第九話 六五四年・金城(新羅)プロローグ
── 武烈王即位 ──
永徽五年。西暦六五四年。
新羅、真徳女王の治世八年。
朝鮮半島の春は、北の山々の雪解けとともに、緩やかに金城の盆地に下りてくる。
慶州盆地の桜は四月、三月の終わりには山桃が咲き、月城――新羅王宮――の周囲には、白い梨の花が満開となる。
しかし、その年の春、王宮の空気は、花の華やぎを許さない、ある重みに満ちていた。
真徳女王が、危篤であった。
◆
真徳女王、諱は勝曼。
七年前――仁平十四年(六四七年)――の毗曇の乱の最中、善徳女王が薨去したのを受けて、急遽、玉座に擁立された女である。
聖骨の血を引く最後の女子として、新羅の血統制度の最終末を担った人物であった。
しかし、彼女の治世は、ある意味、過渡期であった。
実権は、初めから、彼女の手にはなかった。
新羅の朝政は、伊飡・金春秋と、上大等――乱の鎮圧後に新たに任ぜられた閼川――そして、軍を統べる金庾信――この三者の合議によって、事実上、運営されていた。
真徳女王は、玉座にあって、形式的に詔書に印を押し、朝賀の儀式に臨み、唐への朝貢使を送り出す――そういう、儀礼的な役割に徹していた。
それが、彼女に与えられた役割であった。
そして、彼女は、それを忠実に果たした。
七年間。
ある意味、これは、近代のいわゆる「立憲君主制」の先取りに近い構造であった、と言うこともできる。
新羅は、女王の名のもとに、しかし王権ではなく重臣会議によって、運営されていた。
そして、その彼女の身体が、いま、力尽きようとしていた。
◆
「八年、春三月、王、薨ず。諡して真徳と曰う」
それだけである。
死因も、年齢も、最期の言葉も、史書は伝えない。
しかし、彼女の死は、新羅にとって、決定的な意味を持っていた。
なぜなら、彼女の死をもって、新羅の聖骨の血統が、完全に絶えるからである。
◆
新羅の身分制度――骨品制度――において、王位継承資格を持つのは、聖骨と呼ばれる最高位の血統のみであった。
父母ともに王族の血統を引く、純粋な王族の血――それが聖骨である。
これに対し、父か母のいずれか一方のみが王族の場合、子は真骨と分類された。
真骨は、王族の傍流として、政治の中枢に列する資格は持つが、原則として、玉座に登ることは出来なかった。
ところが、聖骨の血統は、世代を重ねるごとに、確実に、薄まっていく。
七世紀の半ば、新羅の聖骨の男子は、すでに途絶えていた。
それゆえに、女王が二代続いた――善徳・真徳。
彼女たちは、聖骨の女子として、男系の絶えた王統を支える「最後の藁」であった。
そして、真徳女王の薨去をもって、聖骨は、男も女も、ともに尽きた。
新羅は、ここに至って、初めて、真骨から王を立てねばならない事態に直面した。
これは、単なる血統の問題ではない。
これは、新羅という国家の、その根本制度そのものの、転換であった。
◆
王宮の内庭に、その日、群臣が集っていた。
上大等の閼川――皇族系の老臣。
中侍の文忠――執事部の長官。
角干の金庾信。
そして、伊飡・金春秋。
この四者を中心とする御前会議が、開かれていた。
議題は、ただひとつ。
次代の王を、誰にするか。
伝統に則れば、聖骨の血が絶えた今、王位は真骨の中から選ばれる。
しかし、真骨の王族には、何人もの候補者がいた。
継承順位を、誰がどう決めるか――それが問題であった。
最初に発言したのは、上大等の閼川であった。
「諸卿、真徳陛下の薨去にあたり、この度の王位は、わしが受けようと思う」
席が、ざわめいた。
閼川は、善徳女王の代から軍事の要を担い続けた老将である。
年齢七十を越え、白髪の頭を高く挙げて、彼は続けた。
「わしは年老いた。先は短い。だが、わしには、ある一つの務めがある。それは、新羅の王位継承を、混乱なく、次の世代に渡すことである。わしが繋ぎとして玉座に座り、後継者を見定めて譲位する――これが、最も穏便な道であろう」
理に叶った提案であった。
閼川の真意は、明らかであった。
彼は、自分の即位の後、金春秋に譲位するつもりであった。
閼川自身、長年金春秋と協力してきた立場であり、この時期の新羅において、金春秋以外に王たり得る者は存在しないことを、よく分かっていた。
しかし、いきなり金春秋を立てれば、他の真骨の王族たちが反発する。
閼川が一度玉座を継ぎ、しかる後に譲位する形をとれば、混乱は最小化できる。
これが、彼の老獪な計算であった。
◆
しかし。
金春秋は、それを断った。
「閼川が即位を譲る。春秋、辞すること三たび、然る後にこれを受く」
三度断って、その上で受けた、というのである。
これは、儒教的礼儀に基づく形式的な辞退の様相を呈するが、その背後には、より深い計算があった。
金春秋は、自分が老人の譲位という形ではなく、新羅の朝廷全体の意志として、玉座を継ぐ形を望んでいた。
閼川の譲位を簡単に受ければ、それは「閼川派の支持で立てられた王」という色がつく。
三度断って、その上で群臣全体に推戴させる形を取れば、彼は新羅の総意の上に立つ王となれる。
そして、その「三度断る」という儀式の最中、玉座をめぐる微細な駆け引きが、王宮の内側で進行していた。
◆
金庾信は、内庭の隅で、義弟である金春秋を、冷ややかに見つめていた。
王宮の柱の蔭に立ち、金庾信は、低く呟いた。
「もう、よかろう」
金春秋は、応えなかった。
金庾信は続けた。
「閼川殿は、もう先が短い。譲位の手続きを取ったところで、結局は同じこと。ここで遠慮を続ければ、かえって、群臣の心が乱れる」
「兄者よ」
金春秋が、ようやく口を開いた。
「玉座は、欲しがる者に与えられるものではない。与えられる者に、自然に集まるものでなければならぬ」
「……」
「わしが今、欲を出せば、王権は、わしのものとなる。だが、王権がわし一人のものとなった国は、長続きせぬ。新羅という国そのものが、王のものとなる――そういう形を、作らねばならぬ」
金庾信は、しばらく沈黙した。
そして、頷いた。
「分かった。あと一度だけ、譲り合うてみせよ」
「うむ」
金春秋は、群臣の前へ戻り、再び閼川の前に伏した。
「閼川殿、臣には王たる徳がございませぬ。何卒、御自身にて」
閼川は、白髪の首を振った。
「春秋、これ以上は、王命に背くことになるぞ」
王命――それは、亡き真徳女王の遺志、という意味であった。
実際には、女王が誰を後継に指名したかは、史書には残らない。
だが、閼川が「王命」と言った瞬間、それは事実上の遺勅として、群臣に受け取られた。
そして、四度目には、金春秋は、ついに、頭を下げた。
「畏れながら、承りまする」
◆
四月、金春秋、即位。
これが、新羅第二十九代・武烈王である。
時に五十二歳。
長く――非常に長く――待ち続けた、玉座であった。
大耶城の役で娘を失ったのが、四十歳。
高句麗で淵蓋蘇文に軟禁されたのが、四十一歳。
倭国に人質として滞在したのが、四十五歳。
唐の太宗に謁見し「特進」を授かったのが、四十六歳。
毗曇の乱の鎮圧、真徳女王の擁立が、四十五歳。
そのすべての屈辱と忍耐を経て、五十二歳で、彼はようやく、玉座に登った。
◆
唐からは、ただちに冊封の使者が来た。
「開府儀同三司・新羅王」
唐の皇帝が外国の王に与える最高位の爵号である。
同時に、「楽浪郡王」をも増封された。
これは、形式上、新羅王が唐の藩屏――属国の王――として位置づけられたことを意味する。
しかし、武烈王は、それを微塵も恥じなかった。
冊封とは、紙の上の文字である。
紙の上の文字は、いつでも書き直せる。
重要なのは、地の上の現実である。
そして、地の上の現実において、新羅は、武烈王の即位とともに、全く新しい国になりつつあった。
◆
即位から二月後の五月。
武烈王は、最初の重要な詔を発した。
「理法府の令に命じ、律令を詳しく調べさせ、これに修正と補足を加えよ」
理法府――これは、真徳女王代に整備が始まっていた、新羅の法務機関である。
律令の起草と修正を担当する。
武烈王は、即位早々、この理法府に命じて、新羅の律令体系を本格的に整備する作業に着手させた。
この作業の成果として、二か月後の七月、理法府格六十余条が制定された。
「格」とは、唐の律令制度における用語であり、律令の修正・補足のための法令、いわば副法である。
中国本土においても、唐の律令制度はまさに同時期、貞観から永徽にかけて整備が進んでいた段階であった。
武烈王は、その最新の動向を、ほぼリアルタイムで取り入れたのである。
これが、新羅における唐風律令制度の本格的導入の始まりであった。
そして、それを支えたのは――。
紙であった。
◆
新羅の律令は、全文を紙に書写された。
楮を主原料とする新羅独自の楮紙――後年、統一新羅期に唐へ「鶏林紙」として輸出されることになる、堅牢な紙――に、墨で、丁寧に、書き写された。
理法府の令の管轄下で、専属の写字生たちが、これを担当した。
彼らは、王宮の一室に詰め、毎日、律令の条文を一文字ずつ、紙に転写していった。
転写された律令は、王宮の文書庫に保管される正本と、各地方の州・郡に配布される副本の、二通りに分けられる。
副本は、地方の長官に届けられ、その州・郡の判断の基準として用いられる。
これにより、新羅は、初めて、国土全体を同一の法律によって統治する国家となった。
それまでの新羅は、地方ごとに豪族の慣習法が併存し、国王の命令ですら、地方によって受け取られ方が違っていた。
律令を紙に書き、それを地方に配布することで、新羅は初めて、一律の国家として動くようになった。
これは、地味な変化ではあったが、決定的な変化であった。
紙のないところに、律令はない。
律令のないところに、王権の集中はない。
王権の集中のないところに、半島統一はない。
◆
王宮の一室で、武烈王は、自ら筆を執り、律令の条文を読んでいた。
横には、金庾信が立っていた。
「兄者」
武烈王は、即位後も金庾信をそう呼び続けた。
「これを見よ」
武烈王は、紙の一枚を、金庾信の前に差し出した。
そこには、新たに制定された官位制度の表が、書かれていた。
中央貴族の私兵を背景とする旧来の上大等制度を維持しつつ、その下に、王の直属の事務機関である執事部を強化する、二重構造の官制であった。
「兄者を、いずれ上大等にしたい」
武烈王の声は、低かった。
「だが、いまではない。今は、まだ、閼川殿が必要じゃ。先王の代から共に新羅を支えてきた老臣を、軽んじてはならぬ」
「うむ」
「兄者には、その代わり、軍を、お任せする」
金庾信は、頷いた。
「百済か」
「うむ。百済を、まず、潰す」
武烈王の眼は、冷たかった。
「兄者よ、わしの娘を斬った国を、わしは、必ず、滅ぼす。十二年前、大耶城で、古陀炤が斬られた、あの日――わしは、終日、柱に倚りて立った。あの日のことを、わしは、一日も、忘れたことがない」
「私もだ、兄者」
金庾信は、低く言った。
「私も、あの日の、お前の眼の色を、忘れたことがない」
二人の間に、しばし、沈黙が流れた。
そして、武烈王は、紙を巻いた。
「百済を滅ぼすには、唐の力が要る。そのために、わしは唐の年号を奉じ、唐の律令を取り入れ、唐の朝服を着る。だが、それらはすべて、紙の上の文字である」
「うむ」
「地の上の新羅は、決して、唐の地ではない」
これが、後年「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構の、その最も明確な政治哲学であった。
形式上は唐に従う。
内実においては、独立を保つ。
唐の制度を取り入れることは、唐への屈服ではなく、唐に対抗するための装備である。
紙の上の文字は、いつでも書き直せる。
だから、書かせてやる。
書かせて、その間に、地の上で実力を蓄える。
実力が蓄えられた瞬間に、紙の上の文字を、書き直す。
これが、武烈王の戦略であった。
そして、これより二十二年後――武烈王の没後十五年――新羅は、まさにこの戦略の通り、唐との戦争を経て、半島南部を実質的に統一することになる。
種は、すでに、この六五四年に、撒かれていた。
◆
七月、理法府格六十余条が発布された。
武烈王はさらに、人事の改革に着手した。
伊飡(二等官)の金剛を、上大等に任命。
閼川は、年齢を理由に、引退の形式を取った。
波珍飡/四等官の文忠を、中侍――執事部の長官――に任命。
ここに、注目すべきは、文忠が「波珍飡」という、官位としては比較的低い階級から、執事部の長官に抜擢されたことである。
これは、武烈王の戦略を、最も明確に示す人事であった。
すなわち、官位の低い者を、能力本位で要職につける。
それにより、旧来の中央貴族の上大等制度と、新興の執事部による政治制度との競合を作り出し、最終的に王権の強化を実現する。
これは、ほぼ同時期、長安で武照(武則天)が実施しようとしていた「貴族層に属さない官人を、能力本位で抜擢する」という戦略と、構造的に酷似している。
両者の間に直接の連絡があったわけではない。
しかし、東アジアの七世紀半ばにおいて、王権を強化しようとする者は、ほぼ同じ結論に到達する――それが、この時代の特徴であった。
そして、武烈王が文忠を中侍に抜擢した後、四年後の六五八年には、文忠は伊飡(二等官)に引き上げられ、中侍の地位は、武烈王の四男・金文王に引き継がれる。
金文王――かつて、貞観二十二年(六四八年)に、父・金春秋に伴われて長安に渡り、宿衛として唐の宮廷に仕えていた、あの少年。
長安で唐の制度を肌で学んだ少年は、やがて新羅に帰国し、執事部の長官として、武烈王の改革を実務的に支えることになる。
紙に書かれた長安からの報告書――かつて少年金文王が、毎年新羅へ送り続けていた、あの楮紙の束――は、いま、武烈王の改革の、最も貴重な参考資料となっていた。
◆
その年の冬――。
新羅の朝廷の動きが、静かに、しかし確実に、半島の他国にも伝わり始めた。
百済の義慈王は、新羅の動きを見て、警戒を強めた。
高句麗の淵蓋蘇文も、新羅と唐の同盟が現実化しつつあることを察知した。
倭の朝廷――孝徳天皇の難波宮――でも、新羅で新王が立ったことが、遣新羅使を通じて、伝えられた。
それぞれの国が、新羅の変化を、自分の側からの視点で観察していた。
そして、そのいずれの国も、まだ、気づいていなかった――。
新羅の武烈王が、紙の上の律令と、地の上の軍備とを、同時に整え始めたこと。
それが、十年以内に、半島の地図を、完全に塗り替えることになる、ということに。
◆
そしてさらに、その同じ年、海を越えた倭の地では――。
孝徳天皇が、難波宮で崩御した。十月十日。
これにより、皇極天皇が、再び玉座に就くことになる。
斉明天皇として重祚するのは、翌年正月のことである。
中大兄皇子は、いよいよ、自身が直接、政の前面に立つ時期に差しかかっていた。
そして、彼の傍らには、いまだ、中臣鎌足が居た。
鎌足は、すでに四十一歳。
鎌足の次男・不比等が生まれるのは、この五年後である。
〔正史より――〕
永徽五年――西暦六五四年。
読者諸氏には、この一年に新羅と倭国の双方で何が起きたのか、史料の細部を順に確認しておいていただきたい。本編で活写した武烈王即位の場面、理法府格制定の挿話、そして難波宮で迎えた孝徳朝の終焉――これらが想像の産物に見えるのなら、その背後で正史が何を沈黙のうちに語っているかを、丁寧に拾い上げてみたい。
結論から述べれば、永徽五年とは、東アジアの地政学が音を立てて軋み、再構築へと向かったあの一年の蝶番である。
◆
まず、新羅における王位継承の場面から始めねばならない。
『三国史記』新羅本紀によれば、真徳女王はその年の三月に世を去った。在位八年。死因については沈黙が守られ、年齢すらも正史には明示されない。ところが奇妙なことに、『旧唐書』はその死を六月と伝え、両史料のあいだに数ヶ月の齟齬を露呈させているのだ。
これは何を意味するか。
慶州から山東半島、そして長安へ――新羅から唐への訃報の伝達に、それだけの時間が要した、ということに他ならない。海と陸を越えた文書の往復が、その分の時差を生んだのである。だが、いずれの記録を採るにせよ、永徽五年という座標において、聖骨――新羅の最上位身分であり、王統の最も純粋な血を引く者を指す古代新羅独自の身分制――の最後の一人がついに消えた、という事実に揺らぎはない。
聖骨の血脈の涸渇。この一点が、すべてを変える。
なぜなら、新羅の王座はそれまで聖骨の独占物であったが、その血が涸れた瞬間、王位は次位の真骨へと開かれることになるからである。すなわち、誰が真骨の中から王位を継ぐのか――それが永徽五年三月以降の、新羅の最大の政治課題となった。
『三国史記』はこの局面に対し、極めて美しい記述を残している。上大等――新羅の貴族合議制和白の頂に位置する地位、すなわち群臣の最高位――であった閼川が王位を譲ろうとし、金春秋が三度これを辞退した末に受諾した、というのである。「三譲乃受」――三たび譲り、しかる後に受く。
奇妙な話ではないか。
なぜ、わざわざ三度の辞退という形式が必要だったのか。
これは古代中国の禅譲の儀礼を借りた、周到な政治演出に他ならない。閼川自身は既に高齢であり、また真骨の中で春秋ほどの政治的蓄積を持たぬ以上、この時点で王冠を戴ける者は事実上、春秋以外に存在しなかった。にもかかわらず史書が「三たび譲り」と記すのは、彼の即位を簒奪ではなく合法的継承として演出するためである。儀礼の形を借りた既定路線の追認――そう読み解いて大過あるまい。
◆
ところが、王座を得た春秋が直ちに着手した仕事を見ると、この男の野心が単なる王位継承に留まるものではなかったことが判ってくる。
即位した武烈王に対し、唐は「開府儀同三司・新羅王」なる爵号を授け、さらに「楽浪郡王」を増封した。開府儀同三司とは、文散官――実務職ではなく身分上の格を示す官職――の最高位、従一品である。これは、貞観二十二年(六四八年)の長安朝貢で既に「特進」(正二品)を得ていた春秋にとって、更に一段引き上げられた格式であり、半島内部での「三譲乃受」の儀礼と並んで、彼の地位を国際法的に保証する双柱の片方となった。
ここまでは、武烈王個人の地位の話である。
問題は、その同じ五月に、彼が新羅という国家そのものの構造に対して下した、決定的な一手にある。
『三国史記』新羅本紀には、こう記される。
「五月、命理法府令、修例律令、定理法府格六十余条」
理法府――新羅の法務機関――の長官に命じ、律令を修め、理法府格六十余条を制定させたのである。
ここが重要な点であるが、唐の法体系は律・令・格・式の四種から成る。律は刑罰法、令は行政組織法、格は律令を補正する追加法、式は施行細則――すなわち格とは、律令という骨格に対して、実情に応じて肉付けを加える可変の法令群を指す。
新羅が制定したのが、まさにこの「格」六十余条であった、という点が決定的である。なぜなら、律と令の本体を持たぬ国家は、格を制定することができないからである。換言すれば、新羅は既に律令の本体を有しており、その上で、自国の実情に合わせた格を編んでみせた、ということになる。
すなわち、永徽五年の春から夏にかけて、新羅は東アジアで初めて、唐の法体系を本格的に複製し、自国の統治装置として実装した国家となった。これは合理的に逆算すれば、貞観二十二年の長安朝貢以来、春秋が密かに進めてきた制度移植の帰結である。永徽元年の年号採用、永徽五年の格制定――この二つの布石が並んだ時、新羅は既に「半島における小さき唐」へと姿を変えつつあった。
そしてこの制度移植を生身で支えた人物が、本作の前段で読者の記憶に残っているはずの、王子金文王である。貞観二十二年、父・春秋に連れられて長安に渡り、宿衛――唐の宮廷を護衛する留学武官――として太宗の宮廷に滞在した青年。永徽五年の段階で帰国していた彼が、四年後の六五八年に執事部――王権直属の行政機関――の長官たる中侍へと就任することになるのは、この流れから見れば自然な帰結である。文王という青年こそが、唐の中央集権体制と新羅の伝統的貴族制とを架橋する、生身の蝶番だったのである。
◆
ここまでの経緯を整理すると、永徽五年の新羅では、王位継承・冊封・律令制度の三層が同時に組み上がり、半島の中央に楔のごとく王権が打ち込まれた、ということになる。
しかしながら――ここで、もう一つの問いが浮上する。
なぜ、よりにもよってこの一年に、これほどの政治的構造変動が集中したのか。
視線を海峡の向こう側へ転じてみたい。
『日本書紀』は、白雉五年十月十日、孝徳天皇が難波の宮にて崩御したことを伝える。その死後、皇祖母尊――先に皇極天皇として在位していた女帝――が重祚し、斉明天皇として再び王座に就く。さらに同年二月、高向玄理を押使――大使より格上の使節――とする第三次遣唐使が出帆し、長安にて高宗に謁見、十二月には瑪瑙を献じている。
長安では、武照が昭儀として後宮の頂点に近づきつつあった。
慶州では、武烈王が即位し、唐風律令の整備に着手した。
そして難波では、孝徳朝が終焉し、女帝が二度目の即位を果たした。
これは偶然か。
合理的に推論すれば、否である。三つの宮廷で、ほぼ同時期に権力構造の再編が起きた、ということは、東アジア全域で何らかの政治的圧力が同時に働いていた、と考えるのが自然である。その圧力の正体は、唐の拡張であった。高句麗・百済・新羅・倭国――半島と列島のすべての国家が、唐という巨大な引力に対して、自らの位置を再調整せねばならぬ局面に立たされていたのである。
ところがである。
この東アジア再編の象徴的な人物――高向玄理は、再び倭国の地を踏むことなく、長安にて客死した。
奇妙な話ではないか。
玄理は六〇八年の遣隋使として渡海し、隋の滅亡と唐の建国を大陸の地でその眼に焼き付け、三十年を経て帰国した人物である。倭国にとっての、最も貴重な「大陸知の生証人」であった。その生身の容器が、よりにもよって永徽五年の長安で失われたのである。彼が三十年かけて蓄えた知識は、生身の口から伝えられることなく、紙の記録という形でのみ倭の地へ還ることを余儀なくされた。
口伝の喪失。文書の生存。
この対比こそが、永徽五年という座標における歴史的な分水嶺を象徴している。
◆
最後に、これらすべての権力構造を地上に定着させた媒体について、結論を述べておきたい。
新羅の楮紙――楮の繊維を漉いて作る、白く滑らかな紙。後に唐の宮廷を驚嘆させることになるこの紙の上に、理法府格の文字は刻まれた。
国家という巨大な概念は、文字によって定義され、紙の上に固定されることで、初めて統治という現実の武器となる。理法府格六十余条の制定とは、半島の地に「紙の上の国家」が産声を上げた、その歴史的な瞬間である。
同時に、列島では遣唐使が紙の献上品目録を携えて長安へ渡り、半島では真徳の死を伝える訃報の文書が慶州から長安へと走り、長安では武烈王冊封の詔書が起草されていた。
東アジアの三つの宮廷を結んだのは、騎馬でも、舟でも、剣でもない。紙の上の文字であった。
訃報を伝える紙、冊封を授ける紙、律令を定める紙、献上品を記録する紙。
紙のないところに、訃報は届かない。訃報の届かぬところに、王朝の継承はない。王朝の継承のないところに、冊封はない。冊封のないところに、東アジアの秩序はない。
永徽五年。
東アジアは、紙の上で再編された。




