第七話 六四九年・長安(唐)プロローグ
── 崩御と、感業寺の鐘 ──
貞観二十三年。西暦六四九年。
唐の都・長安に、その春は、奇妙な静けさをもって訪れた。
例年であれば、含元殿の前庭に植えられた桃と梨の花が、二月の半ばを過ぎる頃には咲き乱れ、宮女たちが袖を翻して花見の宴を開く。皇帝が太極殿の玉座から群臣に微笑み、皇太子が白馬を駆って城外に狩りに出る――それが、貞観の御代の春の風物であった。
しかし、その年。
太極殿の玉座は、空席に近かった。太宗・李世民は、すでに、起き上がることが、できなかった。
◆
太宗の病は、年明けから急速に悪化していた。原因は、複合的であった。
まず、若き日の戦傷の痛み――これは長年の宿痾である。次に、晩年の精神的な疲弊――皇太子の廃立、魏徴の死、高句麗遠征の失敗。そして、最後に、自らの寿命を延ばすために服用していた、丹薬。
丹薬。道士たちが鉱石を煉って作る、不老不死の薬とされる代物である。水銀、硫黄、ヒ素――こうしたものを成分とする丹薬は、一時的に身体を熱くし、活力を与えるように見えるが、長期的には確実に内臓を蝕み、神経を破壊する。
太宗は、それを知らなかったわけではない。彼自身が、若き日、隋の煬帝が丹薬に溺れて滅んだ歴史を、よく知っていたはずである。それでも、彼は飲んだ。なぜか。
答えは、単純である。英主にも、死の恐怖は、ある。
そして、英主であればあるほど、自分の死後の世界を心配する。承乾は流刑地で死に、泰は遠ざけられ、残った皇太子・李治は、彼の眼から見れば、頼りない。高句麗は、まだ滅ぼせていない。新羅との同盟は、ようやく昨年、種を撒いたばかり。
「もう少し、もう数年だけ、生きていたい」
その願望が、彼に丹薬を飲ませた。そして、丹薬は、彼の願望を裏切った。
◆
四月、太宗は終南山の翠微宮に移された。長安の城内ではなく、山中の別荘で、療養のためであった。だが、それは、もはや療養ではなく、葬地への移動に近かった、と後世の史家は指摘する。
翠微宮には、宮女たちの一部が同行した。その中に、二十六歳になる、一人の才人がいた。
武照。
十四歳で太宗の後宮に入り、十二年。彼女は、皇帝の最期を、最も近い距離で見ることになった、宮女の一人であった。ただし、それは、寵愛されていたからではない。
むしろ逆である。あの「唐三代にして女王昌」の流言以来、太宗は彼女を遠ざけ続けた。寵愛を失った才人が翠微宮の末席に侍る――それは、ほとんど道具として、看護の手として、置かれていたに過ぎない。
しかし、武照は、そこにいた。そして、もう一人、翠微宮に毎日のように訪れる男がいた。
皇太子・李治。
時に二十二歳。父の病を看病するため、皇太子の務めをすべて投げ捨てて、終南山に通い続けていた。長孫無忌が「皇太子は宮城に詰めて政務を執るべし」と諫言したが、李治は聞かなかった。
「父上の最期を、看取れずして、何が皇太子か」
李治は、そう答えたという。これは『旧唐書』高宗本紀が伝える、彼の孝心の一面である。皇太子の意外な強情――というよりは、父への深い愛情――が、はっきりと窺える瞬間である。
そしてその、毎日通ってくる皇太子と、翠微宮の末席に侍る才人との間に――。何かが、始まった。
◆
四月のある日、翠微宮の渡り廊下で、二人は擦れ違った。
李治は、父の病室から下がってきたばかりであった。武照は、薬湯の盆を捧げて、病室へ向かう途中であった。
すれ違いざま、武照が、軽く膝を折って、礼をした。李治の歩みが、止まった。
「……」
武照は、顔を伏せたまま、言った。
「殿下、ご機嫌麗しゅう」
「面を上げよ」李治の声は、震えていた。
武照は、ゆっくりと、顔を上げた。長く伸びた黒髪、切れ長の眼、雪のような肌。十二年の宮中の月日が、彼女から少女のあどけなさを奪い、その代わりに、深い、ほとんど水底の闇のような――抗い難い静けさを、与えていた。
李治は、息を呑んだ。「そなたは」
「武才人と申しまする。畏れながら、お初にお目にかかります」
「……武才人」
「は」
「その名を、覚えておこう」
李治は、それだけ言って、足早に歩み去った。武照は、深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。そして、皇太子の足音が完全に消えてから、ゆっくりと顔を上げ、唇の端に、わずかに、微笑を浮かべた。
◆
武照は、書を読み続けた女である。漢の呂后、北魏の馮太后――彼女は、女が天下を動かした先例を、悉く諳んじていた。そして、それらの女たちが、いかにして男の心を掴み、いかにして政治の中枢に座ったか、その手筋を、すべて知っていた。
呂后は、夫の劉邦の死後、息子を傀儡として立てた。馮太后は、孫の北魏孝文帝を補佐して、北朝の最盛期を築いた。
しかし、武照は、それらをすべて学んだ上で、なお、別の道を選うとしていた。
「死んだ皇帝の妃ではなく、生きている皇帝の妃に、なる」
これが、彼女の選択であった。太宗が死ぬ前に、皇太子の心を捉えること。死後、出家させられても、皇太子の力で再び宮中に呼び戻されること。そして――皇后になること。
呂后も馮太后も、皇帝の死を待った。武照は、皇帝の生死をまたぎ越して、自らの座を確保しようとしていた。これは、ほとんど誰にも出来ない芸当であった。出来たのは、武照ただ一人である。
そして、それを、彼女は、二十六歳の春に、実行に移し始めた。
◆
五月二十六日。太宗・李世民、崩御。享年五十二。
「五月、己巳、上、含風殿に崩ず」
二十二年に及んだ「貞観の治」――後世「貞観政要」として手本とされる、唐帝国の最初の黄金時代――は、ここに終わった。
皇太子・李治は、父の枕辺で号泣した、と伝わる。涙は止まらず、何日も食を絶ち、群臣が「天下のため、お自重を」と諫めても、聞かなかった。
長孫無忌は、ひそかに、頭を抱えていた。「これでは、政が、立ち行かぬ」
しかし、これもまた、後年の歴史を踏まえれば、必然であった、とも言える。李治の弱さ――父の死に対して、皇帝としての務めを忘れて泣き続けるその弱さ――こそが、後年、武照が皇后となり、皇帝となる、その精神的隙間であった。
長孫無忌は、その弱さを承知の上で、彼を皇太子に選んだ。「強い太子は、すでに二人とも、互いに食み合うて滅び申しました」――六年前、彼が太宗に言った言葉である。彼は、弱い李治こそが、自分の制御下に置けると考えた。
しかし、その「弱さ」が、自分以外の誰かに利用される可能性を、彼は、十分には計算していなかった。そして、長孫無忌の人生最大の見落としは、まさに、その点であった。
◆
六月、長孫無忌・褚遂良らに支えられて、李治、即位。これが、唐第三代・高宗である。新元号は「永徽」。皇太子妃であった王氏は、皇后となった。
そして――。太宗の崩御に伴い、彼の後宮にあった妃嬪たちは、しきたりに従って、出家させられることになった。
正式の手続きは、こうである。皇帝の死後、皇帝に子をなさなかった妃嬪は、感業寺――長安西北の尼寺――に送られ、そこで剃髪し、尼として終生を送る。武照も、その対象であった。
しかし、彼女は、剃髪を、避けた。
「額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士となり道教寺院で修行することとなった」。
つまり、彼女は、仏尼として髪を剃るのではなく、女道士として、髪を残したまま、道観に入った。これは、宮女たちの中では、極めて例外的な扱いであった。何故、こんなことが可能であったのか。
ひとつには、彼女の血筋――関隴貴族集団の傍流とはいえ、唐建国の功臣・武士彠の娘――が、配慮されたのかもしれない。もうひとつには――誰かの、密かな指示があったのかもしれない。
「髪は、剃るな」
その指示を出した者がいたとすれば、それは、一人しかいない。新帝・高宗李治。
武照が「髪を残した」という事実そのものが、新帝の意志を強く示唆している。剃髪した尼を、再び後宮に呼び戻すことは、宗教的にも倫理的にも、極めて困難である。しかし、髪を残した女道士であれば――再び宮中に戻すことは、不可能ではない。
李治は、武照を、いずれ呼び戻すつもりであった。呼び戻すために、剃髪を、避けさせた。
◆
その年の冬、武照は感業寺に入った。
正確には、感業寺は仏寺であるが、彼女は道観に近い形で滞在したと伝わる。あるいは感業寺の片隅に、女道士として独立した居室を与えられたか、それは、はっきりしない。
重要なのは、彼女が、髪を残し、命を保ち、そして――皇宮から目と鼻の先の場所で、一人、待ち続けていた、という事実である。
待つ、というのは、女の徳とされる。しかし、武照の「待つ」は、徳ではなかった。それは、戦略の一部であった。
待つ、ということは、相手が動くことを信じる、ということである。彼女は、李治が必ず自分を呼び戻すことを、確信していた。確信していたから、待てた。
そして、彼女は、待つ間にも、書を読み続けた。感業寺の質素な居室で、彼女は、灯の下、漢の高祖呂后の伝記、北魏の馮太后の伝記、そして――『春秋』『左伝』、宮中の権力闘争の記録、外交文書の写し、官人の任免の記録――こうしたものを、繰り返し、繰り返し、読んだ。
紙の上の文字が、彼女の唯一の友であった。紙は、安価で、軽く、しかし、書かれた言葉は、千年を生き延びる。寺の片隅にいる名もなき女道士の頭の中に、漢から北魏に至る数百年の女帝・女権力者の智慧の総体が、紙を通して、注ぎ込まれていた。
武照は、ただ待っていたのではない。戦略の素材を、紙の上から、ひたすら吸収していたのである。
◆
そしてこの時期――。長安の宮城では、一つの、運命的な誤算が、進行しつつあった。
新帝・高宗李治の正室、王皇后。高宗の即位とともに皇后に立てられた、太原王氏の名門の出身。性格は堅苦しく、それでいて美貌の女性であった、と『新唐書』は伝える。
彼女には、ひとつの、深刻な悩みがあった。子が、できないのである。
そして、その隙に、夫・高宗の寵愛は、別の妃に向かつつつあった。
蕭淑妃。四夫人の一つ、淑妃の地位にある女性。彼女は次々と高宗の子を産み、新帝の心を独占しつつあった。すでに次女の高安公主、四男の李素節――これらを産み、淑妃の発言権は日増しに大きくなっていた。
王皇后は、焦った。このままでは、いずれ蕭淑妃が皇后の座に取って代わる。皇后の母方の祖父・柳奭の画策で、劉宮人の子・李忠を皇太子に立てさせることまでして、王皇后は防戦に努めた。しかし、蕭淑妃の勢いは、止まらなかった。
王皇后は、ある日、宰相・長孫無忌に相談したという)。
「蕭淑妃の寵を、削ぐ手立てはないか」
長孫無忌は、苦り切った顔で答えた。
「皇后よ、政を、後宮に持ち込まれるな」
しかし、王皇后は、別の手を考えていた。「蕭淑妃以外の、もう一人の女を、陛下に近づけ、寵を分散させる」
これが、彼女の戦略であった。そして、彼女が選んだ相手が――。感業寺にいる、武照であった。
◆
ここに、歴史の、極めて皮肉な構造が発生する。
王皇后は、高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らすために、自ら武照を後宮に呼び戻すことを、高宗に進言する。高宗は、すでに武照を呼び戻したくて仕方なかった。だから、皇后の進言に、二つ返事で頷する。
王皇后は、自分が高宗を「動かした」つもりでいる。だが、実は、武照の側から見れば、王皇后は、自分を呼び戻すための駒に過ぎない。そして、武照は感業寺で、それを見越していた。
これは、ほとんど将棋の手筋に近い。三手先を読む、という言葉があるが、武照は、おそらく、十手先を読んでいた。彼女は、王皇后が必ず自分を呼び戻すことを、感業寺に入る前から、知っていた。何故なら、王皇后が蕭淑妃に対抗するためには、それ以外の道が、ほとんど存在しないからである。
そして、王皇后は、その通り、動いた。
◆
これが、後世「華胥道」と呼ばれることになる、武則天の影の思想機構の――その最も根源的な発動形態であった。
すなわち、現実は、設計可能である。
人の感情も、人の利害も、人の動きも、すべてが、もし十分に深く読まれれば、設計の対象となる。王皇后は、自分の意志で動いているつもりでいる。しかし、その意志そのものが、武照の読みの中に、すでに含まれている。武照は、王皇后の駒となるふりをして、王皇后を駒として使った。
これが、華胥道の最初の作動である。そして、これより十年もしないうちに、王皇后は、武照によって廃位され、惨殺されることになる。それは、後の話である。
◆
貞観二十三年の冬、感業寺の鐘が、一日の終わりを告げて鳴った。その鐘の音が響く居室で、武照は、机の前に座り、紙を広げ、墨を磨っていた。
彼女は、何を書こうとしていたのか。
彼女は感業寺で、高宗を慕う詩を書いて、宮中に届けたという。「|看朱成碧思紛紛《しゅをみてみどりとなす しふんぷん》」――「赤いものを見ても緑に見えるほど、心が乱れる」という意味の、恋情の歌である。
その詩が高宗の手に渡り、彼の心を強く動かした、と伝わる。
武照が紙と筆を駆使して、皇宮との連絡を絶やさなかったこと、そして詩文によって男の心を動かす技術を持っていたこと――これらは、間違いない事実である。
紙は、彼女と長安の宮城を、結び続けていた。紙の上の文字が、皇帝の心に届く。それが、彼女の戦略の、最も基本的な道具であった。
◆
その同じ年の同じ冬、海を越えた半島では――。新羅の朝廷で、金春秋が、唐の年号を翌年から採用する詔を起草していた。長安での太宗との約束を実行するためである。
そして、さらに海を越えた倭の地では――。中大兄皇子と中臣鎌足が、難波宮にて、改新の事業を進めていた。班田収授法の構想、戸籍の整備、地方官の派遣――そのいずれもが、紙を必要としていた。
倭の地で、紙の生産量は、確実に増えつつあった。
そして、十年後――鎌足の次男として、一人の男児が生まれることになる。
「史」――読みは、「ふひと」――と名づけられる、その男児が。
〔正史より──〕
貞観23年。西暦649年。
唐の太宗が崩じ、新帝・高宗李治が即位したこの年、宮廷に一つの極めて異例な処遇が記録されている。
武照という、後の則天皇后の処遇である。
なぜ、これが「異例」なのか――この一点が、本章の論証の出発点となる。
◆
まず、史料の側から状況を整理しておきたい。
太宗の崩御は、貞観23年5月26日。
場所は終南山の翠微宮。享年52。
死因については丹薬の服用との関連が古来より指摘されており、『旧唐書』憲宗本紀末尾の史評には、唐の歴代皇帝のうち少なくとも六人が丹薬の毒に倒れたと記される。
太宗もまた、その一人であった可能性は極めて高い。
皇太子李治は、父の病重態にあたり翠微宮に伺候し、看病に専念した。
父の死後は激しく号泣して食を絶ち、群臣の諫言にも応じなかったと『旧唐書』高宗本紀は記す。
事実上の摂政として政務を代行したのは、伯父の長孫無忌であった。
以上は、ほぼ史書間で一致する事実である。
問題は、その翠微宮に侍っていた、一人の妃嬪の処遇である。
◆
ここで史料の揺らぎが顔を出す。
武照が太宗崩御後にどこへ送られたかについて、史書の記述は完全には一致しない。
『旧唐書』則天皇后本紀は、明快である。
彼女は「太宗崩御に伴い出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士となり道教寺院で修行することとなった」と記す。
すなわち、女道士である。
ところが、『新唐書』および『資治通鑑』は、武照が感業寺に入って尼となったかのような書き方をする部分がある。
通俗的な理解においては「武照は感業寺で剃髪して尼となった」と語られることが多い。
だが、これは厳密な史料に基づく理解ではない。
ここに、一つの問いが立ち上がる。
彼女は剃髪したのか、しなかったのか。
この問いは、後宮の女の身辺の些事のように見えて、実は唐王朝の運命を分ける決定的な分岐点である。
答えは明白である。
剃髪した女が、再び皇帝の後宮に戻り、皇后にまで昇ることは、唐代の宗教倫理においては、ほとんど不可能に近い。
一方、剃髪を免れた女道士であれば、還俗して再び後宮に戻ることは、十分に可能である。
武照が後年、皇后となり、さらに皇帝となるためには、彼女が剃髪していなかったという事実が、決定的に重要なのである。
◆
ここで、次の問いが生まれる。
なぜ、彼女は剃髪を免れえたのか。
皇帝崩御後の妃嬪の処遇は、唐の制度上、ほぼ機械的に決まっていた。
子をなさなかった妃嬪は、原則として剃髪して尼となり、菩提を弔う。
これが標準である。
武照には、太宗との間に子はなかった。
ならば、彼女は標準処遇――剃髪――を受けるはずであった。
ところが、彼女はそれを免れた。
これは、彼女個人の判断や希望だけでは、決して実現しえない事態である。
特例的に「剃髪を免じる」ためには、より高位の権力者の意志が介在する必要があった。
その意志を持ちえたのは、誰か。
新帝・高宗李治である。
他には、ありえない。
長孫無忌は、当時、武照の存在をまだ警戒すべきものと認識していなかった可能性が高い。
群臣の誰一人として、太宗の元才人に「剃髪を免じる」よう動く動機を持たない。
動機を持ちえたのは、ただ一人、新帝のみである。
◆
ここに至って、本作前段において描かれた翠微宮での再会の場面の、その史料的根拠が見えてくる。
『旧唐書』則天皇后本紀には、極めて簡潔な、しかし決定的な一文がある。
「太宗の病重く重態に陥ると、看病した皇太子李治と初対面し、皇太子に一目惚れされた」。
この「初対面」という一語に、注目せねばならない。
武照は、すでに十二年も後宮にいた。
皇太子・李治は、宮中に出入りする身である。
本来であれば、両者が一度も顔を合わせていないなどということは、考えにくい。
それでも史書が「初対面」と書く以上、それまでの十二年間、武照は皇太子の眼に留まらぬ場所にいた、ということになる。
彼女は、意識的に、見えない場所にいた。
そして、皇帝の死期が近づいた、まさにそのときに、皇太子の眼の前に現れた。
この「初対面」の一文と、彼女が剃髪を免れたという事実を組み合わせれば、この時期に両者の間に何らかの密かな合意――少なくとも、再会の約束に類するもの――が成立していた、と推論することは、十分に合理的である。
すなわち、彼女が女道士となって感業寺に滞在したのは、新帝の意志の下で「再び呼び戻されるための、待機の場」であった、という構図が浮かび上がる。
◆
では、その「待機」の三年間――正確には、貞観23年から永徽3年頃までの約三年――武照は何をしていたのか。
これを直接記録する史料は、現存しない。
感業寺は、唐代の長安城の西北、現在の西安市未央区の西北部に位置していたとされる。
彼女がそこで何を読み、何を考え、何を書いていたのか――それは推測する以外にない。
ただし、彼女が後年示した数々の戦略的判断、文学的素養、史書への深い造詣――これらすべてが、この感業寺における約三年間の「読書と思索の時期」に決定的に深化した、と考えるのが最も合理的である。
彼女の手元には、紙があった。
燈があった。
墨があった。
唐代の宮廷文書事務において用いられた白麻紙・黄麻紙・楮紙のいずれが、感業寺の片隅に運ばれていたかは分からない。
だが、紙はあった。
これは確実である。
そして、紙さえあれば、彼女は史書を読み、写し、要約し、そこから戦略を抽出することができた。
漢の呂后の伝記。
北魏の馮太后の伝記。
歴代の宮廷の権力闘争の記録。
官人の任免の先例。
これらすべてが、感業寺の片隅にいる名もなき女道士の頭の中に、紙を介して注ぎ込まれていた。
彼女はただ「待っていた」のではない。
彼女は、来るべき三十年のための準備を、紙の上で進めていた。
◆
千四百年後の今日、われわれがこうして武照の感業寺における三年間を再構成しうるのは、唐代の宮廷が、新帝即位、改元、妃嬪の処遇、官人の任命替えといった一連の手続きを、すべて紙の上に執行し、弘文館や崇文館に保管したからである。
それらの文書群は、後年、編年史料『資治通鑑』『冊府元亀』の原典となった。
紙のないところに、歴史はない。
歴史のないところに、推論はない。
推論のないところに、本作のような小説の試みも、また、ない。
筆者は、本作の各章末注釈において、繰り返しこの主題に立ち戻ることになる。
読者諸氏には、これを単なる枝葉の付録としてではなく、本作の主題そのものを支える論理的骨格として、お読みいただきたい。




