第十話 六五五年・長安(唐)プロローグ
── 立后 ──
永徽六年。西暦六五五年。
唐の都・長安に、その秋、ひとつの「終わり」と、ひとつの「始まり」が、同時に訪れた。
王朝の中枢に、おおよそ三十年にわたり君臨してきた一群の人々――関隴貴族集団――が、その権勢の絶頂から、緩やかな下り坂に足を踏み入れた、その曲がり角の年。
そして、後世「武周革命」と呼ばれることになる、唐から武周への王朝交替の、その三十五年に及ぶ大潮流の、ほぼ最初の一波が打ち寄せた年。
それが、永徽六年であった。
◆
その潮流の起点にあったのは、後宮の小さな揺り籠であった。
正確には、ひとりの嬰児の死であった。
◆
永徽六年の初夏。
武昭儀――武照――は、すでに高宗との間に二男一女を儲けていた。
長男・李弘、次男・李賢、そして長女・安定思公主。
長女は、生まれたばかりの嬰児であった。
宮殿の一室、絹の褥に包まれて、すやすやと眠っている。
乳母が傍らに侍り、女官が線香を焚き、香の煙が淡く部屋を満たしている。
武照はその嬰児の枕辺に座し、何時間でも娘の寝顔を見つめていることがあった。
武照、三十二歳。
宮中における二度目の出産を経て、彼女の女としての盛りは、まさに頂点にあった。
長安の人々は彼女を「武昭儀さま」と呼び、その美貌と聡明さの噂は、宮城の塀を越えて、市井にまで広まりつつあった。
しかし、彼女には、もうひとつの顔があった。
紙の上に、官人の名簿を書き続け、宮中の動きを記録し続け、長安の市井の文人たちと密かに通じている女――。
武昭儀の机の上には、いつでも、楮紙の束が置かれていた。
◆
そして、永徽六年のある日。
王皇后が、武昭儀を訪れた。
王皇后は時折、後宮の他の妃たちの居室を訪問することがあった。
皇后としての務めの一環である。
武昭儀の居室にも、この時期、しばしば足を運んでいた。
皇后と昭儀の間には、表向きには、まだ協力関係があった。
武昭儀は、王皇后の進言によって後宮に呼び戻された身である。
蕭淑妃の寵愛を切り崩すという、王皇后の戦略は、すでに完全に成功していた。
蕭淑妃は、いまや高宗の関心からほぼ完全に外れ、王皇后と武昭儀の二者の対立構造へと、宮中の地図は塗り替えられつつあった。
王皇后は、勝ったつもりでいた。
蕭淑妃を追い落とし、いまや、武昭儀との関係をうまく維持できれば、自分の地位は安泰――そう信じていた。
その日も、王皇后は、武昭儀の居室を訪れた。
◆
武昭儀は、母親としての顔で、皇后を出迎えた。
「皇后陛下、ようこそお越しを」
「無事の出産、おめでとう、武昭儀」
王皇后は、嬰児の褥に近づき、覗き込んだ。
「まあ、なんと愛らしい」
王皇后には子がない。
それは、彼女の最大の弱点であった。
だからこそ、彼女は他の妃の子に、一種の憧れと、複雑な感情を持って接した。
「抱いてもよいか」
「もちろん」
武昭儀は、笑顔で頷いた。
王皇后は、嬰児を抱き上げた。
生後数か月の女児は、皇后の腕の中で、小さく身を捻り、また眠った。
王皇后は、しばらくの間、嬰児を抱いていた。
彼女の表情は、いつもの堅苦しさが消え、ほとんど少女のようにあどけなくなっていた、と――史書の行間から読み取ることが出来る。
そして、王皇后は嬰児を褥に戻し、武昭儀に挨拶を残して、退出した。
これが、運命の場面であった。
◆
王皇后が退出した、わずか数刻後。
宮殿の一室から、女官の悲鳴があがった。
「あ、姫さま――!」
嬰児が、息をしていない。
呼吸が止まり、唇は紫に変じ、肌は冷たくなっている。
乳母が必死に揺すっても、応えはない。
死んでいた。
長女・安定思公主、薨去。
宮殿は、たちまち動揺と混乱に包まれた。
そして、その混乱の中で、武昭儀は、ただひとり、冷静に、声を上げた。
「陛下を、お呼びせよ」
◆
武昭儀は、駆けつけた高宗の前で、嬰児の冷たい亡骸を指し、声を絞り出して言った。
「先ほどまで――先ほどまで生きておりましたのに、皇后陛下がここを去られた直後、この子は、息をしておりませぬ」
高宗の顔が、青ざめた。
「皇后が、来たのか」
「は」
「皇后が、この子に触れたのか」
「お抱きになりました」
宮殿は、静まり返った。
そして、高宗は、低い声で言った。
「皇后が、朕の子を、殺したのだ」
皇帝の決定的な一言である。
◆
歴史というものは、しばしば、こうした極めて単純な構図によって、その流れを変える。
赤子の死、たまたま居合わせた皇后、母の指弾――この三つが揃えば、皇帝の心の中で、すでに揺れていた天秤は、決定的に傾く。
王皇后が本当に嬰児を殺したのかどうか――これについては、史書の記述に明確な答えはない。
すなわち、武照が自ら娘を絞殺し、その罪を王皇后に着せた、という解釈である。
しかし、それを裏付ける直接の証拠はない。
そして、それを否定する直接の証拠も、また、ない。
ただ、ひとつだけ、確かなことがある。
この事件をきっかけとして、高宗の心は、王皇后から完全に離れた。
そして、武昭儀を皇后に立てる――その決意が、皇帝の中で、ここに固まった。
◆
高宗は、すぐには動かなかった。
武照を皇后に立てるためには、現皇后である王氏を廃位しなければならない。
そして、その廃位の決定には、宰相たちの同意が必要であった。
宮中において、宰相会議の中心にいたのは、四人の重臣であった。
長孫無忌――高宗の伯父。太宗の長孫皇后の兄。唐建国以来の元勲。
褚遂良――太宗に最も信任された諫臣のひとり。
于志寧――北周以来の名門・于氏の出身。
李勣――突厥討伐などの戦功で知られる老将。
このうち、長孫無忌・褚遂良・于志寧の三人は、いずれも関隴貴族集団の中枢に属する人物であった。
彼らにとって、武照のような関隴貴族でない女が皇后になるなど、断じて受け入れられぬことであった。
李勣だけが、関隴貴族集団に属さない、独立した立場の老将であった。
◆
高宗は、まず、長孫無忌に試した。
ある日、皇帝は伯父を私邸に訪ね、酒席を設けた。
長孫無忌の三人の妾の腹に生まれた庶子たちに、それぞれ五品官を与えるという、極めて破格の恩恵を与えた。
さらに、金、絹、宝物を山と積んで贈った。
そして、酒の合間に、皇帝は、ぽつりと、伯父に切り出した。
「皇后には、子がない――」
長孫無忌は、何も言わなかった。
「武昭儀には、子がある」
長孫無忌は、なお、何も言わなかった。
「皇后を廃して、武昭儀を立てたい、と、朕は、思うておる」
長孫無忌は、ようやく、口を開いた。
「陛下、それは、なりませぬ」
「何故」
「皇后は、太宗陛下が御自ら選ばれたお方。皇后廃立は、軽々に決すべきものではござりませぬ」
高宗は、唇を噛んだ。
それ以上、伯父の心を変える術はなかった。
◆
次に、高宗は、褚遂良に問うた。
褚遂良の反対は、長孫無忌よりも、更に苛烈であった。
宰相会議の席上、皇帝が皇后廃立について諮問した。
長孫無忌と褚遂良は、揃って強硬に反対した。
褚遂良は、笏を地面に叩きつけ、頭を石の床に打ちつけて、血を流して諫言した。
「陛下、皇后は太原の名家の出。武昭儀は、かつて先帝に仕えていた女性にござります。父子二代の皇帝に仕える女を皇后とすることは、天下の人心を失うこと、明らかにござります。陛下、もし武昭儀を皇后に立てんと欲するならば、まず、臣の頭を斬りて、その後にお進みあれ」
宮殿は静まり返った。
高宗は、激怒した。
「褚遂良を、引き出せ」
しかし、武昭儀がその時、御簾の向こうから、こう叫んだという。
「何ぞ、この老人を斬らざるや」
武照の発した恐ろしい一言である。
老臣を、その場で斬れ――。
宰相会議に女が口を挟むこと自体、当時の制度からすれば、極めて異例であった。
しかし、武照は、すでに後宮の壁を越えて、政治の場に直接、声を発する女となっていた。
褚遂良は、宮殿から引き立てられた。
◆
そして、最後の一人――李勣。
老将李勣は、この問題について、最初は答えなかった。
彼は宰相会議の席上では、病と称して欠席を続けた。
皇帝が彼の意見を求めても、はぐらかし続けた。
しかし、あるとき、皇帝が李勣を呼び寄せ、私的に問うた。
「皇后廃立について、卿の意見を聞きたい」
李勣は、しばし黙し、こう答えた。
「これは、陛下の家事にござります。何ぞ、外人に問わるる」
陛下の家事である――家庭内のことに、外の人間が口を出すべきではない――。
これが、李勣の答えであった。
つまり、彼は、廃立を消極的に容認した。
◆
李勣の一言で、勝負は決した。
長孫無忌・褚遂良の反対は、関隴貴族集団内部の意見である。
一方、李勣は、その集団の外にいる老将であり、軍部の支持を背景にする人物である。
彼の容認を得たことで、高宗は、政治的にも軍事的にも、皇后廃立の根拠を確保した。
そして、ここに、もうひとつの集団が、姿を現していた。
中書舎人の李義府。
礼部尚書の許敬宗。
御史大夫の崔義玄。
そして、御史中丞の袁公瑜。
これらの男たちは、いずれも関隴貴族集団に属さない、地方出身の中堅官人であった。
彼らはこの数年来、武昭儀の周囲に集まり、密かに連絡を取り合っていた。
李義府は、ある夜中、皇帝に上奏文を届けた。
皇后廃立を支持し、武昭儀の立后を勧める内容であった。
許敬宗は群臣を説得して回り、武昭儀立后への賛同を集めた。
崔義玄・袁公瑜は宮中の情報網を握り、反対派の動きを逐一武昭儀に通報した。
これは、武照がこの数年、紙の上に書き続けてきた人材名簿が、ついに動き始めた瞬間であった。
地方出身の、出世見込みの薄い、しかし才能のある男たち――。
武照は、彼らひとりひとりの背景、長所、短所、家族構成、不満の原因を、すべて紙の上に把握していた。
そして、しかるべき時が来た時に、彼らに声をかけた。
彼らは、武昭儀の声を待ち望んでいた。
なぜなら、彼女こそが、関隴貴族集団に支配された朝廷において、彼ら傍流出身の官人たちが出世できる唯一の道だったからである。
◆
十月十三日――西暦に直せば十一月十六日。
高宗は、ついに、詔書を発した。
「王皇后および蕭淑妃、陰謀下毒の罪あり。これを庶民に落とし、罪人として獄に繋ぐ」
両者の親族は、官位を剥奪され、嶺南――唐の南端の僻地――への流罪となった。
そして、その七日後――十月二十日。
高宗は、再び詔書を発した。
「武昭儀を、皇后に立つ。諫言したる褚遂良を、潭州都督に左遷す」
これが、後世「武則天の立后」として知られる、決定的な瞬間である。
時に、武照、三十二歳。
宮城に最初に入ってから、十八年。
感業寺から呼び戻されてから、五年。
そして、長女の死から、わずか半年。
彼女は、ついに、後宮の頂点に立った。
◆
詔書を起草したのは、関隴貴族集団に属さぬ、新進の官人たちであった。
詔書の文面には、一節、奇妙な弁明が含まれていた。
「事、政君と同じ」――ことは、政君(漢の元后王政君)の故事と同じである、という意味である。
これは、武照がかつて先帝・太宗の後宮に仕えていたことを弁明するための、苦しい言い回しであった。
漢の元帝の皇后・王政君も、もとは王禁の娘で、皇太子時代の元帝に下賜された経緯がある。
武照もまた、太宗の代に後宮に入ったが、早くから皇太子(=高宗)に下賜されていた、という解釈を、詔書は提示した。
事実かどうかは、誰も確認できない。
しかし、紙の上に「事、政君と同じ」と書かれた瞬間、それは公的な事実となった。
紙の上の文字は、過去すらも、書き換える。
これが、武照の本領であった。
◆
立后の儀式は、十一月一日に挙行された。
新皇后・武照は、皇后の朝服を纏い、玉座の脇に立ち、群臣の朝賀を受けた。
群臣のうち、長孫無忌、褚遂良はその場におらず――褚遂良はすでに左遷の道中であり、長孫無忌は病を理由に欠席した――、儀式は、武照を支持した新進官人たちと、消極的に容認した李勣ら少数の老臣によって、淡々と進行した。
新皇后は、玉座の上の高宗を一瞥し、わずかに微笑んだ。
そして、その微笑は、すぐに消えた。
◆
十一月初旬。
新皇后・武照は、最後の仕事に取りかかった。
王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)の処分である。
両者は、すでに庶民に落とされ、獄に繋がれていた。
武照は、彼女らに、棍杖――重い棒で打つ刑罰――百叩きを命じた。
さらに、四肢を切断し、酒壺に投じて、酒の中に浸させたという。
「骨まで酔わせてやる」
武照は、そう言ったと伝わる。
両者は、酒壺の中で数日間呻き、泣き叫んだのち、絶命した。
蕭淑妃は、死の間際、こう呪ったとされる。
「武照よ、生まれ変われば鼠になれ。妾は猫に生まれ変わって、お前を食い殺してやる」
これを聞いた武照は、後年、宮中で猫を飼うことを禁じた。
王氏と蕭氏の一族は、それぞれ姓を「蟒」――ウワバミ――と「梟」――フクロウ、子が親を食う不孝の鳥――に改められた。
紙の上の文字は、姓すらも、書き換える。
◆
そしてこの瞬間、長安の宮城の上空には、ある種の透明な――しかし重い――風が吹き始めていた。
それは、目に見えぬ風であった。
しかし、この風が三十五年後、唐から武周への王朝交替を、現実のものとする。
そして、海を越えた半島では、武烈王の新羅が、淡々と律令を整備し、軍を増強し続けていた。
さらに海を越えた倭の地では、斉明天皇の朝廷が、いまだ模索の最中にあった。
そして――。
その四年後、倭の地で、ひとりの男児が産声をあげる。
中臣鎌足の次男。
名は、「史」――読みは、「ふひと」。
彼が、海を越えて、武照と同じ「紙の上に国家を書く」術を、自らの国で再構成することになるとは、まだ、誰も知らない。
〔正史より――〕
永徽六年――西暦六五五年。
読者諸氏には、この一年の長安の宮廷で何が起きたのか、史料の側から確認しておいていただきたい。
本作前段において、われわれは赤子の死、宰相会議、立后の儀式、前皇后と前淑妃の惨殺といった一連の場面を描いてきた。
これらの事件は、いずれも『旧唐書』『新唐書』則天皇后伝、ならびに『資治通鑑』巻一九九から二〇〇にかけて、比較的詳細な記述が残されている。
しかしながら、それぞれの事件をめぐって、史書間に微妙な異同があり、また現代の研究においても見解が分かれる箇所が少なくない。
結論から述べれば、永徽六年とは、史実と虚構の境界線が、これほどまでに揺らぐ年は、唐三百年の歴史を通じても珍しい、ということである。
順を追って整理してみたい。
◆
まず、最も激しい議論を呼んでいる、安定思公主の死をめぐる問題から始めねばならない。
『新唐書』則天皇后伝は、こう記す。
王皇后が武昭儀の居室を訪れて嬰児を抱き、退出した直後に嬰児が死亡しているのが発見された――武昭儀は皇后が殺したと訴え、高宗もこれを信じて廃后の決意を固めた、と。
これは何を意味するか。
正史の表面を素直に読めば、王皇后が嬰児を絞殺した、ということになる。
ところがである。
『資治通鑑』の編者・司馬光は、同書巻一九九・永徽五年六月条の考異において、この事件に対する強い疑念を表明している。
「実録には皇后が嬰児を殺したと記す」
司馬光はこう前置きしたうえで、さらにこう続ける。
「然るに史官、皆な国憲に従う者なり。武氏立后の後、其の事を構う、信じ難し」
念のため経緯を整理しておくと、司馬光は北宋の歴史家であり、『資治通鑑』は武則天の死から三百年以上後に編纂された。考異とは、複数の史料を比較し、どれが真実に近いかを論じる注釈群である。司馬光はこの考異において、武照が立后した後に書かれた史書ゆえに、彼女に都合の良い形に事実が改変された可能性を、暗に示唆しているのである。
奇妙な話ではないか。
正史が、自らの記述を信じるなと、後世の歴史家に告発されているのである。
ここが重要な点であるが、司馬光の指摘を踏まえると、嬰児の死には少なくとも三つの可能性が浮上する。
第一に、嬰児は病死であり、武昭儀が病死を奇貨として皇后に罪を着せた可能性。
第二に、武昭儀が自ら娘を絞殺し、その罪を皇后に着せた可能性。
第三に、王皇后が実際に嬰児を殺害した可能性――すなわち正史の記述通りの可能性。
これら三つのいずれが真実であるかは、千四百年を経た今日においても、確定的に判断できない。
本作前段において、われわれはこの場面を「王皇后が嬰児を抱いて退出した直後に死亡が発見された」という、史料の最低限の事実関係に絞って描いた。武昭儀が嬰児に何をしたか、あるいは何もしなかったか――これを特定の解釈に断定して描くことは、千四百年の沈黙を強引に破ることになる。司馬光ですら答えを出せなかった問いに、われわれが安易に答えを与えるべきではない、という判断である。
◆
ところで、嬰児の死が引き金となった以上、次に問われるべきは、その引き金がどのような構造の機構に装填されていたか、である。
私事から公事へ。
宮廷内部の事件が、国家の制度を動かすには、もう一つの装置を経由せねばならない。それが、宰相会議である。
『資治通鑑』巻一九九・永徽六年九月条には、高宗が宰相たちに皇后廃立の是非を諮問した経緯が、比較的詳しく記されている。
時の宰相は四名。
長孫無忌、褚遂良、于志寧、李勣。
念のため経緯を整理しておくと、長孫無忌は太宗の皇后の兄であり、高宗の伯父にあたる関隴貴族集団の柱石。褚遂良は太宗に信任され、常に直言をもって鳴った重臣。于志寧は北周八柱国の系譜を引く名門。李勣は太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた老将――いずれも、唐建国以来の支配層を代表する顔ぶれである。
この四名の反応が、極めて示唆的であった。
長孫無忌と褚遂良は強硬に反対。
于志寧は賛成も反対も明確には言わず。
李勣のみが、消極的に容認した。
ここに、ある重要な分裂が浮かび上がる。
四名のうち三名までが、貴族集団の中枢に位置する人物であった。彼らは、武照という傍流出身の女性が皇后の座に就くことを、構造的に許容できなかった。なぜなら、それは関隴貴族集団による政権独占の終焉を意味するからである。
ところが、李勣ただ一人が、別の論理で動いた。
『資治通鑑』および『旧唐書』李勣伝の伝えるところによれば、李勣は高宗にこう答えたという。
「此れは陛下の家事にござります、何ぞ外人に問わるる」
奇妙な話ではないか。
国家の最高機関である宰相会議において、皇后廃立という国憲に関わる重大事を、「家事」と片付けたのである。
これは何を意味するか。
合理的に逆算すれば、李勣は、皇后廃立を貴族集団の総意から切り離すための論理を、意図的に提供した、ということになる。家事である以上、宰相会議の統制が及ばぬ私的領域である。私的領域である以上、皇帝の決定に外朝が容喙する根拠はない――。
この一言が、皇后廃立の決定的な転機となったことについては、現代の研究でも概ね一致した見解が示されている。李勣は軍部の支持を背景に持つ老将であり、彼が消極的にせよ容認したことで、高宗は政治的・軍事的な根拠を確保することができた、と理解されている。
◆
ところがである。
宰相会議の場面を再構成する際、われわれは一つの難問に直面せねばならない。
本作前段において描いた褚遂良の諫言場面――笏を地面に叩きつけ、頭を石の床に打ちつけて血を流し、「まず臣の頭を斬りて、その後にお進みあれ」と叫んだ場面――そして、武昭儀が御簾の向こうから「何ぞ、この老人を斬らざるや」と叫んだ場面である。
これらの記述は『資治通鑑』および『旧唐書』褚遂良伝に明記される。
しかしながら、ここに不可解な点がある。
武昭儀が、この時点で宰相会議の場に物理的に同席していたか否か――この一点について、史書の記述には若干の揺らぎがあるのだ。
『資治通鑑』は、彼女が御簾越しに会議の場に居たことを示唆する書き方をしている。
しかしながら、後宮の女性が宰相会議に同席することは、唐の制度上、極めて異例である。後宮の女性が外朝の政務に介入することは、本来、厳格に禁じられていた。
これは何を意味するか。
合理的に推論すれば、二つの解釈が可能である。
第一に、史書の記述通り、武昭儀が前例を破って御簾の向こうに同席していた、という解釈。
第二に、後世の史官が、武照の越権性を強調するために、彼女を場面に配置した、という解釈。
本作では、『資治通鑑』の記述に従う形で描いた。それは、彼女がこの時点で既に高宗の意思決定に深く介入していた、という構造的事実が、複数の史料から裏付けられるからである。物理的に同席していたかどうかという形式の問題よりも、実質的な介入があったという構造の方が、はるかに重要である。
◆
ここまでの経緯を整理すると、永徽六年の宰相会議は、関隴貴族集団の三対一の分裂と、李勣の「家事」発言による形式的決着を経て、廃后の路線を確定させたことになる。
しかしながら――ここで、もう一つの構造的事実を確認せねばならない。
宰相会議で形式的決着がついたとしても、それを現実の制度変更に落とし込むには、別の装置が必要であった。
それが、武照を支持する新進官人たちの上奏機構である。
『旧唐書』則天皇后本紀および各人の列伝によれば、まず動いたのは中書舎人の李義府であった。
ここで読者には、中書舎人という官職の意味を念のため確認しておいていただきたい。
中書舎人とは、中書省――皇帝の詔勅を起草する機関――に属する官職である。すなわち、皇帝の公的な命令文書を草案する立場にある。この職にある者が立后を支持するということは、立后詔書が起草される段階で実務的な障害が消失する、ということを意味する。
李義府は、真夜中に高宗に上奏文を届けたという。
奇妙な話ではないか。
正規の手続きでは、上奏文は中書省を経由して処理される。にもかかわらず、李義府は個人的に、しかも夜間に、高宗に直接届けたのである。
これは、公式のルートを迂回した、私的な連携の現象である。すなわち高宗・武照と、武照支持派の官人たちとの間に、外朝の公式機構とは別の、秘密の回路が成立していた、ということに他ならない。
李義府の上奏が転機となった後、礼部尚書の許敬宗、御史大夫の崔義玄、御史中丞の袁公瑜、そして王徳倹らが結託して、武昭儀立后の上奏文を高宗に送った。
ここで読者諸氏は気づかれただろうか。
これらの人物の属性を俯瞰すれば、ある共通項が浮上する。
彼らは、いずれも関隴貴族集団――北周・隋以来の名門貴族の系譜を引く一族――の中枢からは外れた、地方出身ないし傍流の中堅官人なのである。
これは何を意味するか。
すなわち、立后をめぐる対立は、単なる宮廷の権力闘争ではなかった、ということになる。
その本質は、唐建国以来の貴族支配体制と、新興の中堅官人層との間の、構造的な階級闘争であった。武照は、自身の立后という私事に、貴族支配の解体という公事を乗せて運ばせたのである。
そして、この構造を最初に構築し始めたのが、永徽元年の感業寺還宮直後――すなわち五年前――から、彼女が密かに積み上げてきた人材の名簿であった、ということを、読者は前段までのコラムで確認されてきたはずである。
種子は、五年前に蒔かれていた。永徽六年とは、その種子が一斉に発芽した瞬間に他ならない。
◆
ここで、二度の詔書の発布について、時系列を確認しておきたい。
『資治通鑑』の伝えるところによれば、永徽六年十月十三日、廃后の詔が発せられた。
そして、その七日後の十月二十日、立后の詔と褚遂良左遷の詔が、同時に発布された。
この間隔が、極めて示唆的である。
合理的に推論すれば、十三日の時点では、まだ立后詔書の文面が確定していなかった、ということになる。なぜなら、廃后と立后が同時に処理されるべき性質の事項であるにもかかわらず、敢えて七日の時間差が設けられたからである。
この七日間に、立后詔書の起草をめぐって、なお内部調整が続いていた、と読み解くのが自然であろう。
そしてこの遅れの理由は、立后詔書に盛り込むべき一節の文言にあった、と推測される。
立后の詔書には、こう記された。
「事、政君と同じ」
事、政君の故事と同じ――。
ここで、王政君の故事を念のため確認しておきたい。王政君とは、漢の元帝の皇后であり、成帝の生母、そして王莽の姑母にあたる女性である。彼女もまた、複雑な経緯で皇后の座に登った前例を持つ。
すなわち、武照がかつて先帝太宗の後宮に仕えていた事実を、漢の元后王政君の故事に擬して正当化するための文言である。
奇妙な話ではないか。
新たな皇后を擁立する公式詔書において、敢えて過去の前例を引き合いに出さねばならぬほど、世論の批判を警戒していた、ということに他ならない。
これは、立后の正当性そのものに、構造的な脆弱性があったことを物語る。だからこそ、わざわざ政君故事という防御幕を張らねばならなかったのである。
◆
ここまでの展開は、いずれも公的な手続きの問題であった。
ところがである。
立后後の王氏と蕭氏に対する処分に至ると、議論は別の位相に入る。
『新唐書』則天皇后伝および『資治通鑑』に詳しい記述があるところによれば、両者は棍杖百叩きの上、四肢を切断され、酒壺に投じられて絶命した。
この猟奇的な描写は、漢初の呂后が戚夫人に行った「人豚」の刑――手足を切断し、目を抉り、耳を焼き、便所に投げ込んだ――の焼き直しに、極めてよく似ている。
合理的に推論すれば、後世の史官が、武則天を貶めるために、呂后の故事を借用した可能性が濃厚である。
蕭淑妃が死の間際に「鼠と猫」の呪いを残し、武照が後年宮中で猫を飼うことを禁じたとする逸話、両家の姓が「蟒」「梟」に改められたとする経緯も、いずれも同書に記される。
しかしながら、本作前段において描いた処刑の場面の細部――酒壺の中で数日間泣き叫んだ、骨まで酔わせてやると言ったとされる発言など――は、『新唐書』が「一説に」という留保つきで伝える挿話である。
「一説に」という前置きの意味を、ここで改めて考えねばならない。
これは、史書の編纂者自身が、その挿話の信憑性に留保を付した、ということに他ならない。すなわち編纂者は、読者に対し、これを確定的な事実として受け取らぬよう、警告しているのである。
武則天に対する後世の負の評価が形成されていく過程で、こうした残酷な細部が次第に強調されていった可能性は否定できない。
ただし、王氏・蕭氏の一族が嶺南に流罪となり、姓を改められたこと自体は、複数の史料が一致して伝える事実である。
猟奇的な細部の真偽はともかく、王氏・蕭氏一族の社会的抹殺が現実に執行されたことは、揺るぎない。
◆
最後に、これらすべての出来事を地上に定着させた媒体について、結論を述べておきたい。
唐代の宮廷における詔書の手続きを、念のため確認しておきたい。
皇后廃立の詔書は、唐の制度上、最も重要な国家事項の一つとして処理された。中書省が起草し、門下省が審議し、尚書省が施行する、三省の連動である。
そして、この一連の手続きの物質的な基盤となったのが、紙であった。
詔書の正本は白麻紙――白い麻の繊維から漉かれた紙――に書写され、副本は黄麻紙に保存された。永徽六年十月の二度の詔書も、こうした手続きに従って発布され、長安の中央官府の文書庫に保管された。
そして、ここに、歴史的な逆説がある。
武則天の治世が終わった後、彼女の治世期に作成された膨大な公文書のうちの相当部分は、政治的理由から廃棄、あるいは改変された可能性がある。
それでもなお、『資治通鑑』編纂時――北宋十一世紀――に司馬光が膨大な一次資料を参照し得たということは、何を意味するか。
武則天期の文書のかなりの部分が、紙という素材の堅牢さに支えられて、三百年以上を生き延びていた、ということに他ならない。
書かれた事実を改変しようとする権力の意志と、書かれた事実が物理的に残存し続ける紙の頑強さ。この二つの拮抗のあいだで、武則天の永徽六年は、千四百年を生き延びた。
そして、その拮抗こそが、後世の歴史家・司馬光に「考異」を書く余地を与えたのである。
紙は、書かれた事実を定着させる。
しかし、紙は、書かれた事実が改変されようとした痕跡もまた、定着させる。
書く者は、書かれた事実を確定させる権力を握る。だが、書かれた事実は、後世の読み手によって、何度でも読み直される。
これが、紙という媒体の二重性である。
紙のないところに、歴史はない。歴史のないところに、権力の正当化はない。権力の正当化のないところに、王朝はない。
しかし――。
紙のあるところには、必ず、紙への疑義もまた、生じる。
武則天が永徽六年に紙の上に書き残した「事実」は、千四百年を経た今日もなお、われわれの前で揺らぎ続けている。
そしてその揺らぎこそが、本作で描いた永徽六年の出来事を、われわれが千四百年を経た今日に再構成し得る、最大の根拠なのである。
紙の力による。
ただ、それのみによる。




