第八話 六五〇年・長安(唐)プロローグ
── 還宮 ──
永徽元年、西暦六五〇年。
唐の新元号「永徽」――「永えに徽し」。新帝高宗李治の即位を寿ぐ、典雅な響きの年号である。
しかし、その年に長安で実際に起こったことは、決して「徽し」と呼べるようなものではなかった。少なくとも、後世の眼から見れば。
◆
太宗の喪が、明けつつあった。
長安城の朱雀門から太極宮に至る朱雀大街には、新帝即位の儀にともなう諸国の朝貢使の馬車が、列をなしていた。新羅、突厥、吐蕃、安南――新たな天子に礼を尽くす使節の数は、太宗の崩御以来、数か月を経て、ようやく勢いを増しつつあった。
新帝・高宗李治、二十三歳。
年明けの正月、彼は太極殿の玉座に座し、群臣の朝賀を受けた。
玉座の右手には、伯父・長孫無忌。
左手には、太宗の重臣であった褚遂良と李勣。
そして玉座の後方、簾の向こうには、新たに皇后に立てられた王皇后が座していた。
群臣は、新帝の前に伏し、永徽の世を寿いだ。
「天子、万歳」
声は揃い、廟堂を震わせた。
しかし、この瞬間、玉座の上で李治が考えていたのは、永徽の治世のことでも、群臣のことでも、伯父の長孫無忌のことでも――王皇后のことでも、なかった。
彼の頭の中にあったのは、ただ一人。長安城の西北、感業寺の片隅で、髪を剃らずに、一人静かに書を読み続けている、一人の女道士のことであった。
◆
「太宗忌日に至り、高宗、寺に行して焼香す。武照、見えて泣く。高宗もまた泣けり」
太宗の忌日――崩御から一年の節目――にあたって、高宗は感業寺を訪れて焼香した。そこで、彼は武照と再会した。武照は彼を見て泣き、高宗もまた泣いた、というのである。これが、感業寺における二人の再会の場面である。
太宗の忌日とは、貞観二十三年五月二十六日――すなわち、永徽元年五月二十六日。皇帝が父の一周忌に菩提寺を訪れる、というのは、表向きは至極自然な行為である。誰もこれに疑念を挟むことはできない。
しかし、その「自然な行為」の中に、彼は、武照に会いに行ったのである。そして、武照は、それを、待っていた。
◆
感業寺の本堂の前。新緑の柳が、五月の風に揺れていた。
高宗が境内に入ると、住持の老尼が、深く礼をして迎えた。読経の声が低く流れ、線香の煙が薄く立ち昇っていた。
「先帝のため、御仏に祈らせ給え」
老尼が、本堂の方角を示した。
高宗は頷いた。そして、群臣を境内に残し、ただ一人、本堂へ入った。
本堂の中央に、太宗の位牌が安置されていた。その前に、一人の女が、跪いていた。道服――女道士の灰色の衣――を纏い、長い黒髪を背に垂らし、両手を合わせて、低く読経していた。
足音に気づき、女は、ゆっくりと振り返った。そして、立ち上がり、深く礼をした。
「陛下、お久しゅう……」
その声が、最後まで続かなかった。武照は、両手で顔を覆い、そのまま、声を上げて泣き出した。
涙は、本物であった。少なくとも、半分は本物であった。
なぜなら、彼女は二十六歳から二十七歳になるまでの一年間を、本当に、感業寺の片隅で、書を読み、紙に文字を綴り、皇宮からの使いを待ち続けていたからである。一年間の孤独、一年間の不安、一年間の――そして、一年間に積み重ねられた戦略の重み。それらすべてが、新帝の足音を聞いた瞬間、涙となって溢れた。
そして、もう半分は――計算であった。彼女は、皇帝が涙に弱いことを、知っていた。
李治もまた、泣いた。「高宗もまた泣けり」。二人は、太宗の位牌の前で、寄り添い、声を上げて泣いた。これが、感業寺における再会の、すべてである。
◆
会見そのものは、ごく短い時間であった。高宗は、武照に何かを囁いた。武照は、頷いた。それだけで、二人は別れた。
高宗が境内を去ったあと、武照は再び本堂に戻り、太宗の位牌の前に、一人、座した。そして、低く呟いた。
「陛下、御免あそばせ」
しかし、彼女は、生前の太宗の眼の前で、自分の最大の野心を、長く隠し続けてきた女である。その太宗の位牌の前で、息子と再会の涙を流したことに、彼女が一片の罪悪感も感じなかった、と仮定するのは――やや、彼女を冷酷に過ぎる存在として描き過ぎる、かもしれない。
武照は、計算する女であったが、計算しか出来ぬ女ではなかった。
彼女は、太宗の聡明さを、知っていた。そして、太宗が自分を遠ざけた理由――「唐三代にして女王昌」の流言――を、誰よりも深く理解していた。さらに、これから自分が辿る道が、まさにその流言を実現する道であることも、知っていた。
「ゆえに、陛下、御免あそばせ」
太宗の位牌の前で、武照はその一言を、心の中で、確かに呟いたはずである。呟いた上で――それでも、彼女は、その道を進んだ。これが、武照という女の、最も深い場所である。
◆
数か月後――感業寺に、長安からの輿が到着した。王皇后の私使であった。
「武才人を、後宮に呼び戻す」
王皇后の指示は、迅速であった。事の発端は、彼女自身であった。蕭淑妃の寵愛が日増しに増し、王皇后は焦っていた。蕭淑妃は次々と高宗の子を産み、王皇后はいまだに子をなさない。このままでは、いずれ廃后――皇后の座を追われる――の危機が、確実に近づきつつあった。
王皇后は、夫・高宗に進言した。
「武才人――感業寺の武照――は、先帝の喪に服して女道士となっておりますが、すでに一年が過ぎました。先帝への孝を尽くしたとして、宮中に呼び戻し、新たな寵をお与えくださるのは、いかがでございましょう」
高宗は、内心、躍り上がるほど嬉しかった。しかし、彼は、慎重に頷いた。
「そなたが、そう申すならば」
「は」
「呼び戻すがよい」
王皇后は、自分が主導権を握っているつもりであった。高宗は、それを利用して、武照を呼び戻した。そして、武照は――最初から、その全部を、見越していた。
◆
武照、後宮へ還る。階位は、昭儀。
昭儀は、九嬪の筆頭――正二品。先帝の代に与えられていた「才人」が正五品であったから、四階級の大昇格である。
これは、高宗の意志であった。王皇后は、武照を「自分の派閥の宮女」として呼び戻したつもりであった。だから、彼女としては、武照に低い地位を与えるつもりだったかもしれない。しかし、高宗は、最初から武照を昭儀という高位に据えた。これは、皇帝の意志であって、王皇后にも反対できなかった。
このとき、高宗の頭の中ではすでに、武照を皇后にする計画が、淡く浮かび始めていた。
しかし、武照を皇后にするためには、現皇后である王氏を廃位しなければならない。それは、長孫無忌・褚遂良ら、太宗以来の重臣たちの猛反対を招くことが、確実であった。ゆえに、急いではならなかった。高宗と武照は、十年がかりで、その計画を、実行に移すことになる。
◆
長安の宮城は、その夏、目に見えぬ風の流れを、変え始めていた。
太宗の時代、後宮の主役は長孫皇后と韋貴妃であった。高宗即位後、当初の主役は王皇后と蕭淑妃の対立であった。しかし永徽元年の夏以降――その主役の構図に、第三の女が加わった。
武昭儀――武照。
そして、彼女が後宮に入った瞬間、王皇后と蕭淑妃の対立は、根本的に、変質した。それまでの対立は、二つの女が高宗の寵愛を巡って争う、ありふれた構図であった。だが、武照の登場により、構図は三角形となった。三角形は、二角の対立よりも、はるかに不安定である。なぜなら、三人のうち、いつでも二人が結んで一人を排除する選択肢が生まれるからである。
武照は、その不安定を利用した。
最初に、彼女は、王皇后の側に立つ振りをした。王皇后は安心し、蕭淑妃を非難した。高宗の寵愛は蕭淑妃から逸れ、武照に向かった。蕭淑妃は孤立し、王皇后も結果的に高宗から疎まれるようになった。
そして、いよいよ三人ともが疲弊したところで――武照は、王皇后と蕭淑妃の双方を、同時に排除する仕組みを、発動させていく。
しかし、それは、まだ五年先の話である。永徽元年の段階では、武照はまだ、ただの「昭儀」に過ぎない。ただし、彼女の周りには、すでに、ある種の人々が、集まり始めていた。
◆
李義府。中書舎人。文章の達者として知られた、地方出身の若き官人。
許敬宗。太宗代より文人として頭角を現した男。野心の強い、出世志向の典型。
崔義玄。地方出身の中堅官人。武照の同郷(同じ并州地方)の出身。
これらの男たちに共通するのは、いずれも関隴貴族集団の出身ではない、ということであった。
唐の建国以来、政界の中枢は、関隴貴族集団――北周・隋以来の名門貴族の系譜を引く一族――が独占してきた。長孫無忌、褚遂良、于志寧、李勣――いずれも、関隴の流れを汲む名族の出身である。
しかし、武照の周りに集まった男たちは、いずれも傍流、地方出身、出世見込みの薄い者たちであった。彼らは、貴族制下では出世の階段を昇ることが、ほとんど不可能であった。
そこに、武照という、宮廷の新たな台風の眼が、現れた。
「この女の側に立てば、出世できるかもしれぬ」
それが、彼らの計算であった。
そして武照もまた、彼らを必要としていた。彼女には、貴族出身の支持者がいない。長孫無忌は太宗以来の重臣として絶大な権力を握り、褚遂良も同様。これらの貴族層は、武照の存在そのものを、嫌っていた。したがって、武照は、貴族層と戦うために、貴族層に属さない男たちを、自分の側に集める必要があった。
これが、後年「華胥道」と呼ばれる武則天政権の、最も基本的な人材戦略であった。
身分ではなく、才能と忠誠で人を選ぶ。そして、選ばれた人々は、武照に深い恩義を感じる。恩義は、忠誠を生む。忠誠は、武照の権力基盤を、貴族の地盤よりも強固にする。
これは、後年、唐の後半期から宋代にかけて中国社会全体で進行する「貴族制の解体・科挙官僚制の勃興」の、最も早い兆候でもあった。武照は、自身の権力を確保するためという、極めて利己的な動機から、結果として、中国史全体の流れを先取りする制度的革新を始めていた。これが、彼女の歴史的偉大さの、一つの側面である。
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永徽元年の秋、武照は、久しぶりに筆を執った。感業寺に篭っていた一年間、彼女は紙の束を持ち込んで、ひたすら史書を読み続けていた。今、後宮に戻った彼女は、その読書の成果を、いよいよ実行に移し始めていた。
彼女が書き始めたのは、人材の名簿である。
新たに後宮に入った武昭儀は、ある不思議な癖を持っていた。後宮の女官、宦官、宮中の出入りの商人、あるいは長安の市中の文人――そういう人々と頻繁に接し、その一人一人について、紙の上に短い記録を残すのである。
「李某、陳留出身、文章達者、長孫派に冷遇さる、心、用うるに足る」
「劉某、宦官、王皇后の信任厚し、買収不可」
「崔某、地方刺史の弟、無位、漢詩を能くす、兄、長孫派と不和、可能性あり」
このような短い記述が、彼女の机の上の紙束に、日に日に増えていった。これはいわば人材データベースである。
唐代の宮廷において、こうした体系的な人事情報の蓄積を、組織的に行っていた人物は、武照以前には、ほとんど見当たらない。長孫無忌のような重臣も、当然のように人事を動かしていたが、それは個人の記憶と人脈に基づくものであった。
武照は、それを紙の上に書き出したのである。書き出した瞬間に、情報は、個人の記憶を超えて、組織の資産となる。彼女が誰かに見せれば、共有できる。彼女が後年さらに人を増やせば、更新できる。彼女が忘れても、紙が記憶している。
これは、唐代の宮廷における、ひとつの静かな革命であった。そして、この紙の束が、後年、武照が皇后になり、皇帝になり、武周王朝を打ち立てる、その全過程の、最も基礎的な情報資産となる。
紙は、軽い。紙は、燃える。
紙は、しかし、書かれた文字は、千年を生き延びる。
そして、紙の上に書かれた人材の名前は――その名前を握る者の、駒となる。
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その同じ年、海を越えた半島では――。新羅の都・金城で、金春秋が、新たな詔書を発していた。
「来年より、新羅は唐の年号『永徽』を奉ず」
これは、二年前の長安における太宗との約束を、ついに実行に移す決定であった。新羅独自の年号「太和」は、これをもって廃止された。新羅の暦は、唐の暦と一体化した。金春秋もまた、紙の上に詔書を書き、それを宮中・地方に配布することで、国家の意志を伝達していた。
そして、海をさらに越えた倭の地では――。中大兄皇子と中臣鎌足が、難波宮にて、白雉改元の儀式を行っていた。前年の二月、長門国から白雉が献上されたのを瑞祥として、年号を「白雉」と定めたのである。
倭の地にも、紙の上の年号が、確立しつつあった。
紙、文字、暦、年号、戸籍、詔書――。これらすべてが、東アジア全域で、ほぼ同時に整備されつつあった。
そして、その九年後――鎌足の次男として、一人の男児が生まれることになる。
「史」――読みは、「ふひと」――と名づけられる、その男児は、まさにこの「紙と文字の時代」の、最も典型的な体現者となる。
〔正史より――〕
永徽元年――西暦六五〇年。
読者諸氏には、この年の長安の宮廷に何が起きていたのか、史料という名の断片を繋ぎ合わせ、本編で描かれた想像場面の輪郭を確認しておいていただきたい。
本作前段において、高宗と武照の感業寺における再会、武照の昭儀就任、彼女の影に集った官人たちの系譜、そして執拗に繰り返される人材名簿作成の場面を活写した。これらは奔放な想像が生んだ仮説の城のように見えるかもしれない。
しかしながら、その推論の崖下には、複数の揺るぎない史実の支柱が、深く打ち込まれているのである。順を追って整理してみたい。
◆
第一に、感業寺における再会の場面についてである。
『新唐書』則天皇后伝の冒頭には、決定的な一節が刻まれている。
「太宗忌日に至り、高宗、寺に行して焼香す。武照、見えて泣く。高宗もまた泣けり」
このわずか数行の記述は、何を語っているか。
二人の再会が、太宗の一周忌――すなわち永徽元年五月二十六日前後という、極めて象徴的な時間軸の中で行われた、という事実である。先帝の一周忌にその寵姫であった女と新帝が再会し、共に涙を流した。これは公的儀礼の場での偶然の邂逅などではない。先帝の遺した寵姫と新しき皇帝という、本来であれば峻別されるべき公的関係の境界線が、私情の深淵へと融解していたことを、史料そのものが図らずも告白しているに他ならない。
会話そのものは想像の産物であるが、その場に流れていた感情の構造は、史書の側から逆算可能である。
◆
第二に、武照の昭儀就任という、不可解な昇進劇である。
『旧唐書』則天皇后伝、および『資治通鑑』巻一九九によれば、武照は感業寺の静寂から後宮の喧騒へと引き戻された直後、昭儀――九嬪の筆頭、正二品という、目の眩むような高位――を授けられている。
ここで読者には、唐の後宮の階位を念のため確認していただきたい。皇后の下に四夫人(正一品)、その下に九嬪(正二品)、その下に九婕妤(正三品)、九美人(正四品)、九才人(正五品)と続く――昭儀は皇后と四夫人を除けば、後宮の頂点に近い地位である。
先帝の時代、武照に与えられていた地位は「才人」――正五品である。すなわち感業寺での蟄居を経て、彼女はいきなり四階級を跳躍したことになる。これがいかに異常な昇進であるかは、後宮の秩序を僅かでも知る者であれば、説明を要すまい。
ところが、ここに不可解な点がある。
この昇格を仕組んだのは、誰か。
表面の記録は、高宗の意志であったと述べる。しかし『旧唐書』后妃伝は、王皇后こそが武照を「自派の宮女として召し出した」と明記している。
念のため経緯を整理しておくと、当時の高宗の後宮では、皇后の王氏と寵姫の蕭淑妃が激しく対立していた。王皇后は、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らすために、自派の駒として武照を後宮に呼び戻そうとしたのである。これは史料の明示するところであり、解釈の余地はない。
問題はその次にある。
王皇后の目論見が、武照を単なる「自派の駒」として飼い慣らすことにあったのなら、与えるべき階位は、自身の支配が及ぶ程度の――せいぜい「美人」か、あるいは元の「才人」に留めるのが、後宮の力学上の定石である。にもかかわらず、武照はいきなり正二品の頂に据えられた。
これは何を意味するか。
王皇后という書き手の筋書きを超えて、高宗が独断で台本を書き換えた、と解釈せねば、説明のつかない事実である。換言すれば、武照の還宮劇――その表紙には皇后の進言という美麗な文字が躍っていたが、中身を捲れば、高宗自身が最初から彼女を権力中枢に置こうとする執念が、黒々と染みついていた、ということになる。
王皇后は、自分が指揮棒を振っていると錯覚していた。しかし、彼女の進言など、高宗と武照のあいだに既に成立していた合意を完成させるための、形式的な手続きに過ぎなかった。
この構図は、名門の誇りに生きる王皇后にとって、内臓を抉られるような屈辱であったはずだ。だが哀れなことに、彼女はその力学に気づいてさえいなかった。気づいた時には、既に背後に死の影が忍び寄っていたのである。事実、王氏は五年後の永徽六年(六五五年)、武照の立后と引き換えに庶民に落とされ、惨殺される。
◆
第三に、武照を支持した官人層の、あの異様な構成について整理せねばならない。
後年、永徽六年の立后を支持し、長孫無忌らの牙城を崩すことになる面々――李義府、許敬宗、崔義玄、袁公瑜、王徳倹。
彼らの属性を俯瞰すれば、ある共通項が浮上する。
彼らは皆、支配階級たる関隴貴族集団――北周以来の名門軍事貴族の連合体であり、唐初期の宮廷を独占していた血統集団――から排除された、傍流、あるいは地方出身の者たちなのである。
瀛州出身の李義府、杭州から文筆の才のみで這い上がった許敬宗、河北の崔義玄。彼らは、長孫無忌や褚遂良といった関隴貴族の中核からは、決して身内に引き入れられぬ「外の者」として冷遇されていた。
この点が重要である。
武照の周辺にこの種の人材が凝集し始めるのは、永徽四年の「房遺愛の獄」――長孫無忌が呉王李恪を謀反の嫌疑で自害へと追い込んだ、あの大粛清――を契機としている、というのが通説である。
しかしながら――ここで、もう一つの問いが浮上する。
永徽四年の段階で突如として武照のもとへ人材が集合し始めた、という現象は、本当に「突如」だったのか。
合理的に推論すれば、答えは否である。永徽四年の段階で既に組織的な動きが取れたということは、その種子はそれ以前に蒔かれていた、と考えるのが自然である。
すなわち、宮廷の底に溜まった膨大な不満の澱を、自らの支持基盤という強固な合金へと鋳直していく作業――その出発点が、永徽元年の還宮の瞬間にあったと考えるのは、蓋然性の極めて高い推論なのである。
四年の歳月をかけて、武照は静かに網を編んでいた。本編で繰り返し描かれた人材名簿作成の場面は、この合理的推論の上に成立している。
◆
第四に、本作において重要な装置として登場する、武照の人材記録――紙の上に官人たちの情報を集積するあの習慣についてである。
無論、史書にそのような直接の記述はない。
しかし、これは何を意味するか。
ここで、後年からの逆算を試みたい。
垂簾政治期、そして武周朝に入ってからの武照が見せた、神懸かり的とも言える適材適所の抜擢――狄仁傑、姚崇、宋璟、張説。これらの名は、後の玄宗朝「開元の治」を支えることになる名臣たちである。武照はこの人物群を、関隴貴族の血統を一切問わず、能力と忠誠心のみで選び抜いた。
この超人的な人事の精度を、属人的な記憶力のみで説明することは不可能である。
武照の手元に、系統立てられた人事情報の集積――現代風に言えば人材データベース――が存在したと仮定せねば、論理が瓦解してしまうのだ。
当時の文書文化を踏まえれば、これは決して荒唐無稽な空想ではない。吏部――唐の人事を司る官庁――には、既に膨大な人事台帳が紙の上に蓄積されていた。後宮という閉鎖空間にあっても、女官や宦官を管理する紙の帳面は当然存在したはずだ。武照がその公的記録の隙間に、独自の私的な情報網を伸ばしていた、という想定は、七世紀の長安の文書水準を考えれば、極めて自然な推論である。
紙という媒体が、彼女の記憶と判断力を増幅した。
その増幅装置の起源を、本編は感業寺時代に置いた。これも逆算による合理的推論の産物である。
◆
第五に、新羅における唐の年号採用について、簡潔に触れておかねばならない。
『三国史記』によれば、永徽元年(六五〇年)、新羅は独自年号を捨て、唐の「永徽」を奉じることを決断した。これは何を意味するか。
二年前の貞観二十二年(六四八年)、金春秋(後の武烈王)が長安を訪れ、太宗と密約を交わした。その合意が、太宗の死、そして高宗の即位という大きな政治的断絶を越えて、二年の歳月を経て制度として確定した、ということである。
この遅効性の制度更新を動かしたのは、何であったか。
海を越えて往来した、紛れもなく紙の上の文書であった。慶州と長安のあいだに走った文書の往復が、両国の暦を一致させたのである。本編における海を越える文書の描写は、この史実を踏まえている。
◆
最後に、紙の上に書き付けられた「言葉」という装置について、結論を述べておかねばならない。
武照という一人の女性が、後年に成し遂げた歴史的転換――関隴貴族集団の解体、科挙による官僚制の確立、そして前代未聞の女帝即位。
これらを支えたのは、彼女の美貌でもなければ、妖術の類でもない。
紙の上に積み上げられた、情報の集積であった。
名前を書き記す。
その者の経歴と弱点を書き記す。
冷徹に長所と短所を分類する。
そして、その紙束を、誰の目にも触れぬ場所に秘匿する。
これは、現代的な視点から見れば、初歩的な管理手法に見えるかもしれない。しかし、七世紀の宮廷において、情報の断片を組織化し、武器へと変える行為は、他者を圧倒する神業に等しかった。
武照はそれを成し遂げた。
感業寺という名の牢獄で、彼女が身につけたのは、祈りの言葉ではない。紙の上に思考を定着させ、現実を解体する、恐るべき習慣であった。
紙こそが、彼女の肉体を凌駕する最大の武器であった。
そしてその紙束は、彼女が皇后の座を奪い、皇帝という頂点に君臨した後も、決してその輝きを失うことはなかったのである。
紙のないところに、人事はない。人事のないところに、権力はない。権力のないところに、革命はない。
武照の革命は、紙の上で始まり、紙の上で完成した。




