七 ウルシュラ──Ⅲ
堅信礼から一週間ほどが過ぎ、トロサ司教一行が主目的であった集落内の巡察を終え、モンス・ラヌンクリを発つ日が来た。
一行が到着した日と同様、人々は沿道に繰り出して去り行く行列を盛大に見送る。ウルシュラら秘蹟を授かった子どもたちは、口々に感謝の言葉を叫んでは大きく手を振った。
修道院に帰ると、門番の老姉妹がウルシュラに一通の封書を差し出した。教会からウルシュラに宛てた封書であった。
「修道院にではなく、本人に直接ですか」
姉妹ベアトリクスは眉を顰めて子どもに手渡された封書を見やる。
「遣いのお兄ちゃんが『誉れだ、誉れだ』って喜んでたよ」
老姉妹は要領を得ない返事を返すと、手を振って持ち場に戻っていった。
子どもが、開けても良いか、と姉妹を見上げて訊くと姉妹は苦笑して頷く。
「あなた宛です、許可は要りませんよ」
ウルシュラはその場で封蝋を剥がした。
《誉れ高きシトーの娘ウルシュラ殿
堅信礼であなたが見せた信仰と理解の深さに、私たち教会一同、深く心揺さぶられました。トロサ司教猊下もことのほかお喜びになり、巡察の最中に特別に祝別されたパテルノステルを姉妹に、と言付かっております。ついては、本日お受け取りにお越しいただきますよう、謹んでお伝えいたします。
モンス・ラヌンクリ教会》
「大変な栄誉ではないか、ウルシュラよ」傍から覗き込んだ司祭が感嘆の声を上げる。「帰ってきたばかりだが、一息ついたら行っておいで」
「一人で行かせるのですか」
姉妹は懸念の面差しで訊ねたが、司祭は鷹揚に両腕を開いて見せる。
「教会からのお呼びだ、何も心配なかろう。それに、ウルシュラは堅信を終えてもう一人前だ」
刹那、姉妹の脳裏には堅信礼前の口頭試問で執拗に問い迫った教会司祭の眼差しが浮かんでいたかも知れない。しかし、司祭様の仰ることももっともだ、と肯じた。
午後の教会は、つい半日前まで司教一行が御座した賑々しさとは打って変わった静けさであった。
重い扉を体で押してがらんとした堂内に入ると、式典の際に灯されていた壁の蝋燭は消され闇に沈んでいたが、香煙の香りは数日を経てもなお残っている。
「司祭様、ウルシュラです。来ました」
反響する声を憚りながら身廊を進む。高い窓から差し込む光に照らされた格子の床に、薬草園での幾何学の授業を思い出してウルシュラは一人微笑む。
「ウルシュラ、こちらです」
不意に側廊から声がして、ウルシュラは足を止める。細い日差しが落ちる身廊と暗い側廊を隔てて並ぶ石の円柱に、無数の奇怪な生き物が彫られていることに初めて気づく。その柱の影から、司祭が姿を見せた。そしてすぐに背を向け、こちらへ、と促す。
側廊の北側の壁に沿って穿たれた、いくつかの小さな祭室の一つに入る司祭を、ウルシュラは小走りで追った。
祭室の東側の壁際には小さな祭壇が設えてあり、一対に灯された蝋燭の間に、掌に収まるほどの木箱が置かれていた。司祭はそれを手に取ると、蓋を開けながらウルシュラに示した。
「司教様は君を大層誉めておいででした。今年集落で堅信礼を受けた子どもたちの中で、一等抜きん出ていた、と」
箱の中で、漆黒の珠の連なりの先に小さな銀の十字架をつけたパテルノステルが鈍い光をまとっている。ウルシュラは目を奪われながら訊いた。
「これを、わたしに?」
司祭は黙って箱ごと差し出す。トロサの司教様が私に贈り物をくださった──その喜びを反芻するごとに、手の中のほんの小さな祈りの具は実際以上に重みを増すのであった。
「ときにウルシュラ」不意に司祭が声音を変えた。「君は、それを受け取れますか?」
ウルシュラは司祭を見上げる。何を問われたのか解らなかった。
「でも、これは司教様がわたしにくれたのだって、司祭様が……」
司祭はそれに答えず、背を向けてゆっくりと祭壇に向かい十字を切る。すぐそばにいるはずの司祭と自分を、沈黙の壁が隔てるようであった。
背を向けたまま、司祭が問う。
「私がなぜここに来たのか、君は知っていますか」
ウルシュラは恐る恐るかぶりを振る。
「……いいえ、知りません」
司祭は小さく息をついて、そうですか、と呟く。
「四年前……私は、ここを去った司祭の後任として来ました。前任者が去る理由は詳しくは報されませんでしたが、村で切れ切れに伺ううち、奇妙な事実にたどり着きました。……前任者はいかがわしい異教のまじないを村人に唆した、その咎で放逐されたのだと」
司祭はゆっくりと祭室の入り口に歩を進め、立ち塞がるようにこちらに向き直って話を継ぐ。
「前任者は、トロサでの私の師なのです。あの方に限って異教の業に手を染めるような真似をするはずがない、あり得ない。誰よりも神の教えに忠実で、常に謹厳であろうとした方です。もし話が事実なら……むしろ唆されたのは師の方なのではないか」
いったい司祭様は何の話をされているの──薄暗い祭室ではその表情も伺えず、ウルシュラは木箱を胸に掻き抱いたまま慄然と佇む。
「師の助言を得て村人が行なったのは、取り替え子だったそうです。病弱な子、憑き物付きの子を牧神に健やかな子と取り替えてもらう……荒唐無稽な伝承だ。なぜ師が、そんな蒙昧な知恵を持ち出したのか。何が師をそのようなものに縋らせたのか」
話しながら司祭はゆっくりとウルシュラに歩み寄る。その目はウルシュラに向けられながら、もはやウルシュラを見てはいない。気押されるように後退り、ウルシュラは壁沿いの長椅子に腰を落とす。
「牧神など、無論私は信じない。牧神が子どもを取り替えるなどという世迷言もです。古代の異教徒が野放図に思い描いた神々など、とうの昔に滅びた。もしこの世にそのようなものが紛れて現れるとしたら、それは別の名で呼ばれるべきでしょう。荒れ野で主をたぶらかしたそれは、この村で師を唆した。……わかりますか? 優秀な君ならわかるでしょう」
司祭は身を屈めてウルシュラの目を覗き込む。子どもは身をすくめ必死にかぶりを振った。悪魔、そう言わせたいのだとわかっても、畏れで声が出ない。
「取り替え子を受けた子どもが、〝取り替え子を受けるべき子ども〟という姿で蜘蛛のように張った罠に、師は自らかかった。……その子どもの本性を日の下に明らかにすることが、後任の私の果たすべき召命ではないか。秘蹟の機会のたびに私は探しました。何人か疑わしい子どもを見つけましたが、一番は……改宗者の医者の娘だった」
ソフィア──ウルシュラは司祭をきっと見上げる。
「改宗者……おお、口にするだに厭わしい。まるで道具を持ち替えるように信じる神を替えるなど、どうしてできよう。まさに世を彷徨える民が身につけた狡猾さだとは思いませんか。……その娘も、確かに優秀でした。ですが、師を罠にかけた子どもにしては、脆すぎた。二言三言追求すると、頽れてしまいました」
「ソフィアに、何て言ったんですか」
怒りに声が震える。司祭は子どもを一瞥すると、感情の窺えぬ声で言う。
「君たちはとても仲が良いようですね。堅信礼の後の様子で腑に落ちました。君になぜあそこまで完璧な受け答えができたのか。あの娘に指導をつけてもらったのではありませんか」
「ソフィアに何て言ったのか教えて下さい」
弄舌には耳を貸さず頑として問う子どもに、司祭はわずかに顔を歪める。
「なに……『君は真のキリスト者にはなれない。呪われた民の血を引く者は主の御国では何者にもなれはしない』と……そう真実を教えてやったのです。おや、残酷だと思いますか? いいえ、真の残酷とは、真実を報されぬまま徒労を重ね続けることです」
燎原の火の如く怒りが小さな胸の内を焼いていく。初めて覚える激しい感情の渦を御す術もなく、両の目から涙が溢れる。
司祭はその様を眉一つ動かすことなく見下ろし、やがて再び口を開く。
「さて、本題です。医者の娘でもないとすると、では誰が〝その子ども〟なのか。探しあぐねていた矢先に新たな手がかりを得ました。その子はかつてクリュニー修道院に預けられながら、たびたび脱走を図り人々の手を焼いた、当時は村中が騒ぎに巻き込まれて難渋した……と」
ここに至ってようやくウルシュラは悟る。教会司祭が就任以来探し続けていたのは、他ならぬこの自分であったと。それだけではない。この自分の身代わりとなって、ソフィアは立ち直れぬほどに傷つけられたのだ。気付いた刹那、総身を怒りと恐怖が縛り上げ、ウルシュラは長椅子に腰掛けたまま瘧のように戦慄くばかりとなった。
「君の口頭試問の後、クリュニーの奉献童女が言っていましたね。君は彼女たちといた時から頭がよかったと。あれでようやく確信が持てた。〝その子ども〟が君、ウルシュラのことだと」
司祭はそこまで言うと、ウルシュラの前に跪いた。まるで今までの脅迫めいた言動が全て戯れであったと言わんばかりの、懇願するような猫撫で声であった。
「ウルシュラ、教えてほしい。君は一体何者なのです。我が師を如何にして陥れたのですか。私のことも陥れるつもりですか。取り替え子の最中、君は人ならぬものに遭い、そして神も知らぬ力を得たのではないですか。本当の、君の本当の姿を、私にだけ見せてほしい──」
そして縋るように強い力で子どもの肩を掴む。
捻じ伏せられるように長椅子に仰向けに倒れ込む。抗って身を捩った刹那、冷たい堂内の風が裾から腿を撫で、肌が粟立つ。
突然司祭が切り裂くような悲鳴をあげ、鼻を抑えてもんどり打つと背中から倒れ込んだ。不随意に跳ね上げた踵が、司祭の顔面を打ったのであった。
縛めを解かれたように立ち上がると、恐る恐る司祭を見下ろす。白いチュニックの襟元を赤黒い飛沫で染め、司祭は床に悶える。傍に落ちていたパテルノステルを拾い、ウルシュラは数歩後ずさると顧みずそのまま教会を飛び出した。
修道院へ駆け戻ると、そのまま禁域深くに設られた祈祷室に飛び込んだ。通路からは見えぬ祭壇の陰に身を潜め、きつく抱えた膝に顔を埋める。血まみれの司祭が追ってくる──恐ろしい想像が胸の内に何度も繰り返され、ウルシュラはパテルノステルを握りしめたまま震え続けた。
午後の労働の時間が過ぎてもウルシュラが報告に現れないのを、院長ベアトリクスやベンヴェヌート司祭らは、教会司祭の訓戒が長引いているのだろうと考え、深く気に留めなかった。しかし晩課を終え、夕食の時間が近づいても姿を見せない子どもを不審に思い、門番の老姉妹に訊ねると、まだ明るい内に血相を変えて走って戻ってきたこと、門をくぐるなり何かに追われるように奥へと駆け込んでいったことを聞かされたのであった。
修道院ににわかに動揺が広がる。姉妹オノリーヌをはじめ、手すきの姉妹たちが院内の捜索を始めたが、子どもの部屋にも学習室にも姿が見当たらない。
報告を聞いたベンヴェヌート司祭は唸りながら髭を扱き、はたと手を止めた。
「禁域の奥は探したか? 儂はうかうか踏み入れるわけにいかんが、奥に祈祷室があるだろう。もし何か不安を抱えているなら、一番安全なそこで神の声に縋ろうとするやも知れん」
司祭の助言に従って姉妹オルガがランタンを手に禁域を巡ると、果たして祈祷室の祭壇の陰で、祈祷具を握りしめたままうずくまって眠り込んでいる子どもを発見したのであった。
しかし、子どもは翌日になっても石のように押し黙ったまま訳を話そうとしないのである。
姉妹らは途方に暮れた。
「もともと、あまり口数の多い子じゃありませんから……」
姉妹オルガが庇うように言うと、姉妹オノリーヌは眉間に皺を寄せて遮った。
「教会で何かあったのならきちんと聞かねば、修道院としても然るべき対応をし損ないます。禁域だって子どもが勝手に出入りしていい場所ではないのですから、ちゃんと言い聞かせないと」
「以前のソフィアの事もある。しばらくそっとして、話したくなったら聞いてやれば良いのではないか。もし教会から何か言ってくるようであれば、儂らで対処すれば良かろう」
その場を収めようとする司祭に、司祭様は少し甘過ぎます、と詰る姉妹オノリーヌを院長ベアトリクスが宥め、ひとまず性急に問い詰めることは見送られた。
ウルシュラの様子がおかしい、と耳にして真っ先に反応したのはソフィアであった。
十四歳のソフィアはベンヴェヌート司祭の基礎教育からは退いていたが、父の仕事の手伝いの傍ら、より深い知の研鑽のためにシトー修道院へ通い続けた。実のところ、シトー会女子修道院へ正式に修道請願を立てる希望を、姉妹オノリーヌやベンヴェヌート司祭に相談してもいた。教会司祭から拒絶され、キリスト者の世に交わることをいったんは断念しかけたソフィアを、シトー修道院は温かく導き支え続けた。ソフィアは、こここそが己の終の居場所と思い定めつつあったのだ。何よりここには腹心の友、ウルシュラがいるのである。
そのウルシュラが、褒賜を受け取りに行った教会から戻って以降、魂を抜かれたように問いかけにも答えず虚ろに視線を彷徨わせていると聞いて、ソフィアは色を失い部屋へ駆けつけた。
ソフィアの姿を認めると、ウルシュラは見る間に顔を歪め、涙をこぼして謝罪の言葉を繰り返すのであった。
何があったのかを察するにはそれで十分であった。奇しくもソフィアはその前日、躓いて顔を打ったと襟を血に染めてやって来た司祭を父が手当するのを、別室に身を潜めて伺っていたばかりであったのだ。
急いで写字室に向かうと、本に埋もれていたベンヴェヌート司祭を捕まえて、ウルシュラを教会司祭に近づけないよう訴えた。
司祭は黙って話を聞いた後、口を開いた。
「ソフィア、君の言い分はわかった。だが、儂らは誰も司祭がウルシュラを脅迫したり危害を加えたりしたところを見ておらん。ウルシュラにも怪我はない。司祭の怪我をウルシュラと結びつける証拠はあるのか。徒に疑いを抱くは、神の前に慎むべき罪ではないだろうか」
「でも、現にウルサは教会から戻ってからずっと、ああなんでしょう?」
ソフィアの抗弁に、司祭は悩ましげに呻いて言う。
「せめて、本人が何ぞ話してくれんことにはな……」
話せるわけがない──ソフィアは胸の奥に封印した忌まわしい記憶に密かに歯噛みする。あんな思い、誰にでも話せるものではない。
司祭は思案げに続ける。
「ちょうど今日、司祭が先だっての司教の巡察を受けて報告をしに来ることになっている。儂からも昨日のことをそれとなく訊ねてみよう」
「司祭が見えるんですか」ソフィアは驚いて訊き返し、慌てて再び懇願する。「そのこと、決してウルサには伝えないでください。お願いします、先生」
ソフィアの立ち回りにも関わらず、教会司祭の訪問に備える修道院の慌ただしさを、ウルシュラは自室で感じとっていた。
あの人が来る──身を守る術を見出せず頭から掛布を被る。音と光を遮ると、脳裏に再び暗い祭室が浮かび上がる。
──君は一体何者なのです。取り替え子の最中、君は人ならぬものに遭い、そして神も知らぬ力を得たのではないですか。君の本当の姿を、私にだけ見せてほしい──。
固く目を閉じ掛布の下でもがけばもがくほど、血走り焦点を失った眼差しが追い縋る。
助けて、誰か──。
……季節外れの一陣のミストラルが山肌を薙いだのは、この時であったのだろうか。たった一度の猛烈な大風を、この後の事件と重ねて複数の人々が記憶している。
草の香を孕んだ乾いた突風が窓から吹き込み、ウルシュラの掛布を捲り上げる。刹那、脳裏に迫る血走った眼は、煌々と照る満月の黄金色に塗り変わる。血に汚れた鼻は大きく隆起して、豊かな灰色の毛に覆われていく。頭上に突き立つ耳は、いかなあえかな求めも聞き逃すまいと忙しく震える。人ならぬものの息が静かに子どもの額にかかる。
──求めよ──求めよ、小さき者よ──されば我、汝を導かん──。
子どもは、ゆっくりと身を起こすと寝台を降りた。
部屋の扉を開くとすぐに薬草園が広がっており、姉妹オルガが皮装丁の分厚い本を抱えて薬草学の授業に子どもたちの注意を引いている。子どもはそのそばにしゃがんで、姉妹の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。
──じゃあ、まずはカモミラから始めましょうか。ウルシュラ、あなたは以前カモミラで救われたことがあったわね……確か、ティエリ先生だったかしら。
不意に懐かしい名を呼び起こされて驚く。
──狼のおじちゃんのこと、姉妹オルガ、どうして知ってるの……?
姉妹は慈母の微笑で答える。
──何でも知ってるわ、あなたがお母様や姉妹マリアンヌに教わって、薬草にとても詳しいこともね。
口を開いたまま呆気に取られる子どもを目を細めて一瞥し、姉妹は授業を始める。コロハ、マヨラナは胃腸の薬。風邪をひいて咳が出るならイノンド、サフラン、メボウキ。痛みにはオオグルマやヤナギ。傷には黄菖蒲や没食子。畑の区画を一つひとつ巡って姉妹は教える。
そして最後の区画の花の名を教えながら、姉妹は子どもたちに向き直る。
──大事なことを伝えます。この最後の畑の花には、決して触れてはいけません。
──でも、これもお薬なんですよね?
ジャンヌが釣鐘の形をした紅色の花が連なる花房に目を奪われながら訊ねると、姉妹は頷いて腕の書物を開く。
──今まで見てきた薬草よりもずっと強い力があるから、重い症状に対して用いることがあります。ディオスコリデスやアヴィセンナといった先人たちも、弱った心の臓を助けたり強い痛みや痙攣を抑える、と書いているわ。でも少しでも使う量を間違えると、命に関わる強い毒にもなる。私たちもこの草を扱うときは必ず手袋をつけるの。素手で触ると酷く爛れてしまうから。
──どうして、神様はそんな草をお作りになったのかしら。
ソフィアが考え込むように呟く。
──そうね。薬にも毒にもなる草を、なぜ神がお作りになったか。……みんなはどう思う?
──正しい人が使えば救われて、罪のある人が使えば死んじゃうんだ。神様が人の善悪をお裁きになるためよ。
アニエスは当然だとばかりに鼻を突き出す。ジャンヌが怯えたように眉を寄せる。
──許される間もなく死んじゃうなんて、それはあんまりじゃない……?
──確かにそうね。とは言え旧約聖書には、儀式の手順を少し間違えただけで神の怒りに触れて殺されちゃう人が出てくるけれど。
ソフィアが言うとアニエスが目を剥く。
──何それ怖い! お祈りの言葉も間違えたら死んじゃうの?
姉妹オルガは子どもたちのやりとりを笑みを浮かべ見守った後、一番小さな子どもに訊ねる。
──あなたはどう思う、ウルシュラ?
──わたしは……
子どもは顔を上げ、返答を待つ皆の顔を見渡す。姉妹オルガ、アニエス、ジャンヌ、そしてソフィア。今のわたしの、大切な人たち。
──わたしは、本当に大切な人を守るために、どこまでできるのか、どこまで危ないことを冒せるのか、神様は試しているのかも知れないと、思います……
──その覚悟を、ということね?
姉妹の確認に子どもははっきり頷く。
姉妹は静かに頷くと、畑の傍に身を退いて振り返る。その眼が黄金に輝く。
──ではウルシュラよ。あなたに問いましょう。大切な者を守るために危険を冒す覚悟が、あなたにはありますか?
釣鐘の花房の群生の向こうに、小さな茄子を思わせる黒い実をつけた草がひと叢揺れている。アトロパ──運命の糸を断ち切る異教の女神、アトロポスにちなんだ名前と先ほど教わった。
運命の糸がわたしたちを縛るなら、わたしはそれを断ち切りたい。ウルシュラは眼差しを定め、そっと手を伸ばす。
厨房では教会司祭に供する食事の支度に、二人の姉妹が忙しく立ち働いていた。竈にかけられた大鍋では普段より具材の多い野菜のスープが煮立っている。
「司祭様が見えるからってわざわざ豪勢にすることはないと思いますけれどね、私は」
大柄の姉妹が額の汗を拭いながらぼやくと、長身の姉妹が苦笑しながら同意する。
「クリュニーにも行かれるのでしょう? ここはシトー会です、贅沢なお食事ならクリュニーでお召し上がりください、って顔をしておけばいいんですよ」
姉妹はそう言いながら、ふと戸口に佇んで中の様子を見ている子どもに気づく。
「ウルシュラ、こんなところで何をしているんです。今ばたばたして危ないから、入っちゃいけませんよ」
「お食事を作っているの……?」
「そうですよ、司祭様のね」
「司祭様だけのために?」
「院長様やベンヴェヌート様も召し上がるけれど、そこの竈のは司祭様のための特別誂えさ」
大柄の姉妹が振り返って忌々しげに答え、さあ行った行った、と手を振る。
そして二人は再びそれぞれの仕事に立ち戻る。
突然、長身の姉妹が、あっ、と声をあげた。いつの間にか入り込んだ子どもが、竈の鍋に背伸びをして、握りしめた手を伸ばしていた。
「何してるんです!」
子どもは咄嗟にぐらりと均衡を崩す。肘が鍋にあたり、大きく揺れて吊り手から外れる。二人の姉妹が悲鳴をあげて立ちすくむ。
「ひとまず、火傷の処置はしました。命に障ることはありませんが、数日は熱が出ましょう。……ソフィア、しばらく側にいて看ていてあげなさい」
往診に駆けつけたカスラリ医師は、寝台を取り巻く姉妹たちと子どもの傍に跪く娘にそう告げると道具をしまい、寝台に横たわる子どもをしばらく見つめてから部屋を辞した。
姉妹たちがそれに続くように銘々十字を切りながら部屋を出ていくと、ソフィアは改めて青ざめて目を閉じるウルシュラに向き直り、その手を取った。
「ウルサ……一体何をしようとしていたの」そしてふと、その小さな掌を窓から注ぐ光にかざす。「何、これ」
熱を帯びた掌は、指の関節に沿って赤く発疹していた。残っていた姉妹オルガが膝を折って覗き込む。その顔はたちまちに色を失い、待っていて、と言い残すと小走りに部屋を出ていった。
しばらくのち、息を切らせた姉妹が水を張った甕を抱えて戻ってきた。
「ソフィア、まずあなたが先によく手を洗って。そのあと、ウルシュラの手も洗うのよ」
訳を訊くいとまもなくソフィアが指示に従うと、姉妹オルガはウルシュラの手を清潔なリネンでぬぐい、オリーブ油に湿らせた布で巻きながら震える声で囁いた。
「……アトロパが一株、手折られてた……ソフィア、このことはしばらく黙っていて」
突然の騒動に、教会司祭の訪問は日を改められた。
子どもがいかな企てを秘めて厨房に入り込んだのか、床に撒かれたスープが慌ただしさの中で処分されてしまうと、もはや余人が知ることはなかった。
医師の見立て通り、子どもはそれから数日、繰り返す熱と痛みに苦しんだ。ソフィアは付ききりで看病し、目を背けたくなる胸の火傷の湿布を取り替えながら恢復を祈り続けた。そして祈りながら、やはり修道請願を立てようと一人心に定めるのであった。
数日後、ようやく熱が下がり麦粥を口にできるようになったウルシュラを、院長ベアトリクスが訪った。子どもが熱に浮かされている間に教会司祭の訪問が済んだことを伝えたあと、忸怩とした面持ちで詫びた。
「わたくしはあなたたちに謝らねばなりません。教会の司祭様が何かしらあなたたちに含みを抱いて接していたのではないか……ウルシュラの堅信礼のとき、ふとそう気づいたのです。だとしたらソフィアの時も、と。それなのに深く確かめることを躊躇い、このようなことに……」
神の家の長に赦しを乞われ、ソフィアは気まずさに黙り込む。仰臥したまま力なく天井を見つめる子どもは、聞こえぬ様子で応えない。
ソフィアはようやく爛れの引いたウルシュラの手をさすりながら言う。
「でも……私の時はともかく、ウルサについては何があったのか判らないままです。ベンヴェヌート先生にも、徒に疑いを抱くことは罪だと言われました」
院長は小さく頷き、うつろな面持ちの子どもに視線を注いで静かに言う。
「予断は禁物ですが、いずれ真実は主の前に明かされねばなりません。……ウルシュラ、司祭様にお話しなさい」
数日後、ベンヴェヌート司祭はウルシュラを礼拝堂に呼んだ。
内陣や聖歌隊席と会衆が集う身廊とを隔てる木柵の内側にウルシュラを立たせ、司祭自身は木柵の外に立った。姉妹オノリーヌは少し離れて礼拝堂の入り口脇に立ち、余人が子どもと司祭のやり取りを耳に入れないよう気を配った。
子どもは問われるまま、事件の日のことを訥々と語った。あたかもそれは、覗き見た誰かの夢でもあるかのように漠としたものであった。狼に変化する教会司祭、薬草園で決意を糺す姉妹、いずれも現実ではあるまい──と司祭は聞きながら思う。それでも、夢に誘われて薬草園から毒草を摘み、恐らくはそれを手に厨房に侵入したことは紛う方なき事実であろう。何かに導かれたのであれ自らの意思であれ、司祭という神の代理人に対する強い敵意は神の世への叛逆であり、同じ職分にある身として到底看過できるものではない。
しかし同時に、子どもの口から語られる教会司祭の振る舞いは、およそ司牧を務める者として信じがたいものである。ユダヤの血にことよせてソフィアの未来を脅かし、寄る辺なきウルシュラの不安を悪魔と結びつけ断罪する──なぜそのような歪んだ妄想が神の名の下で罷り通るのだ。久しく忘れていた怒りの感情に血が滾るのを覚え、司祭は慌ててパウロの言葉を胸中に唱える、《怒ることがあっても、罪を犯してはならない。悪魔に機会を与えてはいけない》。
そして司祭は己を責める。──院長ベアトリクスの懸念、ソフィアの陳情、警告はすでにいくつも示されていたではないか。教会から子どもへの直接の呼び出しに対して躊躇を示した院長に、己は何と返した? この子を一人行かせたのは己だ。ウルシュラを教会司祭に近づけるな、と訴えに来たソフィアに何と諭した? 徒に疑いを抱くは神の前に慎むべき罪──そうして手をこまねいた挙句、小さき者を罪に染めた己は、なお神の前に十全であったと申し開きできるのか。本の世界に耽溺し、得た知識を子どもらに授けることばかりに夢中になって、己はこの子の目に映るものを見ていなかったのではないか。娘たちの悲しみや怒りを、所詮は幼きがゆえのものと軽んじていたのではないか。
その挙げ句が、このざまよ──。
「ウルシュラよ、汝の罪は神の御前に赦された」司祭は絞り出すように告げる。「お前さんはすでに、その身に十分過ぎる罰を受けたであろう……傷は、まだ痛むか」
子どもは格子の隙間から司祭を見上げ、確かめるように胸に手を当てると、いいえ、と首を振る。それで自責が和らぐものではなかったが、司祭は幾分か安堵すると、柵の格子越しに子どもの目を見据えた。
「神はお前さんを赦した。だが儂はなお、お前さんを罰さねばならん。司祭としてではなく、教師としてでもない。お前さんの罪を防げなかった不甲斐ない大人として、お前さんに二週間の謹慎を命ずる。二週間、部屋を出てはならん。よいか、ウルシュラ」
ウルシュラはこちらを見上げたまま、わかりました、と頷く。言葉の奥を推し量ろうとでもするかのような眼差しから、司祭は思わず目を逸らす。──そんな目をするな。子どもが、そんな目をするものではない。理不尽な罰を科す儂をただ恨め。
姉妹オノリーヌに子どもを託し、司祭は一人礼拝堂に残る。恐らくは祭壇の磔刑像に歩み寄り、イエスの苦しみをその目に焼き付けたであろう。
院長室に現れたベンヴェヌート司祭を、院長ベアトリクスはねぎらいながら迎え入れた。依頼していた子どもの告解を終えたのだろう、と向き合った姉妹は、司祭が髭を掴むように弄びながら何も言い出さないことに気がかりを覚えた。やや置いて、口を切った。
「……大事なお話がおありなのですね、司祭様」
司祭が驚いたような顔を上げ、姉妹は微笑んだ。
「深く満足された時、そして、のっぴきならない時。司祭様はいつもそうして、ご自慢のお髭を弄ぶのですよ。お気づきではありませんでしたか」
観念したように呻き、儂は──と言いかけた司祭に、姉妹が愉快そうに被せる。
「──ランゴバルド族の末裔だから。……ええ、何度も伺いましたわ。それで、かの勇猛なランゴバルドの司祭様は改まってどのようなお話を?」
心を決めて訪ったはずの司祭は再び黙り込む。姉妹は、目の前で苦しげに逡巡する大男を慈愛を込めて見上げた。
そして長い沈黙の末に、司祭は辞意を伝えたのであった。
今度は姉妹が黙り込む。他ならぬこの司祭様のこと、よくよくお考えの末に決断されたに相違ない。けれど、なぜ今──。
姉妹ははっと気づいて司祭の目を捉える。
「ウルシュラのこと、ですか」
「儂は」司祭はまっすぐ姉妹の眼差しを受け止めて口を開く。「……神の前に常に偽らぬものとしてありたい。川の水のように濁りなく、日の光のように澄んだものとしてありたい……そう願ってきた」
姉妹は深く頷く。
「ええ。司祭様がこのモンス・ラヌンクリのシトー修道院で請願を立てられた時にも、仰っていましたわね。よく覚えています。熊のように大きく、お顔の表情も良く伺えないような凄いお髭を蓄えたこのいかめしい殿方が、まるで野の獣に説教するフランチェスコ様のような、小さな男の子のようなことを仰る……と、とても印象的でした。あれから何年経つでしょうね」
司祭はそれには応えず、窓辺に歩み寄ると背を向けたまま続ける。
「……怒りは神に預けよ、とパウロは言う。復讐は神の仕事だと。儂は妻帯したことも、子を持ったこともないが、仮に愛する妻や子を不義に傷つけられても、男は黙って神の裁きを待つのだろうか……」儂は、とゆっくりかぶりを振って拳を握りしめる。「儂には、待つことなどできそうにない」
姉妹は司祭の言葉を反芻し、その意味を瞠目して受け止める。やがて静かに歩み寄ると、その背に言葉をかける。
「司祭様のように大きな殿方を、わたくしが押しとどめることなど叶いません。ですが娘たちは……ええそうです、娘たちには、大きくて、いつでも受け止めてくださる父が必要なのです。……ベンヴェヌート・ロンバルディ。いつか、戻られますね?」
司祭は背を向けたまま呟く。
「神は、お赦しにならぬだろう」
「いいえ」姉妹は笑みを浮かべて言う。「神はいつも、必ずお赦しになります。それは、あなたが一番よくご存知でしょう」
その数刻のち、集落のカスラリ医師の家の扉が荒々しく押し開かれ、顔中に火傷を負った大男が司祭服をまとった血まみれの男を担ぎ込んだ。
突然のことに医師が絶句して見守る中、大男は数枚の銀貨を卓に置き、面倒をかけて申し訳ないがこれでこの者を治療してやって欲しい、と言い残して踵を返した。医師はまさかと思いながらも、その背中に「ベンヴェヌート先生、火傷の手当てを」と声をかけた。大男は一瞬歩みを止めたが、人違いだ、と応えて立ち去ったと言う。
夕刻に帰宅したソフィアは、父が懸命に手当を施す瀕死の男が教会司祭であると気づいて小さく悲鳴を上げた。しかし、顔を上げ、思い詰めた眼差しで娘を見つめる父と目を見交わすと、事を察して再び家を飛び出し修道院に駆け戻った。思えば午後からベンヴェヌート司祭の姿を見ていない。礼拝堂、写字室、図書室、方々を探してもその姿はなく、行き交う姉妹たちは誰も司祭を見ていないという。ソフィアは息を切らせて立ち尽くすと、意を決して院長室へ向かった。
扉を叩くと長い間を置いて返事があった。軋む扉を押して部屋に入ると、院長は板戸を下ろした窓を背に、ランプを灯し文を広げ机に向かっていた。肘をついて両の手を組み、長いことそこに額を乗せていたのであろう。幾分憔悴した顔を上げてソフィアを迎えると、安堵したような微笑みを浮かべた。
「ああ、ソフィア……今、とても不思議な気持ちを味わっていたところですよ。……それより、こんな時間にどうしたのです。もう帰っていたのでは?」
「院長様、ベンヴェヌート先生は」
「司祭様は急なご用で、少し長い旅に出られました。挨拶も叶わぬと残念がっておられましたが、仕方がありません。後任の方が来られるまで、皆には少し不自由をかけますが……」
院長は微笑みを残したまま淡々と告げる。ソフィアは理解が追いつかない。
「旅って……いつお戻りになるのですか。まだ私、先生に教わりたいことがいっぱいあるのに」
「いずれ必ず戻られますよ」姉妹は宥めるように言う。「きっと、山のような本とともにね。あなたが本当に請願を立ててこの修道院で暮らすのなら、きっとまたお会いすることになるわ」
ソフィアは、それ以上問いただしてはいけないような気がして黙って姉妹を見つめる。
姉妹は何かを吹っ切るように努めて晴れやかに声を張る。
「考えてみれば……わたくしたちは皆、旅をしているようなものかも知れませんね。わずかな持ち合わせを携えて先の見えない道をたどり、誰かと出会い、別れ、喜んだり悲しんだり……そしてその些細な一つひとつが、皆どこかでつながり合っているのかも知れません」
そして、机の文を手に取る。
「先ほど、不思議な気持ち、と言ったのはこれです。ウルシュラのお母様と弟さんのことはご存知ですよね」
ソフィアは頷く。
「ラザレットで出産して、そこで育ててるって、そう聞いています。どうして戻れないのかは、ウルサも知らないようですし、私も知りませんが……」
姉妹はふと目を伏せ、声を落として言う。
「弟さん……五年前に生まれた赤子に、レプラが疑われていたのです。それで、長らく留め置かれていました」
ソフィアは無言で息を呑む。しかし姉妹は間を置かず、立ち上がって喜びに声を震わせた。
「……それが、完全に治癒したのだそうです。晴れて、モンス・ラヌンクリに帰れると。ウルシュラはやっと、お母様と弟さんに会えるのですよ。ああ、主よ──」
宙を仰ぐ姉妹に、ソフィアは我を忘れて駆け寄りすがりつく。そしてその華奢な初老の体をきつく抱きしめた。生まれてこの方、我がことでさえ感じたことのない歓喜に圧倒される。
なぜこんなにも嬉しいのだろう。嬉しいのに、なぜこんなにも悲しいのだろう──ソフィアは胸の片隅で自らに問いながら、声を憚らず泣いた。
衣の肩が濡れるに任せながら、姉妹は改めて不可思議な感慨に身を委ねる。
ウルシュラの弟の快癒について、姉妹はあえてソフィアに詳しくは語らなかった。疑われていたのはレプラであったが、その傷はまるで火傷のようであると、生まれた時の報せにはあった。そしてつい先ほど受け取った文に、何年も消え残っていたその傷がこの数日で跡形もなく掻き消えたとある。その時期が、ウルシュラが煮えたスープを胸に被った直後だと気づいた時、姉妹は畏怖とも感動とも呼び難い、大きく得体の知れないものを感じずにはいられないのであった。
ようやく落ち着きを取り戻したソフィアが、頬を拭いながら訊ねる。
「それで……このことはウルサは?」
「知っていますよ。あの子の元にも同じ報せの文が届いています」
姉妹の返事に、ああ……と再びの歓喜に天を仰ぎ、ソフィアはふと我に返る。
「ベンヴェヌート先生のことは……」
姉妹は今度は黙ってかぶりを振る。
「司祭様に命じられて部屋に謹慎しています。何も知らないはずです」
そして、ふと思い至る。もしやベンヴェヌートは、あの子に報せまいとして謹慎を……?
姉妹はさっと真顔に戻ると、ソフィアに向き直る。
「ソフィア。あなた、なぜ司祭様を探しに戻ったのです? もしかして、集落で何か……」
ソフィアは帰宅直後に目撃した光景を思い出し、息を整えながら見たままを話す。
「父さんが何も言わないうちに私、家を飛び出してしまいましたけど……もしかしたら先生が何か……そう思ったら、いてもたってもいられなくなって……」
それを聞いた姉妹は押し黙って席に戻り、しばしの瞑目の後、静かに顔を上げて言った。
「ソフィア、わたくしは今から少し狡いことを言います。……もしかしたら、向こうしばらく、このシトー修道院への修道請願は見合わせた方が良いやもしれません。ですが……私としては、是が非でもあなたに来て欲しいと考えています」
ソフィアは姉妹の言葉に困惑し、小さくかぶりを振りながら返す。
「院長様、もっとはっきり仰って。私にも解るように」
「では、有体に申しましょう」姉妹は観念したように吐息を吐く。「ソフィア……わたくしをそばで助けて欲しいのです」
打ちのめされた教会司祭がこれまでに増して剥き出しの敵意をこの集落とシトー修道院に向けるのではないか、わたくしたちはこの神の家を守るために知恵を絞り、別して備えなければならないのではないか──この夕刻に姉妹がソフィアに語って聞かせた想像は、まだこの時は単に過ぎた憂いであったようにも思われた。
カスラリ医師に預けられた教会司祭は、医師の懸命な手当ての甲斐もあり一命を繋ぎ止め、杖を使って歩けるようになると教会にも戻ることなく突如として姿を消した。
再び司祭を欠いた集落で日常の秘蹟が滞ることを憂慮した領主のベルトラン・ド・ニオールは、急ぎトロサ司教区に後任の手配を願い出たが、次の司祭が着任するまでの司牧は近隣の小教区の司祭が持ち回りで務めることとなった。
一方、同様に司牧の席が空いたシトー修道院には、思いのほか早く新しい司祭が来るとの報が届いた。去り際に後任の手配を請け負ったベンヴェヌート司祭の言葉を院長は信用して待ったが、やってきたのは同じシトー会士ではなく、ベネディクト会を経てトロサ司教区の書記官を勤めていた異色の経歴の持ち主であった。
その人物、アンセルム・ドゥ・ラ・ロシュ司祭は携えてきた任命書と委任状を院長ベアトリクスに差し出すと、恭しくも洒脱に口を切る。
「では、院長様。さっそく私の新しい花園へご案内を。そして、主の庭に咲く美しい花々にご挨拶をさせていただけますか。親友が丹精した庭を、枯らしてしまわぬ前に」
〝小鳥さん〟──。ウルカねえさま──。
母と弟が戻ってくるという報せを受け取って以来、ウルシュラは何度目かの同じ夢から目覚める。寝巻きは汗に濡れ、息が乱れているのも夜々のことであった。
夢の中で自分の名を呼ぶ母と弟は艶やかな灰色の毛に覆われ、満月の黄金色に光る目で愛おしげにウルシュラを見る。ウルシュラは二人をとっておきの食事の野に誘う。そして豊かに茂るアトロパの黒い実を貪り食うのだ。実は甘く、ウルシュラは歓喜に長い鼻を突き上げて吠える。だが、ふと見ると母と弟はすでに冷たい骸となり、野に横たわっている──。
惣闇の風を吸って息を整えていたところに姉妹オノリーヌがランプを手に現われ、ウルシュラはベンヴェヌート司祭から言い渡された謹慎の二週間を全うしたことを知った。
「さあ、支度をなさい。今朝は朝課の後に新しい司祭様の就任のミサがありますよ」
「新しい司祭様、って?」
「ベンヴェヌート司祭様の後任の、アンセルム司祭様です」
何を告げられたのか分からず、ウルシュラは立ち尽くす。
「ベンヴェヌート先生は……?」
「去られたのですよ。あなたに謹慎を言い渡してすぐに」
姉妹に追い立てられるように身支度を整え、顔を洗い、蝋燭を灯す礼拝堂で夜課に列してもなお、ウルシュラは何が起こったのか分からず呆然と佇立する。時課は粛々と進み、朝課の祈りが済むと姉妹たちの前に見知らぬ司祭が歩み出る。
「静寂と清貧の道を選ばれた主の庭の美しい花々、そしてベアトリクス院長様。この神聖なる修道院に慌ただしくまかり越しました、私、アンセルム・ドゥ・ラ・ロシュと申します」
司祭は講壇の上で恭しく首を垂れる。
「私は皆様のトロサ司教猊下より、この修道院の秩序と規律を確固たるものとする使命を仰せつかって参りました。私の最初の職務はいわば庭師……神の愛と聖ベネディクトゥスの戒律の垣根が、揺るぎなく堅固であることを確認いたします」
語りの端々に滲む都会的な響きに、ウルシュラはやはりベンヴェヌート先生とは違う人なのだと噛み締める。
「ですが」司祭は少し言葉を切ると一堂を見渡す。「同時に私は、皆さまの魂を愛し守護した私の親愛なる友、ベンヴェヌート司祭の代わりにここに立っています。友は、このモンス・ラヌンクリのシトー修道女たちこそ、最も聡く、また最も神の愛を理解する魂の持ち主である、と熱心に綴った手紙を送ってくれました。彼の情熱と献身を、私に引き継いでもらえまいかと」
先生の友達──ウルシュラは顔を上げ、姉妹たちの肩越しにぼんやりと浮かぶ人影に目を凝らす。
「そして司教様に、是非この山へ寄越して欲しいと嘆願し、今皆さまの前におります。私は友が丹精したこの花園を、いかな嵐からも守り抜くことを誓います。トロサの風に擦れた私を、山の清風と皆さまの厳しい規律をもって導いてください。──さあ、ではミサを始めましょう」
典礼の間、ウルシュラはこの二週間を思い返す。
何も知らぬ間に小さな部屋の外でこの修道院は大きく変わってしまった。たぶん、それはわたしのせい。わたしの犯した罪のせいでこの修道院の人たちが大切な人を失い、悲しみにひしがれていた間、わたしは母様とジョゼップが戻ってくる喜びにただ浸り、そして夜毎二人を殺してしまう夢にうなされるばかりであったのだ。
わたしは、いったい何をしてしまったのだろう──。
「初めまして。君がウルシュラですね」
あらかたの姉妹たちが立ち去った中、新しい司祭が目の前に立ち微笑みかけている。
「トロサ司教のお褒めにも預かった、大変に聡い子だと伺っていますよ」
「はい」ウルシュラは身を固くし、消え入りそうな声で応える。「その聡い子は、犯した罪の謹慎が明けたところです、司祭様」
「なるほど」蝋燭の朧げな光の中で、司祭はまじまじと子どもを見定める。「では今、この司祭は何者だろう、ベンヴェヌート先生は謹慎を命じたきりどこへ行ってしまったんだろう、と思っているわけですね。先生がいなくなったのは自分のせいだ、聡いなんてとんでもない、と」
ウルシュラはぎくりと震え、司祭を見上げる。司祭は愉快そうに破顔して続ける。
「君の様子を見れば、ベンヴェヌートがいかに君のことを理解し愛していたのかわかります。安心なさい、全て彼が手紙で教えてくれたことですよ」
ウルシュラが新しい司祭への不審を取り除き、信頼を寄せられるようになるまでには今しばらくの時間を要した。アンセルム司祭は全ての仕事を慎重に、辛抱強く、そして可能な限り速やかに進めた。ウルシュラの新しい師として寄り添うことはもちろん、この時期の司祭が最も心を砕いたのは、ソフィアの修道請願であった。
ウルシュラに負けずとも劣らぬこの聡明な娘を修道院の共同体が受け入れるために、必要な姉妹たちの承認は概ね好意的に下された。アンセルム司祭はその承認を即座にトロサに提出し、司教の許可を得る。ソフィアは晴れて修練女として生活の基盤を父の家から神の家へと移すと、姉妹オノリーヌの監督下に入った。
次序が異例の迅速さで進められたのには、院長ベアトリクスの危惧をアンセルム司祭が道理として受け取ったためであった。しかしそれは、旧友が打ちのめしたという教会司祭一人の私怨をのみ恐れてのことではなかった。トロサ司教座に長く身を置いていた司祭は、このオクシタニア全域に対する異端弾圧が新たな段階に入ったことをつぶさに見聞していたのだ。
院長から、当面この修道院が直面しているかも知れない危機について話を聞いていた時のことである。
「……司祭様もすでにご承知のとおり、あのウルシュラに関しては少し特別な経緯で受け入れております。あの子はいわば、この集落が異端や異教に対して否を突きつけた、その象徴のような存在です。わたくしたちはあの子をこの神の家で守り、同時にあの子の並ならぬ聡さを育てて、ソフィアと共にモンス・ラヌンクリを護る知恵となって欲しい……そう考えております。無論、それはあの子の意思と信仰次第ですけれど」
「よくわかります、院長様」司祭は柔和な面持ちで頷く。「異端の芽にはよくよく備えなければなりません。特にここ……オクシタニアでは」
「でも、それにしては」姉妹は思案顔で呟く。「以前あれほど繁く巡回されていたドミニコ会の方々が、このところめっきりお見えになりません。五年前にカタリ派の砦が落とされて、異端の懸念も落ち着いてきたのではないでしょうか」
すると司祭は目を伏せ、静かにかぶりを振った。
「院長様……残念ながら、そうは申せません」
ドミニコ会が姿を消したのは、彼らの苛烈で不当な弾圧に対し教皇の元に直訴が殺到し、オクシタニアでの異端諮問活動から身を引かざるを得なくなったからであった。異端対策はむしろより上位の権威によってかえって激しさを増しており、つい先だってもトロサ伯レーモン七世の命で北のアギヌムという町に巨大な火刑台が築かれ、八十名ほどが処刑されたばかりだ、と司祭は告げる。姉妹は眉を顰め、固唾を飲んで聞いた。
「つまり、院長様。ことはもはや一司祭の私怨にも、一つの托鉢修道会の活動にも収まらないのです。パリの玉座、ローマの聖座がそれぞれに威信を示すための組織的で巨大な取り締まりの波が、このオクシタニアの地を覆い始めているということです。このシトー修道院を、モンス・ラヌンクリに向けられる猜疑に対する砦とするには、もはや信仰だけでは足りません。法と知、この二つが確かな礎石となりましょう。ソフィアの請願を急ぐのはそのためです。いずれはウルシュラにもトロサ司教座に適う教育を、と考えております」
そうした大人たちの思惑をよそに、ウルシュラは癒えぬ罪の意識を胸にひた隠しながら、修道院の門前に立ち、一心に麓に目を凝らす。
やがて木立の向こうから馬車の音が近づき、馭者の後ろに二つの人影を認めて通りに駆け出す。次第に鮮明になる大きな人影は紛れもなく懐かしい母の姿だ。そして、隣には小さな男の子が大人しく座っている。
声もなく立ち尽くすウルシュラの前に、やがて馬車が止まる。遠くから娘の視線を捉えて離さぬ母は馬車が止まり切るのを待たず、座席から滑り降りるなりウルシュラを抱きしめた。
この日を、この時をどれだけ待ち侘びただろう。けれど今、ウルシュラは母の胸に顔を埋めても涙が出ないことに驚く。
「ああ……本当に〝小鳥さん〟なのね」母は腕を緩め身を離すと、両手でそっと娘の頬を包む。「もっとよく顔を見せて──こんなに……こんなにも大きくなって」
「ぼくも、おりる」
後ろで男の子が座席にしがみつきながら片足を地面に伸ばし、母は慌ててウルシュラから手を離すと男の子を背中から抱き上げて地面に下ろした。
それを見て、ウルシュラはようやく気づく。
ああそうか、もうわたしだけの母様じゃないんだ──。
「〝小鳥さん〟、ようやく初めましてね。この子がジョゼップ、あなたの弟よ。──ジョゼップ、これがいつもお話ししていたウルシュラお姉様。あなたの名付け親よ。ご挨拶なさい」
母に優しく背を押されたジョゼップは榛色の輝く瞳を丸くして姉を見上げる。柔らかな頰の線は母様に似て、でも栗色の愛らしい巻き毛は父様そっくり──この子が、わたしの弟。
知らず、ウルシュラは膝をかがめて弟の目をまっすぐ見つめる。
「ジョゼップ」
その名を口にした刹那、熱い塊が胸の中で膨れ上がり、固く閉ざしていたものをあっという間に乱暴にこじ開ける。「ジョゼップ……ジョゼップ……」
弟は当惑して傍らの母を見上げたが、その母も笑顔を絶やさぬまま涙に濡れているのを見て取ると、意を決したように姉に歩み寄りその腕を取る。
「ねえさま。ぼく、けさゆめみたんだ。ねえさまとかあさまと、さんにんでのいちごをたべるゆめ。すごくおいしかったの。ねえさま、のいちごしってるよね。……ねえ、どこかいたいの?」
ウルシュラは弟を掻き抱くと、頑是ない幼子のように大声で泣いた。
汝の罪は神の御前に赦された──そうベンヴェヌート司祭に証されても、一度他者に向けた怒りと憎しみは我が身を苛む荊となって、決して己を赦そうとはしなかった。
幼い弟の他愛ない夢は、ここに至って図らずも、姉を縛めから解き放ったのであった。
その後、母マリアはジョゼップと共に再びクリュニー修道院に身を寄せた。
院長クレマンスは、当時手紙では語れなかった、ウルシュラがシトー修道院へ移った経緯を改めてマリアに語り、深く陳謝した。
身籠ったマリアにラザレットへ移る提案を持ちかけたブランシュは当時、ここへ戻った後家族でどう暮らすかはその時にゆっくり考えれば良い、と促した。マリアもまた、再び娘と共に三人で暮らすものと信じて疑わなかった。これ以上家族が引き離されることなど、片時もあってはならないと思い定めていたマリアは、かつて良人ユゼフが暮らした畑の脇の庵に母子で暮らすことさえ躊躇わなかったが、姉妹クレマンスは幼子の健康を案じ、当面は女子修道院の客舎に母と息子が暮らせるよう取り計らった。あとはウルシュラさえここに戻れたなら──マリアは算段を巡らせた。
しかし集落に戻ってしばらく過ごすうち、留守にしていた五年の間に、この修道院も集落も何かのっぴきならぬ事態に絡め取られつつあることを、マリアはようやく感じ取った。クリュニー修道院に腰を据え、後日改めてシトー修道院の娘に会いに行ったマリアは、またクリュニーで一緒に暮らしましょう、そのためなら院長様方に何度でも掛け合うから、と言葉を尽くして説いた。ウルシュラは瞳を潤ませて母を見つめたあと、不意に固く思い詰めた表情で目を伏せ、今はまだできない、と短く答えた。大切な友達がここで修道女になろうと頑張っている、自分はそれを見守り、いずれそれに続くつもりだ、と。
思いがけぬ娘の返答にマリアは動揺した。しかし、俯いたまま膝の上できつく握りしめた拳を振るわせる娘を見て、全てを諒解したのであった。母や弟と一緒に暮らしたくないわけではない。それでも、この子は自分なりにすでに己に課された使命──召命を見定めようとしている。
「〝小鳥さん〟……いいえ、ウルシュラ」
マリアは自ら言い直した呼び名に胸を詰まらせながら、娘に微笑みかける。
「あなたはもう、子どもじゃない。自分のことを自分で決められるのだもの。でも、全てを一人で抱え込む必要なんてないのよ。あなたには素晴らしいお友達がいるのだし、母様もジョゼップもすぐそばにいるわ。話したいことがあれば、いいえ、ただ会いたいだけでもいい。いつでも会いにきてね。母様は、いつでもあなたを待っているのだから」
ウルシュラは顔を上げると、ようやくわずかに笑みを浮かべ、こくりと頷いた。




