六 ベンヴェヌート
一二四九年五月、十一歳のウルシュラに堅信礼の話が舞い込む。
幼児期に洗礼を受けた子どもが長じて自らの意思で信仰告白を行う堅信礼は、司教によって授けられる。故にモンス・ラヌンクリのような山間集落では、数年に一度のトロサ司教座からの司教の巡察を待たねばならない。その機会が、間もなく巡ってくるという。
その日に立ち会う前に、ここに至るまでの日々を振り返ろう。
四年前、ウルシュラはシトー会女子修道院に引き取られた。そしてまもなく、集落の教会司祭が異教の業を教唆した罪で告発され、司教区監督の沙汰で更迭された。集落はかつてない醜聞に沈滞したが、後任の司祭は誰に対しても折り目正しく、説教もすこぶる評判が良い。人々は喜び、これでようやく村に平穏が戻る、と胸を撫でおろした。
ラザレットのマリアの元へは、ウルシュラが修道院を移ったことが努めて穏便に伝えられた。折り返しマリアからクリュニー会とシトー会の両修道院へ、戸惑いを滲ませながらも感謝を伝える手紙が届き、ウルシュラの元へも、弟ジョゼップの日々の成長を伝える長い便りが届けられた。しかし、そのいずれにも母子がいつ戻るとは記されていないのであった。
実のところ、ウルシュラには伏せられ、両修道院にのみ報されていたことがあった。ジョゼップのことである。
幼い姉が待ち焦がれた弟にはなぜか、生まれながらに首から胸にかけて大きな火傷の痕があった。痛々しく爛れた肌に助産婦は畏れ、司祭は首を捻った。日が経つにつれ傷は癒えていったが、赤々とした痣は鮮やかに残った。定め持った病か、悪しき障りか、あるいは聖痕の類か──種々の憶測が囁かれた。詰まるところラザレットは、これがレプラではないという確証が得られるまで母子を外へ送り出すことを躊躇ったのである。
母と再会し、弟と対面する日を今日か明日かと待ち焦がれながらも、ウルシュラはシトー修道院で新たな学びに向き合おうとしていた。
シトー会女子修道院ではクリュニー会などと異なり、殿方もその運営を支えていた。父修道院の監督下で独立して営まれたため、自前の司祭を必要としたのだ。そのため、女子修道院長の前で請願を立てた司祭が、女子修道院の礼拝堂で司牧を務める独自の形を採ったのである。
モンス・ラヌンクリのシトー会女子修道院で司祭を務めるのは、ベンヴェヌート・ロンバルディという大男であった。ベンヴェヌート司祭は自らを古のランゴバルド族の末裔と称し、良く手入れされた長い髭を何よりの誇りとした。そのいかめしい風貌に初めは誰もが畏れをなした。いわんや、ウルシュラの目にはそびえる巌の如くである。
写字室で姉妹ベアトリクスに初めて司祭を紹介されたとき、ウルシュラは刹那その顔やいずこと見まわし、やがて天井近くからこちらを見下ろす長い髭に埋もれた丸い目を見つけると悲鳴をあげて退いた。司祭は鷹揚に体をゆすって放笑した。
──狼をも従える豪胆な子が、儂を怖がるとはおかしな話だ。お前さんが担ぎ込まれた日に祈ってやったのを忘れたか。
このベンヴェヌート司祭が、ウルシュラの新しい師となった。
師は、礼拝堂にいなければ大抵別棟の図書室か写字室にいると言われる本の虫であった。写字室の一角を区切り、修道院が特別に認めた子どもたちを相手に、持てる知識を惜しみなく与えることを喜びとした。ウルシュラは鵞鳥の風切羽を使った羽ペンの作り方、写本に用いるテクストゥーラ書体の綴り方、羊皮紙の折丁の束ね方、コデックス(冊子体)の閉じ方など、本の成り立ちから教わった。
──見たまえ、諸君。この羽ペンは鳥の翼にあった時は彼らを天高く舞い上がらせたものだ。今、君たちはこれを君たちの「舌」として使うのだ。文字を綴ることで、君たちの頭の中にあるものは世界に向けて雄弁に語りだす。そうやって古の賢者の知恵は記され、我々の知識として遺されたのだ。知識は世界を見る君たちの目を鋭くし、より真実へと近づける。神はこの世をどのように企図されたのか、その深遠なる御心へと君たちを羽ばたかせる翼となるだろう。諸君、大いに知り、大いに学びたまえ!
ベンヴェヌート司祭の教育は、当時修道院で子どもたちに施されるものとしては例のない、画期的なものと言えたであろう。すなわち、ヨーロッパ各地に設立されつつあった大学と呼ばれる新しい高等教育機関に倣って、自由七科を範としたのである。
例えば三科──文法、修辞学、弁証法──であれば以下の如くであった。
──諸君、今朝ここに来るまでに何を見たかね?
──すずめが水浴びしていました!
──犬がねずみを追いかけていました!
子どもたちが返す言葉を司祭は羊皮紙の上でラテン語に変換する。
──Passer in aqua se lavat.(雀が水の中で体を洗う)
──Canis murem insequitur.(犬が鼠を追いかける)
そしてその隣に簡単な人体の絵を描き、単語の一つひとつをその頭や胴、足と結んでいく。
──主語、動詞、目的語。これらが文法の骨組みとなる。我々の体がさまざまな部位の連なりで十全に跳んだり走ったりできるように、言葉も骨組みがきちんと成り立ってこそ、言わんとするところが相手に伝わるのだ。アニエス、君の発話はしばしば主語が抜けることがあるが、頭がないとどこへ走っていくか判らんぞ?
名指しされた子どもが罰の悪い笑みを浮かべ、周囲が笑いさざめく。司祭は続ける。
──さて、諸君。〝Passer in aqua se lavat.〟。この文章に、情報を伝えるだけでなく、人の心に届く美しい響きを加えてみようではないか。街で吟遊詩人を見かけたことはあるかね。彼らは実に巧みに言葉を操る。彼らにあやかって、諸君ならどう表現するだろうか?
──ちゅんちゅんと、鳴きながら!
──水を……ばしゃばしゃ跳ねながら。
──羽をきらきら光にかざして……?
司祭はその一つひとつに満足げに頷き、相槌を打ちながら羽ペンにインクを継ぐ。
──実に良い。すなわち、このような具合か。〝Splendentibus guttis, passer alas suas lavat.(煌めく雫に、雀はその翼を洗う)〟……諸君、これが修辞学だ。
──刺繍みたい。選ぶ糸の色や順番で印象が変わるんですね。
──まさにその通りだ、ジャンヌ。伝えたいことに想いを凝らして言葉を選ぶ。それが人の心に届くのだ。……さて我々が雀に気を取られている間、鼠と犬はどこへ行ってしまったのか?
子どもたちはくすくす笑いながら、ねずみは小さなくぼみに逃げ込みました!、とか、それを犬が掘り出そうとしました!、などと各々自由に発言する。司祭はその一つひとつに、なぜそう思う?、と訊ねる。導かれるままに子どもたちが巡らせる、鼠と犬をめぐる気ままな想像はやがて、その顛末について確からしさを探る一筋の議論へと進展していくのだ。
──今君たちがしてきた、意見と反証による発展的な対話、これこそが弁証法というものだ。言葉を争いの道具ではなく、共により確かな答に近づくための道具として使うのだ。
司祭の授業には常に二人の修道女が同席する習いとなっていたが、子どもたち以上に姉妹たちが熱心に聞き入ることもしばしばであった。
算術や幾何学の授業は、時に屋外の薬草園で薬草学とともに行われることもあった。
──諸君。今姉妹オルガから教わったように、ここでは様々な草花を育てているのが分かるだろう。さて、もし仮に土地をこのように……
と言いながらよく慣らされた土の上に牧杖で線を引いていく。
──縦に二区画、横に二区画、全部で四区画に区切るとすると、隣り合う区画同士に同じ種類の草を植えないようにするには、最低何種類の草で足りるかね?
──四!
アニエスがすかさず答える。司祭は無言で髭を撫でる。
──アニエス、先生の問いは「最低何種類」よ。四種類も必要ないのじゃない?
ソフィアが嗜めるとアニエスは憮然として司祭の描いた区画を見直す。
司祭は傍で黙って区画を見つめていた小さな転入生に問いかけた。
──新入り君、どうかね。
──……二しゅるい、です。
ウルシュラは小さな声で遠慮がちに答える。
──ご名答だ。
司祭は満足げに頷くと、升目の縦と横に一区画ずつ描き足して全九区画とする。
──今度はどうかね?
──やっぱり、二しゅるいです。
即答するウルシュラにアニエスが、うそだぁ、と目を剥く。
──他の諸君はどうかね?
子どもたちは互いに顔を見合わせ、九つの区画を取り囲んでさまざまに意見を交わす。見守っていた年長のソフィアがおもむろに升目を互い違いに掻いて見せると、わっと歓声が上がる。
──ああ、教会の床!
──ソフィア、良い助けだ。その通り、諸君の村の教会の床はこのような模様になっているな。白と黒だけで塗り分けられている。つまり、どんなに升を増やしても、縦横規則正しく区切られている限り二種類で事足りるというわけだ。
一番に回答したウルシュラは周囲から賛嘆の声を浴びても生真面目な表情を崩さない。
司祭はさらに問いを複雑にしていく。区画に大小の升や丸や三角を混ぜ込んでは、子どもたちを翻弄するのだ。しかし、またしてもウルシュラが控えめに声を上げる。
──四しゅるいで、足ります。
一同は疑いの沈黙でウルシュラを見る。問いを出した司祭までが、本当か?、と首を傾げながら図にかがみ込み苦心して区画に割り振ってくアルファベットは、果たしてabcdの四文字で事足りるのだ。
こうして私たちの小さき姉妹は、師の目に際立った存在として刻まれたのであった。
ある日の授業の後、ウルシュラは書写台の上に置かれたままになっていた複写中の図版に釘付けになった。
縦に置かれた長方形の図版である。その四辺を青く縁取る紋様の内から、溢れんばかりに卵形の火焔の輪が燃え盛っている。炎のすぐ内側を漆黒の闇に噴火する小さな火山が縁取り、さらにその内側には夜空を思わせる深い藍の地に赤と金の花が散りばめられている。中心には丸く川に抱かれた大地、そのすぐ上に黄金と朱に輝く火球が浮かぶ。大地と火球を結ぶ上方で一際燃え盛る火焔の縁に、大輪の光の花が君臨しているのであった。
鮮やかに彩られた細部のひとつひとつが、ウルシュラの心を鷲掴みにした。
──どうだ、美しいだろう。
後ろから覗き込んだ司祭が満足げに髭を撫でて言う。
──ビンゲンの姉妹ヒルデガルトが視た、神の作りたもうたこの世界の姿だ。苦労して帝国のシトー修道院から借り受け、写させてもらっているのだ。
──これが、世界?
──そうだ、神が姉妹にだけ見せた幻影の世界。原罪を負って生まれた人類がたどるべき、救済への旅の道筋だとも言われている。いわば、地図のようなものだな。
──地図……父さまも大きな地図を持ってたけれど、ぜんぜんちがう……
──ほう、お父上が。そう言えばお前さんも、ポロニアから来たと言っていたな。
ウルシュラは俯いて認める。その国の名は、もはや朧げな屋敷での幸福な暮らしと共に、否応なく懐かしい父や母への思慕を誘った。
──ポロニアと言えばビンゲンよりもはるか東だろう、儂もさすがに行ったことはないが。
ベンヴェヌート司祭はひとしきり髭をしごいて考え込んだ後、ウルシュラに訊ねた。
──なあウルシュラよ、ひょっとしてお前さんも、この姉妹ヒルデガルトのような幻影を視ることはあるのか?
ウルシュラは咄嗟に問いの意味が解らず司祭を見上げた後、書写机の図版に目を戻して慌ててかぶりを振った。司祭は己の愚問を取り消すように放笑する。
──いやすまん、東の生まれと聞いてもしやと思ったが、そうであろうな。
司祭の笑い声を頭上に聞きながら、ウルシュラは異国の姉妹が視たという壮麗な景色を目に焼き付けた。
そしてこの図像との出会いが、思わぬ余波を招くことになる。
数日後の余暇、ウルシュラは瞼に刻んだ情景を呼び起こそうと、庭の隅に大きく卵形の火焔の線描を試みた。用いた小枝は絵の大きさに負けて何度も折れたが、ウルシュラは道具を持ち替えては渾身の力で火焔の世界を土に刻んでいった。
どうにか思い通りに描けたと、体を起こした時であった。
──こんなところで何てものを描いてるんだいこの子は、汚らしい!
突然背後から怒声が飛んだ。写字室への用事の帰りでもあったのであろう、どこかの屋敷の使用人と思しき中年の女性が大股で歩み寄り、せっかく描いた巨大な図像をたちまちに踵で消していく。ウルシュラは驚きに声もなくその様を見つめた。女性はすっかり絵を消してしまうと、ウルシュラを睨みつけて修道院の門を出て行った。
一体、何がさほどに女性を怒らせたのか。混乱し、暗然と涙を浮かべて写字室に姿を現したウルシュラを、居合わせた司祭と姉妹たちが見咎めて訳を質した。
──姉妹ヒルデガルトの図を描いたら、汚いと叱られただと? はて、奇妙な。
司祭は首を傾げながらも、傍の蝋板をウルシュラの前に差し出して、ここにもう一度描いてみよ、と促した。ウルシュラは躊躇いながらも再び図像を蝋に刻んでいった。
黙って覗き込んでいた姉妹たちは、あらかた描き終わった絵を見てなぜか居心地が悪そうな顔を見合わせる。司祭はひとしきり仔細に検分した後、重い口を開く。
──うむ、これはもしや……いや、姉妹たちの前で口に出すのはいささか憚られるわい。
それでも、混乱したまま大人たちを見上げるウルシュラを見かね、しぶしぶ説明を継いだ。
──つまりこの絵は、全ての命の生まれ出ずる道、母の胎の口のように見えなくもない。あの図版の特徴をよく捉えて描けてはいるが、装飾を排して形象のみを抽出すると……かのご婦人の目には、恥ずべき、秘すべきものに映ったのやも知れぬ。姉妹ヒルデガルトがそれを意図したかどうかは判らぬが……
姉妹たちが嘆息まじりに十字を切る傍で、司祭は棚に仕舞われていた製本前の図版を取り出して蝋版の隣に並べ見比べながら、なるほど、気づかなんだわい……と独りごつ。
ウルシュラはなおも釈然としない様子で抗議した。
──どうしてそれがきたないのですか? 姉妹ヒルデガルトがこんなにきれいに描いた世界が、赤ちゃんの生まれるところににているなら、きっと姉妹も、お母さんの体をきれいって思ったんだと思う。だって、神様がそう作ったのでしょ?
子どもの一途な主張に、司祭たちは言葉を失った。
──いやはや……目から鱗が落ちるとは、こんな心持ちを言うのやも知れんな。
司祭の感嘆に、姉妹オルガも感に堪えぬ面持ちで同意する。
──驚いた。ウルシュラ、あなたは大変な子ね。そんなこと、私はこれまで誰からも聞いたことなかったわ。
──女は、
修練長を務める姉妹オノリーヌが渋面のまま口を開く。
──エデンの園で禁じられた智慧の実を食べ、罪に堕ちたのです。己の身体を恥じる心も、産みの苦しみも、土から糧を得る苦労も、全てそこから始まった。人の原罪は女に帰され、月のものも出産も不浄とされた。……ですが、主イエスもまた、その女から生まれたのです。
司祭が重々しく頷いて続ける。
──多くの教父たちはイエスを〝父の子〟と呼ぶ。マリアとの血の縁から遠ざけ、神の霊性との絆を強調するためであろう。しかし、イエスご自身は自らを〝人の子〟と名乗ることを好んだ。神の子であれ、己は父ヨセフと母マリアの元に生まれたのだと、な。
姉妹オノリーヌがにわかに咳払いをして司祭の言葉を遮り、子どもに向き直って言った。
──いずれにせよ、ウルシュラ。あなたの描いたものも、無論、姉妹ヒルデガルドの視た景色も、決して汚いものなどではありませんよ。大変に尊いものです。……ですが、修道院の庭に描くのはいけません。誰が見て何を思うかは判らないのですから。良いですね?
ウルシュラが、はい、と神妙に頷くのを認めて、姉妹オノリーヌは一同を見渡す。
──それと司祭様、姉妹オルガ。今の話はこの場限りにとどめましょう。教区の誤解を招くようなことがあってはなりませんから。ウルシュラもいいですね、この話はこれで終わりですよ。
司祭は髭を撫でつけながら、確かにそうだ、と頷く。姉妹オルガも口を引き結んで同意した。
ウルシュラだけが、尊さや美しさについて思いのまま口に出すことを封じられる不条理に密かに煩悶した。しかし、これ以上問うてはいけないことと黙して従った。
──ねえウルサ。父さんがあなたのこと、大した子だって褒めていたわ。あなたなんでしょ、修道院のお庭に恥ずかしい絵を描いて、ニオール家の女の人を怒らせたのって?
しばらくのちの朝、登院したソフィアに愉快そうに話しかけられ、事件を忘れかけていたウルシュラは顔を赧めた。聞けば、医師であるソフィアの父のもとに偏頭痛で通っている屋敷勤めの侍女頭が、屋敷が依頼していた写本を受け取りに行った修道院の庭に恥知らずな子どもがいた、と憤慨して報告してきたのだという。話を聞いた父は婦人に、あなたはその子に憤慨することで自らを貶めていることに気づかねばなりません、と諭したと、ソフィアは清々しげに話した。
このことが端緒となり、ウルシュラは少し年の離れたソフィアと心を通わせるようになった。
ベンヴェヌート司祭は教育において子どもたちに高い水準を求めたが、ソフィアは当時シトー会に学ぶ学童の中でも特に抜きん出た才を示した。修辞学の授業で読み上げる作文に姉妹たちは感嘆し、弁証法の授業ではアリストテレスの三段論法を自在に操って司祭に舌を巻かせた。ウルシュラにとってソフィアは仄かに覚える憧れの対象であり、もっとも身近な目標であった。
一方、算術や幾何学の授業ではウルシュラが頭角を現し、ソフィアは年下に負けじと発奮する。二人は切磋琢磨を通じて、いつしか互いを唯一無二の親友と認めるようになっていった。
司祭がある時、写字室で行っている天文学の授業を夜空の下で行おうと提案した。これには、学童がいずれも良家の子女であることから姉妹オノリーヌが難色を示し、当日はソフィアの父だけが司祭の呼びかけに応じて娘を夜の修道院へ送り届けた。
司祭は姉妹オルガと共に、ソフィアとウルシュラを薬草園のある回廊の中庭へ招き入れた。
闇の厳粛な静寂に草の香だけが漂う中、子どもたちは声を憚り、導かれるまま畦に立つ。
司祭が手に提げたランタンの火を吹き消すと、一行を導いた乳白色の灯りは絶え、真の闇が訪れた。ウルシュラの手を握るソフィアの掌に力が籠る。
──そろそろ目が慣れただろう。……ご覧、これが神の摂理だ。
司祭の声に促されて二人は天を仰ぐ。
先ほどまで己の指先すら覚束なかった闇の彼方に、見渡す限りの光の砂が散り撒かれている。到底数え切れぬその一つひとつが、息をひそめ囁くように瞬いている。星々の声が静寂を満たしていく錯覚に、二人は圧倒された。
傍でソフィアが吐息を震わせているのに気づき、ウルシュラは握った手にそっと力を込めた。
──ソフィア、泣いてる?
──怖くて、私……
しかし鼻を啜るとすぐに声を華やがせ、涙に濡れた頬を随喜に輝かせた。
──でも、嬉しい……こんな光景、いくら修辞を勉強したって言い表せないもの……!
──あの星々はもう何百年、何千年とああして瞬き続けている。三博士を主の厩へと導いたベツレヘムの星も、きっとまだあのいずこかで輝いていよう。まことに、途方もないではないか。
司祭は深々と呼吸して続ける。
──だから儂らはこの光景にひととき神秘と通じ、己だけの導きを見る思いがするのやも知れん。古人は己の末の姿を見たとも言う。どうだ、君たちにはあそこに未来の自分が見えるか。
子どもたちは目を凝らす。やがてソフィアが小さく笑って言う。
──アニエスやジャンヌがここにいないのが残念。アニエスならきっとお城の窓灯を、そして晩餐会で若い騎士様と踊る自分を見たって言うわ。ジャンヌなら、そうね。質実な荘園に嫁いで子どもたちに可愛い服を仕立てている姿を見るんじゃないかしら。もう私、目を閉じたって二人の未来が浮かぶようよ。
ウルシュラは思わず声を立てて笑う。ソフィアの想像は瞬く間に星を繋いで夜空に浮かび上がる。
ソフィアはひとしきり想像を楽しんだ後、声を落として続ける。
──でも私は……私にはそういう未来は見えません。棚に並んだ薬瓶、分厚い本、講義室……父さんが歩んだモンペリエへの道のような、そんな未来は。私は女だから、無理なのは解ってます。でも……ああ、私も男の子だったらよかった。そうすればこんなに不自由な思いはせずに、好きなだけ未来を描けたんだろうけれど……
姉妹オルガが傍に寄り添って少女の肩にそっと手を置く。
──そうね、ソフィア。私たちはとても不自由だわ。でも、それは女だけじゃないのよ。殿方だって、子どもだって大人だってみんなそう。だから私たちはお互いに求め合い、支え合うの。……きっと愛がそこから生まれることを、神は人に知って欲しかったんじゃないかしら。
姉妹の言葉を受けて司祭が続ける。
──イエスの力は弱きにこそ宿る、だから互いに重荷を負い合って、キリストの立法を全うするのだと、パウロも諭している。……ソフィアよ。お前さんの不自由は必ず別の形で贖われる、儂はそう信じているがな。
短い沈黙の後、ソフィアは素直に肯んずる。
──ええ、先生。私もそう信じます。
司祭は安堵し、ウルシュラに水を向ける。
──ウルシュラ、お前さんはどうだ。あの輝きの中に何か見えるかね?
再びの静寂の中、ウルシュラは答えない。あえかな星明かりのもと、微動だにせず天を仰いだままの子どもの様子を窺おうと周囲が目を凝らしたその時、ようやく声が聞こえた。
──星しか、見えません。
その声に含まれていた微かな棘に、ソフィアは不安げに隣を伺う。繋いだ手が湿り気を帯びている。
──見えるものしか見えない。姉妹ヒルデガルトみたいに、神様が見せてくれる未来なんて見えない。だって……どうしてお家をはなれて遠く、こんなに遠くまで来たのかも、どうして先生や姉妹やソフィアと出会ったのかも、何もわからないんだもの。
思いがけない吐露に司祭らは戸惑った。子どもは息の限り言葉を連ねる。
──どうして父様がいなくなったのかも、どうして母様とジョゼップが帰って来ないのかも、どうして、ソフィアが悲しいままでいなきゃいけないのかだって……!
──ウルサ、それはもういいのよ。姉妹や先生の仰る通りだもの。
ソフィアは慌てて取りなす。ウルシュラは構わず続ける。
──だからもっと知りたい。図書室の本を全部読んで、星のことも、神様の心も、みんな知りたい。そしたらいつか、わたしがソフィアの不自由をなくしてあげる。
子どもはそこまで一息に吐き出した。再び長い沈黙が訪れる。
──ウルシュラ……
司祭は深く息を吐くと静かに言う。
──ああ、お前さんなら本当にそうするやも知れんな。
そして短い祈りを捧げると一同に告げた。
──さあ、夜も更けた。二人とも疲れただろう。ウルシュラ、姉妹オルガに部屋まで連れて行ってもらいなさい。そしてよく祈り、よくお休み。ソフィア、君は儂が家まで送ろう。父上が心配なさっているやも知れんからな。
別れ際、ソフィアはウルシュラの耳元に顔を寄せて囁く。
──ウルサ、さっきはありがとう。とっても嬉しかった。
そして、おやすみ、また明日ね、と添えると司祭と共に馭者の待つ馬車に乗り込んだ。
ウルシュラは部屋に戻る前にもう一度星空を振り仰ぐ。先ほどまで皆と見上げていた星々は今、はっきりと自分一人にその囁きを向けているように思われた。鼓動が早瀬のように昂まる。もっと知りたい、もっと学びたい──星の間には見出せなかった明日からの日々が、確かな形をとって膨らんでいく。
翌日、ウルシュラは司祭に一冊の本を手渡された。革の表紙で綴じられた詩篇集の、その重みに思わずたたらを踏む。どうにか書見台に乗せ、固く軋む表紙を開いて声を上げた。
B──その金文字が、金地の装飾に縁取られて頁いっぱいに大きく記されている。文字も縁飾りも極彩の蔓や花弁で形作られ、まるで秘密の庭の門扉のようにウルシュラを迎え入れる。
──《悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである》。出だしの〝Beatus〟の頭文字だ。今日からこの詩篇を一篇ずつ読んでごらん。解らない言葉があったら決してそのままにせず、これを使って調べなさい。
司祭はそう言ってさらに大きな本を隣の書見台に乗せ、小口の留め金を外す。
──ウグティオの編んだ語源集だ。単語は一つとして独立して成り立つものはない。皆兄弟や親戚のように多くの別の単語と繋がっている。一つの単語を知るということは、一つの家族を知るに等しい。芋の蔓を手繰るように、言葉のつながりをたどって行ってごらん。
こうしてウルシュラは本の世界に足を踏み入れた。
彼女にとってはオック語もラテン語も学びの途上であったが、司祭は乞われれば傍に付いて、子どもが納得するまでその学びを助けた。家の庇護から切り離されたウルシュラは、同時に、学びを妨げるあらゆる因習の束縛とも無縁であった。この小さな子どもが一体どれだけのものを吸収していくのか、司祭は密かな期待をもって見守るのであった。
突然本に没頭し始めたウルシュラを、アニエスは奇異なものを見る目で遠巻きに伺い、ジャンヌは根の詰めすぎを心配して時折声をかけた。ソフィアはその様をしばらく見守り、やがてそれを自分への渾身の励ましと受け取った。少なくとも修道院にいる間はどれだけ学んでも構わない。不遇を託つ暇があるならこの小さな親友を見習えばいい、と。
そして司祭の授業が終わると、写字室の隅でウルシュラと机を並べるようになった。司祭はソフィアにウィンセントゥスの『諸学の鑑』や、ヒポクラテスやガレノスを収めた『医学精選』を紹介し、彼女はそれらを貪欲に読み下していった。
言葉は交わさずとも、互いに隣で感じる息遣いに励まされながら学びに没頭する時間は、ウルシュラとソフィアにとって最も幸福な時間であったろう。
やがて年が明け、モンス・ラヌンクリに再びの春が訪れる。そして、里から山へ季節の歓びが受け渡されるように、トロサ司教座からの報せがアッパミエ、アクイースを経てモンス・ラヌンクリの教会へともたらされた。
《六月の聖ヨハネの祝日が過ぎる頃、司教猊下ご一行がモンス・ラヌンクリを訪うであろう》
それは、数年に一度の司教の巡察がこの山にやってくるという通達であった。
集落はにわかに色めき立つ。教会の助祭や修道院の助修士、領主家の使用人らが慌ただしく駆け回り、人々は晴れの日に向けて忙しく動き始めた。
新任の教会司祭は集落の顔役と協議の上、この機会を待って行われる堅信礼の候補者を洗い出す。ソフィア・カスラリ、アリス・ニオール、リュカ・プラ、マルグリット・デュ・ロシェ……集落に暮らす十代前半の子どもたちである。候補が定まると司祭は三日にあげず候補の子らを呼び集め、祈りや問答の稽古をつけた。使徒信条、主の祈り、アヴェ・マリアの暗唱が厳しく査閲され、時に言い間違えて照れ笑いを交わす子らに、司祭は口を極めて言い含めた。
「よいですか皆さん。堅信の油を受けるということは、神の兵士になるということを意味するのです。生半な心構えで司教様を前に恥をかかぬよう、気を引き締めて取り組むように」
子どもらがしごかれている間、教会堂の壁や床石は村の女たちの手で磨き上げられ、祭壇には真新しい布が広げられる。男たちは古びた調度を補修し、トロサ司教の腰掛ける椅子に技を尽くした花模様を彫り込む。
ニオール家の城館では名家の威信を賭けた支度が進められた。なにしろ一行は司教をはじめとする聖職者の他、事務方や法学者、護衛まで含めれば総勢三十名にもなりなんとする大所帯である。滞在中の受け入れは名誉であると共に莫大な負担でもあった。当主自ら吟味の上、蔵からとっておきの葡萄酒の樽が引き出され、一番に肥えた豚が屠られた。
教会での厳しい指導に喘いでいたアリスには、トロサから絹布の衣裳が届く。母と侍女の手でその裾に家紋が刺繍されると、アリスは束の間疲れを忘れて試着に心を弾ませ、家人たちはその華やいだ姿に感嘆の溜息を漏らした。
村人たちは山道の綻びを固めて行列の足元を整える。各戸に鶏や卵などの供出が割り当てられると、女たちは繁くニオール家の屋敷や修道院を出入りし、そのたびに噂話の花を咲かせた。司教様はどんなに煌びやかなお姿でお越しだろう、いやアリスお嬢様の晴れ着だって負けてはいないでしょうよ──期待と不安と好奇心が春の風と共に集落を駆け巡った。
そして六月、聖ヨハネの日が過ぎると山には常ならぬ緊張が漂う。人々は今日か明日かとひそめき合い、しきりに麓へと目を凝らした。
張り詰めて過ごす数日に村人たちの疲労が募りはじめた昼下がり、一人の羊飼いが鳴らす角笛が、その時を告げる。
──司教様がお見えになったぞ!
報せは口伝てに集落を駆け巡り、人々はこぞって表に飛び出す。
遠方の谷間に旗頭の十字が光り、次いで白い天蓋を掲げる一群がゆっくりと姿を表した。香煙を燻らせる侍者が続き、護衛の一団の甲冑が午後の陽を受けて煌めく。遠目にもはっきりと分かるその威儀に、人々は仕事の手を止めて釘付けになった。
行列は静やかに、しかし確実に集落を目指して山道をたどる。時を忘れて見入っていた人々の鼻先に微かな香の薫りが届くに至って、ようやく我に返り慌てて道が空けられた。今や天蓋の下で輿に乗った司教の純白の衣や頭上のミトラもはっきりと見える。
行列は教会の前で止まり、輿を降りた司教は司祭の出迎えを受けて堂に導かれる。間もなく再び姿を見せた司教は、一行と共にニオール家の屋敷へと向かう。そして、老執事以下家人一同が整列して出迎える門をくぐって行った。
教会で司祭と共に司教を出迎えた子どもたちは、司祭の後に続いて堂を出ると、アリスの屋敷へと吸い込まれていく一行の後ろ姿を見守った。
──本物の司教様、私、初めてお会いしたわ……
アリスが瞳を潤ませて呟くと、リュカも呆然と言う。
──僕だって。トロサなんて大きな街、行ったこともないものな。
ソフィアは最後の一人が門の中に姿を消すまで見届けた後、決意を確かめるように言った。
──明日はあの方の前でお誓いするのね、私たちの信仰を。
──ああもう、考えただけで私、消えてしまいそう!
マルグリットが項垂れて嘆くと、リュカが悲しげに呟く。
──だけどみんな立派に誦じていたじゃないか。僕はどうしても使徒信条の「罪の赦しを信ず」のところで躓くんだ……
司祭が振り返って問う。
──心に疾しきことでもあるのですか、リュカ。告解なら聞きますよ、今のうちに話してしまいなさい。
リュカが慌てて弁解し、少女たちはつられて笑みをこぼす。子どもたちはそれだけで幾分緊張がほぐれるのを感じるのだ。
翌日。集落の教会堂は立錐の余地もないほど詰めかけた人々の熱気と、石壁一面に灯された蝋燭、それに早々と焚かれた香炉の甘い煙に噎せ返らんばかりである。
シトー修道院の仕着せで生成りの羊毛の衣と純白の亜麻の面紗に包まれたウルシュラは、トロサの巡察団やニオール家、それに二つの修道院からの列席者にあてがわれた祭壇近くの貴賓席から、落ち着かぬ心持ちで周囲を見渡した。モンス・ラヌンクリに来て以来、一つ所にこれだけ大勢の人が集まるのを見るのは、母が行列の華を演じたマグダラのマリアの日以来である。アニエスとジャンヌはそれぞれの家族と共に後ろに立つ人々に紛れているのか、姿が見えない。
少し離れた席に、やはりクリュニーの仕着せで黒の衣に白の面紗をつけたアデルとベルトの姿を見つけて心が浮き立つ。同時に二人もこちらに気づいて手を振る。小さく手を振り返すと、隣の姉妹オノリーヌが渋面を正面に向けたまま声を潜めて嗜める。
──ウルシュラ、きょろきょろしないで。お行儀良くしていなさい。
不意に鐘が高らかに鳴り響くと、教会堂の奥から行列が進み出る。香炉を振る侍者、十字架を捧げ持つ侍者に随行の聖職者たちが続き、最後に司教杖を手にした司教が入堂すると会衆から控えめなどよめきが湧く。聖歌隊が謳う厳かな入祭唱が堂内にこだまする。
祭壇に着いた司教は、静かに祈りを捧げるとミトラを傍に外して十字を切る。
──今日、我らが主の羊の群れに新たなる若きつわものが加らんとしています。聖霊の賜物、それはこの困難な時代の中で、異端の甘言や悪魔の誘惑と戦うための、神が与えたもうた武具と言えましょう。彼らは今日、聖霊の炎によって打ち鍛えられ、キリストの兵士となるのです。
傍に侍る教会司祭が満を持して子どもらの名を高らかに呼ぶ。
──アリス・ニオール。この地を治める気高き領主、ベルトラン・ド・ニオールが息女。
──リュカ・プラ。幼き頃より神に捧げられし、クリュニー修道院の奉献童子。
──マルグリット・デュ・ロシェ。幼き頃より神に捧げられし、クリュニー修道院の奉献童女。
呼ばれた子どもたちは一人ずつ身廊を司教の待つ祭壇へと進み出る。
ウルシュラは背筋を伸ばして身を固くしながら、ソフィアはいつ呼ばれるかと後を振り返る。さらに数名、ウルシュラの知らない集落の子どもたちが続く。祭壇の前にあらかたの子どもたちが横一列に並んだところで司祭は一呼吸おき、
──そして、ソフィア・カスラリ。賢明なる医師ヤコブが息女。
最後に名を呼ばれたソフィアは、濃紺に染められ純白の亜麻の袖飾りのみをあしらった簡素な衣をまとい進み出ると、華麗な紅衣のアリスと対をなすように列の最後に並んだ。
何か冷たい塊が、ことり、と胸の中に転がり落ちる。それを名指す言葉を持たぬまま、ウルシュラはソフィアの背中を見つめる。
並んだ候補者が司祭の合図で静かに祭壇の前に跪く。司教は全員の頭上に両手を大きく広げ、精霊を求める祈りを捧げる。
──全能永遠の神よ、あなたは僕であるこの者たちを、水と聖霊によって新しく生まれさせ、全ての罪の赦しをお与えになりました。天から、彼らの上に七つの賜物を持つあなたの聖霊、助け主を送ってください。知恵と聡明の霊。判断と勇気の霊。知識と孝愛の霊。あなたへの畏敬の霊で彼らを満たし、キリストの十字架の印で彼らを強め、永遠の命へと慈しみ深くお導きください……
祈りが終わると、子どもたちは一人ずつ司教の前に進み出て再び跪く。司教は聖香油に浸した親指で子どもの額に十字を描きながら宣言する。
──アリスよ、我、汝に十字架の印を記し、救いの聖油を授けん。
司教の掌が子どもの頬を打つ。決して強くはないが、堂に響く乾いた音にウルシュラはびくりと震えた。
──平安が、汝と共にあらんことを。
目を伏せて自席に戻るアリスを、ウルシュラは見開いた目で追う。
一人ひとりに秘蹟が与えられ、最後にソフィアが進み出た。
──ソフィアよ、我、汝に十字架の印を記し、救いの聖油を授けん。
ウルシュラは思わず両手で耳を塞ぎ目を瞑る。なぜ親友の秘蹟の刻にそんなことをしたのか解らない。ただその瞬間、耳を塞ぐ手を貫いて鋭い痛みがウルシュラの胸を打つ。
ソフィアが自席に戻ると、ニオール家の者がパンと葡萄酒を捧げ持ち祭壇へと運ぶ。堅信礼を受けたばかりの子どもたちが初めての聖体拝領に並び、司教からホスチアを授かっていく。
最後の祈りを終え、再びミトラを被り司教杖を手にした司教はよく通る声を堂内に響かせる。
──父と子と聖霊、全能なる神の祝福が、汝らの上に豊かにあらんことを……!
式典が終わった後も、教会の周りには余韻に湧く人々が集い、この日の主役たる子どもたちがそこここで再三の祝福を受けた。アリス、リュカ、マルグリットらは彼らの家族やクリュニー修道院の面々に囲まれ、強引なベルトの手引きでその黒衣の集まりに引きずり込まれたウルシュラは、アリスとマルグリットに背伸びで祝福の接吻を贈ると、そっと輪から外れた。方々でさざめく人垣の中にソフィアの姿を探す。
人混みから突き出たベンヴェヌート司祭を見つけて駆け寄り訊ねると、司祭は案じ顔で声を落とした。
──ソフィアなら、さきほど気分がすぐれないと言って父上と帰られた。このところ根を詰め通しで無理が祟ったのやも知れんな。なに、休めばすぐに良くなるだろう。
しかし、翌日になってもソフィアは修道院へ来なかった。
翌日もその次も、改めて大人の仲間入りを果たした友を寿ごうと待ち構えている学友たちをよそに、ソフィアは姿を現さなかった。子どもたちに問われた司祭や姉妹たちも首を傾げるばかりで、捗々しい答えは示されないのだ。
翌朝のまだ夜明け前、ウルシュラは讃課の鐘と共に目を開けた。
耳をすませ、姉妹たちが祈りの場へと移動したと知ると寝床を脱し、急いで服を着る。そして部屋を出ると一気に通用口を駆け抜けた。門番の老姉妹が椅子からずり落ちそうな姿勢で居眠りをしているのを確かめ、足音をたてず修道院の門を抜け出る。
朝霧の立ちこめる一本道を集落へと駆け下りる最中、不意に行く手から羊の鳴き声が聞こえて足を止める。霧の向こうを横切る群の影を、一人の羊飼いがのんびりと追っていた。
ウルシュラは意を決して呼び止める。
──あの、ソフィアのお家、どこですか?
男は立ち止まり、チュニックの頭巾を押し上げると丸い目を見開いた。
──おや、誰かと思えば修道院のお嬢ちゃん。ソフィアって、カスラリ先生のとこのお嬢さんのことかい?
ウルシュラが勢い込んで頷くと、羊飼いは道を振り返って指差す。
──カスラリ先生のうちなら、ここの道をまっすぐ下って最初の辻の右の角だ。庭に妙な草をいっぱい植えているからすぐ判るよ。……こんな朝っぱらに、誰か具合でも悪いのかい?
──ソフィアが病気なの。ありがとう。
それだけ告げて駆け下りていく小さな背中を、羊飼いは首を傾げ見送る──よりによって名医の娘が病に伏せるとは何の因果か。しかしそれ以上気に留めることなく、霧の向こうに行ってしまった群れを慌てて追いかける。
身支度を整えていたヤコブ・カスラリ医師は不意に叩かれた扉を開け、息を弾ませた修道服姿の子どもを驚きを持って出迎えた。しかしすぐに、それが娘の話にしばしば登場する風変わりな年下の友人であると悟ると、丁重に招き入れた。
──君がウルサだね。ソフィアを心配して来てくれたのかい?
医師は子どもに温めた牛乳を勧めながら、娘が堅信礼を境に塞ぎ込んで部屋を出なくなったこと、訳を訊いても口を閉ざし涙を流すばかりで途方に暮れていると打ち明けた。そして、改めて子どもの目を見つめ、君になら話す気になるだろうか、と独りごちた。
医師に導かれて親友の部屋の前に立ち、ウルシュラは高鳴る胸の音に耳を澄ませる。堅信礼の最中、不意に胸の中に転がり落ちた冷たい塊が今もごろごろと不快に転がっていた。
そっと扉を叩く。返事を待って数度繰り返すと、中から弱々しいソフィアの声が聞こえた。
──父さん、もうやめてったら……
ウルシュラは扉に額をつけて呼びかける。
──ソフィア……わたし、ウルシュラ。
刹那、部屋の気配は消え、間もなくおずおずと扉が開く。涙に爛れた瞼を大きく見開いて、ソフィアが立っていた。医師はそれを見届けると、静かにその場を離れた。
ウルシュラを部屋に招き入れた後しばらく、ソフィアは無事に堅信礼を終えた安堵や、皆からの祝福に感謝する言葉を連ねた。しかしウルシュラはそれには応えず、まっすぐにソフィアを見上げる。本当にそうなら、なぜ修道院に来ないの?──言葉の裏を抉るような眼差しで親友を見つめた。
ソフィアは不意に頽れるように寝台に腰を落とすと、掛布の端を握りしめた。
──ねえ、ウルサ。……改宗、ってわかる?
ウルシュラは首を横に振る。ソフィアは大きく息を吐き、言葉を選りながら口を開く。
──父さんはね、昔、信じる神様を変えたの。私たち、もともとはユダヤ人だった。父さんはこの村で医者として暮らすために、もう一度洗礼を受けたの。だから、キリスト者になったユダヤ人、てことになってる。……ややこしいよね。
彼女はそこで言葉を切ると、ウルシュラを傍に招いた。ウルシュラは素直に隣に腰掛ける。
──ウルサも知ってるでしょう? ユダヤ人はイエス様を十字架にかけた人たち、って教会では教えてる。主を裏切って、だから彷徨い続ける呪われた民だって。お説教でそんな言葉を聞くたびに、父さんは顔を伏せるの。この村の人たちを大勢助けているのに。
ソフィアの声は押し殺した憤懣に熱を帯び、またすぐに消沈する。
──安息日、金曜の晩から土曜は一切仕事をしないとか……お祈りの仕方が違うとか……〝契約の民〟なんて名乗って神様から特別に選ばれたと誇っているとか……そんなこと言われたって、私、知らないわ。だって私は生まれた時からキリスト者だもの。
ソフィアはウルシュラの手を取り、熱心に見つめる。
──でも父さんにも私にも、改宗したユダヤ人、ていう目がついて回る。ユダヤ人からは裏切り者と思われて、キリスト者からは偽物だと疑われて。父さんはずっと「誰よりも立派なキリスト者でなければならない」と言って、私をシトー会にも通わせてくれてる。だから私、学問でも信仰でも、誰にも負けないように、誰よりも完璧に使徒信条だって暗唱した。そうすればこの村に、神様の羊の群れに、私たちは受け入れてもらえるんだって、そう信じてた。
ウルシュラの手を握るソフィアの手から、不意に力が抜ける。
──でも……やっぱり駄目みたい。
ウルシュラの脳裏に堅信の儀が蘇る。最後にソフィアの名前が呼ばれた時、ほんのわずかではあったが、堂内の空気が変わったことに気づいた。……ああ、先生のところの。問題はないんだろうね……。後方から切れ切れに届いた囁きが、冷たい棘を含んで胸の中の塊を震わせる。
──トロサの司教様の聖油で、私はちゃんとキリスト者になったわ。それでもこの村では、私たちはこれからも偽りのキリスト者だと見られ続ける。偽りの根を伸ばしていないか、司祭様はこれからも私を試し続ける……
朝日の差し始めた帰り道、ウルシュラは少し回って教会の前に立った。ソフィアの最後の言葉が謎かけのようにウルシュラの足をそこへ向かわせたのだ。
──ねえ、ウルサ。あなたもあと数年で堅信礼を受けるわ。儀式の前、司教様の立ち会いのもと、司祭様と差し向かいで口頭試問がある。暗唱を試され、信仰を確かめられるの。あなたは他所から来た子だから、もしかしたら司祭様は色々訊いてくるかも知れない。でも決して惑わされないでね。揺さぶられて弱さを見せたら負けよ、私みたいにね……
司祭様。ソフィアに、わたしの大事な友達に、一体何を言ったんですか。あんなにがんばっていたのに、何がまだ足りないの? どうしたらソフィアはもう泣かなくてよくなるの? 教えてください、司祭様──胸中の叫びに、教会は固く黙したまま朝日の中で輝くばかりであった。
そして歳月は過ぎ、一二四九年七月、十一歳のウルシュラは堅信礼に向かう。
事序は全て二年前の通りに運ばれ、クリュニー修道院からは十三歳のアデルと十二歳のベルトが、シトー修道院からも十二歳のアニエスとジャンヌが、ウルシュラと共に晴れの日を迎える。教会司祭も前回と同様、選ばれた子どもたちに等しく厳しい指導を施した。
ソフィアは二年前のあの朝ののち、再びシトー修道院に登院するようになったが、それはもはや信仰の共同体に受け入れられることを願ってのことではなかった。事情を察したベンヴェヌート司祭によって図書室のあらかたの蔵書の閲覧が許されると、彼女は以前にもましてひたすら勉学に没頭した。そしてウルシュラたちの堅信礼が近づくと、与えられた課題の暗唱にとどまらず、音韻や抑揚の地政学的解釈や、条文の暗喩が含意するところまで微細を極めて伝えた。ウルシュラのラテン語やオック語はすでにオクシタニアに育った子どもたちに比して遜色のないものになっていたが、その端々に残るわずかなスラブの残滓をソフィアは丁寧に摘み取っていった。
自分と同じ轍は踏ませない──親友の静かな決意を、ウルシュラは懸命に受け止めた。
屋外の蒸し暑さを寄せ付けぬ、底冷えのような緊張が司祭館の一室に張り詰める。
トロサの司教とその随行者、そしてシトー会女子修道院からは院長ベアトリクスが候補者の監督者として同席する中、この日堅信礼を迎えることになる子どもたちが一人ずつ、教会司祭に日頃の信仰と研鑽を試されていた。
最後にシトー修道院で学ぶ三人の白衣の少女たちの順が巡ってくる。ジャンヌは身を強張らせながらも躓くことなく暗唱をこなし、司祭の全ての質問に澱みなく答えた。アニエスは使徒信条でつっかえるたび縋るような視線を姉妹ベアトリクスに投げ、姉妹はその都度頷いて励ました。
そして、教会司祭は最後にウルシュラの名を呼ぶ。
候補者名簿に視線を落としたまま、傍の司教に聞かせるように言う。
「ウルシュラ。君の洗礼は遠い東の地で受けたものと聞きました。このオクシタニアの地の一角に根を張る、ローマを顧みぬ教えもまた、東から広がったと言われています。いや何、君の信仰を疑っているのではない。ただ、君に根付く神の声が普遍教会に適うものかどうか、今一度確かめさせて欲しいのです」そこまで言うと、上目遣いで促す。「……ではまず、《使徒信条》を」
ウルシュラは深く息を吸う。
「──私は信じます。全能なる父、唯一の神、天と地の創造主を。
そして、神の独り子、我らが主であるイエス・キリストを信じます。イエスは、聖霊の働きにより宿り、処女なるマリアより生まれ、ポンティウス・ピラトのもとで苦難を受け、十字架につけられ、死に至り、埋葬されました。そして陰府へと下り、三日目に肉体をもって復活しました。そして天へと昇り、全能なる父なる神の右に着座されました。そこより、生者と死者を裁くために来られます。
私は信じます。聖霊を。聖なる普遍教会を。聖徒の交わりを。罪の赦しを。肉体の復活を。そして永遠の生命を。アーメン」
一点の澱みもない、清澄で典雅な抑揚のラテン語である。随所にソフィアの注意深い指導が注がれ、ウルシュラはこの日までに全ての指摘を克服していたのであった。
──ウルサ、あなたの「キリスト」は「キ」で喉から空気が漏れてるわ。舌の付け根をしっかり閉めて。
──カタリ派の人たちは肉体を否定するんですって。いい、ウルサ? 「肉体の復活を」は自信を持ってはっきり言うのよ。
司祭はしばし目を伏せ、顎をさする。
「……よろしい。では次に、《主の祈り》を」
ウルシュラは微動だにせぬまま、詠うように詩句を紡ぐ。
「天にまします、我らの父よ、
願わくは、御名の尊まれんことを。
御国の来たらんことを。
御旨の天にて行わるるごとく、地にも行われんことを。
我らの日毎のパンを、
今日我らに与え給え」
──急がないで。意味の区切りははっきりと。神様への慕わしい思いを込めて、息継ぎはゆったりとね。
──「我らを誘惑へと導き給わざれ」……これは、神様が私たちを試されるのじゃないのよ。悪魔の誘惑からお守りください、という意味だから、気持ちを間違えないで。
「……そして、我らが負い目を我らに赦し給え、
我らもまた、我らの負いある者を赦すごとく。
そして、我らを誘惑へと導き給わざれ。
されど、我らを悪より解き放ち給え。
アーメン」
司教が目を閉じて満足げに頷く。その日一番の至美なる詠唱に、誰もが知らず聞き入っていた。司祭だけが眉間に皺を寄せ、落ち着かなげに目を泳がせるとやがて口を開く。
「……なるほど。見事なまでに模範的です」
姉妹ベアトリクスは、おや、と顔を上げ司祭の表情を伺った。模範的、という賞賛の言葉の裏に、冷ややかに突き放すような響きを感じたのだ。ウルシュラからだけ、何か必要以上のものを探ろうとしている……? 姉妹は以後の成り行きに気を留めようと密かに耳をそばだてる。
「では、最後です。《アヴェ・マリア》を。君の聖母に対する崇拝の心を教えてください」
ウルシュラは、初めて微笑を浮かべる。
──短いけれど油断しないで、ウルサ。揺らいじゃだめよ。「恩寵に満ちし者」と「神の御母」は強く、自信を持って。……でも、《アヴェ・マリア》は心配ないわよね。だって──。
そうだよ、ソフィア。だってマリアは、母様の名だもの──小さな口を開く。
「めでたし、マリア、恩寵に満ちし者よ。
主はあなたと共にまします。
あなたは女たちの中にて祝され、
そしてあなたの胎内の御子イエスは祝されています。
聖なるマリア、神の御母よ、
今、そして我らの死の時に、
罪深き我らのために、祈り給え。
アーメン──」
晴ればれと詠じ切った子どもの頬に、一筋の涙が伝う。
司教が感じ入った様子でゆっくりと拍手を贈り、司祭に言う。
「兄弟よ。この子の信仰には一点の疑いもない。彼女に聖油を与えなさい」
司祭は表情を消し、畏まりました、と首を垂れた。
ウルシュラは一礼してそっと頬を拭うと他の子どもたちの列へと戻った。赤みがかった榛色の瞳には、親友との約束を果たしたという静かな勝利の炎が宿っていたであろう。
「ウルサは、あたしたちといた時から頭よかったもんな──」
司祭館を出ながら我がことのように誇らしげに放言するベルトらの背中を、司祭は黙って見送った。
「ウルシュラよ、我、汝に十字架の印を記し、救いの聖油を授けん──」
跪き、両手を組んでウルシュラは顎を上げる。その頬を司教のあたたかく乾いた掌が打つ。軽い痛みが引くと、やり果せたのだ、との思いが胸に広がった。
幼い日の長い旅の最中、父と母が道を進むたびに恟々としていた朧げな記憶が蘇る。私たちは受け入れられるだろうか、異端と間違われないだろうか。ウルシュラが寝床に入った後、声を潜めて相談する二人の会話が今も耳に残る。
父様、母様、もうそんな心配は要りません。わたし、がんばって司教様にも司祭様にも認めてもらいました。ちゃんと見ていてくれましたか──ウルシュラは堂の細い窓越しに、輝く蒼穹に目を凝らした。
教会を背に、アニエス、ジャンヌ、そしてウルシュラの三人はシトー会女子修道院の人々に取り巻かれ、再びの祝福を受ける。ソフィアはウルシュラを抱きしめ、その頬に何度も接吻しながら我がことのように歓喜し涙した。
誇らしげに胸を張る子どもたちを間にし、ベンヴェヌート司祭、院長ベアトリクス、姉妹オノリーヌら、シトー修道院への帰途をたどる一行の後ろ姿は、まるで一つの大きな家族のようであったろう。彼らの背が山道の向こうに消えるまで目で追っていた司祭の胸中には、いかな暗雲が渦巻いていたのであろうか。
私たちは今しばらく、この集落の教会に留まらねばならない。




