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十一  ニコラとロドリグ

 巡礼の道。

 私たちはかつて若き姉妹が二人の友と和やかに語り合った日を思い出す。

 ──巡礼の人たちってとても長い旅をするそうよ。何ヶ月もかけて遠い聖地を目指して歩くのだって。そんな旅をする機会が、もしかしたらこの先あるかも知れないじゃない。

 ──いやよ。巡礼って、そりゃあ進んでする人もいるそうだけど、異端宣告された人が罪を償うためにするって聞いたわ。前にジャンヌの家に縁談を持ってきたカルカッソナの商家の使いの人が言ってたんだって。街から大勢の異端者が、胸に大きな黄色の十字をつけた服を着せられて送り出されたって。

 ……アニエスの畏れは、それが単に刑罰であるからにとどまらない。巡礼は長く厳しい旅となる。途中で命を落とす者も少なくない。刑の本旨は、実質的に被疑者をその根付く土地から切り離すことにあるとも言えるであろう。

 詰まるところ巡礼の道とは、人の和からの追放に他ならない。


 審問団によってウルシュラがアッパミエに送られたとの報せは、ギユメットによってシトー修道院長ベアトリクスにもたらされ、瞬く間に縁の者たちへ伝播した。

 ウルシュラに降りかかった災厄を、各々はいかに受け止めたのであろうか。再び母マリアの手記をひもとく。


《娘がアッパミエに送られた、と姉妹クレマンスから報された。

 あまりに突然のことで何も考えられない。何度も訊き返す。

 なぜ。何のため。誰の手で。解らない、何も。

 報せはシトー修道院を経由して届いたらしく、要領を得ない。知らず、姉妹の肩を掴んで問いただしてしまう。ジョゼップに肩を揺さぶられて我に返ったとき、自分の寝床に腰掛けたまま夜を明かしていた。

 異端の嫌疑を、ウルシュラが? 何度考えても解せない。そんなことは天地がひっくり返ってもあるわけがないではないか。あの子に限って何かの間違いに決まっている。

 何かの間違い──固くそう信じる。信じているのになぜだろう。心のどこかで、こうなることを予期していたような気もするのだ。あの子を一番信じているはずの私が、どこかで。

 良くない。教会という大きな制度に圧倒されて考えることを諦めてしまっている証だ。

 心を鎮めよ、マリア。いつまでも取り乱した姿をジョゼップに見せてはいけない。

 朝を待って「小さな待雪草」へ。あの二人に何があったのかを訊きに行く。

 店にはギヨームさんが一人。ギユメットさんは奥で伏せっていた様子だったが、ギヨームさんは出直すと申し出た私を引き留めて呼んでくださった。

 私を見た途端、ギユメットさんは床に頽れて泣きながら詫びる。胸が詰まり、抱き止めて顛末を訊く。

 ギユメットさん自身にかけられていたはずの嫌疑が、なぜか砦で別々になっていたわずかな時間にウルシュラに転嫁されたという。気づいたギユメットさんはウルシュラに、砦にとって返して誤解を解かなければと説いたが、ウルシュラは頑として首を縦に振らなかったという。

 一体、どういうことなのか。砦で何があったというのだろう。

 あくまでギユメットさんに贖って欲しいわけではない。けれど誤解は解かなければならない。

 私が砦に掛け合います──そう告げて「小さな待雪草」を出る。

 しかし、砦の番人は召喚状も紹介状も持たない私を門の内に入れてはくれなかった。

 私は修道院にとって返し、何通も書簡をしたためた。城代へ、審問団へ、シトーの姉妹ベアトリクスへ、クリュニー本院の院長様へ、……そしてポロニアの屋敷へ。最後のものは娘を助けるために意味をなすはずもない、けれど書かずにはいられなかった。今の私の気持ちを一番に理解してくれるのは、屋敷の皆をおいて他にはいないのだから。


 数日を経ずして姉妹ベアトリクスから返信が届く。娘の申し出を院長として認めたことに対する深い悔悟と心痛。それでも、今はただ祈ることしかできないという。

 彼女の立場を頭では理解できても、心が受け入れない。この感情には覚えがある。異端の砦の攻囲戦にユゼフが出征した後、クリュニー本院の書記の方に何度消息を訊ねても同じ返事しか返ってこなかった、あの時と同じ。

 文の最後に添えられた、姉妹ソフィアが痛ましく悲嘆に暮れているという一文が気に掛かる。ウルシュラの大事な親友。私とジョゼップが村に帰れると知った時、誰よりも喜んでくれたとウルシュラから聞かされた。急いで会いに行く。

 年長の姉妹に付き添われた姉妹ソフィアは、聞いていた勝気な少女の印象も見る影なく窶れ、青ざめた顔で客間に現れた。私をウルシュラの母と知ると言葉もなく縋りつき頽れる。

 不思議なものだ。どれだけ窮地に立たされ自らの悲しみに拉がれそうな時でも、同じ悲しみを分かち合ってくれる若い人に縋られた刹那、守らなければという力が腹の底から湧き上がる。

 絶対にあの子を取り戻す、だから心配しなくていい──ソフィアにそう約束する。

 付き添いの姉妹はオルガと名乗った。何と、「小さな待雪草」のロカドル夫妻の娘だと言う。そして、ウルシュラは自分の身代わりになった、と平身低頭するのだ。またも身代わり。あなたは悪くない、あの子が自分で決めたことだから──旅籠屋の娘を宥めながら、次第に奇妙な思いに囚われる。

 誰かに降りかかるはずだった災厄を身代わりに引き受ける娘──まるで聖人の受難譚のようではないか。ウルシュラが聖人? あの子はマグナートの娘だ、断じて聖人などではない。

 クリュニー本院の院長様からは型通りに神の加護を祈る返事が届き、城代や審問団からは何の音沙汰もない。身を掻きむしるほど歯痒くもどかしい。

 ジョゼップがしきりに心配してくれる。まだ姉の事態を報せてはいないが、娘同様聡いところのある息子のこと、気づくのは時間の問題だろう。加えて、慎重に説明しなければ突飛なことをしでかしかねない危うさがこの子にはある。目を離すまい。

 砦に繰り返し文を書く。返事が来るまで書く。》


 ……常ながら、母マリアの胆力には敬服の念を禁じ得ない。それでも、神の家から発せられる一女性のあえかな声は、殿方に司られた神の理の前に儚く霧消したのであろう。

 ただ一つ補い記しておくならば、マリアが放った何本もの矢は、その全てが虚しく地に落ちたわけではなかった。それについては後ほど語ることになろう。


 巡礼の判決を受けたウルシュラはほどなく、いったんモンス・ラヌンクリに戻った。

 旅籠屋「小さな待雪草」の戸口に立った娘に、ロカドル夫妻はしばらくそれと気づけなかった。もう二度と帰らぬのではないかと店も開けず悲嘆に暮れて過ごしていた夫妻は、黙って戸口に佇む小柄な人影を幽霊と見紛い言葉を失った。やがてギユメットが駆け寄り、その頬となく肩となく撫でさすりながら声を殺して慟哭する。ギヨームは黙って歩み寄ると娘をまじまじと凝視し、お前、本当にウルサか、と問う。

 二人の戸惑いは、二度と戻らぬかと諦めかけていた者が不意に戻った、その驚きのみによるのではなかった。アッパミエに送られていたわずかの間に何があったのか──そう問わずにはおられぬ、何かただならぬ気配をこの娘が纏っているように、二人には感じられたのである。とりわけ一番の変化は、盲者のように娘を撫で確かめるギユメットの手で被っていた頭巾が払われた時に明らかになった。

 ギユメットが小さく悲鳴を上げる。

「あんた、その頭はどうしたんだい」

 それまで柔らかく波打つ栗色の毛を一つに編んで背に垂らしていた娘の髪は、まるで少年のようにうなじで短く切り揃えられていた。頭巾を被っていてさえギヨームが訝しく誰何したのも無理からぬことであった。

「旅に出るので」

 日頃から言葉少ない娘の、それが返答であった。

「戻る途中、羊飼いに鋏を借りて切りました」

 そして唖然とする二人を順に長いこと抱擁し、その頬に唇を寄せた後、ゆっくりと膝を折り、これまでの恩に礼の言葉を尽くすのであった。

 あの子は、本当はどこかの貴族の姫様か何かだったんじゃないかと思うんだよ──ギユメットは後年、ことごとにこの半年のことを思い返しては述懐したという。


 聖務日課を縫って誰とも会わずに修道院の中を歩くのは、八年近くをここで過ごしたウルシュラにとっていとも容易いことであった。

 静まり返った廊下をたどって、ソフィアと二人で寝起きした部屋に立つ。今は使われていないその部屋の床にそっと荷を置き、ウルシュラは耳を澄ます。

 礼拝堂で祈りを捧げる姉妹たちのかすかな声。

 それを遮るように時折板戸を揺らす強い風。

 その風に抗いながら空に遊ぶ鳥たちの囀り──。

 呼び合っている──ウルシュラは思う。──わたしたちはいつだって呼び合っている。手を伸ばし、届き、触れたいと願っている。祈りは、わたしたちの願い、そのもの。

 不意に、背後に気配を感じて振り返る。

 戸口に姉妹オルガが立っていた。

 姉妹は一言も発さず黙ってウルシュラを見つめる。やがてゆっくりと歩み寄り、包み込むように抱き寄せると、短くなったうなじの毛を慈しむように撫でながら耳元で囁く。

「馬鹿──本当にあなたはお馬鹿さんだわ」

 そして一際強く抱きしめると、母を助けてくれてありがとう、と小さく添える。


 部屋にひっそりと一人分の寝床が用意された。夕餉のパンとスープを壁際の文机に置きながら、姉妹オルガはウルシュラに告げる。「終課のあと、回廊の中庭に降りていらっしゃい」

 姉妹たちが一日の最後の祈りを済ませて大部屋に引き上げたのを見計らい、ウルシュラは食器を厨房に下げ、壁伝いに回廊に出る。

 夜闇に沈んだ中庭の薬草園に、小さな灯りが一つ浮かんでいた。

 立ち止まり、目を凝らす。

 静寂を足元の虫の声が埋める。

 不意に、浮かんでいた灯りが消えた。

 ウルシュラは意を決して土に踏み出す。明かりのあったあたりへ、一歩一歩と歩みを進める。草の香が闇に示す道を手繰るように手を伸ばす。

 その指が、柔らかな熱に触れる。

 迎え入れるように身じろぎも声もない。

 たおやかな生地の曲線をウィンプルからヴェールへとたどり、やがて頬に触れる。

 おずおずと確かめる指に細く長い指が絡まり、ほのかな吐息に導かれ、やがて唇に触れた。

 ウルサ、とその唇が動く。

 ソフィア、とウルシュラも囁き返す。

 ソフィアは掌に包んだ指に二度、三度と口づけすると、そのまま強く抱き寄せる。その手がうなじに触れた刹那、びくりと身を離した。

「ウルサ……よね」

 ウルシュラはソフィアの手を再び己の後ろ髪に導きながら、小さく笑う。

「男の子、みたいでしょ」

ソフィアは闇の中で息を呑んだまま応えない。

 やがて二人はどちらからともなく手を繋ぐと黙って空を見上げる。八年前と同じ、畏怖すら誘う満天の星空である。時折音もなく鮮明な尾を引いて星が流れるのを、二人は言葉もなく、ただ八年の歳月を思いながら見つめる。

 見上げたまま、ウルシュラがぽつりと口を開く。

「昔ここで、ベンヴェヌート先生に訊かれたね。何が見える、って」

 傍でソフィアが頷くのが判る。ウルシュラは続ける。

「星しか見えない、ってわたしは答えた。子どもだったもの、先生に反発してみたかっただけかもしれない。……でも、今は思う。星が、見えていたんだって。こんなにいっぱい、溺れそうなくらいいっぱいの星が、わたしを見ていてくれたんだって」

 ウルシュラの手を握るソフィアの手に力が籠る。

 ウルシュラは煌めきに目を凝らしたまま無邪気に問う。

「ねえソフィア。あの日あなたが星空に描いて見せたこと、まだ覚えてる? アニエスやジャンヌの幸せな未来。あれ、すごく楽しかった」

「覚えているわ」ソフィアは夢を見るような声音で応える。「二人には、つまらない思い煩いにとらわれず幸せになってほしい──そう思ったら、勝手に星が繋がっていったのよ」

「だったら」

 ウルシュラは繋いだ手をほどき、初めて姉妹にまっすぐ向き直って言う。

「わたしの未来も、描いて見せて」

 ソフィアは驚いてウルシュラを見る。やがて吐息が震え、ウルシュラの細い肩に縋るように手をかけてかぶりを振る。

「……ウルサ、司祭様からみんな聞いたわ。どうしてあなたが……」

「違う」姉妹の問いを遮ると、ウルシュラは力を込めて囁く。「ソフィア、あなたから聞きたいのは嘆きじゃない。あなたが信じてくれる、わたしの幸せな未来を教えて。あなたが力をくれたなら、わたしは何だってできる。どんな困難だってはねのけて見せる。あなたの不自由も悲しみも、残らず取り去ってあげる。──わたしは、あなたの騎士、ウルシュラなんだから」

 静寂を忍んで嗚咽が漏れる。それでも、やがて姉妹は決然と空を見上げる。

「……あなたはね、どこまでも歩いていくの。まっすぐ前を見て、元気に手を振って。そしていろんな人に出会う。きっとみんな、あなたが大好きになるわ。あなたは、困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない。悲しんでいる人には寄り添わずにはいられないもの。時には道の途中で躓くことがあるかも知れない。良くないものがあなたを惑わせるかも知れない。でもあなたが道を違えることはない。神様への愛と、知恵と勇気と、あなた自身の力で、どんな険しい荒地にだって怯まず道を作っていくのよ。私には見えるわ、あなたの作ったその道が」

 ウルシュラは姉妹の言葉に背を押されるように星空に一際目を凝らす。

 途切れることのない一本の道。その一筋が、高く高く、どこまでも高く、北の動かない星を目指して真っ直ぐに続いていく。──ああ、わたしにも見える。

「……Age, iter faciemus」

 口をついて零れた言葉に、ウルシュラは息を呑む。霞む記憶の狭間から呼びかけるその声に、確かに覚えがあった。

 わたしはずっと歩いてきた。父様と、母様と、ジョゼップと、クリュニーのみんなと、シトーのみんなと、モンス・ラヌンクリのみんなと……そして、ソフィアと。

 この道が、途切れずに続いていく。ただ、それだけのこと。たった、それだけのこと。

「ソフィア……わたし、あなたが見た通りに歩いていく。あなたが描いてくれた通りの道を作って、そして必ず帰ってくる。それまで、待っていてくれる?」

「もちろんよ」小さな姉妹を包むように抱擁しながら、ソフィアは長い間堪えてきたことをやっと告げる。「ごめんね、ウルサ。ごめんね……私、あなたに嫉妬していたの。あなたが眩しすぎて、愛しすぎて、そばにいたら私、燃え尽きてしまいそうだったの。なのにあなたを遠ざけたら、今度は凍えそうなほどに暗くて、神様の声も何も聞こえなくなってしまった」

「ソフィア」抱きすくめられたままウルシュラは囁く。「大丈夫。ギヨームさん──姉妹オルガのお父様が教えてくれた。神様の声はね、いつだって、どこにいたって聞こえるんだって。ただ、心を澄ませて、耳を澄ませばいいの。どんなに離れていても、あなたとわたしは同じ声を聞いてる。見て、ほら」

 ウルシュラに促されて見上げるソフィアの瞳に、いく筋もの光芒が映っては流れ落ちる。

 やがてそっとウルシュラを放すと、ソフィアは静かに大きく息を吐く。

「……ごめんね、もう泣いたりしない。私、あなたを信じる。どんなに離れていても、あなたと私は同じ声を聞いて、同じ星を見ているのね。あなたを信じて待ちながら、私はあなたに恥じない私になる」

 二人は今や、互いに取り合った手からとめどない力を分かち合っていることを知るであろう。

 祝福の光芒は音もなくただ尾を引いて流れるばかりである。


 翌日、ウルシュラはクリュニー修道院へ母と弟を訪った。

 客間で再会を果たした母は、娘の無事な姿に安堵するいとまもなく、短く刈られた髪と示された判決文書に絶句した。倒れ込むように椅子に腰を落とすと、文書と目の前の娘を呆然と見比べ、恐るおそる断髪の理由を訊ねる。手入れのままならぬ長旅なら短い方がいい、と娘は答え、それに、と続ける。

「一度男の子みたいに短くしてみたかったの。世界がどう見えるだろう、って」

 娘の平然とした物言いに母は口籠る。己自身、娘時分に一度ならず考えたことである。だが目の前の娘の潔さはどうだ。とても冤罪で放逐されんとする者には見えないではないか。

「姉様、格好いいね」母の傍で弟が感嘆の声を上げる。「ねえ、もしかして父様って、こんな感じだったんじゃないかな」

 息子の何気ない賛辞にマリアははっとする。髪を短くした娘は、確かに驚くほど良人ユゼフの面影を宿していた。同年代の娘たちと比べてもとりわけ小柄で華奢ながら、いつの間にか若武者のごとき屹とした凛々しさが漲る。その姿から目が離せない。

 娘の気遣わしげな眼差しに、母は己が滂沱と頬を濡らしていることに気づく。拭いながら沸々と場違いな清々しさが込み上げる。

「……あなたが小さい頃、父様は大きな戦に参じたの。覚えてる?」

 母の不意の昔語りに娘は記憶をたぐる。

「よく覚えていないけれど……でもわたしたちが国を離れたのは、そのせいなのでしょ」

「タルタリだっけ、父様が戦ったのは」

 母は子どもたちに頷いて見せる。

「それはそれは恐ろしい戦だったわ。指揮を取られたヘンリク公すら、無惨に命を落とされた。でも父様は生きて戻られた。私たち家族を守りたい、その一心で、傷だらけになりながら帰ってきたのよ」

 母は向かい合う娘に手を伸ばし、その髪をそっと撫で、傍の息子を抱き寄せる。

「……だから、私たちは今こうして生きている。私たちはマグナート、ユゼフ・ヴィエルグスの家族。どんな苦境だって、私たちは力を合わせて乗り越えてきた。ウルシュラ、あなたは騎士の娘なの、わかるわね」

 ウルシュラは母の一言一句を咀嚼するようにゆっくりと頷く。

「あなたに一欠片の罪もないことは、母様がよく解っている。あなたに科されたこの罰は不当なものよ。無視して三人でポロニアに帰ったとて、何も疚しいことはないと母様は思っているわ」

 黙って母を見つめていたウルシュラは、眼差しを定めたまま静かに問う。

「……父様は、そうなさったと思う?」

 刹那、母は目を見開いて絶句する。マグナートの家族、騎士の娘──説いてきた言葉がいっぺんに裏返されて日の元に晒されたような後ろめたさに、一言も返せない。

 娘は言葉の一つひとつを吟味するように訥々と語る。

「わたし、今になってふと考える。父様は、なぜゆかりもない異国の地でまた戦に出られたんだろうって。どうしてポロニアの戦を生きて帰れたのに、今度は帰らなかったんだろうって」

「それは──」

いったん開いた口を力なく閉じる。マリア自身、その答はいまだに見出せずにいるのである。

 娘は詠じるように続ける。

「もしかしたら──父様はずっと探していたのかもしれない。自分は間違っていなかったって、神様に証立てする機会を」

 セバスティアンは旅籠屋で名乗り出た日、ありし日の父の言葉を伝えた。よそから来た者がこの土地の諍いに身を投じるのは、それが唯一、自らの信仰を証しする手立てであるからだ──そう彼に語ったのだと。

 ウルシュラの瞼に浮かぶ父の残像は何時も揺らがぬ自信に満ちている。けれどもしかしたら、ソフィアの父、カスラリ医師のように、父もまた己の出自に忸怩たるわだかまりを抱き続けていたのではないか。たとえ公然と指弾する者がなかったとしても、自身の内に己を閲する眼差しを作り上げていたならば、偽らざる己を証立てる最後の手立ては神の前に身一つで立つこと、それだけだったのではないか。

 娘の述懐を前に、母マリアもまた己の記憶と向き合う。出征中の良人が夢枕に立った夜、思い詰めた表情で交わした言葉。

 ──己の良心に従わなければならない、許してほしい。

 ──良心って何のこと。

 ──信じるべきを信じることだ。だからもう戻れない。

 信じるべきを信じる。それは何人の介入をも許さぬ神と己との一対一の審判なのであろうか。

 そして娘もまた、己を証立てるために自ら進んで長い道を歩み出そうというのか──。

 母はもはや、己が娘を押し留める力を持たないことを知る。

 深く息を吐き、伏せた目を再び上げるとひたと娘を捉えて言う。

「──必ず、戻るのですよ」

 娘は、今度こそしっかりと頷いてみせる。母は傍の幼い息子の肩にそっと腕を回すと、楔を打つように言い添える。

「あなたが戻るまで、母様とジョゼップはここで待っていますからね」

 それまで黙って母と姉のやりとりに耳を傾けていたジョゼップが不意に訊ねる。

「それで、姉様は一体どこへ行くの?」

 三人は示し合わせたように中央の小卓に置かれた判決文書に視線を落とす。母は忌まわしいもののようにそれを摘み上げると、再度目を走らせた。

 Ad Sanctum Iacobum de Compostella──コンポステーラの聖ヤコブへ。

 その箇所を読み上げるとふと立ち上がり、子どもたちにしばし待つように告げ客間を出る。そして、ほどなく折り畳まれた羊皮紙を手に戻ると三人の間に広げた。

 それは、古びた地図であった。

「わあ、大きいね」ジョゼップが身を乗り出し覗き込む。

 ウルシュラは瞠目する。父が馭者台で広げるこの地図をたびたび後ろから覗き込んだ記憶が、鮮明に蘇る。

「懐かしい……まだあったのね」

知らず呟くと、母は地図の上に人差し指を滑らせながら言う。

「もちろん、とってありますとも。帰る時にまた必要になりますからね。こんな立派な地図、どこを探したってないでしょうから」

 やがてその指が、西に大きく張り出した半島の北の岬で止まる。

「……ここ?」ジョゼップは母の指に己の指を重ね、もう一方の人差し指で今自分達がいる場所、オクシタニアを探し当てると、当惑したように呟く。「すごく……遠いね」

 ウルシュラは弟の二本の指が示した距離を測るように押し黙る。やがてコンポステーラに置かれた指を取ると、地図の反対の端へと導く。

「ポロニアはここ。もっと、ずっと遠い」

 ジョゼップは指を取られ、腕を大きく交差させられたまま笑い出す。

「本当だ、とんでもなく遠いや。じゃあ、コンポステーラなんて大したことないんだね」

「そう」ウルシュラも弟に微笑みかける。「大したことない」

 母はここに来てようやく娘の目に映る世界の一端を知る。

 この子は目がいい。それは幼い頃から気づいていた。けれどそれだけではない、その目に潜む物差しはどこまでも柔軟で自在なのだ。

 息子の指が離れて一人ヒスパニアの北の果てに置かれたままの己の指を見つめ、改めてオクシタニアとの隔たりを目測する。やはり私にはとても「大したことない」とは思えない。

 けれど、もはやそれは口にするまい。

「ウルシュラ」地図を畳むと娘に差し出す。「持ってお行きなさい」

 躊躇いがちに受け取って見つめ返す娘に、母は強く微笑んで頷く。

「遠いポロニアからここまで、私たちを連れてきてくれた地図です。きっと今度も、あなたを導いてくれるわ。……それと、これを」

 差し出した母の手から光るものがこぼれ落ち、宙で揺れる。掬い取るように受け取れば、聖者を彫った首飾りであった。

「まだあなたが一つか二つの頃、ヘンリク公から授かった聖アダルベルト様のお守り。父様が教会の建設のお手伝いをしたお礼で、家族で狩りに招待された時、あなたと同い年のピャスト家のお姫様とお揃いで頂いたの」

 そう、確かあなたが……と言いかけて、母はふと口を閉ざす。その狩りの日の記憶に長い間放置してきた欠損があることを思い出したのだ。取り乱したピャスト家の侍女らのもはや詳細も思い出せぬ要領を得ぬ報告。良人ユゼフと二人揃って何かの見間違いだと一笑に付した記憶。

 まだほんの赤子だったこの子について、一体何を聞かされたのだったろう──目の前で次の言葉を待つ娘をじっと見つめ、やがて母はかぶりを振り思い直す。──まあいい、いずれ腹落ちできたなら、改めて語って聞かせよう。

「いいえ、何でもない……故郷の聖者様が、きっとあなたを守ってくださるわ」

 宙吊りにされたようなわだかまりを覚えながらも、ウルシュラは刻まれた聖人の横顔をそっと胸に落とす。


 シトー修道院の院長ベアトリクスとアンセルム司祭は、ウルシュラに下された罰の重みを本人や家族以上に重く受け止めた。

 この間の修道院の立場は極めて複雑で危ういものであったろう。いったん迎え入れた、どころか厚い期待を担わせた一人の若い修練女を自らの不手際で外の世界に放さねばならない。それは母マリア同様に身を切る親の心情であったに違いない。しかし一方で、修道院もまた教会秩序の内にある。他の姉妹たちの手前、事情や経緯の如何によらず、制度が罪を断じた者に過度の肩入れを示すことも、母マリアのように正面切って抗議することも能わぬ。

 身を裂かれるような葛藤に苛まれながら、彼らはせめて娘のために万端の荷造りに努めた。

 道中の旅費を案じたロカドル夫妻は、ウルシュラに半年の労働の給金としておよそ二十ソルほどを手渡した。修道院も密かに同等かそれ以上を支援したと思われる。母マリアは百ソルを外套に縫い付けると言い張ったが、ウルシュラは、重くなるから、と半分のみを受け取った。

 判決文書に記された出立期限まで、ウルシュラは毎日のように掛金の部屋にこもり、時を惜しんで本を読み漁った。修道院の書棚にカリクストゥス写本が収められていたのは僥倖であったろう。詳らかに記されたコンポステーラの聖ヤコブまでの巡礼路を母から借り受けた地図の上になぞりながら、ウルシュラはこれから己が歩むであろう途方もない旅路を懸命に想像する。


 そして、ついに出立の日である。

 目覚めのみぎわ、ウルシュラは夢うつつに大勢の人々の声を聞いた。

 父や母、弟の声。戯けるアニエスに笑うジャンヌ、嗜めるソフィアの声。クリュニーで共に過ごしたアデルやベルト、マルグリットの声。詩篇を読む姉妹クレマンス、静かに慮る姉妹コンスタンスの声。慈悲に満ちた院長ベアトリクス、洒脱な説教を講ずるアンセルム司祭、調薬の材料を諳んじる姉妹オルガの声。軽口を交わすロカドル夫妻の声、親しみの水を向けるカスラリ医師の声、低く包み込むようなベンヴェヌート司祭の声──。

 しばらく天井を見上げたまま、心を凝らして一人ひとりの顔を思い描く。

 日が登れば暑さが身に応える季節である。前日、院長から旅具を授かったウルシュラは、夜明けの一時課の間に出立することを告げ、聖務日課の最中であれば見送りも無用と添えた。

 山の暁の風はまだ冷たい。ウルシュラは修道院の門口に立つと外套の襟元を手繰り、肩の荷を確かめる。明るみ始めた東の空を見上げ、その目をまだ星の消え残る西へと転じる。

 西へ──。

 踏み出そうとする足を、不意に寝覚めの夢の声が引き止める。深く息を吸い、こびりつく眠気を振り払う。

 ざわめきはしかし次第に鮮明になり、ついにはっきりと背後から名が呼ばれる。振り返ると、今しも祈りを終えた姉妹たちが次々にまろび出てくるのである。

 皆の観想を乱すまいと出立まで極力顔を合わせずに来たはずが、当の姉妹たちは一番若い妹の身に降りかかった災いに心を痛め、励ます機会を伺っていたのであった。

「待って、姉妹ウルシュラ」

 最初に駆け寄ったのは、過日針仕事を共にした長いまつ毛の姉妹である。

「本当に行っちゃうのね。何かの間違いであればって、ずっと祈っていたのだけど……」

そして手にしたケープを差し出して言う。

「皆で編んだのよ。薄くて軽いけどとても温かいわ。荷物にならなければ持って行って」

 傍で痩せぎすの姉妹が息を弾ませながら疑わしげに訊く。

「あたしなんか、ちょっと走っただけでこの有様よ……あんた、本当に一人で大丈夫なの?」

「道中、頼れるものは頼るのですよ」ベンヴェヌート司祭が去った理由を素っ気なく訊ねた年嵩の姉妹が、少し離れたところから気遣わしげに念を押す。「それは主が姿を変えて手を差し伸べてくださっているのですからね」

「ちゃんと帰って来なさいな、修練はまだ終わっていないのでしょう?」

過日の夕刻に掃除の監督をしていた姉妹が被せるように声をかける。

 いつの間にか己を取り囲む姉妹たちを、ウルシュラは言葉もなく見渡す。

 ──ああ、わたしは今まで一人で、何という思い違いをしていたのだろう。

 いたたまれぬ羞恥で、まつ毛の姉妹から受け取ったケープにそっと顔を埋める。

「私たちの姉妹、ウルシュラに、いと高き主のご加護がありますように……!」

 姉妹オノリーヌの切なる祈りの声を合図に、集まったすべての姉妹は十字を切り、両手を組んで天に和する。「──アーメン!」

 ケープから顔を上げられない。顔を見られたくない──。

 不意に肩を抱かれ、耳元でソフィアの声が鼓舞する。

「さあ顔を上げて、ウルサ。言ったでしょ。あなたはまっすぐ前を見て、元気に手を振って歩いていくんだって」

 涙でぼやけた視界に姉妹たちの強く励ます笑顔が映る。ふと修道院の棟の入り口に院長ベアトリクスとアンセルム司祭が立っているのに気づく。院長はきつく両手を組み、司祭は憂いに満ちた眼差しでこちらを見守っている。

 ウルシュラは無理にも笑顔を作ると深々と首を垂れた。

「ありがとうございます──行ってきます」

 一二五三年、夏の曙光を背に、ウルシュラは一人歩み出す。


 私たちの若き姉妹がカリクストゥス写本の第五巻から選んだ巡礼路は《トロサの道》、アルルに端を発してオクシタニアを横断する南回りの道であったと思われる。モンス・ラヌンクリからアリギア川沿いにトロサへ北上してこの道に入ったなら、西へ進路をとってアウスキウス、オロロヌムからポルトゥス峠を通ってピレネー山脈を越える。ヒスパニアの地へ降り立ったのち、アラゴニア、ナウァッラ、カステッラ、レギオの王国群を経て、一路西の果て、ガリキアへ──。

 しかし、往々にして書物の通りには進まぬのが世の常であろう。


「よう坊主。お前も巡礼に放り出された口かい」

 出発して数日後、背後から陽気な声がかかる。振り返ると男が二人、ウルシュラと同様、胸に大きく黄色の十字を縫い付けた旅装で歩いてくる。

 声をかけて来た男はウルシュラに追いつくと物珍しげに顔を覗き込んで言う。

「まだほんの子どもじゃねぇか。いったい何をしでかしたんだい」

 男が自分を少年と見紛うていることにウルシュラは気づく。しかしそれはむしろ好都合であった。心持ち声を低めるとそのまま仮初の姿を通す。

「ぼくにも、よくわかりません」

「はっ、聞いたか相棒」男はのけぞって嗤い、連れの男に向かって言う。「この坊やは何でおっぽり出されたのかわからねぇとさ」

「可哀想に」連れの男が沈痛な面持ちで低く応える。「おおかた口減しにでもされたんだろう。坊主、しばらく俺たちと行くがいい。道は時に物騒だからな」

 最初に話しかけてきた男はニコラ、連れはロドリグと名乗った。

「坊主は何て名だい」

「ウ……ウルリク」咄嗟に偽る。

 続けてぼくはウルリク、ぼくはウルリク、と胸の中で繰り返し己に言い聞かせた。

 勢いで少年ウルリクになりおおせながら、ウルシュラは二人の男と旅を共にする。

 ウルシュラの素性を知る者には何とも危なげな道中に思えるが、二人は粗野ではあっても概して気の良い、頼り甲斐のある道連れであったようだ。

 それでも時には気を揉むこともあったであろう。何となれば木々に覆われた下り道とはいえ、陽の下は茹だる陽気である。男らは時に半裸で川に飛び込む。

「ウルリク、お前も浴びろ。参っちまうぞ」

「ぼくは大丈夫ですから、お構いなく」

 ウルシュラは水際で顔と足を洗うに留めながら返す。そして日暮れ、救護院や施療院に身を寄せると灯火を避けて身を清めた。


 出発からおよそ二週間ほど山道を下り抜けた末、三人はついにトロサに入市した。

「ひゃあ……聞きしに勝るとはこの事だぜ。見ろよ相棒、街が燃えてらあ」

 巡礼杖に身を預けながらニコラが呆けたように言うと、ロドリグも周囲を取り巻く豪奢な赤煉瓦の建物を見渡して呟く。

「ああ、見事なものだな。〝薔薇色の街〟とはよく言ったものだ」

 ウルシュラは広場の只中に立ち尽くす。──ここが、トロサ。司教様の、アンセルム司祭様の街。アニエスが憧れた街。

 歩き詰めの足の痛みも忘れ、興奮気味に走り回っていたニコラが二人に呼びかける。

「おい相棒、宿にしけ込む前に久しぶりに酒場で一杯やろうぜ」

 この頃にはすでに、ニコラの「相棒」はウルシュラにも向けられるようになっていた。ロドリグは傍のウルシュラを見やり訊ねる。

「ウルリク。お前、呑めるか」

 酒のこととは判ったが、ウルシュラにとって葡萄酒はイエスの血であり、父をはじめ大人たちが嗜むものであり、母が寝る前に薬草と共に肌を鎮めるものでしかない。

「いえ、ぼくは」

「無理はするな、あいつはあまり酒癖が良くない」ニコラを一瞥したあと、ロドリグは広場の先を指さして言う。「このまま真っ直ぐ行けばサン=セルナン教会だ。そばに救護院があるだろう。先に行って休んでろ」

 ウルシュラはロドリグが指し示す方を見やり、次いで離れたところから二人の動向をうずうずと伺っているニコラを見る。

 聖書に散りばめられた酒にまつわる戒めがウルシュラの脳裏に去来する。

 ──このまま一人救護院に向かえば、出くわすかもしれぬ過ちから身を遠ざけることはできよう。でもそれでは、この世のありようの一端から目を背けることになりましまいか。旅籠屋を手伝うために修道院を出た時の決心を思い出して──。

 逡巡の末、ウルシュラはロドリグを見上げると告げた。

「ぼくも、行きます」

 大都市トロサの酒場は、モンス・ラヌンクリで曲がりなりにも酒場の役割を担っていた「小さな待雪草」とは比ぶべくもなかった。両開きの木戸を抜けると奥も見通せぬ広い部屋に無数の客がひしめき合い、大きな木杯から酒を煽っては骨付き肉にかぶり付く。まるで喧嘩のような大声で語り合い、楽器を奏でる者があればそこかしこで歌が湧く。

 ウルシュラは思わず立ちすくむ。気の急いたニコラにせき立てられて席に着けば、ほどなく三つの木杯が音を立てて置かれる。

「俺たちの道に」杯を掲げてニコラが怒鳴る。

 男たちの力に負けじとウルシュラは木杯を握りしめ、二人の杯と打ち鳴らす。

「──ぼくたちの道に」

 一口含み、眉根が強張る。酒はウルシュラにはただ渋いばかりであった。聖体拝領の際の形ばかりの量ではない。杯になみなみと注がれた紫の液体を、眉を寄せながら少しずつ体に流し込む。助け舟のように運ばれてくる料理に手を伸ばし、また一口含む。

 そうしてようやく半分飲むか飲まぬかのうちに、ニコラは次の盃を掴み席を立つと客の品定めにうろつき始める。胸の黄十字を見て邪険な態度を示す者があれば睨みつけ、凄んで言いがかりをつける。酒癖が良くない、と言ったロドリグの評は多言を要さぬのである。

 それでも、ニコラは方々でただ喧嘩を売って回っていた訳ではなかった。

「よう、向こうでちょっとばかり厄介な話を聞いたぜ」 

 席に戻ると、ピレネーを越えられずに引き返してきたという巡礼の一団の話を切り出した。

「ソンポルト峠まで行ってすごすご帰ってきたってよ。ひどい嵐で、崩れた岩で道が塞がれちまったんだと。死人も出たらしい」

「これから向かおうとしていた峠だ」ロドリグが眉を顰める。「迂回も難しそうか」

「何でも、オロロンから西に逸れてロンセスヴァリェスの峠を通る道もあるらしいけどよ」

「パリやヴェズレーからの道だな」

「さすが相棒、そう言っていたよ。だが、そっちはそっちで霧は深いわナヴァラの賊は出るわ、聞くからにぞっとしねぇ話なんだ」

 ロドリグは腕組みをして考え込む。隣でニコラが呑気に言う。

「俺はいいぜ。この忌々しい黄十字をひっぺがして、トロサの街で楽しく暮らしたってよ。巡礼なんか糞食らえだ。第一、コンポステーラの聖ヤコブ様は戦の守り神だって言うじゃねぇか。詣でたところで、俺たちに何の得があるってんだ」

 残りの葡萄酒を飲み干しながらニコラが言うと、ロドリグは相手を睨み据えて返す。

「今更お前に良心を説く気はないが、俺は死ぬまで疾しさを引きずって暮らすなどごめんだ」

「ああ、そうですか」ニコラは口を曲げて目を剥く。「ご立派なことで」

 ウルシュラはふと旅嚢の中の地図を思い出し、すぐに思い直す。──今はだめ。あの地図は目立ちすぎる。それに頭がふわふわして、あれを広げたら余計な口を滑らせてしまいそう。

「よう相棒、何かいい知恵はねぇのか。俺ぁ頭使うと眠くなるんだよ」

 鶏の骨をしゃぶりながら卓に伏すニコラの傍で、ロドリグは自分の荷から小さく畳んだ地図を取り出す。ウルシュラが母から借り受けたものよりよほど簡略であったが、葉脈を思わせる巡礼路が精緻に描かれていた。

 ウルシュラは思わず覗き込む。

「地図は初めてか」

 太い指でピレネー山脈を越える道を探りながらロドリグが訊ねる。

「こんなに道がたくさん記された地図は初めてです」知らず魅入られたまま、溜め息混じりに応える。「この一つひとつを、大勢の人が歩いたんですね──」

「おい……あまり近寄るな」

 不意にロドリグが困惑したような声で言う。いつのまにか男の手元に覆い被さるように身を寄せていた。ウルシュラは我に返り慌てて身を引く。「──ごめんなさい」

 鼾をかいていたニコラが不意に顔を上げて瞬きをすると、薄く笑って言う。

「気をつけろよ坊主、取って食われちまうぞ。こいつの罪を教えてやろうか。モーセの書だかにも記された由緒ある罪だってよ。ローマ貴族の間じゃむしろ嗜みだったんだっけな、相棒」

 やめろ、とロドリグが呟く。色を失っているのが分かった。

 仲間の怒りに気づいたニコラは乾いた笑いで繕う。

「そう怒るなよ、濡れ衣だったんだろ? いや、相手の学生も満更じゃなかったんだっけか」

 黙れ、と鋭く叫ぶや拳が空を切る。ニコラは壁際まで転がり、小さく呻いて床に伸びる。

 ウルシュラは小さく悲鳴を上げた自分に気づく。

 ロドリグは一瞬訝しげにウルシュラを見たが、黙ってニコラを担ぎ上げると卓に金を置いた。

「宿に行こう、ウルリク」


 修道院にいたならとうに終課まで終えている時刻であろう。空は未だ暮れず、それでも〝薔薇色の街〟は次第に青く翳り人影もまばらである。

 いつの間にか再び鼾をかき始めたニコラを背負ったロドリグと、三人分の巡礼杖を抱えたウルシュラは、それぞれ胸中のつかえを言葉にできぬまま黙って並んで歩く。

「……俺が、怖いか」

 不意に、ロドリグが正面を見つめたまま訊く。

 ウルシュラは傍の男に目を向ける。殴り倒した連れを自ら背負って歩むこの寡黙な男に、ウルシュラは恐れよりも、人知れぬ痛みを覚えてかぶりを振る。

 横目でそれを知ると、ロドリグは静かに口を開く。

「こいつの言ったことは大筋で本当だ。俺はモンペリエの近くの出でな。学問を志す若者のための宿で働いていた。あそこは……まるで伝え聞くギリシアだった。新しい考えを持った連中が、広場の柱廊に集まって議論を交わしたっていう。同じ熱が俺の宿にも満ちていてな。俺はそういう学問の熱が、未知を志す熱が好きだった」

 訥々と話しながら、時折背中の連れを揺すり上げる。怒りはとうに消え、仕草には慈しみさえ滲む。

「無論、大学を目指す連中と俺とは身分が違う。中には己の才を鼻にかけて周囲を見下す奴もいる。だが俺は思うに、本当に優れた奴ってのは己を汚すような真似はしないんだ。授かった才の使い方を知っている。そういう奴は、見ていて、眩しい」

 ロドリグは立ち止まり、大きく息を吐く。背の荷が堪えるのであろう。だらしなく身を預ける酔漢の身体は宵闇に沈み、ウルシュラはそれを大きな十字架と見紛いそうになる。

「……宿に、そういう奴がいた。天賦の才で他人に尽くすために生まれたような……仲間内だけでなく、俺のような者にまで惜しみなく知恵を分け与えて喜びとする奴が。いずれ立派な医者か学者になるんだろうと思った。だが……そいつは裕福な出じゃなかった。たびたび宿代にも困っているのを見かねて、俺は何度かこっそり立て替えてやった。それが、他の連中に知れた」

 なぜだろう──話に耳を傾けながらウルシュラは思う。知らない話なのに、よく知っているような重苦しさがひたひたと込み上げる。

「《ソドムの罪》──と司祭は断じた。何を言われたのか判らなかった。俺は奴を助けたかっただけだが、それは俺の中に奴への邪な憧れがあったからだと言われた。憧れ……は確かにあったが、どこが邪だったのか。だが司祭は学問を修めた偉い人間だ、その司祭が言うのだから、その通りだったのかも知れないと思った。それでも、奴までが同じ罪を着せられるのは断じて違う。奴には学問を全うして人に尽くすという召命がある──そう言葉を尽くして教会の連中に認めさせたのは、俺の人生で……一番の栄誉だ」

 ロドリグはそこまで語ると、初めて少し笑った。

 一番の栄誉──男の言葉がウルシュラの胸の中で静かに光を放つ。

 男は清々したように言う。

「さあ、俺は秘密を話した。お前も話したいことがあれば話せ。俺は……俺たちは、驚きも笑いもしない。ウルリク……それとも、他の名があるか」

 ウルシュラはぎくりと身を固くする。恐る恐る見上げると、ロドリグはそっけなく言う。

「半月も一緒に歩いていれば誰でも気づく。多分、こいつも気づいているだろう。だが、無理には訊かん。ウルリクのままでいたければそうしろ。こんな旅をしていれば、誰だって秘密の一つや二つある」

 ウルシュラはその言葉を聞いて、モンス・ラヌンクリを出てから初めて、絶えず総身を縛っていた緊張が解けていくのを感じる。

 この人たちを、信じてもいいのだろうか──しばし逡巡する。

 そして胸中密かに肯んずる。──ああ、違う。この人たちを、信じたい。

「話しても、いいですか。わたしのこと」

 ロドリグは黙ったまま促すように眉を上げる。

 初めての酔いも手伝ったのであろう。ウルシュラは口籠もり、つかえ、淀みながらこれまでのことを一つ、また一つと打ち明けた。語りは時に幼い日と現在を何度も行き来したが、ロドリグは遮ることなく黙って耳を傾けた。

 黒々と蹲るサン=セルナン教会を過ぎて救護院に着く頃になっても、話はとめどなく湧いて尽きない。ロドリグは広場の泉の縁にニコラを横たえ隣に腰を下ろすと、ウルシュラを傍に促す。

 ウルシュラがようやく語り終えた頃、ニコラが呻き声を上げて身を起こす。

「おお痛ぇ……やい相棒、きついのくれたな。顎が腫れてらぁ……ここはどこだ」

「寝ぼけやがって。着いたぞ」

 ニコラはやおら立ち上がると両腕を突き上げる。

「おお……モンジョワ! サン・ドニ!」

「馬鹿野郎」ロドリグはニコラの腕を乱暴に引き下ろす。「聖地じゃない、宿に着いたんだ」

 何だ……と萎んで見せ、ニコラは気を取り直して言う。

「そんじゃあ、明日からまた三人旅か。よろしく頼むぜ、ロドリグ──それに、ウルシュラよ」


 そういや、俺だけ話さないのは不公平だな──翌日、ニコラは歩きながら悪びれもせず自らの罪を吐露する。

 俺はよ、司祭様の妾を掠め取ってやったんだ。毎晩のように殴られてるって村じゃ公然の秘密だったからな。はっは、可笑しかったぜ、司祭の顔。俺のこと火炙りにしたくて手前が炙られてるみたいに真っ赤になってんだ。でも火ぃつけりゃ手前も火傷じゃ済まねぇから、何だかんだつまらねえ些事をでっち上げて追い出すことにしたのさ。妾? 仲間伝手に遠くの村へ逃しちゃった、はは。けどあいつ、懲りずにまた戻ってきたらしいや。女ってのはわかんねぇな──。

 ニコラの話を聞きながら、ウルシュラの脳裏には再び、あの夜の記憶が浮かび上がる。

 星の下、女の子は不自由だとこぼしたソフィア。不自由なのは老若男女皆同じだと諭した姉妹オルガ。禁域の静寂で交わされた姉妹たちのやり取りは、思い返せばまるで危うい瑠璃細工のようであった。

「お二人は、不自由、って感じること、ありますか」

 ウルシュラの唐突な問いに、二人は呆気に取られて振り返る。

「いきなり何だ、難しいこと訊くじゃねぇか」

 そう言いながら、ニコラは律儀に首を捻る。

「さあ……俺はこんなだからよ、不自由なんて感じたことないかもな。ま、好きなように生きてらぁ」

 ロドリグはウルシュラの質問の意図を汲もうとするように熟考の末口を開く。

「無論、俺にだって俺の不自由はある。きっと貴族には貴族の、王には王の不自由があるんだろう。それでも、さっきのこいつの話に寄せるなら──殴られても司祭の元に戻るしかない妾のように、女がこの世を生きる苦労は男には想像し難いものがある。稼ぐ手立ても蓄えも、己の身の振り方さえ、自由になるものなどほとんどないだろうから」

「……まあな」女はわからないと軽々に口走った己を省みるように、口籠もりながらニコラも呟く。「そうか、確かに、そうかもな」

 それを聞いて、ウルシュラは二人の前にそっと瑠璃細工を差し出すように口を切った。

「……まだほんの子どもの頃、大切な友達が言ったんです。お父さんと同じお医者様になる夢を、女の子だから諦めなくちゃいけない、男の子だったらこんなに不自由な思いはしなかったって。その時、わたしはまだ八つくらいで、友達の言っていることがきちんと理解できたわけじゃなかったと思う。でも、諦めた彼女の無力感や悲しみが、まるで自分の傷のように痛かった。だから、約束したんです。わたしがあなたの不自由をなくしてあげる、って」

 ニコラは愉快そうに笑う。

「大きく出やがったな。嫌いじゃねぇよ、そういうはったりは。はったりが次の一手をでかくすることだってあるんだぜ、なあ相棒」

 水を向けられたロドリグはしかし黙して応えない。考え込むように無言で歩きながら、ようやくウルシュラの方に目を向け、問うた。

「お前は──救い主にでもなるつもりだったのか」

 ウルシュラは射抜かれたように歩みを止め、その場に立ち尽くす。

「おいおい」ニコラが笑いながら嗜める。「向きになるなよ、ただの餓鬼の戯言じゃねぇか」

「そうか」ロドリグも立ち止まり、二人に正面から向き合うと真顔で言う。「俺には戯言には聞こえなかった。たとえ子どもが勢いで言ったにせよ、こいつの言葉は、神が作ったこの世の理に正面から抗おうとしている。違うなら、どういうつもりで言ったんだ」

 これだから学問かぶれは手に負えねぇよ……と毒づき、ニコラは離れた木陰に座り込むと腰の革袋から水を飲む。

「わたしは」

 口を開いたものの、返すべき言葉が茫として見つからない。ロドリグの問いが杭のように深々と胸を穿つ。救い主なんて、わたしはそんなつもり──。

「救い主って……イエス様のこと、ですよね」

 恐る恐る確かめると、ロドリグは眼差しを逸らさず返す。

「教会はそう言っているな。俺たちも皆、そう信じているはずだ」

 ウルシュラは途方に暮れる。

 ──わたしは、イエス様みたいにになりたいというの……? だって、イエス様は……

 戸惑いをよそに、唇は戦慄きながら問い返す。

「……イエス様は、なぜあんな旅をされたんでしょうか」

 二人の怪訝な視線に気づき、ウルシュラは己の発した言葉に愕然とする。それでも口は勝手に言葉を重ねる。

「──誰に頼まれたわけでもなく、何の得もないのに……感謝されるほど憎しみも買って……最後は、エリ、エリ、レマ、サバクタニ……馬鹿みたい、本当に、馬鹿みたい──」

 息が乱れ、懺悔の十字を切ろうとする指が震えて動かない。違う、これはわたしじゃない。わたしの中で何かが暴れている。なんでわたし、こんなこと。

「大丈夫か」ニコラが恐ろしいものを見るように上目遣いで伺いながら腰を上げ相方を詰る。「やいロドリグ、お前のせいだぞ」

 ロドリグはじっと娘の様子を見定め、おもむろに告げる。

「ウルシュラ……それがお前の本当の声だな。違うか」

 気遣わしげに伺う男の目を、ウルシュラは凝視する。──この人はわたしの何を見ているの。

「お前、なぜ巡礼に出されたのかわからないと言っていたな。だがお前の話を聞いていると、方々で余計な他人の業を背負い込んできたんじゃないかと勘繰りたくなる。もう一度訊くが、お前は誰かの救い主になるつもりなのか。もしそうなら、俺には何も言えん。だが、そうでないなら……お前は、お前が救うと約束した友達よりも、ずっと辛そうに見える」

 見開いた目から涙が溢れ頬を伝う。それでも男から目を逸らすことができない。

 男の言葉が容赦なく抉る、その黒々と開いた虚の奥で何かが低く唸り声を上げる。ウルシュラでもウルリクでもないものが、総毛を逆立て牙を剥き威嚇する。

 やがてロドリグは語調を落とし、穏やかに言う。

「すまない……結局、俺も男だ。お前の、お前たち女の不自由は皆まではわからん。だが、今少しでもお前の本当の声が聞けてよかった。考える糧になるからな」そして嘯くように添える。「幸い、考える時間はたっぷりある。俺たちには今、それが何より必要だ」

 そう言って、ロドリグは再び歩き出す。

 何だってんだ……とニコラは肩をすくめて立ち上がり、顎をしゃくってウルシュラを促す。

「行こうぜ相棒。追いつかねぇと、野郎、考えすぎて道を間違えそうだ」

 ウルシュラは我に返ると慌てて頬を拭い、二人を追う。

 胸の奥のくぐもった唸り声は、いつしか再び息を潜める。


 ……私たちの若き姉妹はやがて、歩むその道の最中で気づくであろう。己が身の内に永く共生してきたものの存在に、そしていつかそのものと向き合う時が来ることに。

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