第13稿:『架空の言語は歌う』
読めない文字には、音がある。
そのことを知ったのは、あなたが図書館の奥で、一冊の本を開いた時だった。
表紙には題名がなかった。
著者名も、年代も、分類印もない。
ただ、薄い金の線で、知らない文字が一行だけ刻まれていた。
あなたはそれを読めなかった。
それは、あなたがこの図書館に来て、はじめてのことだった。
けれど、あなたの指先が文字の上をなぞった瞬間、遠い声がした。
はじめは、風の音だと思った。
次に、波の音だと思った。
最後に、それが誰かの歌だとわかった。
言葉ではなかった。
少なくとも、あなたの知っている言葉ではなかった。
意味を持つ前の音。
文字になる前の息。
誰かが、忘れられないものを忘れないために、喉の奥からそっと世界へ渡したもの。
頁をめくるたび、歌は少しずつ形を変えた。
一頁目は、子守唄に似ていた。
二頁目は、祈りに似ていた。
三頁目は、誰かの名を呼ぶ声に似ていた。
けれど、どの頁にも、あなたが読める文字はなかった。
あなたは本を閉じようとした。
その時、歌が止まった。
静寂は、叱責のようだった。
まるで本が、言っているようだった。
読めなくてもいい。
ただ、聞いて欲しい。
あなたはもう一度、最初の頁を開いた。
文字は相変わらず読めなかった。
けれど、さっきよりも少しだけ、音の輪郭がわかった気がした。
それは歌だった。
誰かが、また別の誰かへと残した歌だった。
たぶん、その言語を話した人々は、もういない。
その国も、村も、家も、食卓も、墓標さえも、どこにも残っていない。
けれど、彼らは歌った。
言葉が滅びる前に。
文字が意味を失う前に。
誰かの記憶から、自分たちの名が消えてしまう前に。
彼らは歌った。
あなたには意味がわからない。
けれど、その声が悲しいことはわかった。
それでも、悲しみだけではないこともわかった。
何かを愛していた声だった。
あなたは、読めない文字を見つめたまま、息を殺して耳を澄ませた。
やがて、歌の中に同じ音が何度も繰り返されていることに気づいた。
名だろうか。
祈りだろうか。
別れの言葉だろうか。
わからない。
わからないのに、胸の奥が痛んだ。
その音を忘れてはいけない気がした。
だからあなたは、震える手で机の上の紙を引き寄せた。
聞こえたままに、文字ではない何かを書き留める。
正しい発音ではないだろう。
正しい綴りでもないだろう。
意味など、ひとつも写せていないだろう。
それでも。
それでも、歌は続いていた。
あなたが聞いているかぎり。
あなたが書き留めようとしているかぎり。
あなたが、知らない誰かの声を、
ただ「知らないもの」として閉じずにいるかぎり。
架空の言語は歌う。
滅びたのではない。
嘘だったのでもない。
ただ、もう誰にも読まれなくなっただけの言葉が、頁の底で、今も小さく息をしている。
――――
図書館にて
初出:2014/06/27




