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十二  ウルシュラ──Ⅴ

 トロサを後にして五日ほど緩やかな丘陵を縫い、三人はアウスキウスの町に入る。

「なんか……ここの連中、訛ってねぇか」

 市場を通りしな不用意に漏らすニコラをロドリグが小突く。

「ガスコン語だ、ガスコーニャに入ったんだ。ここでは訛ってるのは俺たちの方だ」

「長く歩いていると言葉も変わっていきますね、まるで景色の色が変わっていくみたいに」

 ウルシュラが周囲に目を奪われながら漏らす呟きに、ロドリグが感慨深げに頷く。

 三人は食堂に入り、痛む足をさすりながら葡萄酒で疲れをねぎらい合う。この頃にはウルシュラもようやく葡萄酒に慣れてはきたが、店が供していれば修道院で親しんだ薬草湯をもらった。ニコラは常のごとく店の中をうろついてまわり、方々で「何だって? 今何て言った?」と大声で訊き返しながら行先の様子を聞いて回った。

「駄目だ、やっぱりトロサで聞いた通りだ」

 落石に塞がれたポルトゥス峠、霧と賊に悩まされるロンセスヴァリェス──三人は、道中すでに何度かそうしてきたように、ロドリグの小さな地図を囲んで押し黙る。

「ウルリク、お前の地図を出してみろ」

 ロドリグは何食わぬ顔でウルシュラを変装時の名で呼ぶ。それは彼の提案であった。

 ──人の多い場所ではお前は今まで通りウルリクで通せ。年端のいかぬ娘が長旅をしていることが知れるのは不用心だ。

 ウルシュラは旅嚢から地図を出すと卓に広げる。その上に自らの地図を重ねながら、ロドリグはピレネー山脈の稜線を丹念に調べる。

「どうだい、いい道はありそうか」

 ニコラが訊ねた刹那、ロドリグの指がウルシュラの地図の一角で止まる。

「ああ……こっちにはあるな」

 二人が指された場所を覗き込むと、稜線の一角に小さな文字で〝fissura〟と記されていた。

「何て書いてあるんだ」ニコラが問う。

「裂け目、だ」ロドリグが文字に目を落としたまま答える。「切り立った山にそこだけ裂け目が入っているそうだ。『ロランの歌』という古い叙事詩にある──シャルル大帝に付き従った名将ロランが死の間際、携えてきた名刀デュランダルをサラセン人に奪われまいと岩山に叩きつけるが、刃こぼれ一つせず、逆に山に亀裂が入った……と。それがここ、ロランの裂け目だそうだ」

 知ってる──懐かしさにウルシュラの頬は知らず綻ぶ。クリュニー修道院にいた頃、院長クレマンスがそのくだりを読み聞かせてくれた。柔らかな声が今も耳朶に蘇る。

「へぇ、山を真っ二つたぁ豪気な話だね」ニコラは諸手を挙げて叫ぶ。「すると、そこを通って山を越えられるんだな?」

「いや」ロドリグは顔を曇らせる。「見ろ、俺の地図のそこには道がないだろう。険しすぎて巡礼者には勧められていないんだ。あまりの難所に賊も出ない、というだけの話だ」

「何だよ、気を持たせやがって」ニコラは地図の上に突っ伏す。「つまり何か。落石か、賊か、険しい真っ二つの山……このどれかを選べってわけか。トロサの巡礼団じゃねぇが、俺も引き返したくなってきたぜ」

「ぼくは」ウルシュラは地図を見つめて口を開く。「……裂け目がいいと思います」

「はあ?」ニコラが目を剥く。「たった今、賊も通らねぇ難所だって言ったんだぞ。まあ、賊が通らねぇのはいいことだが……いやそうじゃねぇ」

 混乱するニコラを制してロドリグが問う。「理由は?」

「道を塞いだ岩を取り除くには時間がかかるでしょう。行って通れなければもう一度分岐まで戻らなくちゃいけません。迂回路に出るという盗賊のことは出発前に読んだ案内にも書かれていました。盗賊だけじゃないそうです、意地の悪い宿屋や通行税の徴収人……マタイによる福音書にもあります、《狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、道は広い》って。人の集まる道ほど悪意も集まる、ということかも知れません。だから、道が険しくても一番確実なのは裂け目だと思う」

 ウルシュラが説明すると、ニコラは忌々しげに舌打ちする。

「しれっとぐうの音も出させねぇ返事しやがって……まあ、お前が異端じゃねぇってことだけは、今のでよく判るよ」

 ロドリグは腕組みをしたまま目を瞑り、長い間黙して考える。そして目を上げると言った。

「わかった。行ってみよう、ロランの裂け目に」

 正気か、こいつら……と口では嘆いてみせるニコラも、しまいには三人での試みにまんざらでない様子で腹を据えるのであった。

 この娘はいつも困難な道を選ぼうとする──ニコラに問われながら裂け目までの道を地図に探るウルシュラを見つめ、ロドリグは心に留める。──乗りかかった舟だ。どこまで一緒に行くかは判らんが、それまでは付き合ってやるさ。


 こうして、当初予定していたポルトゥス峠へと続く道を、三人は半ばで南へ逸れる。

 道は次第に人里を離れ山がちになり、方々の道端に丸太が山と積まれ、切り口も露わな株の間に小さな集落が点在するばかりとなる。身を寄せられる奉仕施設も減り、三人は修道院さえ見つけられなければ納屋を借りて夜を凌いだ。

 開拓者たちは彼らの胸の黄十字を見ると目を逸らし関わりを避けたが、それでも水と食料は惜しまず援助した。何となれば、たとえ異端の烙印を押された者であっても、聖地を目指す巡礼者を助けることで、自らも祀られた聖者の恩恵に与れると期待されたのである。


 アウスキウスを発って十日余りが過ぎ、地平に見え始めていた稜線が迫る森に再び覆い隠される頃、三人は樹々の中に忽然と開かれた開拓集落にたどり着いた。

 まだ新しい山小屋の並びを見渡しながら、ニコラは無遠慮に驚嘆する。

「えれぇ所に暮らす人間もあったもんだな。……いや待てよ、本当に人の里か? ひょっとして妖精の住む森にでも迷い込んだんじゃねぇだろうな」

「滅多なことを言うな」ロドリグは声を顰めて嗜める。「見ろ、小さいが教会もある。少なくとも真っ当な信徒の暮らしだ」

 三人は、ロドリグが指し示した切妻の棟に簡単な十字を掲げただけの礼拝堂を覗き込む。新しい木の香りに満ちた堂内に、しかし人の姿はない。

 礼拝堂から出たところで数人の男らと鉢合わせた。男らは森の仕事から戻ってきた様子でめいめいに斧や背負子を担いでいたが、不意に現れた見知らぬ巡礼者に身構える。

 今晩の軒と少しの食料を分けてもらえまいか、とロドリグが切り出すと、男らはしばらく相談ののち、一行を小屋の一つへ案内した。出迎えたのは彼らが長老と呼ぶ老人であった。

 長老はロドリグの頼みに何ら詮索を返すこともなく、奥の納屋を使え、と節くれだった指で示す。鷹揚というのでもなく、どこか無関心に近い態度であった。

 一方で、いとまを告げようとしたロドリグらを引き留め、傍に侍っていた男の一人に人を呼びに行かせると、長老はここまでの越し方や通ってきた街の様子について話を聞きたがった。呼ばれてやってきたのは齢三十半ばほどの女で、長老の癖の強いガスコン語をロドリグらに合わせて滑らかなオック語で補った。

「ここを旅の者が通るのは珍しいでな。年寄りに土産話のひとつも聞かせてはもらえぬか。トロサはどうだった、目を見張ったか。儂も若い頃はあそこが全てだと思っておった。

 ……お主らは、なぜ儂らがこんな人里離れた森を切り開いておるのか不思議か。儂からすれば、不思議がるお主らの方がよほど不思議に思えるがの。お主らの胸のそれ、その忌の印をつけておるなら、儂の話もあながち身につまされんこともなかろうて」

 長老は表情の読めぬ眼差しでロドリグらを見渡し、続ける。

「……ここには色んな者がおる。親から受け継ぐものもなく食い詰めた者、横暴な領主に身ぐるみ剥がされた者、人の世の争いに倦み疲れた者。奪われ、蔑まれ、餓えを知る者たちだ。……異端の口を借りずとも、この世はぽっかりと開いた地獄の口よ。悪魔どもがそこかしこで手招きしておるわ。もっとも、地獄も悪魔も呼び寄せたのは人の業だ。儂らは街にひしめき煮えたぎる人の業から逃げてきた。朝に晩に天のお方の声を頼るなら、ここくらい静かなのがいい。

 無論、ここにも忌むべきものはおるがの。そこのお主、先ほど妖精の森などと言っておったな。でかい声がよく聞こえたぞ。その通り、妖精、悪霊、獣……街に劣らず人を惑わせるものが手ぐすね引いておるわ。お主らも気をつけよ。……しばらくの逗留は構わん。食料も少しは分けてやる。だが、あまり不用意にうろつくでないぞ。さっきも言った通り、ここにおる者は皆触れられたくないものを抱えておるでな」

 うろつくなと忠告された手前、ウルシュラらは薪を拾い、水辺を確かめながら伺える範囲で森の中の営みを探る。

 集落にはいくつかの所帯の他、家族を持たぬ独り者も少なくなかった。それらがまるで一つの大家族のように、いくつかの山小屋で食事や寝起きを共にしている。木々の間を走り回る子どもの姿も目に留まり、何処からか赤子の泣き声も聞こえれば、自然と森の中には若い活気も感じられるのであった。

 三人は住居棟から少し離れた納屋に身を寄せ、家畜用の寝藁を借りて仮の寝床を作る。

 ニコラは納屋の奥の暗がりに置かれた、大きな二輪を備えた重量犂を物珍しげに覗き込む。

「見ろよ、犂先が鉄だぜ。俺の村にもこんな立派なの持ってるやつはいなかった」

「この森を切り開くんだ。根の張った土を切り起こすのは並の苦労じゃないだろうからな」

 ロドリグが感慨深げに言いながら農具を検分しようとした刹那、背後から強い声が飛ぶ。

「それに触らないで」

 三人が驚いて振り返ると、先ほど通訳を務めた女が戸口で水瓶を抱え、両の足を踏みしめて立っていた。女は戸口の脇に水瓶を置くとまっすぐニコラとロドリグに歩み寄り、

「これは私たちの命です。触らないでください」

と立ちはだかって言った。

 突然の咎め立てに口を尖らせるニコラを制し、ロドリグは女に詫びて訳を訊ねる。女は幾分語気を緩めると集落の来歴を短く語った。曰く、はじめは日々のパンにも欠く状態であったこと、飢えを凌いで皆の力でなんとかこの重量犂を手に入れたこと、それ以降ようやく暮らしが上向き始めたこと──。聞き終えると、さしものニコラも得心して重量犂から距離を取る。

 ウルシュラは、殿方ではなく女性が農具を守るために立ちはだかったことに小さな驚きを覚えた。農具は生活の手段である。それを守るのは殿方、女性は殿方を支えるもの──モンス・ラヌンクリでの暮らしはそのように営まれていた。ここでは違うのだろうか──ウルシュラは、この人と話をしたい、と思う。

 女はユミリアと言った。ウルシュラは昼間覗いた真新しい礼拝堂についてユミリアに訊ねる。

「日曜日に近くの集落から司祭様が来ます。それ以外は誰もいませんから、好きに使って構いません」

 翌朝、夜明けの光が樹々を縫って集落に届く頃、ウルシュラは一人礼拝堂で祈りを捧げる。昨日の長老の言葉通り、森の静けさの中でひとり主と向き合うのは久方ぶりの安らぎであった。

「おはようございます」

 不意に声をかけられ振り向くと、ユミリアが穏やかな眼差しで立っている。

「──すみません、邪魔をしてしまいましたね」

「いいえ、こちらこそ……」

 他に祈る者もなかったが、ウルシュラは己が礼拝堂を無遠慮に占有しているような気がして端に身を寄せる。

「いいんですよ、好きに使って。日曜以外は、あまり顧みられない場所ですから」

 そしてウルシュラが一つだけ開けた傍の板戸を一瞥すると、他の板戸も開けていく。

「……でも、あなた方も普通にお祈りをされるのですね」

 ウルシュラは、何気ないその言葉が自分たちの黄十字に向けられていることに気づく。

「ぼくたちは罰として巡礼を言いつかりましたけれど、神様を信じていないんじゃありません。ぼくは長い間修道院に暮らしていたんです。祈りは日課でした」

 あら、そうなんですか、とユミリアが手を止め振り返ったのを見て、ウルシュラは咄嗟に喋り過ぎたことを悔やむ。

 興味深げにしばらくウルシュラを見つめた後、ユミリアは祭壇に歩み寄りながら、

「それで、これからどこへ? ピレネーを越えてヒスパニアに向かう巡礼者は大抵コンポステーラを目指すのでしょうけど、ここはその道からだいぶ外れていますし」

「ぼくたちもコンポステーラに向かっているんです。他の道が通れないので、裂け目を通ろうとこちらへ」

「裂け目?」ユミリアは立ち止まって怪訝な目を向ける。「まさか、ロランの裂け目のことですか?」

 そうです、とウルシュラが頷くとユミリアは信じられぬとばかりに語気を強めて言う。

「あそこがどういう所かご存知なのですか? 巡礼者が通る道ではありませんよ。無論、羊飼いも行商人も通りません。もし通る人があるとすれば……命を惜しまぬ隠修士くらいのものです」

 ウルシュラは小さく息を呑む。命を惜しまぬ隠修士──その言葉を自分たちに重ねてみるが、寸法の合わぬ服のようにしっくりしない。

 ユミリアは祭壇まで行くと、壇の傍に下げられていたものを外してウルシュラに歩み寄る。

「ここにも、コンポステーラに行って帰ってきた者がいます。もちろん、巡礼の道を通ってですが」そう言って、手にした大きな貝殻をウルシュラに手渡す。「皆この帆立貝を手に戻るのだとか──聖ヤコブの奇跡に与れることを信じて。できれば別の道をお勧めしますが……どうしてもあの裂け目を通るというのなら、無事を祈るといいでしょう」

 ウルシュラは掌に乗せられた貝殻を見つめて、浮かんだ小さな違和を問う。

「ユミリアさんは……信じていますか? 聖ヤコブ様の、奇跡を」

 ユミリアは黙ってウルシュラを見つめる。

 微動だにしない眼差しをウルシュラは怯みながら受け止める。やがて力を抜くように視線を外し、ユミリアは乾いた笑みを浮かべる。ウルシュラの手の貝殻を取ると祭壇の傍に戻しながら、小さく、奇跡は奇跡です、と言った。

 そして問われぬまま語るのである。人の世の理不尽から逃れて編まれたこの開拓集落にも、やはり理不尽はある、と。

 ユミリアには共にこの森に暮らす一人の妹がいた。ヴェロニクという名のその妹は、昨年子を産んで以来、血が止まず床に就いたままだと言う。亭主は町に医者を呼びに行くと言って山を降りたきり、もう半年戻らない。集落の男たちはヴェロニクを小さな小屋に隔離した。彼女は次第に獣憑きのように荒れすさみ、見舞いや看病に訪れる女も日に日に減っていった。

「何度あの貝殻に祈ったか知れません。聖ヤコブ様、この声が聞こえるのなら妹を助けてやってください、と。たとえ牢の中でも海の底でも、名を呼べば助けに現れてくださったと奇跡の物語にはあるのですから。なのに、妹の元には来てくださらない……妹が穢れの病だからでしょうか。それとも、私たちが戦をせぬ女だからでしょうか」

 ユミリアの語りには噛み締め続けた深い諦めが滲む。ウルシュラは考え込む。

 ──今の話はまるで、マルコによる福音書の、イエス様の御衣に触れて病を癒やされた女の人の話を思い出させる。救い主になるつもりか、とロドリグさんは言うけれど、わたしはイエス様みたいな救い主にはなれない。それでも、わたしには母様や修道院から授かった癒しの知恵がある。聖ヤコブ様のように奇跡を起こすのでも、イエス様のように救うのでもない。ただ、できることをする。……それなら、わたしにもできる。

「ユミリアさん。妹さんに、会わせてもらえませんか」

 問われたユミリアは咎めるようにまなじりを決して言う。

「たとえあなたのような若い方でも、殿方を妹の小屋に招くわけにはいきません」

 ウルシュラは迷う。人の多い場所ではウルリクで通せ。トロサを発って以来守り続けた戒めが頭をよぎる。──ロドリグさんは正しい。常に私を心配して最良の忠告をくれる。けれど今は。

 躊躇いながら、ウルシュラは体を誤魔化してきた外衣を脱ぎ光の中に立つ。淡い陰影を纏うチュニックの細い輪郭を凝視するユミリアに、わずかな羞恥と共に告げる。

「……偽っていて、ごめんなさい。女です、わたしも」


 その小屋は、集落に並ぶ山小屋が見えなくなるまで森を分け入った先に、ぽつりと立っていた。扉を開けた刹那、獣のような臭気がウルシュラの鼻を打つ。病人が長い間身を清めていないことが知れた。傍のユミリアが気遣わしげに声を落としていう。

「もうここまでで結構です。知ってもらえただけで十分ですから」

 ウルシュラは小さくかぶりを振ってその言葉を退けると、そのまま暗い小屋に踏み入る。足元に水音が立つ。

 閉ざされた暗闇の中で獣のような声が呟く言葉に、ウルシュラは耳を傾ける。

 来るな……悪魔め……呪われろ……。

 闇に蹲る影の中、両の目だけがわずかに漏れ入る光を受けて爛々と輝く。

 この目を知っている、とウルシュラは思う。そう、よく知っている目だ。

「窓を、開けます」

 そう告げるや否や、ウルシュラは板戸に手をかける。甲高い呻き声と静止するユミリアの声が同時に上がったが、ウルシュラは構わず設えられた全ての板戸を開け放った。

 樹々が漉す光と風が狭い小屋に流れ込む。女は頭を抱えて汚れた寝床に突っ伏す。

「開けてはいけないと、長老様に言われているのです」

 取り乱すユミリアにウルシュラは毅然と言い放つ。

「お日様は万病の薬です。閉ざしていたら、良くなるものもなりません」

 そして蹲ったままのヴェロニクに呼びかける。

「初めまして、ウルシュラです。ヴェロニクさん、少し、診せてもらえますか」

「出て行け」ヴェロニクは顔を寝床に押し付けたまま金切り声で叫ぶ。「笑いに来たのか、綺麗な顔をした悪魔め。穢れた女がそんなに珍しいか」

「ウルシュラ、もういいでしょう。妹を静かに寝かせてやってちょうだい」

 ウルシュラは応えず、じっとヴェロニクを見つめる。

 ──怖いんだ。怖いから腹を立てるのさ。

 ギユメットの声が脳裏に蘇る。胸の奥が雑巾を絞るようによじれ、息が乱れる。

 怖いよね。穢れてしまうのは、穢れていると思われるのは怖いよね──ウルシュラは朝日から己を守るように身を固く縮めるヴェロニクから目が離せない。

「ヴェロニクさん……あなたは、穢れてなんかいない」

 そう言いながら、震える手で己のチュニックと肌着の胸元を寛がせる。

「穢れとは、こういうものです」

 光の下に白い胸元が露わになる。その肌は中央で無惨に引き攣れ、傷は滑らかな肌理を損なって己が存在を誇示するように禍々しく居座る。知らぬ者が目にすれば、悪魔の刻印かと恐れたであろう。

 目を上げたヴェロニクは息を呑んでその姿に釘付けになる。傍のユミリアも言葉を失い、二人の間に視線を彷徨わせる。

 やがてウルシュラが服を直し部屋の清掃を始めても、ヴェロニクは毒気を抜かれたように押し黙り、突然現れたこの小柄な娘のなすがままに任せるのであった。

 翌日、ウルシュラはユミリアと共に小川で水を汲み、不浄に濡れた床を丹念に清めた。そして火を起こして湯を沸かし、病人の身を清め寝巻きを洗う。同時に、樹々から採取した木蔦を煮て絞り、冷たい水で絞ったリンネルと共に病人の腹と腿を巻く。冷たい、とヴェロニクは抵抗したが、その冷たさが血を鎮めるんです、とウルシュラに諭されるとおとなしく従った。

「……ねえ」されるに任せながらヴェロニクが問う。「あんたの胸のそれ、レプラなの」

「いいえ、火傷です」ウルシュラは手を動かしながら淡々と答える。「決して消えない、わたしの罪の証です」


「おい、ウルシュラ。お前、最近一日中森の奥で何やってるんだい。こっちは久しぶりにゆっくり休めてありがてぇけどよ、先に進む算段はどうする。あんまり動かねぇと体も鈍っちまうぜ」

 夕食の折、ニコラに問われたウルシュラは、病人の詳しい話を伏せながら事情を打ち明ける。そしてニコラの訴えに一計を案じる。

 翌日、小屋の中には入れない、とユミリアに約束し、ウルシュラはニコラとロドリグを森の奥へ連れて行くと小屋の傍を示して頼む。

「ここに厠を作りたいんです。手伝ってください」

 出がけに借りて持たされた踏鋤の意味をようやく察してニコラは仰天したが、昨夜の言質をウルシュラに質されると渋々土を掘り返す。ロドリグは何を問うこともなく担いできた木板で簡単な囲いを作り始める。ユミリアは二人に平身低頭しながら、できた囲いの周りに若い草木の苗を植えていった。

 ウルシュラらの行いはじきに長老らの耳にも入る。窓を開けるなという掟を破った旅の者を、やはり異端は秩序を乱す、即刻追い出すべし、と男たちは息巻いた。長老は黙したままそれを制し、少し様子を見よう、とその場を収めた。

 さらに翌日、ウルシュラは森で摘み納屋で干したアキレアを粉に挽き、温めた葡萄酒に加えてヴェロニクに含ませる。

「体の中から傷を癒します。朝と昼と晩、時を決めて飲みましょう」

 女たちは男たちより早くユミリアと三人の巡礼者がしていることに気づいていた。しかし、男たちの反発を恐れて見て見ぬふりを続けていたのであった。長老が黙認したと知った翌日から、足が遠のいていた女たちは一人、また一人と、再び小屋へ顔を出すようになる。小屋は次第に華やぎ、常に誰かの笑い声が聞こえるようになる。

 ウルシュラが初めて小屋を訪れてから六日目、共同で面倒を見ていた女たちに抱かれてヴェロニクの赤子が連れて来られる。母は赤子をかき抱くと泣き崩れた。

 もう、大丈夫──。

 ウルシュラはそっと小屋を出ると、振り返って安堵する。


 明日出立する、と挨拶に訪ったウルシュラらに、長老は静かに問うた。

「お主ら、ここの掟を破ったそうだな」

 ウルシュラは長老の足元に跪いて許しを乞う。長老は眉一つ動かさずウルシュラを見下ろして言った。

「山の暮らしは厳しい。掟を軽んずれば命を落としかねない。ゆえに、破った者は老若男女の別なく鞭打ちと定めておる」

 傍で通訳していたユミリアは途中で言葉を忘れ懇願の眼差しを長老に向ける。

 ウルシュラは長老の言葉を聞き取ると、俯いたまま息を呑む。そして立ち上がり、甘んじて罰を受ける覚悟でチュニックに指をかける。

 おいちょっと待て、とニコラが色をなし傍から割って入ろうとしたその刹那、

「話は最後まで聞くものだ、せっかちな若人どもよ」長老が一喝する。「命に関わる危険を避けるために厳しい掟を課しておる、と儂は言ったのだ」

 そして言葉を切ると、改めて目を細めウルシュラを見やる。

「……だが娘よ。お主は身をもってあの女の病が他の者を害さぬと示した。加えて、良い兆しに導き、あの小屋を女どもの『家』となしたと聞く。……礼を言おう」

 そして、呆然とするウルシュラを意に介さず続ける。

「お主が作った『家』だ、いつでも帰ってくるがいい。いつでも歓迎する。……礼拝堂の貝殻が増えるなら、なお歓迎するがな」

 そして好々爺然と放笑する。


 翌朝、三人はユミリアら多くの女たちに見送られて開拓集落を後にする。

 悪い気はしねぇな、とニコラはしきりに振り返り、手を振りながら名残惜しげに言う。

 ああ、悪い気はしない、と珍しくロドリグも前を向いたまま晴れやかに乗じ、ウルシュラは二人のやりとりに笑みをこぼす。何となれば、三人とも軽口を叩けるのはここまでであると承知していたのであろう。

 森は不意に途切れ、美しい緑の野が迎えたかと思えばまたすぐに鬱蒼たる樹叢が道ゆく者を飲み込む。まるで道が先へ進むことを躊躇わせようとあの手この手で引き止めるかのよう──度々立ち止まって枝葉の隙間に日の向きを確かめながら、ウルシュラは思う。

 しかし同時に、ウルシュラは強く感じもするのだ。森に棲むものたちの気配に紛れて、何かが先へ先へと強く誘う──進め。弛まず進め、小さき者よ。汝の道を、ただ進め──。見知った眼差しが少し先で振り返っては時に鼓舞し、時に唆すように若き姉妹を先導し、また扇動する。

 あなたは誰なの──一歩ごとに巡礼杖を突きながら、姉妹は胸の内に問う。──ことごとにわたしを導き惑わすあなたは、北の動かない星、それとも荒れ野の幻?

 立ち止まり、胸元でささやかな光を放つ聖アダルベルトの首飾りを確かめる。横顔の聖者は彼方を見つめたまま黙して応えない。


 山を縫って数日ののち、ついに人の痕跡を見出せぬまま日没が訪れる。

 ロドリグは風の入らぬ岩陰の前に炉を組み火を起こす。ウルシュラは岩と火の間の地を均し、ニコラは夜越しの薪を拾い集める。開拓集落で分けてもらったパンと猪の干し肉が行き渡ると、ウルシュラは静かに食前の祈りを唱え、ロドリグとニコラは低くアーメンと唱和する。

「なあ、相棒」黙々と食事が進む最中、不意にニコラが静寂を破る。

「やっぱり……地図にある道にしておけばよかった……と思わねぇか」

 すみません、わたしが──と言いかけるウルシュラを遮り、ロドリグが横目でニコラを見る。

「ウルシュラの意見を聞いた上で俺が決めた。文句なら聞こう」

 文句って訳じゃねぇよ……と口籠もりながら、ニコラは足をさする。

「ただ……悪ぃ。足がよ、そろそろ限界みてぇなんだ」

「俺たち、みんなそうだ」ロドリグは厳しい声音にいたわりを滲ませて言う。「だが、こんなところで一人でも欠けるわけにはいかない。恐らく、明日には裂け目を拝めるだろう。無理はしないし、させない。三人で、一歩ずつ越えていこう」

 一言ずつ己に確かめるような言葉に、ニコラは素直に頷いて口を閉ざす。

 再びの静寂をモリフクロウの声が慰撫する。誰からともなく樹々の高みに目を走らせた刹那、ウルシュラが、あ、と小さく声を上げた。「上を見て」

 振り仰ぐ三人の頭上に、乳の道──光の大河が横たわっていた。

 その輝きは陽の下の早瀬のように五色に滲み、時折水面を跳ねる魚のように星が流れる。

 河のほとりの星々は目を凝らすほど、その一粒一粒に色を灯して饒舌に瞬き始める。

 ほら、ソフィア、見える? 聞こえる?──ウルシュラはそっと胸に十字を切る。──わたしたちは、何て美しい世界を、生きてるんだろうね──。

 そして三人はまもなく気づくのだ。乳の道が西の地平に沈むあたり、黒々と横たわる嶺の一角に四角く削り取られた場所があることに。

 ニコラがゆっくりと指をさす。「……あれだ」


 傍で眠るニコラの深い寝息と小枝が爆ぜる音に、ウルシュラは何度目かの寝返りを打つ。

 眠れないか──足元の炉端から問われ、天を見上げたまま小さく答える。

「外で寝るの、初めてで」

「お前、育ちが良さそうだものな」笑みを滲ませたロドリグの声が届く。「だが、無理にでも寝ておけ。俺も後でニコラと交代して休む」

 はい、と応えてウルシュラはケープを被り直し、目を瞑る。

 刹那、目が合った。

 身を起こし、あたりに目を走らせ耳をそばだてる。鼓動が早駆ける。

「どうした」ロドリグが膝を立て身構える。

「いえ」炉に踊る炎を見つめ、ゆっくりと横たわる。「何でもありません……お休みなさい」

 ねえ──目を閉じ、昼間の問いを繰り返す。あなたは、一体誰なの。

 進め小さき者よ、我らの道をただ進め──声はそれに答えず、昼間の言葉を繰り返す。

 我らの道……? 小さな違和感に意識を振り絞って問いただす。──汝の、ではなかったの。

 声は次第に揺らぎ、ちぎれ、重なっては離れ、徐々に遠ざかる。

 ここを先途と見よ──勝機は我らにあり──押せ、押して参れ──。

 ねえ待って、何を言っているの……闇に返す問いはやがて千々に解けて溶けていく。


 翌朝、ウルシュラは岩を打つ風の音で目を覚ます。

 身を起こすと、岩場の影からニコラが嶺に目を凝らしていた。

「おはようございます、足の具合はどうですか」

「ああ」ニコラは彼方に眼差しを据えたまま、足元に眠るロドリグを顎で示す。「こいつが明け方まで寝かせてくれたからよ、だいぶましになった。それより……」

言葉を切り、嶺の方角を指し示す。

 昨夜、乳の道の明かりによって嶺の裂け目を見定められたあたりに白い霧がかかり、目指す場所が判然としない。

「雲行きが怪しいな」いつの間にか二人の後ろに起き抜けのロドリグが立って眉を顰める。「しばらくここで様子を見るか」

「いや、そうもさせちゃくれまいぜ。後ろを見ろよ」

 ニコラに促されてウルシュラとロドリグが振り返ると、たどってきた東の麓の空に分厚い雲がかかり、時折稲光が走る。「……あれがこっちに来たら、いよいよまずいことになりそうだ」

 ロドリグは座り込んで炉に薪を足す。「考えるのは後だ、まずは腹を拵えよう」

 支度を終えるとウルシュラが祈り、男たちが和する。

「なあ、相棒」

 ニコラが口を開く。しかしすぐには続けず、沈黙の間に岩の端から漏れ入る風が炉の火を大きく揺らす。どうした、とロドリグが目を上げる。

 ニコラはなぜか照れたような笑みを浮かべ、炎を見つめたまま言い淀む。

「開拓集落の爺いを真似るわけじゃあねぇが……」そして顔を上げ、二人を見る。「礼を言わせてくれよ、ありがとうな」

「何だ、いきなり」ロドリグがパンを飲み込み、咳き込みながら怪訝な目を向ける。

 ニコラは再び目を逸らし、言葉を探しながら続ける。

「いやさ……俺、今までてんでいい加減に生きてきて、それでそれなりに楽しかったんだ。でもよ……こうしてお前らと旅をしてみて、今が一番楽しいんだ。生まれて、今が一番楽しいって気づいちまったんだ。だからよ、俺……」

「やめておけ」ロドリグが遮る。「旅はまだ終わってない。コンポステーラについたら百遍でも聞いてやる。残りはそれまで取っておけ」

 閉じかけた接ぎ穂をウルシュラが横から拾う。「……わたしも、楽しいです」

 ロドリグがやはり怪訝な目をウルシュラに移すが、ウルシュラは構わず続ける。

「嶺を越えてからの方が、ずっと長いんですよ。まだまだずっと歩くんです。言葉も人も違う世界を、どこまでも。……ね、ニコラさん、あの言葉──モンジョワ、サン・ドニ。わたしたち、どこで叫びましょう。今から心が躍ってます」

「ああ、叫ぼうぜ」ニコラは破顔して言う。「どこでだっていい、最高な時に叫ぼうぜ!」

 ロドリグは無言で肩をすくめ、残りのパンを葡萄酒で流し込む。


 そして炉の火を埋め、三人は歩き出す。

 道は徐々に険しさを増し、いつしか草木は絶え、荒涼とした岩間に溶け残った雪渓が足を掬おうと待ち構える。三人は靴の上から足を荒縄で縛り、滑る雪に備える。

 やがて霧は大粒の雨に変わる。

 離れるな、とロドリグが叫ぶ。

 三人は互いに手を伸ばせば触れられる距離を保ち、一歩一歩岩を踏み越える。ややもすれば浮いた岩に足を取られそうになるのを、咄嗟にそばの者が手を取り、あるいは服を掴んで踏みとどまる。一瞬の油断が災厄を呼ぶ──その緊張が、雨に叩かれる体から徐々に力を奪っていく。

 ウルシュラは腕をかざして雨粒を避けながら周囲を見渡す。この風雨を防ぐものが何もない。見渡す限り、生き物どころか動くものが目に映らない。どうしてこんな山、神様はお作りになったの、どうして──次第に激しさを増す雨に押し流されそうになる正気を、問うことで掴み留める。答えを求めることも忘れ、ただ問うために問い続ける。

 強い風は霧を獰猛に押し流す。時折薄くなる白い壁の向こうにうっすらと稜線が浮かび、また掻き消える。手を伸ばすほどに遠ざかる、悪い夢の中にいるよう──傾斜に挑み続ける足の悲鳴だけを確かな道標に、ウルシュラは浮かぶ弱気を掻き消す。

 おう──不意にニコラが声を上げ、巡礼杖が音を立てて岩間に転がる。

 ニコラ! ロドリグとウルシュラが駆け寄ると、仰向けに倒れたニコラは額に血を滲ませながら苦笑する。大丈夫、大したことねぇ……少し油断したぜ。

 二人に手を引かれて立ち上がり、杖を拾いながらニコラは天に向かって毒づく。──楽しいなあ、畜生!

 風は今や嶺を一頭の巨大な獣に変える。岩肌は咆哮を上げて己に取り縋る三人のちっぽけな人間を嬲り、嘲笑う。

 離れるなよ、ニコラ! 先を行くロドリグが振り返って繰り返す。

 先に行ってくれ。いつの間にか大きく遅れをとっていたニコラが後方で岩に手をついたまま叫ぶ。大丈夫、後から追いつくから、先に。

 言い終えぬうちにロドリグは踵を返し足早にニコラに歩み寄る。そして羽織っていた外套を蹲るニコラの頭から被せ風雨から庇うと振り返る。ウルシュラ、お前も来い!

 ウルシュラは眼前を駆けていく霧に目を凝らす。その僅かな途切れ目を逃すまいと目を見張る。幻でなければ、先ほどほんの一瞬だけ、人の痕跡を捉えた気がしたのである。

 背後で名を呼ぶロドリグに手を上げて応えながら、ウルシュラはなおも前のめる。

 刹那、それは確かに岩場の上方に姿を表し、そしてすぐに掻き消えた。

 小屋です、ウルシュラは叫び、ロドリグの元へと踏み出そうとして愕然とする。

 足が動かない。

 その場にゆっくりとへたり込み、震える指で強張ったふくらはぎをゆっくりと揉む。自分の足ではないかのように膝が震え、肉が痙攣を繰り返す。

 大丈夫、大丈夫。己に言い聞かせながら、ウルシュラはゆっくりと足をねぎらう。頑張ったものね、でもあと少しだけお願い。あの小屋まで行けば休めるから、それまで。

 ロドリグはこちらに来る気配もなく座り込むウルシュラを見て、外套をニコラに巻き付けると立ち上がりゆっくり歩み寄る。どうした、立てないか。

 ウルシュラは弱々しい笑みを浮かべて男を見上げると、吹き荒ぶ霧の嶺を指差す。あそこに小屋があるんです、あそこまで行ければ。

 ロドリグは目を凝らすが、霧は濃く薄く視界を遮り娘の指差すものが見えない。疲れ果てて幻を見たのではないか──よぎる懸念を、しかしすぐさま振り払う。この娘は目がいい。それにもはや、一縷の望みがあるなら縋るよりほかあるまい。

 ニコラ、どうだ。振り返ってロドリグが呼びかけると、外套を頭に巻いたままニコラがゆっくりと立ち上がる。一歩、また一歩と二人に向かって岩を踏み締め、ロドリグに外套を返しながら苦笑する。……臭えぞ、たまには洗えよ、相棒。

 ロドリグは濡れそぼった外套を絞って羽織るとウルシュラに手を差し伸べる。ウルシュラは差し出された大きな手をしっかと取る。強い力に軽々と引き上げられ、知らず笑みが漏れる。

 今再び、三人は肩を並べて立ちはだかる嶺を見上げる。風と霧と雨は何人をも寄せつけぬ城兵となって厚く岩壁を取り巻いている。

「この上に小屋があるらしい。ウルシュラ、あとどれくらいだ」

「ほんの少しです──元気なら。詩篇の一節を唱えるうちには着くはずです」

「判らねぇ例えだな……俺が葡萄酒何杯空けるくらいだ?」

ニコラの減らず口に笑いがこぼれる。

 それじゃあ、行こう──ロドリグの合図を潮に、三人は鉛の足に鞭を入れる。


《わたしは山にむかって目をあげる。

 わが助けは、どこから来るであろうか。

 わが助けは、天と地を造られた主から来る。

 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。

 あなたを守る者はまどろむことがない。》


 登るにつれ広がる雪渓に三人は幾度も足を取られ、時に氷に身を打ちつける。

 踏み跡もない清浄な白の上に鮮やかな朱が滲む。


《見よ、イスラエルを守る者は

 まどろむこともなく、眠ることもない。

 主はあなたを守る者、

 主はあなたの右の手をおおう陰である。

 昼は太陽があなたを撃つことなく、

 夜は月があなたを撃つことはない。》


 幾度めかの転倒ののち、ニコラは氷の上に突っ伏したまま動かなくなる。

 大声で呼ぶ声にも応じない男をロドリグは抱き上げて背負うが、立ち上がることができない。

 ウルシュラはかぶりを振って男を背から下ろさせると、片方の肩に己の身を潜り込ませる。


《主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、

 またあなたの命を守られる。

 主は今からとこしえに至るまで、

 あなたの出ると入るとを守られるであろう。》──詩篇、第一二一篇、都もうでの歌


 ──ごめんなさい、ニコラさん。今朝突然お礼を言われた時、わたしも少しだけ笑いそうになってしまった。だってニコラさんの真面目な顔、初めて見たから。でも今、ああ言いたかった気持ちが、とてもよく解る。

 ありがとう。ありがとう。ありがとうが世界に向かって溢れていく気持ち。──母様、わたしを産んでくれてありがとう。ジョゼップ、弟に生まれてくれてありがとう。ソフィア、わたしを愛してくれてありがとう。ニコラさん、ロドリグさん、わたしに声をかけてくれて、一緒に歩いてくれてありがとう。……父様、わたしたち家族を導いてくれて、ありがとう──。


 ぐるりをうろつきながら、それは伺うように睨め、時折鼻を寄せては息をかける。両のまなこは案ずるように瞬いたかと思えば、また試すように細くなる。

 終わりか、小さき者よ。

 飽き足りたか。

 侘しや、口惜しや、はかなき者。

 幼かりし折の汝が強きまなこに見入りしより、行く末をこそ頼もしう思いいたりしものを。

 さらばやむを得まじ、我ひと足先に赴かん──。


 暗闇の中、ウルシュラはゆっくりと瞼を開く。

 土埃の匂い、古い木材が軋む音、硬く冷たい石の床──五感を確かめるが、どこか曖昧で頼りない。

 まだ生きている──でもここはどこ。あの小屋にたどり着いたの。ロドリグさんとニコラさんは。二人の名を呼ぶが、声は頭の中に反響するばかりで周囲に届かない。

 体を起こそうとして四肢の手応えがないことに気づく。痛みもない。ひどく寒いようでもあり、たまらなく心地いいような気もする。これは夢?──そう思い至った時、ウルシュラの耳にそれは届く。

 爪音──馬が地を蹴る蹄の音。

 遠く地の果てからやって来る。

 幾百幾千と錬磨の武人を背に乗せて。

 戻る道も顧みず。憂いも苦患も背に捨てて。

 守るべきを守るため。信じるべきを信じるために。

 地を踏み鳴らしてやってくる──。

 ウルシュラは跳ね起きると閉ざされた扉を押し開く。


 目の前を夥しい数の軍馬が駆けていた。無数の蹄が仄青く耀く雪渓を蹴散らし、跨る兵士たちは鎧を煌めかせサーコートを翻しながら轟然と鬨を作る。殿がどこかも判らぬほどに地を埋め尽くす騎馬軍勢が、山を逆さに迸る雪崩のように嶺の頂を目指して駆けていく。伝説に謳われるシャルルマーニュの軍であるのか、ウルシュラには判らない。ただ目を奪われ、圧倒される。

 刹那、一騎がウルシュラの前を過ぎてだいぶ登ったところで速度を落とし、並足でこちらへ引き返してくるのに気づく。武人はウルシュラの目の前で馬を止め、大兜を被ったまま馬上からじっと見下ろす。

 久しいな、まさかこんなところで会おうとは──そう言いながら手にした剣を鞘に収める。そして兜に手をかけ、晴ればれと名を呼ぶ。


 ……凛々しくなったな、我がウルカよ。


 ウルシュラはゆっくりとかぶりを振る。見開いた目から大粒の涙が溢れ出る。

 何度この時を夢に見たであろう。兜を脱いだその顔は紛うことなき、懐かしい父その人であった。

 父様──生きていらっしゃったのですか。どうして。今までどこに──。

 父は放笑して言う。

 はて、おかしなことを言う。生きているとも。私たちは皆生きている。生きていない者など、この〝国〟にはいない。

 さらに二人の武人が父に馬を寄せる。一人は兜をつけておらず、穏やかで親しげな眼差しを父とウルシュラに交互に注いで遠慮がちに言う。

 ユゼフ、邪魔立てして心苦しいが、我々もじきに行かねばなるまい。

 御意に。参りましょうぞ、我が君。

 答えて兜を被り直そうとする父にウルシュラは必死に追い縋る。

 どこへ行くの父様。お願い、わたしたちのところへ帰ってきて。母様も待ってる。ジョゼップだって、父様に会いたいのよ。みんなでポロニアに帰るんじゃないの、そう言ってお屋敷を出たんじゃないの、ねえ、父様。

 父は兜を再び小脇に抱えると、まっすぐ娘を見つめる。

 ウルカ。私にはまだしなければならないことがあるのだよ。この〝国〟の弥栄のために尽くすという、大事な召命だ。お前にもお前の召命があるだろう。森の集落で示してみせた、立派な仕事が。……大丈夫だ、私はちゃんとお前たちと共にいる。お前が弟に名付けてくれたではないか。この土地の言葉で、私の名を。

 父の言葉に、ウルシュラの中で時が音を立てて逆巻く。母の柔らかな腹に耳を当てた刹那、浮んだ名。じょぜっぷ──ユゼフ──!

 父が慈愛のこもった眼差しで続ける。

 ……心配は要らぬ、ポロニアまでの道は私が掃き清めておく。安んじてお帰り。しかし……お前はこれから忙しいぞ。因果な名を持って生まれた定めかも知れんな。

 穏やかな眼差しの武人が少し先から振り返って再び、ユゼフ、と呼ぶ。

 父は武人に謝って今度こそ兜を被る。傍にいたもう一人の、見るからに大柄な武人が父に声をかける。

 ユゼフよ、行く前に──忘れておることはないか。

 父ははっとしてウルシュラに向き直る。

 そうだ──ウルカ、お前のそれを返してもらうぞ。それは私のものだからな。

 父が指差す己の胸を見下ろし、ウルシュラは戸惑う。

 アダルベルト様のお守りのこと? これはヘンリク公が私に下さったのだと母様から聞いたわ。

 離れて父を待つ武人が朗らかに呼びかける。

 そうだとも、並ならぬ勇気を生まれ持つ姫よ。それはしかとそなたに授けた。持っておくが良い。

 武人の言葉をよそに、やがて父は固めた拳を自らの胸に当てて言う。

 ……確かに、もらったぞ。

 そして手綱を引くと背を向け、三人は轡を並べて途切れぬ軍勢に合流する。見れば、三人に付き従うように一頭の狼が尾をしならせて並び駆けて行くのであった。

 父様──父様──! 叫ぶ声は蹄の音に掻き消される。

 やがて殿が一陣の風と共に目の前を過ぎゆくと、軍勢は見る間に嶺の向こうへ消えていった。


 生暖かい獣の息が額にかかる。

 まだいたの……あなたも行ったのではなかったの──ウルシュラは醒め行く意識の隅であの声を待ち構える。しかし、聞こえるのは暖炉で薪が爆ぜる心地よい音ばかりである。

 ゆっくりと瞼を開く。ぼやけた視界に馬の白い鼻が大きく迫る。馬──それじゃあ、わたしはまだ父様と一緒にいるんだ──大きな安らぎに包まれる。暖かく乾いた外套に首まで包まれ、ウルシュラは安んじて再び目を閉じる。しかし、すぐに違和感が追いすがる。外套の下の一糸纏わぬ己の体をまさぐる。不安に駆られて首を回せば、暖炉の火に照らされ、離れた場所で同様に横たわる人影が浮かぶ。

「……目が覚めたか」

 隅の方から耳に覚えのない声が言う。咄嗟に外套をかき寄せると、ウルシュラは恐る恐る身を起こす。

「大したもんだ、あの状態で生きているとはな。さすがは団長殿の娘、と言うべきか。後の二人も息を吹き返すといいが。……待っていろ、今何か腹に入れるものを拵えてやる」

 何から訊くべきか考えがまとまらぬまま、声のする方へ目を凝らす。

 荷を漁る音と共に、再び声が問う。

「一応訊くが……お前はウルシュラで間違いないか。ユゼフ・ヴィエルグスの娘、ウルシュラで」

 はい、と掠れる喉から絞り出す。父様を知っている人なのか──微かに芽生える安心を、ウルシュラは慎重に制する。「……あなたは」

「俺か」声は手を止め、含み笑いを漏らす。「そうだな、覚えているはずもない。……俺は昔、お前の父親のもとで一緒に戦った者だ」

「戦った……?」

「ああ」噛み締めるように声がくぐもる。「お前はまだほんの小さかったから覚えていないかも知れんが、のちに聞いてはいるだろう。東より来たる悪魔、タルタリのことを」

 まだ夢の中にいるのだろうか──ウルシュラは戦慄する。タルタリとの戦はポロニアでのこと、父と共にそこで戦った人がこんなところにいるはずがない。

 であれば、むしろこの人こそが──ウルシュラは怖気を払って問いかける。

「あなたはもしや、《荒れ野の誘惑》の……」

 刹那、声は押し黙ったかと思うと弾けるように笑い出す。可笑しくてたまらないというようにひとしきり哄笑すると、苦しげに息を継ぎながらやがて言った。

「悪魔、か? 言うことまで親父と一緒とは……ああ、傑作だ。確かに、お前は団長殿の娘で間違いないな。昔、お前の親父にも言われたよ、お前の名はルシフェルではないか、ってな」

 再び馬が鼻を寄せ、ウルシュラの額を舐める。押しのけると、それは馬ではなく驢馬であった。男はようやく灯りのもとに姿を見せるとウルシュラを見下ろして言った。

「名乗り遅れた。俺はルシアン。ブルグントのルシアンだ」

 ウルシュラは身を固くし頷く。男の名が知れたところで、この場の状況は何一つ解決しない。急いで服を目で探す。男が気づいて言う。

「服はお前の足元にある。火に当てておいたからそろそろ乾いているだろう。年頃の娘に悪いとは思ったが、濡れそぼって冷え切ったままにしていたら確実に死ぬからな」

「あの」ウルシュラは服を手繰り寄せながら恐る恐る訊く。「……触れたのですか」

「何だって?」ルシアンは頓狂に訊き返す。

 黙りこくるウルシュラを見下ろし、男はやれやれ……と嘆息する。

「ほんのいっときたりとは言え、仕えた主君の忘れ形見に手を出すほど俺は自分を堕としたくはない。親子から揃って悪魔呼ばわりされたってな。それが傭兵稼業の筋というものだ」

 ごめんなさい……と謝りながら、ウルシュラは背を向けて服を着る。

「でも……きっとわたしの体を見た人は皆、恐れて退くでしょう。わたしこそ、悪魔と契りを結んだと思われても仕方のない傷があるのだから。……恐ろしくは、ありませんでしたか」

 胸に手を当てながら問う娘をとっくりと眺め、傭兵は訝しげに訊く。

「何のことを言っている」

「胸の、火傷です。見たんでしょう」

 男は再び黙考し、戸惑いながら口を開く。

「なるべく見ないようにはしたつもりだ。傭兵稼業の筋とは言ったが、それでも変な気は起こしたくなかったんでな。だが、そんなものには気づかなかった。綺麗なものだった」

 傭兵は口走ってから、おっと、と慌てて口を噤む。

「とぼけないで」娘は吐き捨てるように言い放つ。「父様への義理立てでも、気なんて使わないでください。昔、わたしは大きな罪を犯しました。火傷はそれを忘れないようにと刻まれた罰なんです。あんなに大きなもの、見逃すはずない」

 傭兵は深く溜息をつき、むっとして答える。

「告解か。悪いが、俺は昔ベネディクト会を逃げたしたきりのただの傭兵だ。お前の罪をどうこうしてやることはできない。お前の親父への義理立ても、こうしてひとまず命を救ってやったことでちゃらだ。そこまで言うなら、もう一度脱いで見せてみろ」

 ウルシュラは我に返って身を竦める。啖呵を切ってみたところで、他人に最も見られたくないものであることに変わりはない。「すみません……忘れてください」

 そうだ、己の罪を他人にひけらかしてどうする。これはわたしが一人で抱えていくもの──そう自らに言い聞かせながら、ウルシュラはそっと肌着の内を覗き見る。


 なだらかな谷間を覆う禍々しい引き攣れは、そこになかった。


 ウルシュラは目を擦り、改めて襟ぐりを大きく引っ張り覗き込む。白い肌理だけが、綻びひとつなくそこにある。

 刹那、父の声が蘇る。

 ──ウルカ、お前のそれを返してもらうぞ。それは私のものだからな。

 父様はそう言った、わたしの胸を指して。わたしはてっきり、アダルベルト様のお守りのことだと思った。それが──どうして?

「どうした、子どもみたいな真似をして」傭兵がからかうように声をかける。

 ウルシュラは服を内を覗き込んだまま呆然と呟く。「……父様が、持って行ってしまった」

 傭兵はその様をじっと伺い、やがて肩を竦めると笑って言う。

「よく解らんが……ここじゃあ驚くようなことがあっても不思議はないだろう。何せ、お前たちが会いに行こうとしているのはあの聖ヤコブだ。呼べばどこにだって現れて奇跡を起こしてくれるという。それに、目の前にはロランが切り裂いた山……名高い霊験が揃っている」

 ウルシュラは、去りしなの父に声をかけた大柄な武人を思い出す。驚くようなことがあっても不思議はない──傭兵の言葉を反芻しながら、もう一度滑らかな胸を服の上から確かめる。


 傭兵の拵えた麦粥に人心地を取り戻し、立て続いた驚きの潮が徐々に引くと、ウルシュラの胸に差し迫った懸念が蘇る。ロドリグとニコラ、二人の容体は。雪渓と格闘していたあの時から、どれだけ時が過ぎたのか。

 先ほどまでの自分と同じ姿で寝かされた二人の男ににじり寄り、胸に耳を当て、顔に耳を寄せる。幸いにして二人とも鼓動も呼吸もある。ただ、ニコラの熱がひどい。

 ウルシュラは荷のあり合わせで思いつく限りの手当を施しながら、ルシアンに改めて矢継ぎ早に問う。──どうしてここにいるのか。どうして自分をウルシュラと知ったのか。

 傭兵は娘の手際に目を奪われながら、問われるままに答える。


 お前たち家族がポロニアを離れた後も、実は俺は時折お前たちの屋敷を訪ねている。あそこは居心地がいい。あのあたりでのちょうどいい逗留先にさせてもらっているんだ──悪く思うな。

 先月、俺は東での用事を終えて久しぶりに故郷に帰るつもりだった。そして立ち寄ったお前の屋敷で、娘が異端審問にかけられ有罪判決を受けたとの、母親の手紙が届いた、と報された。

 俺の記憶にあるお前は、まだ三歳くらいの幼児だ。異端判決という言葉と、どうしても結び付かない。皆から愛されていた幼子がなぜ、と不審に思った。

 悲嘆に暮れていた屋敷の連中には約束しなかったが──そんなことは傭兵の本分じゃないからな──、しかしどうにも気に掛かる。お前たちが出立の折、母親に、途中まででも同行してくれないかと頼まれたのを、東への用事を理由に断っていたから、そのせいもあったかも知れん。

 ともかく、お前たち家族がたどり着いた先は判っている。母親を訪ねてお前の行き先を訊こうと思っていたが、飯にありついた旅籠屋がお前を知っていた。あとは普段から西へ東へと飛び回る傭兵の勘だ。方々で訊ねた──馬鹿でかい地図を広げている異端巡礼の娘を見なかったか、と。……なぜ地図のことを知っているかだと? 馬鹿を言うな、あれを修道院で作らせたのはこの俺だ。あれがお前に託されたと考えない理由はない。

 娘は知らん、美しい少年なら見た、と口々に聞かされた。他を探そうかと迷ったが、追い続けてよかった。最後に森の居留地で、それが間違いなくお前だと、そしてあろうことかロランの裂け目を目指していると知って慌てた。馬鹿な選択を。追ってみたら案の定だ。だが、この避難小屋の手前に点々と持ち物を落としてくれていたからな、遠くからでもすぐ判った──。


 数奇でありながら細かな一つひとつが精緻に噛み合った男の語りに、ウルシュラは何かしら張り巡らされた導きを感じずにはいられない。

 やがてウルシュラとルシアンの看護により、まずロドリグが意識を取り戻す。目の前に現れた胡乱な男に警戒を露わにしたが、命の恩人であると知るとこの男らしく礼を尽くした。

 ニコラはなおも一日二日、昏睡の淵を彷徨っていたが、ついに目を覚ます。そして覗き込む傭兵に顔を顰め、忌々しげに呟くのだ。

「……くそ、むさ苦しい天使が迎えにきやがった」


 体力を回復した三人は小屋を出る。来た時の嵐が幻であったかのように、空は深く澄み渡る。

 ウルシュラはしばらく佇み、やがて近くの雪渓に歩み寄ると跪いて雪を撫でる。踏み跡もなくまっさらであった雪の表面が、今は激しい凹凸に荒らされている。

 脳裏に夢幻の光景が蘇る。小さくかぶりを振り、あの大雨で穿たれたのだろう、と得心する。

 顔を上げて嶺を見上げれば、天を遮らんばかりの岩の城壁は今や、目指す者を迎え入れようするかのように巨大な門を開いて待つ。

「……ぞくぞくするぜ」傍に立ったニコラが武者震いをして独り言つ。

「油断はするなよ」ルシアンがやはり嶺を見上げて戒める。「目を凝らしてよく見ろ。裂け目の手前はほぼ断崖絶壁、入り組んだ岩壁を登っていく。万全でないと挑めないぞ。せっかく拾ってやった命、無駄に捨てるなよ」

「望むところだ」ロドリグが言う。「聖ヤコブの奇跡に与るに値する命か、審判を仰いでやる」

 ルシアンは傍のウルシュラを顧みる。「どうだ、行けそうか」

 ウルシュラは嶺を睨む。ルシアンが指摘する通り、ここから先は積み重なった岩だらけの世界。どこを歩くのが正しいのかすら見極めるのは困難に見える。

 しかし、若き姉妹は確かに見る。荒涼たる道なき道のその狭間に、確かにかつて命を惜しまぬ隠修士が通った道がある。そして、無数の騎馬が駆けて示した、一筋の道が。

「行けます」ウルシュラは嶺に眼差しを留めたまま頷く。「わたしが先導します」

 ルシアンは値踏みするようにウルシュラの横顔を確かめると、改めて一同を見渡す。

「誰も、引き返そうという奴はいないんだな」

 返事がないのを確かめ、傍に付き従っていた驢馬の鼻面を撫でる。

「悪いな、ここまで付き合わせて。一人で麓まで帰れるか」

そして傭兵が尻を叩くと、驢馬はのんびりと岩間を降りていくのであった。

「おっさん。あんたも行くのか」

 無遠慮に訊くニコラを、ルシアンは弩の矢のような目で射る。

「お前たちのような素人を好きに行かせて、またぞろ死なれたら寝覚めが悪いだろうが。嶺の向こうまで付き合ってやるさ」


 ウルシュラが先を行き、そのすぐ傍にルシアンがつく。ニコラが続き、ロドリグが殿を取る。

 いい天気ですね──ウルシュラが空に向かって声を放つ。

 ああ、いい天気だ──後ろからロドリグが返す。

 気持ちがいいな──ニコラが陽気に言う。

 本当に、気持ちいい──ウルシュラは天に向かって腕を伸ばす。

 たったそれだけのやり取りが、ウルシュラを深く満たす。

 やがて、灰色の砂礫に覆われた斜面が目の前に大きく迫り出す。ウルシュラは砂礫の薄い、岩肌が露出した道を選びながら弧を描いて道を取る。

 遠目には垂直に切り立ったように見えた岩肌の、瘤のような岩の間に埋もれた道が複雑な葛折を繰り返し、上へ上へと登っていく。三人は杖をつきながら肩で深く息を吸い、天国までも続くのではないかと思われる長い道を見上げる。傭兵は時に遅れをとる者に手を貸し、荷を肩代わりしながら三人の道行を黙って支える。次第に浅く早くなる皆の呼吸を戒め、立ち止まらせては息を整えさせる。

「なるほど──傭兵ってのは、案内人にもなるんだな」

 ニコラが喘ぎながら感心すると、ルシアンは涼しい顔で返す。

「俺を雇うつもりならそれなりの給金を用意しておけよ。安くはないぞ」

 空はいよいよ近く、道はますます険しく迫る。ウルシュラは岩に手をかけ、つま先で窪みを探り、身を引き上げては次の岩に手を伸ばす。

 ルシアンは後ろに続きながら胸の内で呼びかける。

 ──見てますか、団長殿。今、天をも衝く岩山によじ登ってるのは、昔あんたの寝台によじ登ってたちびですよ。

 ──団長殿、これはあんたが望んだ未来ですか。マグナートはお国でも位の高い貴族様なんでしょう。その姫さんが、必死の形相で岩に齧り付いてる。俺が親だっら引き摺り下ろしていたかも知れません。……いや。違うな、それこそ本分じゃない──。

 ウルシュラは岩を探る指先に意識を研ぎ澄ませる。革張りの本ではない。水瓶でも、板戸でもない。ざらつく凹凸に確かな一手を定め、過たず己の体を預からなければ真っ逆さまに落ちるだけ。何て確かなことだろう。

 目に汗が入る。強く目を瞑って痛みを絞り出し、伸ばした肩の袖で拭い去る。

 また手を伸ばす。腕が強張る。つま先が空を切る。ひやりとした刹那、もう少し右、と下からルシアンの声が飛ぶ。慎重に探り窪みを探し当てる。

 あと何度繰り返せば頂に着くのか──登攀を始めた頃に頭を占めていた問いが、いつの間にか消えている。痺れる腕をただ無心に、空と岩壁の境に向かって伸ばし続ける。

 ああ、そうか──ウルシュラは深く得心する。──求めていたのは、たどり着くことじゃないんだ。ただ手を伸ばし続けること。それだけが、わたしを先へと連れていくんだ。


 娘は今、

 岩と一つになる。

 空と一つになる。

 道と一つになる。


 伸ばした手が不意に空を切り、ウルシュラは傾斜を取り戻した岩肌に腹ばいになる。頰を突く小石が温かい。

 すぐ後ろから登ってきたルシアンがウルシュラの傍に立って見下ろし、柔らかく声をかける。

「よくやったな──ここが、裂け目だ」

 震える腕を突いて身を起こす。足がふらつく。ルシアンが預かっていた巡礼杖を黙って差し出すと、受け取ってしがみつくように身を預け、さらに二歩、三歩と地面を確かめる。

 か細い悲鳴のような声をあげてニコラが顔を覗かせ、やがてロドリグが這い上がる。二人はしばらく蹲って息を整えた後、傭兵から杖を受け取り、呆然と立ち尽くしたままのウルシュラに寄り添って立つ。

 振り返れば今し方登ってきた急峻な絶壁の向こうに青く霞む山襞が連なり、正面にはやはり荒涼とした黄色い大地がどこまでも広がる。

「ここから先が、ヒスパニアか」ロドリグが呟く。

「当たり前だが……またこれを下っていくんだよな」ニコラが暗澹たる声で続ける。

 ウルシュラは前に広がる風景にただ目を凝らす。星を繋ぐように縁を繋ぎ、心のまま走らせる木炭の描線のように確たる道が、地平の先へとウルシュラを誘う。

 不意に腹の底から熱いものが込み上げる。

 身を屈め、両の拳を固めると、その熱い塊を思い切り空に放つ。

「モンジョワ──サン・ドニ──!」

 あっ、とニコラが声をあげ、不意打ちを喰らったようにウルシュラを見る。

「こいつ、抜け駆けしやがって──モンジョワ、サン・ドニ──!」

「モンジョワ、サン・ドニ──!」ウルシュラが喉も潰れよと叫び返す。

 黙って見ていたロドリグが二人を制するように一歩前に出る。

「モン、ジョワ、サン、ドニィィィ──!」

 彼方まで轟くような声にウルシュラは頰を上気させ、ニコラは拳を振り回す。

「ほら、おっさんも叫べよ」

 ニコラに水を向けられ、ルシアンは苦虫を噛み潰したような顔で制する。

「あまり馬鹿騒ぎしていると、賊が寄ってくるぞ」

「構いやしねぇ」ニコラが笑い飛ばす。「こっちにゃ有能な傭兵がついてらぁ」


 ……モンジョワ、サン・ドニ。古のフランク語で要塞化された小山を指す〝ムンド=ガウィ〟がいつしか、歓びの山〝モン=ジョワ〟に転じ、パリの守護聖人ディオニュシウスの名を伴って、時に十字軍を鼓舞する鬨の声として、また巡礼者たちが聖地を前に放つ歓喜の声として叫ばれるようになったと言われる。

 若き姉妹が歩む道はまだ遠い。しかし彼らが叫んだ「モンジョワ、サン・ドニ」を潮に、私たちのペンはまもなくその羽を休めるであろう。何となれば、以後の姉妹の道は確かによみせられ、心安けき導きを得るからである。ここまで共に歩んできた私たち自身が、その証人である。


 一二五三年十二月初旬。三人の巡礼者は一人の傭兵を伴ったまま聖ヤコブの地、星の野の誉れ高いコンポステーラに至り、司祭より確かに巡礼を全うした旨を証す到達証明書を授かる。

 帰途、ピレネーの西のポンス・レギナエまで帰り来て、ポルトゥス峠の落石が除かれたとの報せを得た四人は、もはや裂け目を選ぶことなく安んじて峠を越え、時に雪に苛まれながら一路オクシタニアを目指した。

 明けて一二五四年三月、アッパミエの司教座に証明書を提出した姉妹は赦しを得、雪の間に金盞花が覗くモンス・ラヌンクリに帰りつく。街道の端でロドリグ、ニコラ、ルシアンの三人と別れを惜しみ、旅籠屋「小さな待雪草」をはじめ懐かしい人々を訪った。

 翌一二五五年四月。シトー修道院で修練を全うした姉妹は、逡巡の末、ついに母や弟と共にポロニアに帰る決心をする。しかしそれは故郷に安住の地を求めてのことではない。今や各地に知己を得た姉妹は、召命に従い新たな旅を見据える。

 ガスコーニャに築いた女たちの家を礎に、姉妹ソフィアの後ろ盾やユミリアの協力を得ながら各地に顧みられぬ弱者のための寓舎を設けていくのである。その営みは時に教会の眉を顰めさせ、男たちの非難を招きもしたが、姉妹はあくまで教会の教えに恭順の意を示し、寓舎は共同体を損なうものではなく、むしろ補完するものであることを言葉を尽くして説いて回った。


 今一度記す。私たちの若き姉妹が歩む道は未だ遥かに遠い。その一つひとつを書きつけるならば、私たちの書庫はその文書を収めきれないであろう。

 書にならぬ道を、私たちは共に歩むのである。


─完─

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