十 ウルシュラ──Ⅳ
五月の末、集落がキリスト昇天祭の余韻から冷めるのを見計らっていたかのように、一人の老女が天に召された。皆から〝マルティの奥さん〟と呼ばれ慕われた人物であった。ギユメットは特に懇意であったから、危篤の報せを受けた夕刻、ウルシュラに付き添われて駆けつけた。
蝋燭の明かりのもと、老女は軽いいびきをかきながら安らいだ表情で寝台に横たわる。家族らはその周囲で、彼女が人生最後の秘蹟を滞りなく授かれるよう、まめまめしく立ち働く。
不意にギユメットが言う。
「ウルサ、もうじき司祭様がお見えになる。表で待っていておくれ。お見えになったら入ってもらうんだよ」
ウルシュラは請け合い、表に出ると夕日に照り映える一本道の先に目を凝らす。
家の中から押し殺したような声が漏れ、扉越しに慌ただしい気配が増してウルシュラは振り返る。やがて先ほどまでは聞こえなかった低い声が、祈りのような言葉を連ね始める。
もうお見えになったのか──ウルシュラは家に戻ろうとしてふと立ち止まる。いや、家に出入りできる扉は通りに面した一つだけだったはず。それに女将さんは司祭様を表で迎えるようにとわたしを立たせたのだから、裏や脇に回ることはあるまい──考えながらウルシュラはじっと耳を澄ませる。くぐもった祈りの言葉はラテン語ではなく、オック語のようであった。
やがて言葉が止むと再び慌ただしい物音が続き、そして静まる。ウルシュラは扉の隙間からそっと室内を覗く。娘や孫娘らが老女の頭や手のあたりに屈み込んでいる。まるで蚤でも取っているかのように丸めた背の向こうから、裁縫鋏のような冷たい擦過音が繰り返し聞こえる。
「ウルサ、司祭様はまだ見えないかい」
室内からのギユメットの声に、ウルシュラは咄嗟に身を引きながら返事をする。
「まだ、お見えになりません」
扉が開き、杖をついたギユメットが姿を見せる。そのまま通りの果てに目を凝らして言う。
「見てはいけないよ」
ウルシュラは恐るおそるその横顔を盗み見る。ギユメットは通りに目を向けたまま密やかに告げるのだ。
「あんたは何も見ていない。いいね、見ていないんだよ」
その後に到着した教会司祭によって老女は終油の秘跡を受け、やがて穏やかに旅立った。終末を待つ肉体は丁重に棺に納められ、教会へ運ばれる。汝は塵なり──司祭の聖句に参列者は惜別の涙を拭いながら、やがて晴ればれとした笑みを交わすのであった。
修道院を出る時、アンセルム司祭はウルシュラに伝えた。
──特例として、旅籠屋の手伝いを修練の一環とみなします。君は神の家にあると同様、主を思う暮らしを続けてください。そして君の目に映るモンス・ラヌンクリの様子を教えてください。世俗にあっても君が主と共にあることを祈ります。
ウルシュラは葬儀を済ませた夜、見聞きしたことを文に記すべきか悩んだ。あんたは何も見ていない──ギユメットの言葉は、老女の家でなされたことを決して外に漏らしてはならないと告げていた。それでも、言葉通りに耳目を閉ざすことは果たして主の御心に適うのだろうか……。
思いあぐねた刹那、ウルシュラははたと気づく。
わたしは今〝主の御心〟という言葉と共に、修道院を、アンセルム司祭様の顔を思い浮かべなかったか。無意識のうちに修道院の意向を神の御言葉として聞いていなかったか。
そしてまた、そのことをこれまで一度たりと疑問に思ってこなかったことにも思い至る。
司祭様は叙階を受けた聖職者で、使徒の末裔に連なる主の代理人だ。その言葉を神の御言葉と受け取ることに、疑問を抱く理由はないはず。それなのになぜ、その結論を安んじて受け入れることを躊躇うのだろう。
イエス様は仰る。
《だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。》
《地上のだれをも、父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、すなわち、天にいます父である。》
聖書の言葉を、文字通りに受け取るならば──。
背後の暖炉で薪が崩れ、ウルシュラはびくりと背筋を伸ばす。床が抜けたような錯覚に鼓動が早駆ける。
卓の端を痛いほど握りしめていることに気づいてそっと手を離すと、暗がりの戸口からギヨームが声をかけた。
「まだ寝んのか。薪を無駄にするなよ」
ウルシュラは咄嗟に振り返り、諾いながら羽ペンを置く。
「女将さんは」
「もう寝た」
「お疲れでしたからね……」
「葬式はな」ギヨームは鼻を鳴らして厨房に入り、竈の脇の椅子に腰を下ろす。「年寄りには堪えるんだ。次は自分の番かと考える。死は救いかもしれんが、恐ろしいもんには違いない」
そしてウルシュラが立ち上がり暖炉の薪を片付けようとするのを、手を上げて制する。
「構わん。儂も少し目が冴えた」
そう言いながら近くの椅子を顎で示す。ウルシュラが腰を下ろすと、ギヨームはしばらく竈の残り火を見つめ、不意に訊ねる。
「お前、教会の身廊の柱を見たことがあるか」
「あの、彫刻がいっぱい彫られている柱ですよね。ええ、見ました」
答えながら無数の奇怪な生き物の細工が目に浮かぶ。同時に忌まわしい記憶が呼び覚まされ、ウルシュラは即座に今日立ち会ったばかりの葬儀の情景でそれを塗りつぶす。
ギヨームは気づかぬ様子で続ける。
「儂の親父が石工でな。あれは親父の仕事なんだ」
ウルシュラは目を見開く。気味の悪いばかりだった柱に心血を注いで鑿を当てる職人の姿が重なり、名も知らぬ生き物たちに血が通い始める。
「腕はよかったそうだ。仕事が丁寧で、手を抜くことを知らん真面目一方な職人だった。……儂はまだ子どもだったからよく判らなんだが、周りはそう言っていた」
ギヨームは言葉を切ると立ち上がり、小鍋に水を汲んで棚からカモミラをひとつまみ放る。そして火かき棒で竈の灰を掻き、鍋を火にかける。
「だが……親父は字が読めなかった。聖書の言葉もろくに知らん。だから、ただ司祭に言われるがまま彫ったんだ。ここには罪人を飲み込む獣を、ここには天国への階段に居座る獣を……そうやって言われるがまま。でもある日、親父は司祭に訊いたそうだ。なぜ地獄の獣ばかり彫るんで? もっと天国の美しい景色を見せたっていいと思うが、とな」
そう言ってギヨームは笑う。ウルシュラは黙って次の言葉を待った。
「司祭は言ったそうだ。人は、恐れるほどに神を思う。地獄を恐れるからこそ、天国を求めるのだ、と。親父はそれ以上は訊かなかった。それきりまた、黙って言われた通りに彫り続けた」
香り立つ湯気が漂い始める。ギヨームは慣れた手つきで湯を漉し、二つの椀に注ぎ分けると一つをウルシュラに差し出す。
「……でも、最後の一本だけ、親父は自分の好きなように彫ったそうだ」
「好きなように?」
ウルシュラはゆっくりと湯気を吸いながら訊き返す。ギヨームは頷き、熱い湯を顔を顰め音を立てて啜る。
「身廊の一番奥、祭壇に近い柱だ。見覚えがあるか」
ウルシュラはひとしきり考えこみ、降参する。
「ごめんなさい、思い出せません。何が彫ってあるんですか」
「葡萄だ。たわわに実った房と葉をつけた葡萄の蔓が、柱にぐるりと巻き付きながら登っていくんだ。その蔓に、小鳥が一羽とまっている」
想像し、ウルシュラは微笑む。素敵だと思う。
「司祭様は怒らなかったんですか」
「いいや」ギヨームはかぶりを振る。「完成した時には、もう司祭は別の教区に移ったあとだった。新しい司祭がきて、柱を見て言ったそうだ。これは良い。主は葡萄の木、我々はその枝。実に相応しい、とさ」
そして椀の湯を一息に飲み干す。
「あとで親父は儂に言った。──儂が彫ったのはそんな大層なものじゃない、あれは儂らの畑の葡萄だ。儂らを養ってくれる命の葡萄だ。司祭様の言う通りに彫ろうが、己の思う通りに彫ろうが、神様が何と仰るかなんて判らん。儂にとっては、毎年葡萄が実をつけて儂らを生かしてくれる、それが何より確かな神様の声だ」
聞きながら、ウルシュラは思い描く。
山の澄んだ日差しを浴びて、濃紺に照る葡萄の実。風を受けて葉と共に揺れさざめく実を摘み取りながら、そこに神様の声を聞く。そんな暮らしがここにある。
ギヨームはウルシュラを一瞥して話を変える。
「あれが心配してな。お前を葬式に連れていくべきじゃなかったと。お前は妙に勘がいいから、余計なことを悟って悩むんじゃないかとさ」
そしていつものように鼻を鳴らすと、冗談とも本気とも取れぬ様で喝破するのであった。
「だから言っておく。よく聞け。何が正しいの間違ってるのなんざ、この村の連中はいちいち考えて暮らしておらん。儂だって気の向いた時しか教会には足を運ばん。でもな、神様の声はいつだって、どこにいたって聞こえるもんさ。聞く耳さえありゃあな。教会の司祭の説教だけが正しく神の言葉だなんて思っているうちは、何も聞こえまいよ」
ウルシュラは瞠目してギヨームを見つめる。
主の御声を聞く──その言葉通りの意味が今、怒涛のごとく我が身のうちに流れ込むのを感じて圧倒される。
ギヨームに入れてもらったカモミラ湯の温もり、椀を通して手のひらに伝わるこの温もりだってそうだ。暖炉で爆ぜる薪の炎だって、遠く木立の間から届く梟の声だってそう。いつだって主はこの世界を通して御声を届けてくださっていたのだ──。
ウルシュラは立ち上がる。
「わたし、もう寝ます」
「ああ、そうしろ。明日も忙しいぞ」
胸の内が陽だまりのように暖かかった。その温もりを手渡しで返すように、暖炉の残り火を始末するギヨームの背に声をかける。
「お休みなさい。……お茶とお話、ありがとうございました」
ギヨームは振り返ると口の端を曲げ、奥へと引き上げるウルシュラを黙って見送る。
六月某日、ウルシュラは常のごとく牛に荷車を付け、ゆっくりと修道院へ続く小径をたどる。
ギユメットの足は杖をつかず歩けるほどに恢復し、恐らくこれが最後の使いになるであろうと思われた。修道院へ戻ればもう当分この景色を見ることもない。ウルシュラは木立に聳える父の木の傍でひととき木漏れ日に浴し、傍の斜面に群生する金鳳花の黄色を目に焼き付ける。
この世の全てが主の御声──ギヨームの言葉に気づきを得てより、ウルシュラの胸にはかつてない安らぎが満ち満ちる。先のことは分からない。けれど、神の家に憩うにせよ、母や弟と祖国へ帰る日が来るにせよ、この安らぎだけは手放すことはない。その確信が何よりもありがたいものに思われるのであった。
集落に入れば誰彼にとなく声をかけられるのも常となった。やあウルサ、調子はどうだい。ウルサ、この間の煎じ薬をまた分けてくれるかね。おやウルサ、ギユメットの足はどんな塩梅だね。聞いたよ、ギヨームったらあんたをすっかり自分の娘みたいに自慢してるってさ──。
一人ひとりに笑顔で返しながら、途切れた隙にウルシュラはそっと拳の甲で瞼を拭う。余所者で、厄介を巻き起こす子どもだった自分を、ここの人々は屈託なく受け入れてくれる。両手を広げ、ここにいていいと言ってくれる。それが言いようもないほどに嬉しい。
それでも──道の先の木立の切れ目に修道院が見え、ウルシュラはまなじりを決する。──喜びに浸ってばかりいられない。わたしには、やるべきことがある。
修道院はいつにも増して静まり返っていた。門番の老姉妹の姿さえ見えないのはどうしたことだろう。ウルシュラはしばらく門口に佇んで敷地の方々を目で探る。ふと視界の端を黒いものが動いた気がして、修道院の門前から頂の城へと続く山道に目を凝らす。道の傍にまばらに茂る樺の木の枝越しに、確かに黒い装束の集団が山道を登っていくのが見えた。
ウルシュラ、と呼ぶ声がして振り返ると、修道院から姉妹オルガが足早にやってくる。ウルシュラがほっとしたのも束の間、来て、とのみ告げた姉妹は、硬い表情のままウルシュラの手を取ると修道院の棟へ取って返す。
導かれた院長室には、久しぶりに見る院長ベアトリクスとアンセルム司祭の姿があった。二人はウルシュラを目にすると安堵の笑みを浮かべて迎えたが、すぐに表情を引き結び、互いに最初の発言を譲るように押し黙る。
「ご無沙汰しています。院長様、司祭様」
ウルシュラが膝を折って口を切ると、戒めを解かれたようにまず院長が口を開いた。
「ウルシュラ。ああ、あなたの元気な姿を見られて嬉しいわ」
ウルシュラは居合わせる面々を見渡して、遠慮がちに訊く。「何か、あったんですか」
窓辺から外を伺っていた司祭が振り返って応える。
「来る途中、ドミニコ会に会いませんでしたか」
「いいえ」答えながら、ウルシュラはふと言い淀む。「でも……そういえばさっき、表の山道を城へと登っていく黒い人たちの後ろ姿を小さく見た気がします」
司祭は重々しく頷く。「ドミニコ会の、審問団です」
審問団──ウルシュラは慄然とする。
来るべき時が来たのだ、と知る。
司祭が続ける。
「城代に挨拶に行ったのでしょう。ほとんど君と入れ違いに、先ほどここへも立ち寄りました。私を審問団に加わらせたかったようです」
「丁重にお断りいたしました」院長が話を引き取る。「司祭様にはわたくしたちのもとでの司牧がありますからね」
震えんばかりのその硬い口調から、先ほどまでこの場で繰り広げられていた審問団との緊張の駆け引きの余韻が伺えた。
「さあ」司祭は仕切り直すように言う。「いささか予想より早い展開です。ウルシュラ、君にはそろそろ戻ってもらいたいと思っていましたが……状況が変わりました。もうしばらく、旅籠屋で静観していてもらえますか。今慌てて修道院へ戻ったら、要らぬ疑念を呼ぶばかりです。然るべき時に追って指示を出します」
ウルシュラは固唾を飲んで頷く。「わかりました」
「ところで」司祭は声を和らげて話題を変える。「その後、変わりはありませんか」
ウルシュラは司祭の目を見る。試すような気配はない。修道院を一人離れた娘の暮らし向きを心から心配する眼差しである。
「少し前、村のマルティの奥さんが召されました。女将さんと一緒にお葬式に参列しましたけれど、みんなに愛されていたことが伝わる、心に残るお式でした」
「そうですか」
司祭は微笑んで頷き、胸に十字を切る。院長と姉妹オルガもそれに倣うと、両手を組んで短い祈りを捧げる。話はそれで終わりであった。
ウルシュラも小さく十字を切り、報告を端折ったことの許しをそっと胸の内で乞う。
その後、司祭はトロサ司教座での見聞をもとに今後の成り行きについて予想して見せた。恐らく近いうちに全村民を教会に集め、訓告のための説教が行われるでしょう。異端に関与した心当たりのある者は出頭するように、告白さえすれば重刑は免れるから、と。猶予はひと月、それが過ぎるといよいよ本格的な追求が始まるでしょう。我々は引き続き慎重に成り行きを見守る必要があります──。
院長室を辞して共に表に出た姉妹オルガは、常のように荷を牛車に積んだ後、不意にウルシュラに顔を寄せる。
「変なこと訊くけど──あなたは大丈夫ね」
ウルシュラは思わず姉妹の瞳をまっすぐ見返す。何が──そう訊き返すまでもない。姉妹は今、旅籠屋で育った娘としてその瞳に深い憂慮を湛えているのであった。
「大丈夫、だと思います」
慎重に頷く。姉妹はわずかに緊張を解くと努めて笑みを作る。
「あなたに何かあったら、私は身も世もなくなるわ。くれぐれも自重して、お願いよ」
そして、スカプラリオの内から小さな封書を取り出すとそっとウルシュラに手渡す。
「姉妹ソフィアから。でもこれが最後よ、彼女にもそう伝えるわ。手元にある手紙は……ひと目に付かないように処分した方がいいかもしれない。何がどんな証拠になるか判らないから」
ウルシュラは受け取った封筒を見つめ、腰に下げた皮袋にしまう。
姉妹はウルシュラの両手を取ると強く握って言う。
「こんなこと、早く過ぎ去ってくれればいい。そして、またあなたがここに戻って来られる日が来ればいい。……祈りましょう」
そして促すようにそっと背を押す。
牛車を伴って修道院の門を出る折、ウルシュラは名残に引かれて振り返る。姉妹オルガはまだそこにいてウルシュラを見守っている。一つ会釈を返し、ウルシュラは集落への帰途をたどる。
《主の御名に誓う無二の友、ウルシュラへ
あなたの美しい手紙を読みました。繰り返し、何度も。私が育った美しい村を、今あなたがその隅々まで目に焼き付けてくれているということ、それがとても嬉しい。トロサに憧れるアニエスに、よそへ行きたいとは思わないと言った言葉は強がりなどではなく、私はこのモンス・ラヌンクリこそ、神に愛された場所だと思っています。
それでも、私たち父娘はこの場所で神から遠ざけられているような気持ちで過ごしてきました。その私がシトーの家の扉を叩けたのは、あなたが隣で私の道を照らしてくれたから。
姉妹オノリーヌは、神の家で私たちが孤立することはないと言います。私たち一人ひとりのそばに神がいらっしゃる、と。確かにそうなのでしょう。改宗ユダヤ人として神から遠ざけられて生きていくものと思っていた私が、今、修道院にいる。それだけで私は大きな慰めを得ています。それでも、今あなたがここにいないことが、やっぱりとても寂しい。
あなたはいっときのお勤めを果たしたら、じきにまたここへ帰ってくる。そうわかっているのに、ふと、もう会えないのではないかと思って怖くなります。
あなたの質問──まだ男の子だったらよかったと思うか──に答えるなら、そうね、どうかしら。きっと男の子なら、こんなふうに何かを怖がったりすることもなく、もっと身軽に、自由に、力強く、遠くまで駆けていくことができたのでしょう。でも、道端に咲く金鳳花は見逃してしまったかもしれない。あなたと出会うこともなかったかもしれない。
男の子か女の子かじゃない。私は、私で良かったと思っています。あの夜、あなたと一緒に星空を見上げた記憶を大事に胸にしまう、十九の今の私で良かったと。
帰ってきたら、あなたに謝りたいことがあります。だから、早く帰ってきて。
いつもあなたを想うソフィアより》
ウルシュラは手が空くと納屋で繰り返し手紙を読んだ。
謝りたいことってなに? あの夜のこと? それとも二人の部屋のこと?
教えて欲しい。謝らなくていいから。また絵のことをからかっていいから。
わたしも今すぐ会いたい──。
夜、人気の絶えた食堂の暖炉の前で腰の皮袋から手紙を取り出すと、そっと火にかざす。羊皮紙は優しい炎に煽られて悶えるように揺れ、端から徐々に変色し始める。このまま手を離せば燃え上がり、やがては灰に帰すであろう。逡巡する間に指が熱に炙られ痛み出す。
やがてかぶりを振り、少し反った手紙を皮袋にしまい直す。
日曜日、モンス・ラヌンクリの全村民が教会に集った。
講壇に上がったのは、四年前に前任司祭が失踪して以来ようやくトロサから派遣された新任の司祭であった。しかし司祭は型通りの短い挨拶を済ませるとすぐに壇を降り、代わって傍に控えていたドミニコ会修道士のうちの一人が鷹揚な笑みを浮かべて登壇した。
「兄弟姉妹よ、皆様方に平和を」
語り慣れた張りのある声が穹窿を打つ。
「名にし負う美しきモンス・ラヌンクリをこたびこのように訪うこと叶い、大変嬉しく思います」
修道士はそこでいったん言葉を切り、次の一言を選りあぐねるように両手を擦る。
「さて。こたび私どもは、ある好ましからざる風説について確かめに参りました。この美しき山里を、古来より深き毒の霧が覆う、と。その霧は、一見大変美しいと言う。嘘をつかない。盗まない。ほんのささやかな施しで真の信心に導いてくれる、恩寵の仲介者であり救済者である。人々はその霧をこう呼ぶそうだ──善信者、と」
修道士は再び口を閉ざし、ゆっくりと堂内を見渡す。集う会衆は一様に押し黙り、水を打ったように静まり返る。
修道士は満足げに頷きながら続ける。
「さよう、善信者です。皆様も聞いたことがおありでは。しかし実際はどうでしょう。彼らは言うそうだ、この物質界は悪魔の所業、肉体の復活に意味などない、と。何と罪深く恐ろしい思い違いか……イエス・キリストの正当なる花嫁である教会を否定し、その聖体を穢し、皆様方の魂を永遠の闇に導かんとする、まさに彼らこそ羊の皮を被る狼、悪魔の使わしめだ」
徐々に昂る修道士の言葉に、次第に堂内がざわつき始める。
「兄弟姉妹よ、今こそ皆様方の信仰が試されているのです。彼らの毒の霧を吸った者……すなわち、彼らを家に招いた者、共に食事を摂った者、匿った者、臨終の際に彼らを頼った者。わずかでも心当たりがあれば、名乗り出て全てをお話しください。自ら名乗り出る者には、教会は全き許しを与えるでしょう。ええ、神は大いなる愛をもってお許しになるのです」
修道士は両手を大きく広げ、身を乗り出して呼びかける。その親身な声音に、今や村人らは憚りなく衆議を始める。
「ただし」
不意の鋭い一声に、再び会衆は口を噤まされる。
「隠れる者、黙す者、偽る者。この者らには主の裁きが、教会の鉄槌が下されましょう。是非とも、皆様方一人ひとり、主の御前に跪き己の胸に問われますよう。私どもは頂の砦におります。主の導きの光のもと、偽らざる告白がもたらされんことを」
修道士の演説を、ウルシュラは旅籠屋の夫妻と共に聞いた。
数日前、各戸を叩いて回るドミニコ会士らから、次の日曜日に教会へ集まるようにと呼びかけられたギヨームは、小道を去り行く彼らの背を一瞥して鼻を鳴らし無視する構えであった。今度ばかりは従ったほうがいい、とギユメットがいくら諭しても真剣に受け取らぬギヨームであったが、ウルシュラから別して懇願され面喰らうと、渋々承知したのであった。
半ば強引にギヨームを連れ出したウルシュラであったが、彼女自身、初めて実際に聞く審問官の言葉をすんなりと受け入れるのは難しかった。
修道院の掛け金の部屋でアンセルム司祭やソフィアと共に教皇の大勅書を検討していたときは、真剣に向き合いながらもどこか遠い世界の模擬試験を受けているように感じていた。先日、司祭から今後の成り行きの予想を聞いた時でさえ、本当にそんなことが起こるのかと、信じきれぬ思いであったのだ。
堂内に響き渡る声で朗々と説く講壇の修道士の顔から、ウルシュラは目が離せない。
頬はこけ、血の気のない青白い顔に目だけが神への愛に爛々と輝く。会衆は強い言葉に声もなく立ちすくむばかりであった。主の導きの光が、今や己の頭上で暮らしの陰影を余さず暴き立てんと照りつけることを知ったのである。
「馬鹿馬鹿しい。何が毒の霧だ。山の気から霧だけ除けるわけがなかろうが」
ギヨームは毒づきながら帰途をたどり、ギユメットとウルシュラをはらはらさせたが、旅籠屋に戻って客を相手にする頃には再び、愛想良く振る舞いながらも慎重に言葉を選んだ。客たちが審問官の説教を腐して笑いものにしても、笑顔を見せるだけて決して同調はしなかった。
日曜の説教からしばらく日が経っても、モンス・ラヌンクリに表立った変化を見出せなかったのは、ウルシュラが用心のために旅籠屋を離れなかったからかもしれない。集落の目抜通りを中心に静かに進行していた事態に気づかずにいられたと言えよう。
しかしやがて、集落から外れたこの旅籠屋でも、何かが変わりつつあるという兆しを否応なく感じるようになる。
宿泊客が発った後の部屋を片付けて階下に降りたウルシュラは、食堂がいつになく静かであることに気づく。厨房越しに目を向ければ、食事を摂る客は七、八人はいたであろうか。以前であれば互いに誰彼構わず声を掛け合い、食堂中が一つの世間話で賑わっていたであろう。それが今や、誰もが押し黙って己の食事に向き合い、食べ終えれば黙って金を置き出ていくのであった。
幾人かの老人が定期的に薬草を調じてもらいにくる他は、ウルシュラに体の相談を持ちかける客も目に見えて減った。もともと賑わいの中心で立ち回ることに気後れを覚えていたウルシュラはむしろほっとしていたが、ギユメットは訝しがり、しきりに首を捻った。
「何だろうね、あれだけウルサ、ウルサって押しかけていたのにさ。人の心なんて移り気で当てにならないものだね」
「ウルサのお陰でみな病を払ったんだろうさ。それだけのことだ」
どの口が言うのだと言わんばかりの一瞥を妻に投げて、ギヨームがそっけなく返す。
安んずるべきだというギヨームの言葉に、ウルシュラはむしろ一抹の気掛かりを覚えた。
そして間もなく、懸念は現実となる。
その日も、幾人かの客が昼食には少し遅めの時間を押し黙ったまま食堂で過ごしていた。
突然、何か大きなものが崩れるような音が集落の方角から届き、厨房のギユメットは咄嗟に肩を竦めて手を止めた。納屋にいたギヨームも駆け込んで目を剥く。「何だ、今のは」
給仕の最中に届いた音にたたらを踏んだウルシュラは、咄嗟に教皇勅書《根絶のために》のある条文に思い至る。
《第二十七条。異端者が発見された家屋は、その家屋の所有者が彼らを密告する前提で留め置いた場合を除き、再建の望みなく完全に破壊されなければならない。》
「あぁあ」食事を注文し終えた行商人が、妙に間延びした声を漏らした。「やっぱりか」
「あんた、何か知ってるの」
ギユメットが声をかけると、行商人は一瞬探るような目をギユメットに向け、徐に口を開く。
「マルティさんのうちですよ。さっき通りかかったら、やたらフクスム伯の兵や代官の役人が屯してたんで、これはやられるなと思ったんです」
「やられるって、何を」
豚の塩漬け肉の皿を出しながら、ギユメットは眉を顰める。男は相好を崩して肉に手を伸ばしながら、そんなことも知らないのか、と言いたげな声音で答える。
「何って、取り壊しですよ、家の。あそこは完徳者が村に来た時の隠れ宿だったって、前から噂だったでしょうが。誰かが審問官に漏らしたんですよ、自分に向いた矛を逸らすために。もっとも、奴らは密告したからって許しゃしませんがね。今頃留め置かれて、根掘り葉掘り繋がりを追求されてるんじゃないかな」
ウルシュラは行商人の語りに背を向け、窓の外に目を向ける。背後でギユメットが息を呑むのが判ったが、今は知らぬふりを装うに越したことはない。
麗らかな午後の日差しを受けた集落への小道に目を凝らしながら、ウルシュラの脳裏には〝マルティの奥さん〟の臨終の一幕が蘇る。老女の身にかがみ込む親族たちの背中、そして、見てはいけない、というギユメットの言葉。
「家を潰されるなんざ、正直見ちゃいられませんよ」男は肉を口に運びながら続ける。「女将さんところも気をつけてくださいよ。この塩漬け肉が食えなくなったら悲しいですから」
「縁起でもないことよしとくれ。うちは皆、真っ当な教会の信徒だよ」
ギユメットが強張った苦笑で返す。
二人のやり取りを背に聞きながらその場を離れ、ウルシュラは考えを巡らせる。完徳者と呼ばれる異端の指導者と深い繋がりを持っていたマルティ家とギユメットは懇意にしていた。審問官たちは彼女に罪を問うであろうか。繋がりはどこまで手繰られるのであろうか。
審問官は言った──わずかでも心当たりがあれば名乗り出るように、と。
心当たりが微塵もない者など、このモンス・ラヌンクリにいるのであろうか。
もしいないのだとすれば──刹那、ウルシュラは戦慄に襲われる。──それは、果てしない疑いと密告の連鎖の始まりを意味するのではないか。
雲間に消え行く残光のように母の言葉が遠く響く。
──ここに居続けたら、たとえ修道女になっていたとしても、どんなあらぬ疑いをかけられないとも限らないわ。ポロニアはローマから遠いだけまだ安心できる。今ならまだ……
二階に続く階段の登り口の暗がりに佇んで、ウルシュラは必死に平静を手繰り寄せる。
考えて、ウルシュラ。あなたは母様の言葉を撥ねつけてここに残ると決めた。ここですべきことがあるからと、留まる決心をしたのでしょ。怖気づく暇があったら、今何をすべきか考えて。何が一番大切なのか、何を一番守りたいのかを考えて。
あの掛け金の部屋で学んだことを、これまで学んできたことを、思い出して──。
その夜、まばらな宿泊客が部屋へ引き上げ、ギヨームが暖炉の火を埋めて夫婦の寝室に上がる頃合いを見計らって、ウルシュラは二人の部屋の扉を叩く。夫婦は驚いたが、手にするランプが朧に照らし出す思い詰めた面差しを見ると、黙って娘を迎え入れた。
さらに半月ほどが過ぎた頃、数人の村人を伴って教会司祭が「小さな待雪草」を訪れた。
「こちらに、ギユメット・ロカドル殿はおられますかな」
ウルシュラと共に厨房で調理をしていたギユメットは刹那、総身を強張らせた。しかしすぐに前掛けで手を拭うと、戸口に佇む司祭に歩み寄る。戸口の外に目をやれば、見知った幾人かの村の男たちが身の置き所もないといった苦渋の様子で佇んでいた。
司祭は慇懃な、しかし感情のこもらぬ所作で一通の書状を差し出す。ギユメットはそれを受け取り、黙って目を落とす。ウルシュラはギユメットの肩越しにそっと目を走らせた。
砦に駐在する審問官からの召喚状であった。
夜、書簡を手にギヨームは憤然と言い立てた。
「こんなもの、行く必要はない。マルティのところと付き合っていたのは何もお前だけじゃないだろう。司祭を連れてきた村の奴らは、自分らだけじゃ心細いから少しでも道連れを増やして安心したいだけだ。お前は善信者の説教に入れ込んでいたわけでもなけりゃ、肉を絶っていたわけでもない。ちゃんと教会に行って司祭の大して面白くもない話にいちいち熱心に頷いていたじゃないか。何一つ疾しいことなどなかろうが。何なら儂が行ってそう言ってやる」
翌朝、なおも息巻くギヨームを押しとどめ、ギユメットは一人で砦に向かうと決めた。
ウルシュラは静かに、しかし一切の反駁を拒む口調で、供につくことを申し出た。
ギユメットはしばらくじっとウルシュラの目を見つめた後、一つ溜息をついて諾った。
「それじゃあ、頼むよ」
足がようやく癒えたばかりのギユメットは、砦までの山道に難渋した。ウルシュラの肩につかまり、たびたび立ち止まって息を整えながら、容易に姿を見せぬ砦を目指してゆっくりと登っていく。
「こんな道、子どもの頃はビアトゥと並んで、一息に駆け上ったもんだけどね」
そう言って弱々しく笑う。
促されるように、ウルシュラは道の彼方を見やる。ふわりと衣の裾を翻し、鈴の音のような笑い声を上げながら二人の少女が脇をすり抜け山道を駆けていく。
先ほど通り過ぎてきたシトー修道院を振り返る。先日最後に訪った時と同様、修道院は深い木立の狭間で固く沈黙を守っていた。ウルシュラはほっとする。ギユメットと二人で審問官の待つ砦に向かう姿など、修道院の誰にも──今は院長であるビアトゥこと姉妹ベアトリクスにもアンセルム司祭にも姉妹オルガにも、そしてとりわけソフィアには決して──見られてはいけない気がしたのである。
「あんたがいてくれて、本当によかったよ」
荒い息を吐きながら、不意にギユメットが言う。
「この間、突然寝床に来た時はびっくりしたけどね、あんたに色々教えてもらって、ずいぶん心構えができたよ。あの人と二人きりだったらどうなっていたか知れない。見ただろ、昨夜からの取り乱しよう。怖いんだ。怖いから腹を立てるのさ」
そして立ち止まり、深く深呼吸する。二度、三度と繰り返し、再び歩き出す。
「男なんて、いざって言うと腹が据わらないもんさね。怒鳴り散らせば道理が逃げ出すと思っているのさ。……でも、どうにもなりはしないんだ。考えなくちゃ、あんたみたいに」
呼吸に合わせて歩を進めながら、もっとも怖いのはあたしも同じさね、と呟く。
「ギヨームさんは、女将さんが心配なんだと思います」老女の背をさすりながらウルシュラはたどたどしく言葉を紡ぐ。「きっと、すごく……愛してるから」
そして、咄嗟に口をついて出たその言葉に自分で驚く。ギユメットも目を丸くして振り返る。
「意外と言うもんだね」
そして、赤面する娘の肩を抱き寄せると放笑する。
「驚いたりしてごめんよ。あんたは修道院の子だし、おつむも賢くていつも難しいことばかり言うから、少し意外だっただけさ。きっとあんたの言う通りだろうね……だから、何だかんだ言いながら何十年も一緒にいるんだよ」
そして、きっと行先を見据えると再び歩き出す。
「……イエス様だって言うだろ、隣びとを愛しなさい、って」
ギユメットはそれきり口を閉ざすと黙々と歩いた。ウルシュラはギユメットの言葉のその先に思いを凝らす。
それは得体の知れぬ重さを伴って、やがて汗ばむ掌にしかと握りしめられる。
山道が次第に険しさを増し不意に木立が途切れると、迫り立つ砦が姿を現した。
船のように奥へと細長く続く狭い頂を空壕と石積みの壁で囲んだ、小さな山城である。正面の狭い門の両脇に鎧を纏った二人の衛兵が立ち、登り来る者を睥睨している。
ギユメットが召喚状を示すと、衛兵は黙って奥を指し示す。二人は寄り添って門をくぐる。
中庭のそこここには長持や箪笥などの家財類が荷車に積まれたまま放置されており、兵士や書記官と思しき人物らが検分している。その奥に建つ主塔の入り口の周囲には、見知った村人らが呼び出しの順を待って佇んでいた。
二人の姿を認めて、順番待ちの女たちはすぐさま声をかけ、常と変わらぬ世間話の調子で呼び出された経緯を屈託なく喋り始める。男たちは素知らぬ様子でそっぽを向くか、忌々しげに舌打ちをし一様に黙りこくる。たまにそばの者に耳打ち程度の言葉をかける者もあったが、中庭の兵や書記官の些細な動きに、すぐさま口を閉ざす。
主塔の入り口を入ってすぐの脇に文机に向かった書記官がおり、男は時折顔を上げては一人ずつ名前を呼ぶ。人垣は一人、また一人と主塔に飲み込まれていく。
やがて、ギユメットの名が呼ばれた。呼びながら顔を上げた男は、傍のウルシュラに目を留めて誰何する。ウルシュラが付き添いである旨を短く告げると、男はそれ以上質すことなく二人を奥へと促した。
二人が暗がりを進み始めた時、再び背後から声がかかる。
「お嬢さんの方は何て言うんだね、名前は」
「ウルシュラです。ウルシュラ・ヴィエルグスといいます」
ウルシュラが振り返って答えると書記官は二、三度頷いて手を振り、再び二人を送り出す。
階段の手前に控えていた下級官吏に二階の部屋を告げられる。蝋燭の灯された階段を登ると、廊下を挟み左右に部屋が並んでいる。忙しなく廊下を行き交う官吏を避けて指定された扉を叩くと、中から、入りなさい、と声がかかる。
ギユメットに続きウルシュラが入室しようとすると、一人で、と声が制した。
「ここまでで大丈夫だよ。外で待っていておくれ」
ギユメットは縋るように腕に添えられた手を軽く叩いて微笑み、一人部屋に入っていった。
目の前で扉が重い音を立てて閉じる。
しばらく佇み耳を澄ませてみたものの、厚い扉に阻まれて中の会話は聞こえない。
踵を返して階段に向かおうとした刹那、斜め向かいの扉が開いた。
足早に退室する官吏を送り出すように後から姿を現した人物がウルシュラに目を留める。
「ウルシュラ──?」
振り返ると、審問官であることを示す高く尖った黒い頭巾に黒い外套を羽織ったドミニコ会士と思しき男が、じっとこちらを見ていた。
ウルシュラは立ちすくんで目を凝らす。壁に灯った蝋燭だけでは男の顔は判然としない。しかし、一言名を呼んだだけの口調にはどこか、見知った者の気安さがあった。
「おやおや、本当にウルシュラですか。……これは奇遇ですね。主のお導き合わせでしょうか」
男はそう言いながら、頭巾を脱いだ。
喉まで迫り上がった悲鳴を、ウルシュラは咄嗟に飲み込む。
暗がりに浮かんだ男の顔を、この四年間片時も忘れたことはなかった。
ただ、目を凝らしてよく見れば、その鼻は大きく曲がり顔の骨格も無骨に歪んで、路傍に転がる岩石を思わせる。なぜそのような変貌を遂げたのかを、ウルシュラは知る由もない(無論、私たちは若き姉妹のかつての恩師が彼に振るった狼藉をすでに見て承知している)。
数尋を隔てた先で薄い笑みをこちらに向けている男は、それでも、かつてソフィアやウルシュラを奈落に追い落とし、突如集落から姿を眩ませた教会司祭、その人であった。
「せっかくの機会です。少し話しましょうか」
かつての教会司祭はそう言って心持ち扉を大きく開いた。
静かな部屋である。初めに目に映ったのは、細く穿たれた窓辺に置かれた小さな陶の壺と、そこに差された数輪の野の花であった。手ずから摘んできたのだろうか──ウルシュラは前を行く男の背を推し量るように見つめる。
窓辺の花だけを見れば、市井の暮らし人の部屋にも思えたやも知れない。しかし窓の前には簡素だが重厚な文机が据えられ、その上には蝋板と書物が厳密に位置を定めて置かれている。傍のもう一つの卓についた書記官は、窓から差し込む光の余沢を受けて無表情に書類を整えている。
男が窓の前を横切る刹那、ウルシュラは光の下に顕になった男の顔貌をはっきりと捉える。醜く折れ曲がった鼻、形を違えた目、均衡を失った面立ちは元の形を脳裏に刻まれていなければ同じ人物とは思い至らなかったであろう。
「お掛けなさい」
男は光を背に席につくと静かに促した。ウルシュラは躊躇いながらも、指し示された椅子に腰を下ろす。
しばしの沈黙ののち、男が口を開く。
「私に何があったのか……そう思ったでしょう」
低く抑制された声は、それでも幾分か相手の反応を面白がるような調子を含んでいる。
「あの屈辱の夜──と言ったら嗤われるでしょうね──、血の味と痛みにまみれ、訳も分からぬままカスラリ医師の家に放り込まれた。朦朧とした意識の中で、私はただあの男の怒りについて考えていた」
男は両肘を卓に突いて手を組み、折れた鼻を隠すように顔を乗せる。
「やがて理解した。私は超えてはならぬ一線を超えていたのだと。司祭として、人として」
再び顔をあげたものの、その目はウルシュラを避けるように泳ぐ。
「それ以上、集落にはいられなかった。顔を合わせる者すべてが私を恐れ、軽蔑し、憐れんでいる。……耐えられなかった」
ウタツグミの遠く長閑な囀りに促され、男は窓に眼を向ける。
「トロサ、あそこに帰るしかなかった。かつての神学校の師を頼って。当然、師は私を歓迎しなかった。聖務を放棄した者に講壇は与えられぬ、と」
声に自嘲が籠る。
「それでも、追い返されなかったのは幸いだった。聖務を禁じられ雑務に使われたものの、書物の整理や講義の末席に座ることだけは許された。一年ほど過ぎた頃だったか……ドミニコ会の兄弟たちが神学校を訪ねてきた。彼らは異端に対峙するため、神学を修めた者を求めていた」
ウルシュラは男の話に耳を澄ませながらそっと書記の男に眼を向ける。その手は羊皮紙の上に休まり、視線は宙の一点に止まったまま、彫像のようにただ時が過ぎるのを見つめている。
男がゆっくりと息を吐く。
「私にはもはや講壇に立つ資格はない。それでも、過ちを犯したからこそ人の罪を見抜けるであろう。審問官を務める気はないか──兄弟たちはあの熱心さでそう説いた。私はそれに縋った。──そんなわけで、私はここにいる」
語り終えると、初めて正面からウルシュラを見据える。
ウルシュラは黙って男を見つめる。告白なのか、弁明なのか──おそらくはその両方であったろう。超えてはならぬ一線を超えた、と認めながらも詫びの言葉はなかった。
「さて」男は声色を変える。「次は君のことを訊きたい。修道院を出ていると聞きましたが」
「はい」ウルシュラは心を澄ませる。答えるべきを答える、それだけ。
男はウルシュラを見据えたまま問いを重ねる。
「自ら望んで?」
「はい」
「なぜ」
「外を、見る必要があると思いました」
「外とは」
「修道院の壁の外です」
男は眉を上げる。
「壁の内で神と向き合うことこそ、修道女の本分では」
「神は壁のうちにだけおられるのではありません」
「確かに」男は頷く。「しかし、アウグスティヌスは説いた──《神の国は世俗から離れたところに築かれる》と。君の行いは、その教えに背いているとは思いませんか」
「思いません」ウルシュラは静かにかぶりを振る。「世俗から離れるとは、場所を変えることではなく、心のありようを変えること──そう理解しています」
男は一息置くと目を細める。
「では、旅籠屋という世俗の只中で、君は修道女としての心を保てているのですか」
「保とうと努めています」
努めている、か──男は反芻する。
「しかし現実には、君は客の世話をし、薬草を調合し、世間話に興じている。それは修道女の姿ですか」
「《マルタとマリア》の話をご存知でしょう」ウルシュラは答える。「主イエスはマルタの働きを否定されませんでした。ただ、マリアの選択をより良きものと言われただけです」
「つまり、君はマルタの道を選んだと」
「まだ、どちらとも決めてはいません」
男はしばらくウルシュラを見つめ、やがて話題を変える。
「旅籠屋での仕事について訊きましょう。薬草の知識はどこで?」
「初めは母から教わりました、幼い頃の旅の最中に。道中、身を寄せた修道院の姉妹も色々と教えてくれました。ここへ着いてからは、シトー修道院の姉妹が薬草の先生です」
「姉妹の名は」
「……オルガです」
無言で羽ペンを走らせる書記官を確かめ、男は顎をさする。
「その、母上や姉妹オルガから授かった知識を用いて客を癒していると」
「はい」
「どのような病を」
「頭痛、腹痛、不眠、悪阻……日々の不調なら大体」
「治療の際、祈りは」
「唱えることもあります」
「どのような」
「主の祈りや、聖母への祈りです」
それを聞いて男は不意に頬を緩める。
「そういえば、君の祈りはトロサ司教のお墨付きでしたね……他には」
「他に?」
「客にわかるよう、オック語で唱えたりは?」
脳裏に寝床に横たわる〝マルティの奥さん〟と扉の向こうのくぐもった祈りが浮かび、ウルシュラは心ならず身構える。
「いいえ」
「本当に?」
「ありません」
男は不意に立ち上がると窓辺に歩み寄る。
「……不思議な話を耳にしたのです。『金鳳花亭』の贔屓の客たちが言うには、君の評判が立つにつれ『小さな待雪草』の客足が増えたという。妬む声もあったようだ、曰く、あの娘は異教の術を使っている、と」
「異教の術……? そんなものは使いません。ただ野の草の助けを借りているだけです」
「では、なぜそのような噂が立つのでしょう」
「知りません」
「君は聡明だ、受け答えの端々にそれが滲み出ている」男は振り返る。「だが……過ぎた聡明さは時に人々の疑念を招く」
ウルシュラは応えない。
聡明、聡い、賢い──昔からそうした賛美を幾度となく浴びて育った。幼い頃こそ言葉通りに受け取って得意になりもした。しかしやがて、その評価が時に危うさを孕むことを知った。大人たちは幼い娘に対して躊躇し、警戒し、訝しみ、時に牽制した。
知恵は使いどきが肝要、棒切れのように思うまま振るってはいけない──そう悟るまでに大した失敗を重ねなかったこともまた聡さなのだろうか、とウルシュラは疎ましさすら覚える。何となればそれこそが、わたしをこの部屋に導いたのやもしれないのだから。
男はしばらくウルシュラの様子を伺った後、やおら書記官の傍に歩み寄り、その机の端に置かれた木箱に手を伸ばす。
「ところで、これを見てほしい」
男が箱から取り出したものを見て、心臓が跳ねる。
──どうして、ここに。
「これが何か、分かりますか」
「いいえ」
ウルシュラは咄嗟に答えた。
《今夜鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないというだろう。》
わたしは今、イエス様を否認したペテロと同じことをしている──魂の奥底から熱を帯びた何かが滴り落ちていく。ウルシュラはそっと目を伏せる。──今だけ許して、父様。
男は手の中の金属片を仔細に検分しながら言う。
「甲冑……の一部のようだ。鷲の文様……どこかの貴族のものでしょうか」
見せつけるようにウルシュラの顔に近づける。
「『金鳳花亭』に出入りする羊飼いが報告してきたそうです、古いオークの木の前でしばしば立ち止まり、祈りを捧げている人たちがいる。気になって調べたら、根方からこれが出てきたと。……なぜこのようなものが埋められていたのでしょう」
「知りません」
男は手のものに顔を向けたまま、目だけをウルシュラに向ける。
「本当に?」
「はい」
男は金属片を卓に置き、自席の後ろをゆっくりと横切る。
「モンセギュールの残骸から細々としたものを持ち出す者がいると聞きます。石でも鉄でも、カタリ派の者たちにとっては意味あるものらしい。おかしな話です。彼らは物質を悪とみなすのではなかったか。十字架も聖遺物も否定していたはずが、焼け残ったものには執着する。なぜなんでしょうね」
水を向けられ、ウルシュラは目を伏せたまま答える。
「失ったものの、よすがを求めて……ではないでしょうか」
「よすが、ですか」
「記憶を留めるため、誰かと自分のつながりを確かめるものとして」
男は目を細める。
「なるほど。つまり君もそうだと。何かを失い、その記憶を留めるために木の下に金属片を埋めた、と」
「何のことか判りません」
「判らないはずがない」男の声が鋭くなる。「君は『小さな待雪草』に身をせている。女将のギユメットは君を本当の娘のように可愛がっている。ギヨームも然り。その二人が、そして他ならぬ君自身が、あの木の前で祈っているところを目撃されているのです」
ああ、そういうことか。
──この山の見晴らしの良い場所で弔いたい、そう思ってそこを選びました。
セバスティアンさんは良かれと思ってあの場所を選んでくれた。わたしも、父様ならあの場所を気に入るだろうと信じた。けれど見晴らしの良い場所は、当然人目につきやすい。
馬鹿だな、わたし。
頬が緩みそうになるのをウルシュラはかろうじて押しとどめる。──そんな当たり前のことに気づかないなんて、聡い娘が聞いて呆れる。
「もし」男は自席を回りウルシュラに歩み寄る。「この金属片が異端とのつながりを示すものであれば、ギユメットにもギヨームにも、そして君にも嫌疑がかかる。わかっていますか?」
「ただの金属片が、どうして異端の証明になりましょう」
男は躍起になって言い募る。
「状況証拠は積み重なっている。薬草の知識、にわかに勝ち得た人々からの信頼、奇妙な祈りの場。カタリ派の善信者たちは、まさにそのようにして少しずつ巧妙に人々を惑わせてきた」
「私たちは善信者ではありません」
「では、何者ですか」
「ただの、旅籠屋の家族です」
男はなおもしばらく探るようにウルシュラを見つめ、やがて深く息を吐く。
「君は、実に手強い。四年前にしてすでにそうだった」
そしてしばし黙り込む。追って書記官の手も止まる。
ウルシュラは身の内の構えを崩さない。その沈黙が小休止ではないことを知っている。
やがて男は静かにかぶりを振ると隣室の方を向いて言う。
「ただの旅籠屋の家族──仮初の。君の本当の母親はクリュニー修道院にいるのでしょう。向こうの部屋で審問を受けているのは君の母親ではない。君が潔白だと言うのであれば、それを証明する方法は簡単です」
そして生気のない眼差しをウルシュラに向ける。
「ギユメットとの、『小さな待雪草』との関わりを断てばいい。もともと、寄せられた証言にカタリ派信者と懇意にしていた連中の一人としてギユメットの名があった。言ってみれば、君は今、たまたまそれに巻き込まれているだけなのですよ」
刹那、静かな、凍えるような熱が揺らめく。ウルシュラはその小さな青い炎を凝視する。
卑怯だ、この人は。昔も今も、どこまでも卑怯な人だ。
女将さんをこの人に渡してなるものか。堅信礼のあと部屋に閉じ籠り、涙に暮れたソフィアみたいにさせてなるものか──。
ぎしりと奥歯を噛み締めながら、ウルシュラはゆっくりと顔を上げると唇を開く。
「それは、違います」
「何が」
「女将さんが疑いをかけられているのだとしたら」
声が震えるのを抑えきれない。それでも必死に言葉を手繰る。
「巻き込まれているのはわたしではなく、女将さんの方だから」
男は目を見開く。その奥に潜む歓喜の色をウルシュラは見逃さない。挑むように続ける。
「わたしが旅籠屋に身を寄せたから。不用意に薬草の知識を用いたから。古いオークの木に父の面影を重ねたから。もし何らかの疑いを招いたのだとしたら、それは全てわたしに帰されるべき咎です」
「君は自分を犠牲にして女将を守ろうとしている。何と健気で、幼く、愚かしいことか」
「犠牲ではありません」
ウルシュラは強く遮る。
「女将さんも、ギヨームさんも、それにこの村の皆も、わたしを家族として、オスタルとして受け入れてくれました。わたしがここに今あるのは、皆のお陰です。わたしはモンス・ラヌンクリの娘──ただ、それだけです」
「家族の絆だと。だから、その恩に報いるのだと。そういうことですか」
男は蔑するような声音で言う。
ウルシュラはもはや男を見ない。自らに確かめるように決然と呟く。
「犠牲でも、報いでもない。ただの、ありのままの真実です」
男はしばらくウルシュラを見つめる。
「ウルシュラ。確か四年前にも私は訊きましたね。君は一体何者なのか、と。──ようやく今、答を得ました。君は聡い。だが、それだけです。聡いだけの、愚かな子ども。それが君だ」
書記官を振り返り命じる。
「記せ。重き嫌疑あり、と」
さらに何事かを耳打ちすると、書記官は立ち上がって部屋を出ていく。
「沙汰は追って出します。それまで旅籠屋から出ないように」そして静かに十字を切る。「残念です──主の哀れみを」
廊下に出るのとほぼ同時に、斜め向かいの扉が開いてギユメットが姿を見せた。恐れていた狼藉を受けた様子もなく、首を傾げながら部屋を振り返っていたが、ウルシュラの姿を認めると駆け寄ってその手を取る。
「何だか知らないけどいきなり、もう帰っていい、だってさ。馬鹿にしてるじゃないか、散々ある事ない事ほじくっておいて、何だい。ああ嫌だ嫌だ。帰るよ、ウルサ」
ウルシュラはいきり立つギユメットが常と変わらぬことを確かめ、その両肩に腕を回す。
「心配かけてすまなかったね」
ギユメットはたじろぎながらも娘を抱き留め、二人は並んで砦を後にした。
道々、ギユメットは審問官がいかに無礼な質問を繰り返したかを捲し立てた。そのうちふと立ち止まると、己の手をしっかりと握りしめたウルシュラを振り返り、しげしげと見つめて言う。
「何か、変だ」
ウルシュラは答えない。
「あんたまさか……何か、したのかい」
ウルシュラは黙ってギユメットを見つめ、やがて熱っぽく微笑む。
「女将さんが、無事でよかった」
ギユメットの顔から表情が消える。「……嘘だろ」
ウルシュラの手をほどき、その細い肩を恐るおそる掴んだ手に、徐々に力が加わる。
「ねえ、嘘だよね。やめておくれよ。こんな婆さんのために、あんた──嘘だと言っておくれ」
ウルシュラは震える唇を開いてどうにか笑みを作ると、仮初の母の動揺を宥めるように静かに抱きしめる。
「わたし、女将さんが、大好き」
馬鹿娘、あんたは大馬鹿だよ──搾り出すように繰り返される叱咤と共に、太く柔らかな腕に息もできぬほど抱きしめられながら、ウルシュラは己を打ち据える言葉にそのたび頷く。
一二五三年六月末。二度目の召喚状が、今度はウルシュラの元に届く。
書面で通達された日の朝、教会の前に着けられた幌馬車に、砦の審問で嫌疑ありとされた十名以上の村人たちと共にウルシュラも乗り込む。一緒に行くと言って強引に荷台に足をかけるギユメットを、城代の衛兵が引き摺り下ろす。実際、馬車の荷台には付き添いが乗り込む余地はなかった。追い縋りながら小さくなるギユメットに、ウルシュラは微笑んで小さく手を振る。
三日を費やしてアッパミエに着くと、再び審問が行われた。モンス・ラヌンクリで取られた調書をもとに繰り返される微細を穿った質問に、ウルシュラは淡々と答える。
不思議と、もはや恐れはない。《最後の審判》の日も、こんなふうに心穏やかなものだろうか。目の前に居並ぶ審問官たちの隣に、ウルシュラは心の木炭で主イエスを描く。その透徹した眼差しに比して、生身の審問官たちの倦み疲れて濁った目が被告席の少女を捉える。
「──ウルシュラ・ヴィエルグス。汝に、《巡礼の道》を命ずる」
娘は静かにこうべを垂れる。




