八 ソフィア
翌一二五〇年の秋、約一年という異例の短期間で修練を全うした一六歳のソフィアは、主の御前に清貧、貞潔、従順を誓い、正式に三年間の有期請願を認められた。修練中の証であった純白のスカプラリオを黒に纏い替え、黒のヴェールを被り、晴れてシトー修道女となったのである。
姉妹たちの間に全く異論がなかったわけではない。なにしろ修練は通常二、三年をかけて積み上げていくものである。ソフィアの秀でた賢才と深い信仰心、そしてオクシタニアの直面する状況を鑑みてアンセルム司祭が判断されたことなら、とおおかたの姉妹は首肯したのであった。
一方、かつて共にベンヴェヌート司祭のもとで学んだ十四歳のジャンヌとアニエスには、いずれも縁談の声がかかるようになっていた。折しも慌ただしく司祭が替わったことで二人は修道院の学びから遠のいていたが、たまにソフィアやウルシュラを訪ねてくるアニエスは、ニオール家の次男がいかに自分を淑女として遇してくれるかを面映げに語った。
「だってほらあたし、こんなじゃない? いつもベンヴェヌート先生に注意されてばかりでさ」
「何を言うの、いつもみんなを明るく引っ張ってくれていたわ。もっと自信を持って」
ソフィアは懐かしむように目を細めて励ます。ウルシュラも力を込めて頷き同意した。
「アニエスがいると、いつもすごく愉しかった」
「ちょっと待って……私、淑女の話してたよね?」
そう言って慌てるアニエスに、ソフィアとウルシュラはやはり笑いを誘われる。
アニエスは不意に身を乗り出して、憚るように声を落とす。
「ところで、アンセルム司祭様ってどう? やっぱりベンヴェヌート先生とは違う感じ?」
「司祭様はとてもいろんなことをご存じよ。もちろん、ベンヴェヌート先生もものすごく博学でいらしたけれど、それとは違う、世の中の仕組みに通じていらっしゃるようだわ。トロサの司教座に長く仕えていらしたそうだから」
「いいなぁ、トロサかぁ」アニエスは大仰にのけぞって嘆息する。「ニオール家に嫁いだらあたし、たぶん一生この村から出ないんだろうなぁ」
「私はこのモンス・ラヌンクリが好きよ」ソフィアは心から言う。「一面金鳳花に覆われる春はとびきり素敵だけれど、他のどの季節も好き。よそへ行きたいとは思わないわ」
「あたしだってここは好きだけど」アニエスは焦ったげに抗弁する。「そうじゃなくてさ。想像してみてよ、夕日に照らされたような赤い石の立派な建物と、お洒落で洗練された人たちで溢れた都会を。宮廷文化と吟遊詩人の街、こことは何もかもが違う街を」
そしてウルシュラに向き直る。
「ねえウルサ。あんたは小さい頃、すごく長い旅をしてここに来たって言ってたよね。どんな街を見てきたの? 教えてよ、外のこと」
ウルシュラは戸惑いながら、薄れかけた記憶を手繰り寄せる。
もはや街の名は覚えていない。初めに浮かぶのは、木立を抜けて目の前に流れる川の向こうにどこまでも続く城壁。確か、あの大きな街の修道院で姉妹マリアンヌと出会ったのだ。天を衝く樹々が鬱蒼と続く黒い森には、見えるものと見えないものが混然と住まい、幼かった自分を楽しく誘い惑わせた。その先の、緑の野を縫う川では父様と魚を獲って遊んだ。市場で香草屋のおばさんに優しくしてもらったのもこの街だ。でも、鎖の行列、火の匂いの父様、胸に重い記憶も呼び起こされる。それから、多くの巡礼者で賑わっていた祭では綺麗な貝の襟飾りを買ってもらった。ミサに参列した大聖堂のそばに大昔の闘技場を見に行ったことも覚えている。闘技場の真ん中で剣を構えて見せた父様は、まるで物語のアーサー王のようだった──。
「あぁ……」アニエスは感嘆の息を漏らす。「羨ましい。あたしもそんな物語みたいな旅がしてみたいわ」
わたしはずっとお屋敷にいたかった、フベルトやタマラやみんなと一緒に──口を突いて出そうになる言葉を、ウルシュラは咄嗟に別の言葉で塗りつぶす。
「いろんなところを見たけど、わたしもここが一番いい。ここにはみんながいるもの」
アニエスは苦笑して肩をすくめる。
「はいはい。ウルサがそう言うなら、本当にここもそんなに悪くないのかもね」
ソフィアは思い出したようにアニエスに言う。
「そう言えば、ウルサの話にもあったけれど、巡礼の人たちってとても長い旅をするそうよ。何ヶ月もかけて遠い聖地を目指して歩くのだって。そんな旅をする機会が、もしかしたらこの先あるかも知れないじゃない」
アニエスはそれを聞いて眉を顰める。
「いやよ。巡礼って、そりゃあ進んでする人もいるそうだけど、異端宣告された人が罪を償うためにするって聞いたわ。前にジャンヌの家に縁談を持ってきたカルカッソナの商家の使いの人が言ってたんだって。街から大勢の異端者が、胸に大きな黄色の十字をつけた服を着せられて送り出されたって。あの子臆病でしょ、そんな街に嫁ぎたくない、どうしよう、って青くなって震えてたの。あたしもそれを聞いてぞっとしちゃった。結局その話は流れて、二人で胸を撫でおろしたんだけどさ」
……アニエスの語ったカルカッソナでの異端放逐の話に寄せて、記しておかねばならない出来事がある。この年、一二五〇年の十二月十三日、長年教皇庁と対立してきた神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世が死去したのだ。
これにより、ローマ教皇インノケンティウス四世は世俗の干渉を受けることなく、異端審問制度の法整備において主導権を握ることになる。これまでドミニコ会やフランチェスコ会といった托鉢修道会に任されていた量刑判断を含む、裁量の一切を教皇庁が統括していくのである。
明けて一二五一年、教皇は、異端裁判における重罪判決は司教以上の同意を必要とする旨の勅書を発布し、聖座による統制を確たるものとする。
さらに翌一二五二年の五月十五日には大勅書《根絶のために》が発布され、「異端は魂の殺人であり信仰の強奪であるから、泥棒や強盗同様、生命や身体に危険を及ぼす恐れのない範囲において自白や告発を強要すべし」とされた。ここにおいて、死に至らぬ範囲での拷問の使用が事実上許可されたのである。
なぜ教皇庁がこれほどまでに態度を硬化させたのかと問えば、この大勅書発布の前月にヴェローナで起きた、またも教皇特使である異端審問官がカタリ派支持者の手により殺害されるという事件を受けてのことであった。
玉座や聖座による組織的で巨大な取り締まりの波が、オクシタニアの地を覆い始めている──アンセルム司祭の危惧はこうして静かに、私たちのモンス・ラヌンクリにも歩みを進め始める。
同年の春、ウルシュラは十四歳にして、ソフィアを追うようにシトー修道院への入会を希望する。無論、院長ベアトリクスやアンセルム司祭に否はない。時を経ず希望が認められると、それまで奉献児童と同等の扱いで小部屋を当てがわれていたウルシュラは、姉妹たちと寝起きを共にする大部屋へ移動する手筈となった。
しかしここで、アンセルム司祭から一つの提案がなされる。
「ソフィアとウルシュラ、しばらく二人に別の部屋を与えることは叶いましょうか、院長様」
このシトー修道院をモンス・ラヌンクリに向けられる猜疑に対する砦とする、そのために二人に法と知を授け盤石な礎石とする──司祭の思惑は確かに院長ベアトリクスの危惧を汲んだものであった。ゆくゆく二人に託すかも知れない仕事が、仮にいっときなりと公にできぬものであった場合、二人を大部屋から離しておくほうが得策であると司祭は考えたのであろう。
しかし、修道院の姉妹たちは大部屋で共に寝起きするものと定められている。一部の者に例外を認めることは組織に不和の種を撒きかねないことも、院長はこれまでに重々思い知っていた。院長ベアトリクスとアンセルム司祭は、副院長や修練長も交えて話し合い、ウルシュラが修練期を終えるまでの期限付きで二人に部屋を与えることにした。
大部屋の姉妹たちには修練長の姉妹オノリーヌより、二人にはアンセルム司祭から異端に関する修道院としての検討課題が課せられており、その課題に集中させるために一時的に部屋が与えられているとの説明がなされた。己にお鉢が回らなかったことを安堵する者もあれば、それでも二人の特別扱いを腐す者もあり、姉妹オノリーヌは密かに危惧を深めた。
就寝前、ウルシュラは修練服を脱ぐと、そっと胸に指を添わせて確かめる。
あなたはもう、子どもじゃない──三年前、再会した母の言葉を合図のように形を成し始めたそこは、肌が引き攣れ、過去の罪が今も生々しく刻まれている。子どもの過ちでは済まされない、それはかつて己が一人の人間を殺めようとした標であり、忘れることを禁ずる罰であった。
「ウルサ、何してるの。早く寝巻きを着て」
終課から遅れて部屋に戻ったソフィアが、慌てて扉を閉めながら声を落として窘める。
「同室の姉妹でも肌を見せてはだめよ。着替えは仕切り布の向こうでしなさいね」
ウルシュラは振り返ってソフィアを認めると、黙って寝巻きを被る。ランプの柔らかな光の中で覆われゆく白い背に目を奪われそうになりながら、ソフィアは己を誤魔化すように言い募る。
「あなた、昔から羞恥心が薄いところがあったわね。修道院の庭に描いたほとの絵のこと、思い出すたびに笑ってしまうわ」
「あれは、違うって言ったでしょ……もうその話はしないで」
事ごとに蒸し返される昔話に、ウルシュラは俯いて拗ねる。ソフィアは笑いながら謝り、姉妹が背を向けて消沈している隙に手早く着替える。
「……でもね。実は私も、体のことを恥ずかしいと思う気持ちは他の姉妹ほど強くないみたい。父さんが医者をしてるせいかしら。恥ずべきものと思うより、神が自らに似せて作られた、美しい被造物──それを私たちはもっと誇りに思ってもいいじゃない、そう思うの。……でもそんなこと、他の姉妹の前では言えない。だからウルサの──ごめんね、もう一度だけ──あの絵の話を聞いた時、すごく興味が湧いたの。この子はすごく変わった子だけど、変わってるのか、そうでなければ、もしかしたらどこかの国のお姫様なんじゃないかしら、って」
「お姫様?」
「そう、普段はとてもしっかり者なのに、時々急に無頓着になることがあるでしょ。まるで、身の回りのことを執事や乳母にしてもらっていたみたいに。……さあ、お喋りはおしまい。終課のあとは喋っちゃいけなかったわね。修練長や他の姉妹に聞かれたら叱られるわ」
そしてウルシュラが寝床に入ったのを確認するとランプを吹き消し、自らも寝台に潜り込む。
「……わたしはお姫様じゃない」
不意に、暗闇の中でウルシュラが呟く。短い沈黙を置いて、そう?、とソフィアが返す。
「それならそれでよかった。お姫様だったら友達になれなかったかも知れないものね」
そして、おやすみ、と添え背を向ける。
わたしはお姫様じゃない。
闇を見つめて胸の中で繰り返すうち、幼い日の記憶が鮮明に呼び起こされる。遠い屋敷の暮らしの面影があらかた霞の向こうに去った今もなお、その晩のことだけは薄れるどころかますますはっきりと蘇るのだ。
あれは幾つの誕生日だっただろう。晩餐の席でフベルトが名前の話を聞かせてくれた。その遠い昔話の中で、わたしと同じ名前の異国の姫は、信仰を理由に蛮族の手で殺められた。あの時父様は、姫たちは誰もが目指す天国にいち早く召されたのだからめでたいのだと、確かそのようなことを仰った。わたしはそれを聞いてひどく腹を立てた。
でも──とウルシュラは思う。あの怒りは、本当は誰に対するものだったろう。父様の言葉は確かに姫の命を軽んじるように思えて悲しかった。けれど同時にわたしは、姫を助けなかった神様も、姫の信仰心のみを取り立てて美談とし、栄冠を授けた教会も許せなかったのだろう。
そして誰よりも──理不尽な話だが──姫その人にこそ腹を立てていたような気がする。物語の中の姫は殺されゆく友人たちの死を嘆き、蛮族の長に求婚され、それを断って自らも殺されたという。嘆く。求められる。断る。殺される。蛮族の登場以降ことごとく受け身で描かれる姫の行動が、幼く怖いものを知らなかったわたしには何よりもどかしく歯痒かったのだ。
わたしならどうしただろう──今や十四歳のウルシュラは寝床で考える。馬上で猛るならず者どもに囲まれ、剣先を突きつけられて、姫のたどった道以外のその先が思い描けるだろうか。
わたしなら──闇に思いを巡らせながら、やがて静かな眠りへと落ちていく。
九時課を終えた昼下がり、ソフィアとウルシュラはアンセルム司祭から、この後の労働の時間に図書室の奥の部屋へ来るようにと告げられる。そこには、ベンヴェヌート司祭が出入りするところすら滅多に見なかった、鉄の錠が掛かった扉があった。
乾いた羊皮紙の匂いが漂う書庫を抜けて告げられた場所に着くと、いつもかかっている錠が外れ、扉がわずかに開いている。二人は顔を見合わせ、ソフィアがそっと扉を押す。
院長室ほどの広さの角部屋である。天井近くの窓から陽が差し込み、山の乾いた風が時折そよと流れ込む。部屋の中央には大きな机が置かれ、夥しい写本──製本されているものもあれば閉じられていない羊皮紙の束もある──が山のように積まれている。今入ってきた扉と同じ南側の壁一面に設られた棚にも、ぎっしりと皮表紙の本や巻子本が詰め込まれている。
机の傍で一冊の本を手に頁をめくっていたアンセルム司祭は、顔を上げると本を置いて和やかに二人に微笑みかけた。
「来ましたね。二人ともお掛けなさい。──ウルシュラ、扉に掛け金をかけてもらえますか?」
ウルシュラは扉を閉ざして掛け金をかけると、ソフィアと共に机の手前側に二脚並んだ椅子に腰掛ける。
司祭は反対側に回り、机に手を置いて二人をまっすぐ見据える。
「さあ、今日からこの部屋が私たちの信仰と知の砦です。この部屋でのことは当面、他の姉妹には決して口外してはなりません」
日頃は軽妙洒脱な司祭の口から告げられた重い言葉に、二人は押し黙って頷く。司祭はそれを確かめると、机に積まれた書類を脇へ押しやり、その中央へ数葉の羊皮紙を静かに置いた。
「目を通してごらんなさい」
二人は身を乗り出して書類に目を走らせ、ソフィアが冒頭を音読する。
「《インノケンティウス四世、教皇勅書、根絶のために。一二五二年五月十五日、ペルージャにて公布》……」
「先だって発布された、教皇による大勅書です。私たちは今からこれを徹底的に読み込みます。そして」司祭はそこで言葉を切り、一段声を顰める。「……これが果たして、使徒とその末裔たちが連綿と説いてきた、主の救いの教えに添うものか否かを、共に考えましょう」
「司祭様、それは──」
ソフィアが息を呑んで司祭を見る。司祭は手を挙げてそれを遮る。
「わかっています。これは、大変に危うい行いです。私たちが私的にこの勅書に問いを持つこと、それ自体が審問の対象となりかねません。ですが、私たちはこのモンス・ラヌンクリと私たち自身を護るために、主の御心に照らして真実を見極める知恵が、必要なのです」
そう言うと司祭は身を起こし、不意に和やかな表情を作ると部屋を見渡す。
「ベンヴェヌートは、こんな日が来ることを予見していたのでしょうね。ここには私たちの検討に必要なあらゆる文献が揃っている。まったく、大したものです。そして、いつか君たちがこの部屋を使うことになるであろうことも……ウルシュラ、あれを見てごらんなさい」
ウルシュラが司祭の示した書棚の隅の床に目を向けると、小さな踏み台が置かれている。書棚は大人の背丈であれば最上段まで難なく手の届く高さである。司祭は可笑しそうに微笑む。
「あれはたぶん、君のために用意してあるのですよ。もうこんなに大きくなったのにね。彼の中では、君は〝小さなウルシュラ〟のままだったのでしょう」
ウルシュラはその小さな踏み台をじっと見つめる。あの大きなベンヴェヌート先生が、身を屈ませてあそこに小さな踏み台を置いた──その姿を想像して、胸に温かいものが広がる。
「でも」ソフィアはまだ釈然とせずに問う。「どうして、私たちなのでしょうか」
司祭は改めて二人に向き直る。北の窓からの光を背に受けて表情は翳りを帯びていたが、それでも真剣な眼差しと判る。
「まずは君たちの学力。年上の姉妹たちにも引けを取らず大変に優れていると、かつてベンヴェヌートが評し、私もまたそのように思います」
その言葉にソフィアは頬を赧める。司祭は真顔で続ける。
「そしてソフィア。君は今、有期請願中ですね。来年の秋に改めて終身請願を立てるまでは、まだ他の道を選ぶこともできる。ウルシュラも修練中の身、ここでなすことの直接の責任は負いません。優れた知恵を借りながら、その退路も確保したい。これが、君たちを選んだ理由です」
「わたしがお役に立てるなら」ウルシュラは視線を司祭に戻して頷く。「やります」
──これはベンヴェヌート先生がわたしに託した望みだ。ごめんなさいもありがとうも、さようならも言えなかった先生への償いと恩返しの好機だ──ウルシュラは自らに言い含める。
思い詰めるように俯く傍の親友を見つめ、小さく息をついてソフィアも頷く。
「……わかりました。それが主の御心なら、私もその御心に従います」
「ありがとうございます」
司祭は小さく、しかし力強くそう言うと胸に十字を切り、主のご加護を、と呟いて勅書を机に広げた。
勅書は以下の序文で始まる。
《神の僕たちの僕である司教インノケンティウスは、愛する息子たち──ロンバルディア、ロマニオラ、テルウィシナ辺境地方に属する諸都市及びその他の地域の執政長官、総督、評議会、共同体──に対し、挨拶と使徒的祝福を送る。
キリスト教徒の民の間に蔓延する異端という毒草を根絶するため、この世の敵が近年ますます熱心に撒き散らし、例年以上に繁茂している現状に鑑み、我々に委ねられた責務として、カトリックの種を滅ぼすべく広がるこれらを放置することの有害性を深く認識し、より一層の努力を傾けることを提案する。教会の息子たち及び正統信仰の熱心な擁護者たちが、このような悪の働き手たちに対して我々と共に立ち上がることを望むゆえに、我々は異端の害虫を根絶するための特定の法令を発布した。これらは、同じ信仰の忠実な守護者たる諸君が厳格な勤勉さをもって遵守すべきものであり、以下に列挙する。》
続いて、全部で三十八の条文が連なる。
第一条、教令の写本作成及び遵守義務について。
第二条、統治者の宣誓義務と違反時の処罰について。
第三条、異端者追放令の発令について。
第四条から第九条、異端取締官の任命、権限、職務、義務について。
第十条、統治者による法令執行義務について。
第十一条から第十九条、異端取締官の免責、任期、手当、解任、処罰等について。
第二十条、住民の協力義務と違反時の罰則について。
第二十一条から第三十条、異端者及びその幇助者、異端者の子孫に対する処罰等について。
第三十一条、住民への宣誓強制と密告義務について。
第三十二条、罰金徴収と査定官の任命について。
第三十三条、異端判決の減刑禁止について。
第三十四条、没収財産と罰金の三分配について。
第三十五条、本教令の変更禁止と違反者への処罰について。
第三十六条、前任統治者の監査義務について。
第三十七条、監査官の宣誓義務について。
第三十八条、矛盾法令の削除と本教令の公示・保管について。
三人は替わるがわる小声で条文を音読していく。ソフィアは読みながら時折眉宇を歪め、言葉を詰まらせたが、司祭とウルシュラは無表情のまま最後まで淡々と読み進めた。条文の隅々に漲るのは、徹底的に苛烈に一切の慈悲や恩情を排して異端に対峙し、文字通り根絶やしにするという冷たい鉄の意思であった。
「さて」司祭は二人に目を向ける。「以上が勅書の全内容です。冒頭にある通り、これはヴェローナでの審問官殺害事件を受けて北イタリアに向けて発布されたものですが、時を待たずこれが全ての異端審問の基準となるであろうことは疑いの余地がありません」
ソフィアはゆっくりとかぶりを振り、両手で顔を覆う。
「酷い、こんなことって……」
その傍でウルシュラは勅書を手元に引き寄せ、今一度全文に目を走らせる。
「司祭様。この第二十六条、《治安判事または教区長は、捕らえた全ての異端者を、身体の一部を切断したり死の危険に晒したりすることなく、真の盗賊かつ魂の殺害者として──神の秘跡とキリスト教信仰を盗む者らを──その過ちを明言して告白させ、また彼らが知る他の異端者、その財産、信奉者、受け手、擁護者を告発させること。》とあります。これは、死なせたり、手や足を切り落としたりするのでなければ、それ以外の拷問は許される、ということでしょうか」
「ウルサ、どうして……そんなに平気でいられるの」
ソフィアは声を震わせてウルシュラを咎める。
「平気じゃない」ウルシュラは羊皮紙に目を落としたまま応える。「罪は痛いの。犯した罪も、誰かがこれから犯す罪も、みんな痛いの。……だから、やるの」
ソフィアははっとして手を離す。ウルシュラは胸に手を添え、眉を寄せて息を鎮めている。
「ウルシュラ、君の指摘した通りです。……ソフィア、続けられますか?」
二人のやりとりを見定め、司祭が慎重に口を開く。
ソフィアは今やきっぱりと頷き、続けてください、と応える。そしてウルシュラに囁く。
「ごめんね、ウルサ。私も頑張るね」
「無理は、しちゃだめ」ウルシュラはちらりと傍のソフィアに目を向ける。「痛いのは、我慢しちゃだめ」
「それはあなたもよ、ウルサ」ソフィアは眼差しに力を込め、机の下で親友の手を強く握る。
司祭は改めて二人を見据える。
「ウルシュラの指摘の通り、第二十六条はこの勅書の中でも突出して強い意志の込められた条文と言えます。疑わしき者は万難を排して白状させる、そのためには暴力も辞さない、と。……では二人に問います。主イエスは、真実を得るために暴力を用いることを教えられましたか?」
「いいえ」即座にソフィアが応える。「《剣をとる者はみな、剣で滅びる》、そう仰いました」
司祭は頷き、傍の聖書を手に取ると薄い羊皮紙の頁を素早くめくる。
「そうですね。ゲツセマネでイエスを捕らえようと手をかけた大祭司の僕に、シモン・ペテロが剣で応戦した際に主はそう言ってペテロを制しました。では、後の使徒たちはどうでしたか?」
「パウロは」ウルシュラが少し考えて答える。「コリントの信徒への手紙で《悪人を、あなた方の中から除いてしまいなさい》と書きました。……でもこれは、仲間内から追い出すということで、拷問じゃない」
「それに、同じコリント人への二度目の手紙で《多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである》と書いていますよね。つまり、排除は永遠ではない、と」
「その通り」司祭は感心したように二人を交互に見やりながら、「すなわち、第二十一条で異端の幇助者を、また第二十三条で異端の身代わりとなった者をそれぞれ《永久に追放》としている箇所についても、パウロの教えと矛盾することになります」
司祭が言い終えると、しばしの沈黙が流れる。
この小さな部屋で行われようとしていることの真意は、今や二人にもはっきりと諒解された。
教皇勅書の正統性が、硬い岩に鶴嘴を当てるごとく試されようとしている。
司祭は傍の本を手に取る。
「これは三世紀頃の神学者ラクタンティウスが書いた『神聖教理』、その第五巻です。紐解きましょう……第二十章。ウルシュラ、この行を音読してください」
ウルシュラは指し示された箇所を小声で読み上げる。
「《暴力では何もなし得ないのだから──神の宗教は抑圧されればされるほど拡大するのだから──むしろ理性と訓戒を用いて行動すべきです》」
「これは、キリスト教がまだローマ帝国の国教に定まる前、迫害を受けていた時代のキリスト教神学者による諭しです。ラクタンティウスは、ローマ帝国の審問官によるキリスト教徒への迫害をこのように非難しました。この教えを現在のオクシタニアに持ってくると、どうでしょうか」
司祭の問いに、ソフィアは恐る恐る反駁する。
「ご質問の意図は解ります、司祭様。でも、確か……その後のアウグスティヌスは力による強制を正当化したのではなかったでしょうか……ドナトゥス派に対して」
「よく勉強していますね。さすが、ベンヴェヌートが見込んだ生徒だ」
司祭は微笑んで頷きかける。そして別の本の山から一冊を抜き取り、頁を繰る。
「書簡集の、確か……そう、ドナトゥス派の司教、カルテナのウィンケンティウスに宛てた手紙ですね。《あなたは、誰も正義に従うよう強制されるべきではないと考えています。しかし、家の主人が僕たちに、「見つけたら、無理やり中に入れなさい」と言ったと書かれています(ルカによる福音書十四章二十三節)》」
「その主張は……何か、変」ウルシュラが口を挟む。「その引用は、主イエスがパリサイ派のかしらの家に食事に招かれた席でお話しになった譬え話ですよね。話の中の主人が《人々を無理やりにひっぱってきなさい》と言ったのは、わたしは、イエス様が、一人でも多くの人を救いたいという気持ちを、主人の言葉に乗せて語られたんだと思っていました。後の使徒が教えを強制する根拠にするような言葉では、ない気がする」
聞いていた司祭はついに笑いだす。ウルシュラはむっとして問い糺す。
「わたし、変なこと言いましたか?」
「いや、失礼しました。変ではありませんよ。むしろ君のような歳の子が、これほど深く素直に福音書を読み込んでいることに感動しました。ようやく友の気持ちが理解できたようです」
そして改めて真顔で説く。
「確かにこの、パリサイ派のかしらの家の場面は解釈が難しいところです。素直に読めば今のウルシュラの読みになるでしょう。貧しい人々や疎外された人々こそ招かれる、つまり救われるべきだと。アウグスティヌスがこれを〝教えの強制〟と読んだのは、憚らずに言うならば、曲解、と言えるかもしれません。彼ほどの偉大な教父をしても、時の圧力や偏見から自由ではあり得なかった、ということかもしれませんね」
「では、今の教皇様も……?」
そう問うソフィアを、司祭は柔和な眼差しで制する。
「結論を急いではいけませんよ、ソフィア」
そして、ちらりと窓の外に目を向け、最初の和やかな声音に戻って言う。
「おや、もう暮れ始めましたね……今日はこれくらいにしましょうか。晩課まで少しあります、ゆっくり頭を休めてください。明日も同じ時間に検討を進めましょう。最初にも言いましたが、くれぐれもこの部屋でのことは内密に」
窓の板戸を閉めながら、司祭はふと部屋を辞そうとするウルシュラを振り返る。
「ウルシュラ。君の聖書解釈はとても良かったですよ。ただ……それも同様にこの部屋だけのことにしておきましょう。教会は、信徒が自由に教義を解釈することをあまり好みませんからね」
ウルシュラは振り返り、じっと司祭を見つめた後で小さく頷いた。
「わかりました、司祭様」
それから数日に渡り、三人は毎日同じ午後の労働の時間に掛金の部屋にこもって教皇勅書《根絶のために》を検討し、およそ以下のような議論を密やかに交わした。
すなわち、以下のごとくである──。
第十五条の《押収した異端者の財産の三分の一》や《罰金の三分の一》を取締官の報酬とする定めは、歯止めの効かぬ貪欲の制度化であり、パウロがテモテへの第一の手紙で《金銭を愛することは、すべての悪の根である》と戒めた言葉を軽んじてはいまいか?
第二十七条《異端者が発見された家屋は、その家屋の所有者が彼らを密告する前提で留め置いた場合を除き、再建の望みなく完全に破壊されなければならない》、そして異端者当人のみならず、家屋の所有者や、異端者が発見された町や村までが罰金を課される定め、これは隣人への愛を説くイエスの教えを真っ向から否定し、《神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである》と説くヨハネの第一の手紙に照らすなら、神への愛すら不可能にしはしまいか?
第三十条で《異端者及びその隠蔽者・擁護者・支援者の子孫を厳格に調査し、今後いかなる公職や評議会にも決して登用しない》とする定めは、過去の全てから解放し新しい契約を結ぶ洗礼の秘蹟を無効にしはしまいか?
同様に第三十三条《異端を理由に科された全ての有罪判決または刑罰は(中略)いかなる時においても緩和されることは許されない。》とする定めは、七の七十倍までも赦しなさい、と諭したイエスの赦しを否定しており、悔い改めの可能性を閉ざすものではないか? ──。
しかし、やはりことごとに立ち返るのは、その条文を目にするだけで痛みを覚えずにはいられぬ条文、第二十六条であった。
「《真の盗賊かつ魂の殺害者として──神の秘跡とキリスト教信仰を盗む者らを──その過ちを明言して告白させ》……この《魂の殺害者》という喩えが、どうしても解らない……」
羊皮紙の上で頭を抱えるようにしてウルシュラが呟く。
「肉体を殺すのが殺人者なら、魂を過ちに導くのが魂の殺害者──そういうことかしら」
ソフィアが言うと、アンセルム司祭は厳しい表情で割って入る。
「いえ、ウルシュラの疑問は正鵠を射ています。実はこの第二十六条には、重大な論理的欠陥が潜んでいる。そもそも、魂の救済は誰の手に委ねられていますか?」
「神の手に……」ソフィアは応え、そしてはっとして続ける。「いえ……それ以前に、各人の自由意志による選択にある……とも言えますか?」
「よく思い至りましたね、ソフィア。そうです、アウグスティヌスの『自由意志論』によるなら、人は善悪を選択する能力としての自由意志を神から授かっているのです。いかなる信仰も、自由意志による自発的同意なくしては成立しません。つまり、異端者が他人の信仰を剥奪する──魂を殺すことは、論理的に不可能なはずです」
「確かに……サタンでさえ、ヨブの魂を奪うことはできませんでしたね」
ソフィアの気付きに司祭は深く頷き、ウルシュラに問う。
「ウルシュラ、この誤った喩えは何をもたらすでしょうか?」
ウルシュラは考えながら訥々と答える。
「……神様に委ねられた魂の領域と、王様や領主様が受け持つ世俗の領域が混同されています。魂を殺すという間違った罪に世俗の罰を与えることで、罪と罰の因果が混乱します。教会には、破門という罰がある。なのに剣や火を使うのは、神様に仕える教会がその仕事を放棄しているように感じます。たぶん……それがこの勅書全体を覆う、一番の矛盾……」
立ったまま机の端に両手をついていた司祭は、やがてその両手を机から離して広げてみせる。
議論の終結であった。
ゆっくりと部屋を満たし始める重い疲労感に抗うように、ソフィアが問う。
「それで……司祭様、この矛盾を知った私たちは、これからどうすれば……」
司祭は深く息をつき、机を離れて窓の下へと歩み寄る。しばらくそこから黄金色に染まり始めた空を見上げ、そして振り返って言った。
「どうもしません」
遠くでクマゲラが幹を叩く音が木立を縫って届く。
ソフィアは小さく口を開いたまま、二の句が継げず司祭を見つめる。ウルシュラも黙って司祭の次の言葉を待った。
司祭は窓の下に立ったまま二人に向き直り、穏やかに語る。
「私たちは今日、勅書に対し一つの結論を得ました。お二人の智力の賜物であり、貴重な成果です。……ですが、同時にこの部屋の中でだけの結論であり、外には持ち出せません」
「それじゃあ、何のためにこの検討を?」
知らず声を昂らせるソフィアを宥めるように、司祭は小さく頷いて続ける。
「私たちは、神の僕の頂点に立たれる方がお出しになった言葉を、神の御心に縋りながら検討しました。このことが既にして、ありうべからざる事態です。私たちは危険を承知の上で、細く険しい道をたどってきました。その間耳を傾け続けた神の声は、偽りでしたか? 神に縋る私たちは、誰かに強制されてそう振る舞っていただけだったのでしょうか」
司祭が何を言わんとしているのか捉えきれぬまま、ソフィアは強くかぶりを振る。
「いいえ、全て真実のものです。主のお導きも、それに従おうとする私自身も──少なくとも私はそう信じています。ウルサは?」
「わたしも、同じです」
ウルシュラは昂るソフィアに案じるような視線を送った後、司祭に向かって頷く。
司祭はようやく緊張を解いたように微笑みを浮かべる。
「それならば何も案ずる必要はありません。議論は終わりました。ここで交わした検討はいったん全て忘れてください。たとえ忘れても、この議論を通じて君たちの心の中に培われた神との強い絆が失われることはありません。明日からはまた普段通りの日々です」
「……何だか、司祭様にはぐらかされたような気がする」
部屋に戻る廊下を歩きながら、ソフィアが溜め息と共に呟く。
辞する前、司祭は半ば独り言のような調子で言い添えた。
──とは言え、修道院として今後の事態にどう備えるかはまた別の話です。その点は、この部屋での議論を踏まえて私の方で院長様とお話しします。お力を借りる時が来たらまたお二人に声をかけます。そのような日が来ないことを祈っていますけれどね。
「司祭様は、わたしたちを矢面には立たせまいとしてくれてるんだと思う」
「解っているわ、それくらい」ソフィアはそっけなく返し、はっとしてウルシュラを振り返る。「ごめんね、ウルサ。あなたに当たるつもりなんてないのに……少し、疲れたんだわ」
ウルシュラはソフィアの背にそっと手を添えてねぎらうように撫でる。ソフィアは正面を向いたままウルシュラの肩を抱き寄せると、その頬に自らの頬を寄せて囁いた。
「あなたが隣にいてくれて、本当によかった」
不意に、二人ともお勉強は終わったの、と廊下の向こうから声が飛ぶ。見ると数人の姉妹たちが廊下や壁を清掃していた。駆け寄る二人に年嵩の姉妹が強い調子で言う。
「仲睦まじいのも結構なことだけれど、シトーの家では慎みを保ちなさい。それに労働の時間はまだ終わってないのよ。姉妹ソフィア、あなたはここの掃除を手伝って。白いひよこさんは厨房よ。晚課の前はいつも大忙しなのだから」
慌てて駆け出すウルシュラの背中に、走ってはいけません、と声を投げ、姉妹はソフィアに雑巾を手渡すと声を顰めて言い募る。
「司祭様に目をかけられているか知らないけれど、あなたはまだ駆け出しで修練期間も短かったのだから、まず聖務日課をきちんと覚えて実践する時期なの。シトーの生活の基礎をおろそかにしてはいけません。姉妹オノリーヌも、なぜだかあなたたちには目溢ししてるようだから、代わりに私が言わなきゃいけないのよ」
「すみませんでした」ソフィアは他の姉妹たちに倣って床に跪き、雑巾をかけながら謝る。「この時間の学習は今日で終わりと司祭様に伺いました。明日から日課に戻ります」
「そうしてちょうだい」姉妹は箒を片手に掃除の成果を確かめながら淡々と言う。「若い手はいくらあっても足りないのだから」
ソフィアは黙って雑巾をかける手に力を込めながら、姉妹の言葉を胸の内に反芻する。──司祭様に目をかけられている……? それは私じゃない、ウルサだ。ウルサの飛び抜けた優秀さをベンヴェヌート先生も愛し、アンセルム司祭様も一目置いている。私はむしろウルサの……
引き立て役。その言葉を知らず導き出した己に、ソフィアは愕然とする。ウルサは私にとって無二の、心から愛する親友ではないか。それなのに──それとも──。
──偽りでしたか?
先刻の司祭の問いが蘇る。
──誰かに強制されてそう振る舞っていただけだったのでしょうか?
そんな訳ない、そんな訳……床に跪いたままソフィアは身震いする。監督の姉妹が苛立たしげに急かす。
「いつまで同じところを拭いているの。ほら、もう結構よ、さっさと片付けて。晩課の鐘が鳴ってしまうわ」
その夜、ウルシュラが眠りに落ちようとする刹那、隣で囁く声に引き戻された。
「ウルサ、まだ起きてる?」
「……起きてる」
ウルシュラは闇に目を向けて応え、ゆっくりとソフィアの方へ身を向ける。
そのまま長い静寂が流れ、もしかして寝言だったのかと瞼を閉じた矢先、再びソフィアの声が届く。
「ウルサ……覚えてる? ここの回廊の中庭で、星を見た夜のこと」
ウルシュラは仰向けになって闇に目を凝らす。やがて、眩い星空が滲み出すように蘇る。
「覚えてる。綺麗だったね」
「あの時、私に言ってくれたことも?」
「うん、覚えてる」
「言ってみて、もう一度」
ウルシュラは記憶を探り、あの夜胸を掻き乱した気持ちを手繰り寄せる。
「……『もっと知りたい。図書室の本を全部読んで、星のことも神様の心もみんな知りたい。そしたらいつか、わたしがソフィアの不自由をなくしてあげる』」
ソフィアが掛布の下で小さく笑うのが聞こえた。
「すごい……あなた、やっぱりすごいわ。私ね、あの日、あなたの言ってくれたことが嬉しくて嬉しくて、帰って書き留めたのよ。そして何度も読み返したの。だから、一字一句覚えてる」
そして、声は次第に崩れていく。
「嬉しくて、嬉しくて……ずるい。そんなことを言われて、あなたを愛さないでいられるはずがない。それなのに、私……」
ウルシュラは思わず身を起こして冷たい床に足をつける。
「来ないで」ソフィアが小さく叫ぶ。「お願い……今は、来ないで」
そして悄然と寝床に身を横たえるウルシュラに小さく謝る。
「ごめんなさい……喋っちゃいけないと言いながら、いつも私が喋りかけてしまうわね。もう寝ましょう」
二人は小さく、おやすみ、と交わし合う。
やがて聞こえてきた疲れた寝息に耳を傾けながら、ウルシュラは長い間闇に目を凝らした。
翌日、ソフィアは姉妹オノリーヌに、二人の部屋を返上して大部屋へ移ることを嘆願する。ウルシュラの修練期間の終了まで二人に部屋を与えることは、アンセルム司祭の発案にして院長ベアトリクスらの総意であったから、姉妹オノリーヌはその場での返答を控え、再び院長や司祭との相談の場を設けた。司祭は掛け金の部屋での議論が一つの成果を見たことに鑑みて承諾し、院長も司祭様さえ良ければと首肯した。姉妹オノリーヌは、内心の危惧がこれで一つ解消すると安堵しながらソフィアに承諾を伝えた。そして改めて翌朝、一時課の後の集会で全姉妹に報せた。ただし、ソフィアからの密かな希望を受けて、二人の大部屋への合流が早められたのは、あくまで院長と司祭の判断である旨が添えられたのであった。
姉妹オノリーヌからの通達をソフィアと並んで聞いたウルシュラは、そっと隣のソフィアの横顔を盗み見る。ヴェールに隠れて表情は窺えないが、ウルシュラを省みることなく、まっすぐに姉妹オノリーヌの方を向いている。しかし、やがて解散を申し渡されてもその場を動こうとしない。上の空であったことは明らかであった。
「ソフィア、戻ろう。部屋を片付けないと」
ウルシュラに袖を引かれ、ソフィアははっとして振り返る。
「そうね、ごめんなさい……突然だったから、ぼうっとしてしまったわ」
部屋で寝台の敷布を外しながら、ウルシュラは時折ソフィアを見やる。心ここに在らずといった様子でしばしば手が止まる親友に、かける言葉を探しあぐねる。
考えてみれば普段あまり自分から喋りかけていなかったかもしれない──ウルシュラは思う。物心がついた頃には沈黙を尊ぶ修道院が暮らしの場であったこともあるが、今では何不自由なく話すことのできるオック語もラテン語も、ウルシュラにとっては母語とは異なる言葉であり、いまだにその引け目が拭いきれず時折言葉に詰まることもあった。
「わたしの修練が終わるまで、って聞いていたから、びっくりした……大部屋に移ったら、もう今までみたいに、自由なお喋りができなくなるね」
押し出すようにそう言うと、ソフィアは手元に視線を落としたまま小さく微笑んだ。
「そうね……修練中にいた大部屋は、あんなに姉妹たちがいるのにとても静かだったわ」
「でも、畑のお仕事の時は、少しは話せるでしょ?」
「少しはね。でも、あまり喋っていると叱られるわ。……この間みたいに」
再び沈黙が二人の間に忍び入る。ウルシュラは意を決して口を開く。
「たとえ話ができなくても、わたしはいつもソフィアのことを思ってる」
ソフィアは顔を上げてウルシュラを見つめる。何かを言いたげに唇を震わせ、眉を寄せて無理に微笑み、そして一言、
「私もよ」
と絞り出すように言った。
大部屋は礼拝堂の南側に並行して建つ居住棟の二階にあり、東西に細長い広間の南北の壁に沿って寝台が二列に並べられていた。ソフィアとウルシュラはそれぞれ北と南の列に分かれ、年長の姉妹たちの寝台に挟まれる形で寝床が割り当てられた。目を見交わそうと思えばできぬことのない隔たりではあったが、二人は示し合わせるでもなくそれを避けた。何となしに姉妹たちが向ける、二人への曰くありげな眼差しを感じていたこともあったであろう。しかし今や二人は互いに何を問うべきかも、どう応えるべきかもわからないのであった。
起床後に礼拝堂の袖廊へと直接降りる階段で前後になった時、あるいは労働の時間に同じ班になった時、ソフィアがウルシュラにかける短い言葉は、他の姉妹に対するものと何ら変わりのないものになった。それが規則だから──自らにそう言い聞かせようとするたび、ウルシュラの胸には最後の夜にソフィアが見せた拒絶が蘇った。
来ないで。その短い叫びは、まるで怯えた子猫の爪のようにウルシュラの心を闇雲に掻きむしる。その痛みの向こうに、蹲って泣きじゃくる小さなソフィアが視える気がする。なのに、両の足は心の底に貼りついて動かない。
──不自由をなくしてあげる、と確かにわたしは言った。その気持ちは今も何一つ変わらない。でも今のわたしには、ソフィアに何をしてあげられるのか分からない。それでも、ソフィアはわたしを嫌いになったんじゃない。わたしもソフィアを嫌いになんてなるはずがない。それだけは、言葉を交わさなくても信じられる。否、信じなくてはいけない。
姉妹たちと礼拝堂で詩篇を詠じながら、作業室の麗らかな陽の注ぐ窓辺で針仕事をしながら、ウルシュラは一人考え続ける。
──でも……わたしを嫌いになったのでないなら、あの夜ソフィアはどうしてわたしを拒んだのだろう。あんなことになるまで、わたしは何に気づかずにいたのだろう。いつからソフィアは苦しんでいたのだろう。思えば、あの掛け金の部屋で司祭様と三人で議論を重ねていた時から、少しずつ心を乱し始めていたのかも知れない。そして最後の授業を終えた夕方、姉妹に命じられて二人別々の仕事をした後……あれはその夜だった。一人の時、姉妹に何か言われたのだろうか。二人の部屋が返上されたのはそのわずか二日後。それじゃあ、あれはソフィアが……?
「失礼……姉妹ウルシュラ、でいいのかしら」
向かいで針仕事に勤しんでいた姉妹が、長いまつ毛の奥からおっとりとした眼差しをウルシュラに向け、小声で話しかける。
「姉妹ソフィアが、ウルサ、って呼んでいるのを聞いたから」
「ウルシュラで、構いません」
ウルシュラが伏目がちに答えると、まつ毛の姉妹は頬を緩めて続ける。
「嬉しい。あなたとは一度お話ししてみたかったの。前から、一人だけ小さな子がいるな、って不思議に思っていたから」
「姉妹ソフィアと仲がいいんだってね」隣の痩せぎすで長身の姉妹が感情のこもらぬ声で言う。「みんな言ってる」
「ベンヴェヌート司祭様のもとで一緒に教わっていたのでしょう? 私も聞いたわ。でも、確かここは奉献児童を受け入れていなかったと思うけれど、どうしてあなたは入れてもらったの?」
ウルシュラは説明に窮して口籠る。痩せぎすの姉妹が間髪入れず代わりに答える。
「姉妹ベアトリクスに拾われたって聞いたわよ。狼に狙われていたところを間一髪で」
ええ、とまつ毛の姉妹が悲鳴のような息を漏らし、嘘でしょう?と身を乗り出す。
「ちょっとした騒ぎになってたの、あんた知らないの」
痩せぎすの姉妹が糸を扱きながら隣のまつ毛の姉妹を一瞥し、──ああ、あの時まだあんたはいなかったか、と独り言つ。
ウルシュラが居心地の悪さに身じろぎするのに気付いたのか、まつ毛の姉妹は声を潜め謝る。
「ごめんね、あれこれ訊いてしまって。気を悪くしないで、みんなあなたに興味があるのよ」
「神の家だって、女四人寄ればね」
痩せぎすの姉妹が薄い笑みを浮かべて相槌を打つ。
「あら、私を数に入れないでくださいな」
今まで黙っていた、二人より十ほど年上の姉妹が針を運ぶ手を止めずぶっきらぼうに言う。
「白いひよこさんを寄ってたかって啄むような趣味はありませんよ」
年嵩の姉妹の当て擦りにまつ毛の姉妹は居住まいを正し、痩せぎすの姉妹は視線を逸らして黙り込む。
束の間、あるべき沈黙が戻りウルシュラは安堵する。しかしすぐに、年嵩の姉妹が手を動かしながら続けるのだ。
「ただね、姉妹ウルシュラ。私からも一つだけ訊いても良いかしら」
ウルシュラが顔を上げると、年嵩の姉妹は曰く言い難いがたい感情を込めた眼差しで射るように見つめてくる。
「ベンヴェヌート司祭様がお辞めになった理由……あなたが厨房で起こした騒動のすぐ後だったでしょう。院長様はあなたとは無関係だと仰っていたけれど、本当に関係なかったと信じて良いのかしら。……いいえ、もう三年も前のことをとやかく蒸し返すつもりはありませんよ。ただ、とても良い司祭様だったから、当時は皆、気持ちの整理に苦労したんです。いい機会だから、確かめておきたくて」
そう言ってじっとウルシュラを見つめる姉妹の傍で、まつ毛の姉妹と痩せぎすの姉妹はひっそりと視線を交わす。
ウルシュラはいつの間にか止まっている己の手をじっと見つめる。胸の内に言葉の断片が舞い散り、返答が形にならない。
「……わかりません」目を伏せたまま、ウルシュラはようやく返す。「先生から謹慎を言いつかって、部屋で過ごしている間にお辞めになってしまったので……」
「そう」年嵩の姉妹はさしてこだわる様子もなく、すげなく返して作業に戻る。
「でも」ウルシュラは意を決して顔を上げると、まっすぐ姉妹を見つめる。「ごめんなさい。もしかしたら、私のせいかもしれません」
「どちらでもいいのですよ、今となっては。三年も前のことですものね」姉妹はもはや顔を上げることもなく返す。「もしあなたのせいだったのなら、あなたはそのことでもう十分悔やんだでしょう。主がご承知であればそれで充分です、私たちがとやかく言うことはありません」
作業室はそれきり沈黙に返り、姉妹たちは時間まで黙々と作業を続けた。ウルシュラは取り残されたような思いで捗らぬ針を無心に運んだ。作業を終えて部屋を辞するときも、年嵩の姉妹は言うに及ばず、まつ毛の姉妹や痩せぎすの姉妹すらもはやウルシュラを顧みることはなかった。
修道院内で孤立を深める親友を、ソフィアは距離を置きながらも心を痛めて見守った。出自を顧みれば自分が孤立するのはまだ解るし、耐えられもする。しかし、一人純白の修練服をまとった年下の親友が、まさに色で峻別されるごとく、黒いスカプラリオの群れの中で身の置き所を見出せずにいる様は痛々しく耐え難かった。
私が部屋の返上を早まらなければ──幾度も後悔の夜を過ごした後、ソフィアは意を決して院長と姉妹オノリーヌにウルシュラの現状を相談した。
黙ってソフィアの訴えに耳を傾けた姉妹オノリーヌは、聞き終えるとおもむろに口を開いた。
「姉妹ソフィア。解っていると思いますが、修道院は、私たち一人ひとりが神の御心と静かに対話する場所です。そこに孤立ということはありません。……もしあなたの言う孤立が、他の姉妹たちとの関係での話だというのでしたら、まずはその思い違いを正さねばなりません」
修練長の正論に、ソフィアは返す言葉もなくそっと唇を噛んだ。
「少し……良いですか、姉妹オノリーヌ」
自席で二人のやりとりを黙って見守っていた院長ベアトリクスは、修練長を制して穏やかにソフィアに向き直る。
「姉妹ソフィア。あなたの仰ること、実は、わたくしも少し前から気になっていました。確かに姉妹オノリーヌの仰る通り、この神の家ではわたくしたち一人ひとりが、神のおそばで心安んずることができます。でもそれは、まだ修練中のあの娘には感じにくいことかも知れませんね」
姉妹オノリーヌは渋々、確かに、と頷く。院長は顔を曇らせて続ける。
「あなたとウルシュラには、確かにわたくしも少し強く……特別な期待をかけてしまっていました。それがあなた方に重圧をかけてはいまいか、他の姉妹たちから特別扱いと見られはしまいか……院長として、そうした配慮に欠けるところがあったのではと、反省しています」
率直な謝罪にソフィアは狼狽える。わたくしをそばで助けて欲しい──確かに、その一言から始まった院長の期待は、司祭の危うい授業という形をとって二人を翻弄した。しかしそれはソフィアとて承知の上で応えていることである。今になって謝って欲しいわけではない。
胸のわだかまりにソフィアが黙っていると、院長は躊躇いつつ引き出しから一通の封書を取り出し、傍の姉妹オノリーヌを見やる。
「姉妹オノリーヌ……このこと、お話しすべきかしらね」
問われた姉妹は封書を見て目を見開いたが、すぐに常の渋面を装って、ご随意に、と返す。
修練長の言質を取ってもなお、話を切り出すべきかどうか逡巡する院長を見て、ソフィアは息を詰め、その手の封書を凝視する。
院長は、まるで重い荷でもあるかのように封書を机の上に置くと、吐息をついて口を開く。
「ウルシュラの、お母様からのお手紙です」
それはウルシュラの母マリアから院長ベアトリクスに宛てた、長い相談の手紙であった。
実のところ、マリアはモンス・ラヌンクリに戻って以降、かつて祖国を発つ前に執事フベルトがユゼフに語った諫言を幾度となく反芻しては、一つの思いを巡らせていたのである。
──たとえいっときこの地が踏み荒らされることがあろうとも、旦那様が生き延び、ご家族と共に再び立ち戻ることが、お家の復興に繋がるのではありますまいか。
ユゼフはもういない。それでも、今はジョゼップがいる。
マリアは意を決すると、祖国ポロニアの屋敷への連絡を試みた。二、三ヶ月おきに送り出した文にはしかし、半年経っても返事がなかった。マリアは諦めず、文を書き続けた。
翌年の初夏の頃、ついに屋敷からの返信がクリュニー修道院のマリアの元に届く。
文は執事フベルトの手になり、タルタリの脅威は今や完全に去ったとみなされていること、屋敷は無事であること、門番のイェジィが病を得て伏せっており、自分も足腰が弱ってきてはいるが、他は皆息災であることが報された。そして使用人一同、当主の死を嘆き悼みながら、是が非にも奥方様とお嬢様、そして若きヴィエルグス家の次期当主の帰還を心から待ち侘びている、と綴られていた。
マリアは、これまで娘を預かり育ててもらったことに深い感謝を示し、娘から友人と共にシトー修道院で修道女になる決意を打ち明けられたことを添えた上で、その決意に今も変わりがないかを問い確かめてもらえまいか──そう綴っていたのであった。
院長ベアトリクスが静かに語り終えると、ソフィアはゆらりと揺れ、その場に頽れた。姉妹オノリーヌは駆け寄ってその細い体を抱き留め、咎めるような眼差しを院長に向ける。院長は目の前の反応を全て受け止める面持ちで誰にともなく問うのだ。
「これは、一人の娘に帰る家を問うているのでしょうか。それとも……お母上の筆を借りて、わたくしたち皆の選択を問うておられるのでしょうか……主よ」
一二五二年十月二十一日、ウルシュラは十五の歳を迎える。その門口で険しい岐路が待ち構えていることを、私たちの若き姉妹は未だ知らない。




