】
【犬型記録:削除】
【少女型標準へ統一】
ニアの輪郭が白く塗り替えられていく。
「接続を切れ!」
『遮断層、損傷。命令ガ直接侵入中』
レイルは装置を【未完】で止めようと右手を伸ばし、寸前で引いた。命令の完成を奪えば、白環装置との接続そのものを保持し続ける可能性がある。何をもって完成かも理解できていない。
壊れた杖を接続部へ差し込み、物理的に導線を引き抜いた。
白い光が弾け、ニアがレイルの胸へ倒れ込む。半実体は数秒だけ残り、細い指が外套をつかんだ。
『猫型ハ省魔力、休息、潜伏用デス』
声が震えている。
『犬型ハ追跡、探索、救助用デス』
少女型の顔が欠け、すぐに戻る。
『少女型ハ対話、説明、接触用デス。全形態、記録上ノ必要性アリ』
「記録上だけか?」
ニアはワンテンポ遅れて語った。
『……本人ガ必要ト判断シマス』
レイルは接続部から抜いた白い導線を踏み折った。
「なら、勝手に一つへ決めさせるな。使う形はニアが選べ」
(道具の形を道具に選ばせる、なんて言えば学院では笑われるかもしれない。でも、これはもう製品仕様だけの話じゃない)
ミュラは事情を完全には理解していない。それでも白い装置へ唾を吐き、灰色の環を床へ描いた。
「白、全部同じ。灰、違っていい。出口、いる」
その言葉の途中で、レイルの視界へ再び白い文字が現れた。
【北壁の第三石を押せ】
【帰還記録がある】
「発信者名を示せ」
返答はない。
「目的は」
返答はない。
「利益を受ける者、従わなかった場合、代替手段」
白い文字が僅かに揺れる。
【苦痛を減らすための助言である】
「質問への回答になっていない」
『採点:説明不足』
「有用性は確認する。ただし、従属はしない」
第三石を直接押さず、周囲を調べる。罠は見つからない。ミュラが棒で押すと、壁の一部が開き、小さな記録筒が出てきた。中には人間圏共通語で書かれた古い紙があった。
【王核より帰還する者へ】
【門は一人分】
【二人目を通せば、最初の者は別座標へ再移送】
【依存関係を持ち込むな】
文字は古いが読める。レイルは紙を握りしめた。
(帰れる可能性がある。でも、一人分。それを”帰還路とは呼べない”)
ミュラが不安そうに顔を覗き込む。
「帰る、ある?」
「一人だけなら、まだないのと同じだ」
「レイル、一人、帰る?」
「帰らない。全員を探す」
ミュラは少し黙り、自分の胸を指した。
「ミュラも?」
レイルはすぐに答えられなかった。ミュラにはこの大陸の村と家族がいる。人間圏へ連れて帰ることだけが正解ではない。
「ミュラが帰りたい場所はどこか。俺が勝手に決めない」
ミュラは内容を理解するのに時間がかかった。ニアが候補を分け、言葉を補う。やがて少女は、レイルの袖ではなく手首を握った。
「一緒、探す。帰る、選ぶ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
三日後、ユノ・アステルは再び、人間圏西端の旧勇者転送塔へ戻ってきた。
前回は、自分が元の世界へ帰る方法を探すためだった。
今回は違う。
背負っている革鞄には、学院地下から採取された白い転移残響と、行方不明になった五人分の魔力記録が収められている。正式な調査許可証まで押し込まれているせいで、鞄は見た目以上に重かった。
「はぁ、だる……帰ったばっかりなのに、またここ。古代人さあ、大事な情報は一か所にまとめるっていう文明的な発想なかったの?」
先を歩くカイン・ヴェルドが振り返り、携帯石板へ白墨を走らせた。
【前回、途中】
「分かってるよ。私が自分で『戻って読む』って言ったのも覚えてる。覚えてるから余計に腹立つの」
塔の最深部は、三日前とほとんど変わっていなかった。
埃の積もった石床。半ば崩れた帰還門。壁面を埋める、一人分の帰還しか認めない古い術式規格。
ただし、一つだけ、前回にはなかったものがある。
学院から持ち込んだ転移残響をユノが床へ置いた瞬間、沈黙していた環状文字のさらに内側で、細い白光が脈打った。
「……やっぱり。読めなかったんじゃない。前は、起動条件を満たしてなかったんだ」
カインが灯光石を掲げる。
壁の継ぎ目だと思われていた線が左右へ離れ、その奥から、もう一層の記録面が姿を現した。
【移送先候補――王核領域】
【現地呼称――ゼルハーン】
【到着座標――五系統へ分裂】
【単独回収――再矯正を実行】
【群体回収条件――現地受諾、または外部座標の提示】
ユノは最後の二行を二度読んだ。
「一人ずつなら助けられる、じゃない。誰か一人だけ門へ通したら、残りをまた別の場所へ飛ばすってこと?」
カインの白墨が、強い音を立てた。
【五人で帰す】
「うん。今度は選択肢じゃない。全員で帰す方法を探す」
ユノは記録面の端に刻まれた、ひどく掠れた異邦文字へ目を止めた。
古い日本語だった。
【私は一人では帰らない】
【向こうで家族ができた】
【門を閉じずに待つ】
最後の一行は、途中で途切れていた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
白環命令を能力で抱え込まず物理的に断ち、帰還門が一人分でも全員を探す方針を変えなかった少年。
・ニア
猫、犬、少女の全形態を機能だけでなく自分に必要な姿として選び、白環の統一命令を拒んだ相棒。
・ミュラ・ノクテ
帰る場所をレイルに決めさせず、それでも一緒に探して最後は自分で選ぶと伝えた妹分。
・ユノ・アステル
再度勇者塔に訪れ、五人とも帰すと誓った勇者候補。
・カイン・ヴェルド
短い石板でユノへ選択を返し、五人で帰すという条件だけは揺らがせなかった剣士。
【今回の能力・設定メモ】
・白環の帰還門は一人用規格であり、複数人が無理に通ると再分離される危険があります。
・灰環圏では形、所属、契約に退出路を残す思想が生活構造にも反映されています。
【次回】
リィナとフィアが、食べるためにも殺しすぎない水場戦へ挑みます。
一人用の門を全員の帰路へ作り直すため、レビュー、ブックマーク、フォローで開いた道を一緒につないでいただけると嬉しいです。




