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九  ギヨームとギユメット

 この冬は穏やかに過ごせそうだ──行き合う村人がそう交わし合ったのも束の間、年明けから一転降り続いた大雪で山は腰まで埋まらんばかりに厚く覆われた。それでも三月も半ばを過ぎる頃には徐々にぬかるんだ草地が顔を出し、桜草やクロッカスが雪の合間で陽に輝きだす。雪解け水を集めたエルス川は獰猛な瀬音を蹴立てて流れ下り、やがてはアリギア川に注ぎ込むであろう。露を湛えたオークの枝先で忙しなく囀るのはマキバタヒバリであろうか。鳥も人も等しく寿ぐ春が、私たちのモンス・ラヌンクリにも再び訪れる。

 その集落の中心から外れて街道を少し下ったところに、旅籠屋「小さな待雪草」がある。集落の入り口に構える「金鳳花亭」ほど賑わうこともなく、街道に近いとは言え、冬の間は旅人の足もほぼ絶える。それでも、雪に閉ざされた憂さを晴らそうと集う近隣の顔馴染みのために休みなく営まれていた。何よりこの宿は、自前の豚で作る塩漬け肉と修道院から届く香草を用いた料理が絶品であると評判であった。実を言えば、「小さな待雪草」はシトー会女子修道院の修道女、姉妹オルガの実家である。

 今、この旅籠屋へと雪の除けられた一本道を、水瓶を頭に乗せた小柄な娘が降っていく。道端に放されて鼻先で雪を掘っては草の芽を探していた子豚たちがその後をまろび追う。

 娘はすでに何往復かを済ませ、最後の水瓶を置く頃には額に玉の汗も浮かぶであろう。それでも後から厨房に現れて竈に火を起こす主人に挨拶すると、その妻と共に朝食の準備にかかるのである。

 娘は、私たちの若き姉妹ウルシュラである。


 昨年秋、姉妹は一つの選択を促された。

 端緒は、久しぶりにシトー修道院を訪れた母マリアが客間で切り出した一言であった。

「ウルシュラ。母様とジョゼップと三人で、ポロニアに帰りませんか」

 突然の提案に、ウルシュラは呆気に取られて母を見つめた。

 祖国に帰る──。ウルシュラ自身、これまでに何度か想像してみたことはあった。しかしもはや屋敷での暮らしは懐かしくも遠く朧ろな記憶となり、焦がれるほどに帰りたいという思いが芽生えることはなかった。

 しかし、母は違った。

「──いいえそうじゃない。ウルシュラ、帰りましょう。三人でポロニアへ。覚えているでしょう、屋敷の皆も待っているのよ。父様がいらしたらきっと同じことを仰るはず。ここの方々は皆親切だけれど、ここはやはり私たちの国ではないわ。……それに」

 母はいくぶん声を落として身を乗り出し、娘の目をまっすぐ見つめて続けた。

「あなたも聞いているんじゃないかしら、異端の人たちに対する風当たりが厳しくなってきていること。ここに居続けたら、たとえ修道女になっていたとしても、どんなあらぬ疑いをかけられないとも限らないわ。ポロニアはローマから遠いだけまだ安心できる。今ならまだ……」

「母様」ウルシュラは険しい眼差しで母を遮る。「お屋敷に帰ること、私も考えたことはあります。フベルトやタマラや、みんなのこともまだ覚えてる。帰りたいかどうかを訊かれたら……正直、わからない。けれど確かに、帰るべきかもしれない、そう思ったこともあります」

 母は安堵したように笑みを浮かべる。しかしウルシュラは固い表情を崩さず続けた。

「でも、母様。わたしは、今ここを逃げ出すように去ったとしても、決してその後安んじて暮らすことなんてできません。言ったでしょ、ここには大切な友達がいるって。その子たちのその後を考えないで、何事もなかったように神様に向き合うなんて、わたし、できない」

「ウルシュラ」母は努めて冷静を装うと説得を試みる。「逃げ出すのではないの、ただ帰るのよ。確かに、このオクシタニアにはここに生きる子たちの向き合う問題というものがあるわ。でもそれは、あなたが向き合う問題とは違う。私たちには本来別の暮らしがあって、別に向き合う問題がある。本来の場所に帰るべきなのよ」

「わたしだってもうオクシタニアの娘よ」

 場所を憚って声を抑えながらも、ウルシュラは吐き出すように言う。

「ここに連れてこられた時、わたしいくつだった? 三歳よ。ここに暮らして、もう、十五なのよ? どうしてそれで、よその人間だなんて言えるの。どうしてそんなことが言えるの」

「ウルシュラ、お願い。聞いてちょうだい」母はもはや懇願を隠そうとしない。「私たちがポロニアを後にしたのは……お屋敷の皆が私たちを送り出してくれたのは、私たちが無事に命を繋いで家を絶やさなようにするためなのよ。だからいずれは帰る。お屋敷を出る前から、それは決まっていたことなの。父様が、お決めになったことなのよ」

「でももう、父様はいない……」

「やめて、ウルシュラ!」

娘の呟きに母は目を怒らせ叫ぶ。そして我に返り、努めて心を鎮めると言葉を継ぐ。

「ウルシュラ、父様はきっと同じことを仰るわ。ヴィエルグス家の再興のために、皆で帰ろうって。また皆で一緒にポロニアで暮らそうって。父様の思いを無下にしないで」

「ヴィエルグス家の再興」ウルシュラはそう繰り返して、まっすぐ母を見る。「それはわたしではなく、ジョゼップに期待されていることなのでしょ? ジョゼップに家を継がせるために帰るのでしょ? そうなんでしょ、母様」

 母は言葉に詰まって口籠る。ウルシュラはわずかに微笑んで言う。

「それなら母様、どうぞ、ジョゼップと二人で帰って。わたしは神様が、もうお前はここに必要ないと仰るまで、そのお声を聞き届けるまで、ここに残ります」

母は悲しげにウルシュラを見つめ、やがてゆっくりと立ち上がると言った。

「また来るわ。それまでにゆっくり考えておいて」

そして、修道院の戸口まで見送りに付き従う娘を振り返ると、押し殺した声で告げるのである。

「みくびらないでね。母様は、あなたを置いてジョゼップと二人で帰るだなんて選択は、絶対にしないわ」


 宣言通り、その後もマリアは繁くシトー修道院の娘を訪っては説得を試みた。しかし娘を翻意させるには至らず、話は平行線をたどるばかりであった。

 母には頑なな意志を見せ続けるウルシュラであったが、その実、心は千々に揺さぶられていた。この地に留まる一番の理由であったソフィアとは、大部屋に移って以降ろくに言葉を交わせない日が続いていた。他の姉妹たちとは相変わらず打ち解けられぬままである。

 一体、わたしがこの修道院に居続ける理由は何だろうか。そもそもわたしは本当に修道女になりたかったのだろうか──。親友の後に続くと固めたはずの決意の親石が思いがけずぐらついていた矢先の、母の提案であったのだ。

 ある日の午睡の刻、思いがけない訪問者があった。いつものように堂々巡りに悩まされながらまんじりともできず寝返りを打っていたウルシュラを、門番の老姉妹がそっと揺する。導かれるまま眠る姉妹たちの間をそっと抜け出して門に向かうと、一人の少年が待っていた。

「ジョゼップ!」思わず駆け寄る。「一人でこんなところに何しに来たの」

「いきなり何しに来たはごあいさつだよ、姉様。ひさしぶりに会いに来たのに」

 しばらく会わないうちにすっかり一人前の口を聞くようになっている弟は、それでも八つである。頬を膨らませて眉を寄せる弟を、ウルシュラは素早く辺りを伺い木陰に引き込むと抱きしめて頬に接吻する。昔もこんなふうに、クリュニー修道院の友人たちから突然の訪問を受けたことを思い出す。

「母様、時々来てるよね」丸い目で姉を見上げながら弟が訊ねる。「帰る話をしてるでしょ。母様、姉様をたずねた日は決まって大きなため息をついたり、ないたりしてるんだよ」

そして、姉が抗弁しようと口を開きかけるのを制して続ける。

「でもかんちがいしないで、姉様をせっとくしに来たわけじゃないから。ぼくだって正直、ポロニアなんて知らないんだもの。ぼくが生まれたのはアウトリウァで、このオクシタニアがぼくのふるさとだと思ってる。しゅう道院に友だちだっているしね。だから姉様も、姉様がしたいようにすればいいって、そう言いに来たんだ」

 弟はそこまで言うと、遠慮がちな上目遣いで続ける。

「でもね、これだけはお願い。母様とけんかはしないで。母様はいつもぼくたちのためにがんばりすぎるんだよ。ラザレットではいつもそうだった。ぼくのむねのあざには何を食べればきくとか、何をぬればいいとか、いつもそればっかり。手紙で姉様がさびしそうだったら何て書けばいいか、何をいっしょに送ろうか、とかね。母様はいつもそうなんだ。だからさ」

 何てこましゃくれた子だろう……と呆れながら、ウルシュラは弟が捲し立てる言葉に素直に耳を傾けている自分に気づいて可笑しくなる。そうか、この子は私の知らない母様を間近で見て来たのだ。紛れもなく、この子はわたしの弟なのだ、と妙に得心する。

「わかった、ジョゼップ。よくわかったわ、来てくれてありがとう」

 両の手を取って素直に礼を返すと、弟は満足げに微笑む。

「言いたいことはそれだけ。じゃあぼく、帰るね」

そして数歩駆け出したあと不意に振り向き、

「ぼくがここに来たこと、母様にはないしょだよ」

と言い添えて全速力で駆けていく。

 姿が見えなくなるまで見送り、振り返ると修道院の戸口にソフィアが立っていた。ウルシュラが驚いて歩み寄ると、ソフィアは微かに笑みを浮かべて言う。

「今の、弟さん? 可愛らしい子。ウルサに似て、とても賢そう」

そして、あなたが出ていくのに気づいて私も抜け出してしまった、と打ち明ける。

 ウルシュラは黙ってソフィアを見つめる。話したいこと、話さなければならないことが山ほどあったはずなのに、一つとして言葉にならない。

 不意にソフィアはウルシュラの手首を取って戸口の陰に引き込み、そのまま抱擁する。

「帰るのね、ウルサ」抱きすくめたウルシュラの耳元でソフィアが囁く。「弟さんと、お母様と、もといた国に帰るのね」

 驚いて返事ができずにいると、ソフィアは一層腕に力を込めて続ける。

「ごめんなさい、話の流れで院長様から聞いてしまったの。あなたのお母様が院長様に宛てて書かれたお手紙のこと。あなたがポロニアという国の貴族のお姫様だってことも、あなたたち家族を待っている人たちがいることも──」

 刹那、ウルシュラの胸の中に立ち込めていた霧が音を立てて退くように晴れ渡る。親友の腕の中から強く身を剥がすと、その目を見上げて決然と囁いた。

「わたしは帰らない。わたしはお姫様なんかじゃない。たとえ相手が母様でも、言いなりにはならない。自分の居場所は自分で決める。ソフィアの不自由をなくしてあげる、そう言ってわたしはまだ何もしていない。たとえあなたが忘れても、わたしは忘れない」

 ソフィアはかぶりを振って両手でウルシュラの頬を包むと、言い聞かせるように説く。

「忘れるわけがないでしょう。でも、そんな昔の言葉にいつまでも縛られないで。あなたはあなたたちを待つ人のところに帰るべきよ」

 ああそうか、母様の言ったあの言葉は、こういう時に使うのか──ウルシュラは勝ち気な笑みを浮かべるとソフィアを見据えて言い放つ。

「みくびらないで、ソフィア。あなたがお医者様の娘であるように、わたしも騎士の娘なのよ」


 次に母が訪ねてきた時、ウルシュラははっきりとモンス・ラヌンクリに残る意思を伝えた。母は長い間黙って娘の顔を見つめて小さく息を吐き、わかりました、と短く頷いた。予想していた結末だったのであろう、柔和な面差しで娘を眺め、やがて言った。

「あなたの思うままに羽ばたいてご覧なさい、〝小鳥さん〟」

 そうよ、あなたを〝小鳥さん〟と、どこへでも羽ばたいていける小鳥と呼び習わしたのは、母の私なのだから──。マリアもまたそう深く得心したのであろう。

 親友に啖呵を切り母の肯諾をもぎ取ったとはいえ、修道院内での身の処し方については依然、迷いに囚われたままであった。ウルシュラは時禱の祈りに飽き足らず、姉妹たちが午睡に微睡み人気の絶えた礼拝堂で一人祈った。

「主の御声は、まだ聞こえませんか」

 祭壇の前に跪いて祈る最中、不意に背後から声がかかる。振り向くと、院長ベアトリクスが立っていた。

 院長は静かに歩み寄り、跪いたままのウルシュラの傍らに立つと、祭壇の磔刑像を見上げて十字を切る。

「あなたが来て、もう七年にもなるなんて。本当に早いこと」

正面を向いたまま感慨深げに述懐する。

「この七年、いろんなことがあったわね。みな、あなたに結びつくことばかり。退屈する暇もありませんでしたよ。わたくしは若い頃に神の家に入りましたから経験がありませんが、子を持つ、ということはこのようなものかと、毎日楽しい思いをさせてもらいました」

 まるで花向けのような言葉にウルシュラは身を固くし、おずおずと訊ねる。

「それは……もうここへは置いていただけないということでしょうか」

「なぜ?」院長は笑みを浮かべてウルシュラを見やる。「わたくしも、それにアンセルム司祭様も、あなたには是非いてほしいと思っています。……ですが、それを決めるのはわたくしたちではありません。主が、そしてあなた自身がお決めになること。あなたはどうしたいのですか? 本当にここで修道女になるのが、あなた自身の望みなの?」

「わたしは」ウルシュラは俯きながら、消え入りそうな声で打ち明ける。「わたしには、したいこと、やるべきだと思うことがあります。でも、わたしに期待してくれる人に応えることも、同じくらいやるべきことで……それで……わたし、わからなくなって」

 宥めるように柔らかな声音で院長が諭す。

「あなたが思う希望も、義務も、あなたの中に吹く風のようなものかしら。あなたを強く導いてくれもするけれど……でも、風は喧嘩をさせたら嵐になるわ。だから、どこに向かうのか、冷静に風向きを読まなくてはいけない。希望と義務、二つの風を混同しては駄目よ」

院長はそう言ってウルシュラの傍に膝をつくと、その肩を抱いて祭壇の磔刑像に向かせる。

「主の御声は、あなたの胸の内から聞こえるはずよ。耳を澄ませて、ウルシュラ」

 ……私たちの若き姉妹は真実、この時何を希求していたのであろうか。恐らくそれは、修道院での孤立から逃げ出すことではなかったであろう。それでも、このまま規定の修練を歩んで修道女となることでは得られぬ何かが、姉妹の真の望みを叶える手立てとして必要であったのだ。

 姉妹はそれを、外に吹く風に求めた。


 秋も深まる日の労働の時間、ウルシュラたちは姉妹オルガの指示のもと、夏に収穫して納屋に所狭しと吊るしていた香草を指定された分だけ木箱に納める。そして、皆で修道院の門口で待つ牛車へと担いで行った。

 運び終えて姉妹たちに続き棟に引き返そうとしていたウルシュラの耳にふと、背後で言い争うような声が届く。振り返れば、姉妹オルガが荷を受け取りに来た年配の殿方と額を突き合わせるようにして小声で話し込んでいるのであった。

 牛車を送り出して戻ってきた姉妹オルガは、気遣わしげに待っていたウルシュラに気づいてきまりの悪い表情を浮かべる。「あれ、父なのよ」

 並んで歩きながら姉妹オルガが語るところによれば、姉妹の父は母と二人、モンス・ラヌンクリの外れで旅籠屋「小さな待雪草」を営んでいるのであった。その母が足を痛めて、当面歩くことすらままならないという。手伝いに来てくれる人がいないか村の伝を当たっているが、なかなか当てが見つからない。

「私に、帰ってこられないかって。父は修道院を、奉公先か何かだと勘違いしているのよ」

溜息混じりに姉妹が小声でこぼす。

 その声に紛れてウルシュラは再び〝あの声〟を聞く。


 ──汝、小さき者よ、風に随いて往け──


 姉妹オルガは振り返り、石のように一点を見つめて佇立するウルシュラに怪訝な顔を向ける。

 ウルシュラは我に返ると、駆け寄って訊ねる。

「……お母様の代わりになれる人を、探しているんですね」

「そうなんだけど、難しいと思う」姉妹はゆっくりとかぶりを振って言う。「父が……少し気難しい人なの。客には愛想がいいのだけれど。村の人たちはみんなそれを知ってるから」

 刹那、自分でも思いがけない言葉がウルシュラの口をついて出る。

「わたしが行っては駄目ですか」

 姉妹オルガは笑っていなす。

「あなたは修練を始めたばかりじゃないの。外のことなんか気にしないで、今自分のすべきことに専念なさい」

でもありがとう、と添えて仕事に戻ろうとする姉妹オルガを追い、ウルシュラは言葉を継ぐ。

「ずっと、考えていたんです。わたしの修練は、わたしのすべきことは、まず外を見ることなんじゃないかって。外の人たちを知ることなんじゃないかって。祈りながら主の御声を待っていたんです。今、姉妹オルガがお話してくれたこと、これはきっと私に示されたお導きです」

「何を言って……」姉妹はそう言いかけ、改めて長い間ウルシュラを見つめた後、訊ねる。「本気で言ってるの、ウルシュラ」

 ウルシュラはその目をまっすぐに見つめ返し、頷く。

「本気です」


 ウルシュラの意思は姉妹オルガから院長ベアトリクスに伝えられ、アンセルム司祭や修練長オノリーヌも知るところとなる。いったん始めた修練を中断して世俗に戻る例もないではなかったが、それは詰まるところ、清貧と観想の生活に耐えかねた末の挫折を意味した。ウルシュラのようにそれを修練の一環とみなす例は、余人の思い及ばぬものであった。

「父が言うには、カスラリ先生は母がこのまま歩けなくなるわけではないと仰ってくれているそうです。ウルシュラに手伝ってもらうのはほんの数ヶ月、長くて半年くらいかと……。私が不用意な話をしてしまったせいです、どうか、彼女の意を汲んであげていただけないでしょうか」

 姉妹オルガが恐縮しながら事情を説明するも、姉妹オノリーヌはこれに反駁する。

「外に出るのが修練だなんて、そんな理屈があるものですか。修道院はそんなに都合よく出たり入ったりできる場所ではありません。出るのなら、これきりの覚悟が必要ですよ」

「あの子もよくよく悩んだのでしょう」修練長の剣幕を院長ベアトリクスが柔らかくいなす。「ずっと一人で主の御声に耳を傾けていたことを、わたくしも存じております。その結論を主の御心であると認めるにやぶさかではありません」

 姉妹オノリーヌはまなじりを吊り上げる。

「得手勝手な解釈や運営が総会から何と言われるのか、院長様もよくご存じじゃありませんか」

「私からも少しよろしいですか」

 黙って聞いていたアンセルム司祭が割って入る。

「考えてみたのですが、これはむしろ、私たちの試みにとって好機と言えるかもしれません」

 司祭は思案顔で言う。ウルシュラという〝砦の一角〟が修道院という閉じられた家を出て世俗に身を置く、とりわけ旅籠屋という、広域を行き交う不特定多数の人々が集う場所に身を置くということは、世俗に見張り櫓を置くようなものかもしれない、と。

「ウルシュラは目と耳が大変優れた子です。加えて、見聞きしたことを咀嚼する力もある。はばかりながらこの一帯は以前から異端が紛れて暮らし、司教区もその把握に頭を悩ませています。この状況に彼女が果たせる役割は、小さくないのではないか、と」

 司祭の一計に、院長は顔を曇らせて言う。

「もとはと言えば、わたくしが司祭様に漏らした心配から始まったことですから、こんなことを言うのはそれこそ身勝手なことですが……一人で外に出すあの子に危ない橋を渡らせるのは、さすがに気がとがめます……」

 司祭は深く頷いて取りなす。

「恐らく旅籠屋は今後も修道院を出入りすることになりましょう。その役目を彼女が担うなら、例えばその際、折々の見聞を文にして渡してもらうだけでも良い。それなら、修道院の監督下で己の召命を模索する修練だという筋道も立ちましょう。いずれにせよ、今ウルシュラを修道院から切り離してしまうのは早計です」

 一二五二年の暮れ、およそこのような検討を経て私たちの若き姉妹はシトー会女子修道院の門を出る。表向きは院長の決定のもと修道院と懇意の旅籠屋の窮状に比較的融通のきく修練女を一時的に奉仕に差し向けるという体で、改まって周知されることもなくひっそりとその日が来た。

 旅籠屋「小さな待雪草」の主人、ギヨーム・ロカドルは、姉妹たちに付き添われて修道院から出てきたまだ若く小柄な娘を疑わしげな目つきで待った。そして娘の手荷物をぞんざいに引き取ると、荷車に積んだ荷の隙間に押し込む。

 見送りに付き添った姉妹オルガは、ウルシュラの頬に接吻すると済まなさそうに言う。

「これから寒くなるって時に、大変なことをお願いしてしまって本当にごめんなさい」

「いいえ」ウルシュラは微笑んでかぶりを振る。「わたしこそ、院長様たちに無理なお願いの口を聞いてくださって、ありがとうございました」

 そして、傍で眉を震わせ押し黙ったままのソフィアに向き直る。

「ソフィア、手紙を書くね」

 ソフィアは黙ってウルシュラの手を取り何度か頷くと、そのまま強く抱きしめる。ウルシュラはその温もりの中で、自らに言い聞かせるように一言一句を噛み締め伝える。

「たくさん見て、たくさん聞いて、わたしに何ができるのか、考えてくる」


 旅籠屋で働く。その全てが、ポロニア貴族の娘として生まれたウルシュラにとって初めてのことである。夜明けに起きて集落の泉まで水を汲みに行き、豚の世話をして小屋を掃き清め、食事の準備に後片付け、食堂や客室の掃除……と仕事は尽きぬほどあった。

 幸い、朝早い起床や厨房での仕事は修道院の生活に親しんだ身には苦にならなかった。豚の世話も慣れれば愉快で愛おしい。来たばかりの数日はウルシュラの拙い仕事を怒鳴りつけていた主人のギヨームも、ほどなく鼻を鳴らしこそすれ、娘の覚えの早さを黙って認めるようになった。

 年末も押し迫った聖嬰児殉教祭の朝、主人は村の目抜通りから届く子どもたちの歓声に耳を傾けながら、靄にかすむ山並みを睨んで独り言つ。

「どか雪が来るぞ。準備せにゃあいかん」

 そしてウルシュラに、一頭の豚を他から隔離して餌は与えぬように、と指示を出す。示されたのは、彼女が密かに気にかけていた、とりわけまるまると太った愛嬌のある豚であった。

 翌朝、普段から客としても繁く顔を見せていた馴染みの男たちが旅籠屋に集った。

 主人が、くだんの豚の首に縄をつけて空き地に設えた大きな作業台の前に引き立ててくる。豚はすでに己の命運を悟っているのであろう、悲痛な鳴き声を上げて抗う。それを男たちが四方から取り押さえて台の上に乗せる。

「ウルシュラ、ぼさっと突っ立ってないで、桶を持ってこっちへ来い」

 胸を裂かれるような声と台の上で激しくもがく音に立ちすくんでいたウルシュラは、弾かれたように小屋から桶を取ってくると主人の傍に立つ。

「いいか、首に刃を入れたら血を受け止めるんだ。こぼすんじゃないぞ」

主人は大声でそう告げると、男たちと目を見交わし、豚の首に大きなナイフを突き立てる。

 刹那、豚は四肢を突っ張って耳を聾するような悲鳴を放ち、ウルシュラは恐怖に桶を取り落としそうになる。

「目を逸らすな。お前もいただく命だ、さあ血を受けろ」

 ウルシュラは命じられるまま、無我夢中で迸る血液を桶で受け取る。豚の悲鳴はやがて水音に濁り始め、桶は震える腕に耐え難いほど重みを増す。湯気を上げる血液の温もりが桶越しにウルシュラの掌を温める。

 全てが終わった時、ウルシュラは桶を地面に置くとそのまま崩れるように膝をついた。涙と返り血で汚れた顔で呆然と宙を仰ぎ、肩で息をする。

「顔を洗ってこい」主人はなみなみと血液の溜まった桶を木匙でかき回しながらぶっきらぼうにねぎらう。「初めてにしちゃあよく頑張ったな。オルガも最初は卒倒したもんだ」

 小屋の脇の水瓶で顔を洗う間に、男たちは豚を納屋の鉤に吊るして手際よく解体していく。しばらく息を整えて戻る頃には、それは昨日まで面倒を見ていた愛らしい家畜ではなく、冬を越すための大事な食料になりつつあるのであった。ウルシュラは、男たちが声を掛け合って臓腑を選り分け腸を洗うのを、竈の湯を運びながら恐る恐る覗き込む。

「あんた、どっかで見覚えがあるな」

 湯を受け取った男がウルシュラを一瞥して言う。

「もしかして、うちのアデルと一緒に堅信礼を受けなかったか。もう三年くらい前だが」

 男はクリュニー修道院で一緒だったアデルの父親であった。羊飼いをしているという父は、ピレネーを越えてカタロニアまで移牧していたものの、雪を見越して帰って来たところであった。

「そうか、修道院から出張って来てるって聞いたが、あん時の娘っ子か」

 しばし手を止め、目を細めて懐かしげにウルシュラを見る。一度我が子を修道院に奉献した親は、その後は滅多に子と会うことも叶わぬのが常であった。腸の洗浄に何度も湯や水を運ぶウルシュラに、アデルの父はその都度ウルシュラがアデルらと過ごした日々の話を乞うのであった。

 一人の素性が知れると、他の男たちも次々と身の上を明かす。小さな集落のこと、皆が親戚のように親密な関係で結びついているのである。

「ここで働くんならわしらのオスタル(家族)みたいなもんさね、ウルシュラ。いや、もうウルサでいいやな」

 調子のいい男たちに主人のギヨームは顔を顰める。

「うちにいる間はうちの娘なんだ、勝手に甘やかすなよ」

 こうして私たちの若き姉妹は、修道院とはかけ離れた世俗の日常に少しずつ馴染んでいく。

 はじめは取りつく島もないように思われた主人であったが、やはり修道院に娘を預けた無聊もあったのであろうか。無愛想ながら何くれとなく教え導くその横顔に、ウルシュラは我が父ユゼフとは違う、父という名の男を見る思いであった。


 ギヨームが仮初の父の役割を担っていたとしたら、女将であるギユメットもまたマリアとは異なる母の姿をウルシュラに示したと言えるであろう。

 ギユメットとシトー修道院長ベアトリクスは共に、一帯を広く治めるフクスム伯がモンス・ラヌンクリの砦に置いた代官と城代の娘として、共に幼少期を過ごした幼馴染であった。院長が最終的にウルシュラを旅籠屋へ遣る決定を下した一因には、そうした背景もあったやも知れない。

「あんた、修道院じゃ頼りにされていたんじゃないかい」

 ギユメットは火の前で痛めた足をさすりながら目を細めて言う。

「働きぶりを見れば判るよ。あの人はね、子どもの頃から一番大事なもの──組紐でもガラス玉でも──は、ここぞというときを過たず、惜しげもなく差し出したもんさ。あんたをここへ寄越したのもきっとそうだよ。あたしにはわかるよ。ありがたいね」

 解体を終えて出た端肉と先ほどの豚の血をギヨームが厨房に運び込む。作業台の前に置いた椅子に腰を据えたギユメットは、ウルシュラに指示を出しながら自らも手を動かし、二人は細かく刻んだ端肉に塩と香草を混ぜて腸に詰めていく。

「あんたが豚の血を受けさせられたんだって? 来て早々えらいことさせられたね、可哀想に。ブーダン作りはあたしがやろうかね」

「いいえ」血の桶を引き寄せようとするギユメットの手をウルシュラは制して、「わたしにやらせてください。この血がどうやって食べ物になるのか、知りたいんです」

 女将は、へえ……と感じ入ったようにウルシュラを見やり、やがて頷く。

「それじゃあ、お願いしようかね」

 ギユメットの指図に従いながら、ウルシュラは玉ねぎとみじん切りにして炒め、細かく刻んだ背脂、塩、胡椒、香草、燕麦と共に鉢で練り合わせる。そこへギユメットが杓子で少しずつ血を注いでいく。通常の腸詰よりも数段黒味がかった具材が出来上がると、先ほど同様漏斗と木の棒を使って腸に詰めていくのである。

「やあ、美味そうだ」

 仕事を終えた男たちが食堂に集う頃には、山のような腸詰もあらかた茹で上がる。

「ご苦労さんだったね。スープも煮えてるよ、ゆっくりあったまっておいき」

 ねぎらいながらギユメットがよそうスープの腕を、葡萄酒を片手に待ちかねる男たちに供しながら、ウルシュラはふと、一人の男が戸口の外に佇んで入って来ようとしないことに気づく。

「中で召し上がりませんか」

 ウルシュラが声をかけると、男は弱々しい笑みを浮かべて言う。

「どうも最近胸が弱っちまってね。草臥れて食欲が湧かないんだ」

 聞けば身重の妻の食が細り、その心配で自らも食事が喉を通らないという。だらしねえな、と店の中から仲間の野次が飛ぶ。男はそれを無視してウルシュラに訴える。

「カスラリ先生には、折々かみさんを診てもらってるんだ。温かい食事を摂るように言われたよ。焼いたパンに香辛料を効かせた肉、温めた葡萄酒……でもうちにゃあそんな金はない。だいいち、かみさんは何を食べても吐いちまう。先生は親切に言ってくれてるんだ、それは解ってる。でもこんな時にパンなんてさ、喉を通りゃしないよ」

 男は一気に吐き出すと、にわかに相手がまだ年端のいかぬ娘であることを思い出してか、きまり悪げに目を逸らすのであった。

 ウルシュラはじっと男の目を見つめ話を聞きながら、頭の中で忙しなく記憶を手繰る。旅の道々で母が採取し馬車の幌の内に吊っていた草花、図書室でソフィアが誦じて聞かせたガレノスの一節、薬草園での姉妹オルガの講義──。そして、奇しくもシトー修道院で姉妹たちと共にこの旅籠屋に卸すために馬車に積み込んだ香草の中に、誂え向きの薬があったことに思い至る。

「ちょっと、待っていてください」

 厨房に駆け込むと、ウルシュラはギユメットに訊ねる。

「女将さん。このスープ、少し分けてもらってもいいですか」

 表でのやりとりを窺っていたのであろう、ギユメットは鷹揚に頷く。

「好きにおやりよ。あんたなら上手いことやってのけるだろうさ」

 ウルシュラはスープを小鍋に取り分けると、修道院の品から茴香の種を取り出し、ひとつまみを小鍋に加え、火にかけながら木匙でゆっくりとかき混ぜる。ほどなく仄かに甘く爽やかな香りが立ち上る。

「どうぞ」

 差し出された椀の嗅ぎ慣れない香りに、男は怪訝な表情を作る。何か抗弁しようとするように口を開きかけ、娘の真剣な表情に口籠もると黙って椀を受け取り、匙を口に運んだ。

 躊躇っていた手の動きが二口、三口と早まり、やがて男は顔を上げて問う。

「何だいこりゃあ……腹がぽかぽかして、ほぐれていくような心持ちだ」

 固唾を飲んで見守っていたウルシュラは、ほっとして笑みを浮かべる。

「お腹の調子を整えてくれる草の種を、少し加えてみました。もっとありますから、持って帰って温めて、奥さんにも召し上がってもらってください」


 数日の後、ギユメットの足を診にカスラリ医師が訪ね、ウルシュラを呼び止めた。

「修道院にいるはずの君がここで働いていると聞いて半信半疑だったが……アラザイスさんの悪阻が旅籠屋の娘さんのおかげですっかり落ち着いたと聞いて、確信したよ。やはり君だったね、ウルサ」

 医師の記憶の中のウルシュラは、三年前、修道院で大火傷を負い青ざめて横たわっていた姿のままであった。感慨深げに目を細めて言う。

「私の診断と助言は、つい大所高所から下すような物云いになってしまっていたのかもしれない。相手が見えていなかったと言うべきだろう。君には、ちゃんと目の前で苦しむ人が見えていた。だから救えたんだ」

「そんな大層なものじゃありません、先生」ウルシュラは面映さに俯きながら、「話を聞いているうちに、今まで教わってきたことがいっぺんに蘇ってきて。何かできることがあるはずと、勢いに任せただけです」

「人に教わったことはね、人のために使えなくちゃしょうがないんだよ」医師の手に足を預けながらギユメットが口を挟む。「ウルサは優しい子だから、その知恵だってオルガから教わったことだなんて謙遜するけどさ。いくら人に教えられるくらい物知りだって、オルガは神の家に籠ったままさね。もちろん、あの子が修道院に行くことはあたしらも反対しなかったけどさ」

「家のことをべらべら喋るな、このお喋り女め」

 奥で仕事をしていたギヨームが怒声を放る。ギユメットは肩を竦めて二人に目を回して見せる。カスラリ医師は苦笑を浮かべながら、なおウルシュラに言う。

「ともかく、君がしばらくここにいることは、私としてもとても心強いんだよ。軽い患者ならここへ紹介すればいい。ここの薬膳は以前から評判だが、君の知識がそれを一層豊かなものにしてくれるだろう」

 果たしてカスラリ医師の口利きによるものか、客の評判が評判を呼んだか、旅籠屋「小さな待雪草」を訪う客足は徐々に増し始めた。あそこには薬草に大層詳しい娘さんがいる。頭痛、腹痛、眩暈、不眠、何でもまずはあの娘に相談してみようじゃないか。村人のみならず、街道を使う行商人や通りすがりの旅人までもが、「待雪草の娘」を訪ねてくるようになった。


《主の御名に誓う最愛の友、ソフィアへ

 神の家を離れて、夜毎貴女を思う貴女の姉妹ウルシュラより、オック語で文を送ります。

 ごめんなさい。もっと早く書きたかったのだけど、たくさんのことに取り巻かれて目を回していました。

 わたしは今「小さな待雪草」という旅籠屋にいます。ここは世俗の真ん中です。修道院でよく耳にした〝世俗〟という言葉の意味を、わたしはよく解っていませんでした。ここは、人が生きる場所です。笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、毎日が目まぐるしく過ぎます。それがどんなに素敵なことだったか、三歳で屋敷を出てこの山へたどり着き、そのまま修道院に暮らすわたしは長い間忘れていました。今、十二年分の世俗がわたしの中に流れ込みます。ソフィアが暮らしたモンス・ラヌンクリを、金鳳花の咲き始めた山の息吹を今、胸いっぱいに感じます。

 この間、ソフィアのお父様、カスラリ先生が見えました。先生が診ておられる身重の女性の旦那様が冬支度を手伝いに旅籠屋に見えた時、ほんの小さな手助けをして差し上げたことを褒められました。

 お役に立てたことはもちろん嬉しいのだけど、わたしだけが褒められるのは違うのです。できることを探している時、わたしの中には母様がいて、姉妹オルガがいて、そして貴女がいました。皆がいなければわたしの手足は動かなかったでしょう。これが導かれるということなのだろうかと、神の家を離れて初めて、腑に落ちた気がしました。

 ソフィア。貴女は今も不自由を感じていますか? 男の子だったらよかったのに、と思うことがありますか? わたしは今世俗にあって、貴女があの時口にした言葉の意味にようやく手を伸ばします。人の心が賑やかに咲き集うこの場所で、あの日の静かな星空に再び瞳を凝らします。

 また手紙を書きます。

 貴女のウルシュラより》


 雪解けが進み、牛に荷車を牽かせられるだけの道ができると、ウルシュラは修道院への買い付けを買って出た。そして応対に出る姉妹オルガに、院長宛の手紙と共にソフィアに宛てた手紙をそっと手渡す。姉妹オルガも実家の様子を訊ねながら、素知らぬ顔で受け取った。

 ギユメットの足は徐々に快方に向かった。掴まり歩きを助けながら、ウルシュラは修道院へ戻る日が近いことをなぜとなく焦りにも似た心持ちで悟るのであった。


 四月も半ばを過ぎる頃、ウルシュラは常のように客らの養生の相談に乗りながら、ふと食堂の片隅の席からじっとこちらを見つめている一人の男に気づいた。身につけた黒のローブは修道士のようでもあったが、肩に羽織ったマントでぞんざいに口元を覆い、被った頭巾が目元に影を落として顔立ちは掴めない。パンと豆のスープに豚の塩漬け肉を少し頼み、それをゆっくりと咀嚼しながら時折ウルシュラに視線を向ける。

「修道士崩れだな、ありゃあ」

 厨房に食器を戻しに下がったウルシュラに、ギヨームは耳打ちするともなく呟く。

 男はその後も数日置きに姿を見せ、同じものを注文しては店の片隅からウルシュラの様子をじっと伺った。

「気味が悪いね。ウルサ、ちょっと店に出るのを控えるかい」

 ギユメットの心配にも同じず、ウルシュラは店に立ち続けた。何となれば、その男の眼光にどこか覚えがあるような気がしたのである。

 四度目に姿を見せた日、男は同じ食事を注文した後、ウルシュラをじっと見上げて訊ねた。

「あなたは、以前クリュニー修道院にご両親と三人でいた娘さん、ですか」

 クリュニー修道院──かつて自分がそこに身を預けていたことを覚えている人はもう集落にはほぼ居まい。そう安んじていた矢先の男の言葉に、ウルシュラは度を失い立ちすくむ。

 男はその様子を見て初めて頭巾を取ると、まっすぐウルシュラを見つめて言った。

「もはや覚えてはいないでしょう。セバスティアン・ド・モンテリユ、以前クリュニー修道院であなたたち家族を迎えた修道士です」

 ウルシュラは男の瞳の奥を探るように見つめ、ああ……と嘆息を漏らす。困憊の旅路の果てに馬車を降りた家族を親身に招き入れ、手ずから三人の足を洗い、父様の話に頷きながら真剣に耳を傾けた人が、確かにいた。今、目の前の男の顔は陽に焼け、神の家に住まう者特有の透き通るような端正さはない。しかし、もはや懐かしさを繕う風もなくこちらに向ける優しげな眼差しには、確かに幼い日の記憶に分け入る親しみがあった。

 それでも、突然名乗り出た男の言葉を果たして信じて良いものであろうか。ウルシュラが根の生えたように動けずにいると、いつのまにかギヨームが隣に立って男を見据えていた。

「お客人、うちの娘に何か用がありなさるのかね。このところよくお越しくださるようだが」

 ウルシュラはほっとしてギヨームの影に隠れるように後ずさる。男は怪訝な顔で検分するようにギヨームを見つめ、首を傾げる。

「娘……? ではあなたはユゼフ殿……いや違う、そんなはずがない。では娘さん、やはり私の思い違いでしたか……」

「いいえ、間違いではありません」

 男の言葉に打たれたように咄嗟に進み出る。父の名を覚えているこの殿方は、紛う方なきあの時の修道士に違いない。

「──あの時は、大変、お世話になりました」

 躊躇いがちにそう告げると、セバスティアンは心の底からほっとしたように溜息をつき、宙を見上げて十字を切る。ギヨームは難が去ったと見て、小さく鼻を鳴らしその場を離れながらウルシュラに言う。

「込み入った話なら、納屋を使え」


 春先の冷たい風から匿うようにセバスティアンを裏の納屋へ案内した後、ウルシュラは恐る恐る訊ねる。

「あの、どうしてわたしだと……?」

「実は、あなたを──あなた方母娘を、探していました」

 セバスティアンは古い木箱の上に飼料の藁を敷くと、その上に羽織っていたマントを広げ、気後れするウルシュラに腰掛けるよう促す。「少し、長い話になります」

 そして自らも少し離れて向かい合う木箱に腰掛け、暫し納屋の外の山並みに目を向けてから語り始めた。

「もう十年も前になるのですね……覚えていますか、あなたの父上、ユゼフ殿がモンセギュールの攻囲戦に赴いた日のことを」

 ウルシュラは黙って頷く。忘れるはずもない、それが父の姿を見た最後であったのだから。

 セバスティアンはそれを確かめると静かに言葉を継ぐ。

「私はユゼフ殿から打ち明けられた時、何とかお引き留めしたいと悩みました。あの方が……よそからいらしたあなた方が、この土地の諍いに身を投じる謂れなどないのだからと。でもユゼフ殿は、それが唯一、自らの信仰を証しする手立てだと仰って譲らなかった。なぜ、命を賭してまで証しせねばならなかったのか……それはまさに、私たちがあなた方を〝よそから来た人々〟として遇したからです。少なくともユゼフ殿はそう感じ、私もまた、それを否定することができませんでした。その意味で、ユゼフ殿を戦地に追い立てたのは私の、そして当時のクリュニー修道院の皆の咎です。まずそのことを、あなた方母娘に謝りたかったのです」

 深々と頭を垂れるセバスティアンを、ウルシュラは言葉を失ったまま見つめる。十年越しの唐突な謝罪をどう受け止めれば良いのか判らない。

「顔を、上げてください」

 妙に乾いた心を持て余しながら、どうにか言葉を絞る。

「父様は……父はもういませんが、そのことで誰かを責めるつもりはありません。きっと父は、誰に止められても聞きはしなかったでしょうから」

 そう言って、ウルシュラは自らの言葉にはっとする。相手が誰でも言いなりにはならない──ソフィアに向かってそう宣言した自分は、確かに父様の娘であったのだ。そう思い至った刹那、鼻の奥につんと痛みが走り慌てて目を瞬く。

 顔を上げたセバスティアンはふっと頬を緩め、噛み締めるように頷く。

「……確かに、とても強情で、一本気な方でした。だからこそ、あの方の信仰を疑ったのだとすれば、畢竟、それは私自身の信仰を疑うことに通じざるを得なかったのやも知れません。

 ユゼフ殿が出征してしばらくのち──あなた方は気づかれなかったかもしれませんが──、私はとある不始末を問われて修道院を去りました。自らの信仰を問い直すいい機会だと、妙にすっきりした気持ちでした。と言って、行く宛てもありません。足は自然とモンセギュールに向かいました。

 モンセギュール──その麓に立って見上げてみて初めて、そこで行われた戦闘の凄まじさに思い至りました。谷間からそそり立つ急峻な岩山……なるほど、これを攻めるのは容易なことではないと、当時の王軍が感じたであろう絶望を今更のように覚えたものです。飛び交った大砲の弾丸でしょう、あたり一面に崩れた岩が道を塞ぎ、近づくことさえ容易ではありませんでした。

 どうにか頂に続く道に出ると、フクスム伯の軍が置いた見張り小屋がありました。私は見張りの兵に捕まり、厳しく誰何されました。それはそうです、今どきこんなところへ来るのは遺骨の回収を目論むカタリ派の人々くらいでしょうから。私は勢いで、身の上を余さず明かすと仕事を請いました。攻囲戦直後の混乱で人手を欲していたのでしょう、その場で召し抱えられ、今はフクスム伯の元に寄せる身です」

 セバスティアンはいったん言葉を切ると立ち上がり、納屋の入り口から半身ほど踏み出してさりげなく周囲を伺う。そして繕うように深呼吸をすると、再び元の木箱に腰掛けた。

「書記修道士であったことを買われて、伝書使……要は細々とした雑用を任されています。

 ようやくあなたの最初の問い──どうしてあの時の子だと判ったか──にお答えできます。あなたがその後クリュニーからシトーへと移られたことを、私はフクスム伯の伝書使としてクリュニー修道院とのやり取りの最中に窺い知りました。姉妹コンスタンスは恐らく、文書の相手が私だとは気づいていないでしょうが……ともかく、シトー修道院とも通じている私は、あなたがそこからも一時離れ、ここにいることを知ったのです」

 そこまで言うと、元クリュニー会修道士、今はフクスム伯の伝令を務めるこの人物は両手を膝に置き、心持ち身を乗り出して声を顰める。ウルシュラもつられて耳をそばだてる。

「それで……ここからは、お伝えしたかったもう一つの話です。実は、私はその後も時折モンセギュールに赴きます。伯の命で……ということにさせてください、伯軍の従軍司祭も仰せつかっていますので。

 訪れるたびに私は、頂の半ば崩れて廃墟となった城から麓の火刑台の跡まで、くまなく歩いて回りました。王軍と籠城軍が入れ乱れて戦い、最後は異端者らが大勢葬られた場所です。私にできるのは、その只中に立ち、弔いの祈りを捧げることだけ……。

 その最中、私はあるものを拾いました。金属片……甲冑の一部でしょう。不思議でした。籠城軍の騎士が纏う甲冑であれば王軍に全て没収されたはずです。攻囲軍のものであれば、そもそも……そこにはないはずの場所でした。無論、全てが混乱の極みの最中でしたでしょうから、何が起こっても不思議ではありません。私はその欠片も土に埋めて弔うつもりでした。ですが……その欠片には、ある紋章が刻まれていたのです。見覚えのある紋章、でした」

 話の半ばから、ウルシュラは体の芯が冷えていくのに抗することができない。セバスティアンの話がどこへ向かうのか、なぜ今自分に向けて語るのか、考えるまでもなくそれら全てが一つの結論へと突き進んでいることを悟る。耳を塞ぎたくなる衝動をどうにか抑え込む。

「それを、あなた方母娘に見ていただきたいと思い、後先弁えずに持ち帰ってしまいました。ですが……今、ここにはありません」

 セバスティアンは言葉を切ってちらりと旅籠屋の方へ目を向ける。食堂で談笑する客らの声が途切れがちに聞こえる。

「ここは人の出入りが多い。もし誰かにそれを見られ、あの山から持ち帰ったものだと知られたら、あなた方母娘にも、この旅籠屋にもどんな迷惑をおかけするやも知れない。それだけは、絶対に避けなければなりません」

 そして立ち上がり、納屋の戸口へとウルシュラを手招く。

「村に続く小径を取り巻くあそこの木立、ひときわ大きなオークの木が一本見えるでしょう。あの根方に虚があります。その中に置いてあります。……私の思い違いかも知れません。ですが、あれがもし……あなたも知っている紋章であったなら、この山の見晴らしの良い場所で弔いたい、そう思ってそこを選びました。ですから、確かめぬままでも構いません。

 もし確かめるなら、早朝など往来の少ない時間を勧めます。決して虚から持ち出さぬように。そして、お母上にお伝えるするときも、今私がお話しした通りに注意を払っていただくよう、どうかお願いします」


 翌朝、ウルシュラが目覚めてすぐに水汲みに出ようと厨房へ降りると、すでに全ての水瓶に新しい水が満ちている。見回すと竈の陰でギヨームが一人火の支度をしていた。

「すみません、ギヨームさん。水……もう行ってくださったんですか……?」

 ギヨームは背を向けたまま答えない。ウルシュラが戸惑っていると、やがて暗がりから掠れた声が届く。

「……お前がどこの誰かなんて知らん。誰の娘かなんてどうでもいい。今は、儂らの娘だ」

 聞いていたのだ、とウルシュラは悟る。早朝の水汲みであのオークの木を通りかかり一人で確かめることを案じて、先回りしてくれたのだ。そう気づいた刹那、昨日から堪えていた感情が堰を切って溢れる。

 ギヨームが薪を使う手をふと止める。そして諳んずるように言う。

「翼を広げた鷲、両足の爪で輪っかを掴んでいた。……どうだ、お前の見たかったものか?」

主人が言葉で描いた紋章が、熱い瞼の裏で颯爽と翻る父のサーコートに像を結ぶ。

 ウルシュラは暗がりに蹲る無愛想な仮初の父の背に身を預け、声を絞って泣いた。


 次の朝、ギユメットが寝床を出て杖を頼りに厨房へ降りると、ちょうど玄関の外をギヨームとウルシュラがそれぞれに水甕を抱え、並んで斜面を登っていくのが見えた。

「全く……背中がはしゃいでるじゃないか」

目を細めてしばらく見やった後、竈の世話に向かう。

 木立に差し掛かると、ギヨームはさりげなく前後に目を配り道を逸れる。ウルシュラがそれに従うと、朝日が漏れ入る草むらに黒々と影を落とすオークの木が二人を迎える。ギヨームが指し示す根方に、確かに虚があった。しゃがんで手を差し入れると固く冷たいものに触れる。取り出して差し込む朝日にかざせば、ところどころ煤のこびりついた、しかし鈍色に輝く湾曲した鉄片である。そしてその表面には昨朝ギヨームが口述した通り、盾形の内に翼を広げ両足の爪で輪を掴み上げる鷲が彫られている。紛う方なきシロンスクのヴィエルグス家を表す紋章であった。

 ウルシュラはそれを静かに胸に掻き抱く。やがて根方の土を掘り、そこに沈め土を埋め戻す。

「いいのか、母親に見せなくて」

 ギヨームが意外そうに訊くと、ウルシュラは微笑んで返す。

「虚の中では悪戯な動物が持ち去るかもしれません。母には折を見て話します。もし見たいと言ったら、また掘り返します」

「聖遺物の盗掘人みたいだな」

 ギヨームが鼻を鳴らして軽口を漏らすと、そうですね、確かに怪しいですね、とウルシュラも笑う。そして二人は再び水瓶を抱えて泉へと続く小径をたどるのである。

 その日から、水汲みはウルシュラにとって父ユゼフとの静かな対話の時間となった。あの古い大きなオークの木の根方に父様がいる──その思いが、私たちの若き姉妹に大きな安らぎをもたらしたことは想像に難くない。旅籠の客に乞われるまま養生の相談に乗りながら、ふと戸口の外に目を向ければ日に照らされた木立の間からすっくとこちらを見下ろす父の木が見える。

 ──そこから見えますか、父様。わたしは、ここにいます。


 最後の残雪が姿を消す頃、マリアがジョゼップを連れて旅籠屋「小さな待雪草」を訪れる。ウルシュラの驚きと喜びは如何ばかりであったろうか。主人夫婦や居合わせた顔馴染みによる旅籠屋あげての祭りのごとき歓待は、取りも直さず私たちの姉妹が「待雪草の娘」としてこの小さな旅籠屋に築いた確かな地歩の証であったろう。

 二人を集落まで送る最中、ウルシュラは木立のなかほどで立ち止まり、オークの古木を指して言う。

「見て。この木、父様の木よ」

 二人は不思議そうな顔をして木漏れ日を湛える大樹を見上げる。それでもジョゼップはすぐさま道を外れて幹の周りをぐるりと経巡ると、安らいだ笑みを浮かべてその太い幹を抱擁する。マリアはその様を見て、娘の言わんとしたことを理解したであろう。

 今はまだこれでいい──ウルシュラは二人を見て真実を胸に秘め直す。


 ──もし誰かにそれを見られ、あの山から持ち帰ったものだと知られたら、あなた方母娘にも、この旅籠屋にもどんな迷惑をおかけするやも知れない──。セバスティアンは遺品の鉄片についてウルシュラに危惧を伝えた。直接手渡すことを避け、細心の注意を払うよう伝えるべき警告も怠らなかったと言えよう。この上もしわずかな過ちがあったとするなら、「見晴らしの良い場所で弔いたい」と考えたその慈悲と善意であったと言わなければならぬであろうか。

 ユゼフ・ヴィエルグスの遺品は後に何者かによって盗掘された。それが明らかになるのは、間もなくこの山を襲う猜疑の嵐の最中のことである。

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