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第六話 六四八年・長安(唐)プロローグ


── 獅子(しし)(きつね)の同盟 ──


 貞観(じょうがん)二十二年。西暦六四八年。


 唐の太宗(たいそう)李世民(りせいみん)は、五十歳。即位して二十二年。栄光(えいこう)頂点(ちょうてん)にあるはずの皇帝は、しかし、この年すでに、確かな(おとろ)えを感じていた。


 身体の節々(ふしぶし)に痛みが走る。古傷(ふるきず)――若き日、戦場で受けた数々の傷痕(きずあと)――が、季節の変わり目ごとに、(うず)く。眼の力もやや弱り、夜半(やはん)燈下(とうか)奏文(そうぶん)を読むのが、いささか困難(こんなん)になっていた。


 そして何より、心の痛手(いたで)が、彼を確実に(むしば)んでいた。


 五年前――貞観十七年――に(うしな)った、皇太子の問題。長男・承乾(しょうけん)は廃され、流刑地で死んだ。寵愛していた四男・(たい)は、自分の言葉で皇太子の座を逃した。残ったのは、九男・李治(りち)――いま二十一歳になる、温和(おんわ)にして武略(ぶりゃく)(とぼ)しい青年。長孫無忌(ちょうそんむき)が立てた、あの皇太子。


 太宗は、承乾を流したことを後悔(こうかい)してはいない。あの子の謀反(むほん)は事実であった。だが――承乾を「ああ」させたのは、自分自身なのではないか、という疑問だけは、夜ごと、太宗の枕辺(まくらべ)に立ち(のぼ)っていた。


 そして、もう一つの問題。高句麗(こうくりえ)





 太宗は、高句麗を、二度(ふたたび)攻めた。


 貞観十九年(六四五年)の第一次遠征は、安市城(あんしじょう)の攻防で停滞(ていたい)し、冬の到来とともに撤退。貞観二十一年(六四七年)の第二次遠征は、海陸(かいりく)からの攻撃を試みたが、決定打(けっていだ)()けた。


 そして、いま。太宗は、第三次遠征を準備していた。


 なぜ、これほどまでに高句麗にこだわるのか。それは、隋の煬帝(ようだい)が三度遠征して三度(やぶ)れ、結果として隋王朝そのものが崩壊した、あの記憶があるからである。高句麗を屈服させぬ限り、唐は隋を超えたとは言えぬ――それが、太宗の執念であった。


 しかし、彼は知っていた。正面から押し続ける限り、高句麗は落ちない。淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の防衛線は、堅固(けんご)に過ぎる。


 ならば、どうするか。


「南から、新羅を使って、()かせる」


 太宗の戦略は、すでに、ここに固まりつつあった。ところが、その新羅から、ちょうどそのとき、一人の使者が、長安に到着しつつあった。





 冬の終わり、長安の通化門(つうかもん)


 一団の使節が、馬と馬車を連ねて、城門をくぐった。新羅の朝貢使(ちょうこうし)――その先頭に、紫の(ほう)(まと)った壮年(そうねん)の男がいた。


 四十六歳。背は中肉中背、(ひげ)は短く整えられ、眼差(まなざ)しは、深い。


 金春秋(こんしゅんじゅう)


 新羅の伊飡(いさん)――二等官にあたる――の地位にあり、かつ、聖骨(せいこつ)――王位継承資格を持つ最高位の血統――の血を引く王族。新羅の事実上の最高決裁者(さいけっさいしゃ)。前年の毗曇(びどん)の乱を鎮め、真徳女王(しんとくじょおう)擁立(ようりつ)したばかりの男である。


 そして、彼の傍ら(かたわら)には、十五、六の少年がいた。第二子・金文王(こんぶんのう)。長安に残し、人質(ひとじち)として唐の宮廷に仕えさせるための、息子であった。


 金春秋は、この旅に、息子を連れてきた。理由は明白(めいはく)である。新羅の誠意を、もっとも分かりやすく示す方法は、自らの血を、相手の宮廷に置くことだからである。


 これは、外交ではない。半ば、人身(じんしん)担保(たんぽ)にした、一種の質草(しちぐさ)取引である。しかし金春秋は、それを微塵も()じる素振(そぶ)りを見せなかった。


 恥じる、ということは、相手より下に立つことである。彼は新羅の王族として、唐の皇帝と対等の立場で交渉する、という覚悟であった。覚悟は、覚悟である。覚悟というものは、それを持つ者の背筋(せすじ)を、自然に()ばす。


 長安の人々は、この異国の使者を見て、思わず振り返った、と伝わる。

威儀(いぎ)あり、容儀(ようぎ)(うるわ)し」――『三国史記』金春秋伝が伝える、唐人の彼への評である。





 太極宮(たいきょくきゅう)含光殿(がんこうでん)


 太宗・李世民は、玉座(ぎょくざ)に座していた。傍らには、長孫無忌、褚遂良(ちょすいりょう)李勣(りせき)――唐建国以来の重臣(じゅうしん)たちが居並(いなら)ぶ。皇太子・李治もまた、父の側に(はべ)っていた。


 金春秋が、絨毯の上に進み出て、平伏(へいふく)した。


(しん)、新羅伊飡・金春秋、朝貢(ちょうこう)()(まい)()がりましてござります」


 声は、低く、深く、よく通った。太宗は、目を細めた。そして、しばらくの沈黙の後、こう言った。


(おもて)を上げよ」


 金春秋は、顔を上げた。太宗の眼と、金春秋の眼が、合った。


 それは、ほとんど一瞬の出来事である。だが、後年の歴史を踏まえて言えば、この瞬間、二つの計算が、互いを認識(にんしき)した。


 太宗は、思った。「この男は、使える」

 金春秋もまた、思った。「この皇帝は、使える」


 獅子(しし)(きつね)


 獅子は、獅子であるがゆえに、自分の力で物事を進めようとする。狐は、狐であるがゆえに、獅子の力を借りて物事を進めようとする。両者は、本来、相容(あいい)れないはずである。獅子は狐を()み、狐は獅子を(あざむ)く。


 しかし、この瞬間、両者は、互いに相手を必要としていた。

 獅子は、高句麗の南側を(おびや)かす(こま)として、狐を必要とした。狐は、北方の獅子の威光(いこう)を借りて、半島を生き延びるために、獅子を必要とした。


 利害(りがい)が、一致した。


 そして、利害の一致から始まる関係というものは――しばしば、血縁から始まる関係よりも、強い。





(けい)、新羅の年号は、何という」


 太宗は、冒頭(ぼうとう)から、核心(核心)()いてきた。


 金春秋は、迷わず答えた。


太和(たいわ)と申しまする」


「それは」


太宗は、軽く眉を上げた。


「我が唐の貞観の(うち)にあって、別の元号を立てておると申すか」


 金春秋は、頭を下げた。


「先王・善徳(ぜんとく)の代より、独自の年号を奉じておりまする。古き慣わしにござりますれば、(きゅう)に変じることは難しゅうござります」


 太宗は、笑った。


「ならば、変えよ」


「は」


「次の年より、唐の年号を用いよ。それが、唐に(ぞく)する国の、礼儀である」


 これは、端的(たんてき)な要求であった。新羅の独立性を象徴する独自年号を捨て、唐の(こよみ)に従え、ということである。


 しかし、金春秋の返答は、迅速であった。


(かしこ)まりました」


 迷いも、抗弁も、なかった。太宗は、わずかに、意外そうな顔をした。


「即答する、か」


「年号は、ただの文字にござります。陛下、年号を変えたところで、新羅の山河(さんが)が変わるわけではござりませぬ。山河を守るためならば、文字の一つや二つは、いつでも変えてご覧に入れまする」


 その後実際に金春秋が永徽(えいき)元年(六五〇年)から唐の年号を用いるようになった事実は、彼が「年号は文字に過ぎない」という哲学を持っていたことを、雄弁(ゆうべん)に物語っている。


 新羅の独立とは、文字の上の独立ではなく、地の上の独立である――というのが、彼の信念であった。後年、新羅が唐に対し対等を主張するようになるのは、半島南部を実質的に握ってからのことである。それまでは、いくらでも下手(したて)に出る。


 これが、後年「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構が示すことになる、一種の徹底(てってい)した実利主義(じつりしゅぎ)の、最も早い顕現(けんげん)であった。





 太宗は、(うなず)いた。

「気に入った」


 そして、続けた。


「次に、新羅の朝服(ちょうふく)――官人の衣服(いふく)――を、唐風に改めよ」


「は」


「そのほか、唐の制度を、大いに学ばせよ。卿の長男はすでに新羅にあろうが、次男――そこにおる若者を、長安に残して、宿衛(しゅくえい)に仕えさせよ」


 宿衛とは、皇帝直属の警備官である。形式上は名誉(めいよ)あるポストだが、実質は人質である。金春秋は、息子の方を見もせず、即答した。


(つつし)んで」


 息子・金文王は、十六歳であった。父が自分を異国に置いていくことを、すでに承知していた。表情を変えなかった、と『三国史記』金文王伝は伝える。


 太宗は、次に、長孫無忌に何かを耳打(みみう)ちした。長孫無忌が、頷いた。そして、太宗は、金春秋に向かって、こう告げた。


「卿に、特進(とくしん)(さず)ける」


 殿内(でんない)が、ざわめいた。特進(とくしん)――正二品の地位。唐の貴族の最高位の一つである。本来、外国の使者がこのような高位を授けられることは、極めて異例(いれい)である。


 これは、太宗が、金春秋を、ただの使者ではなく、「唐の側の人間」として、扱うことを宣言したのである。


 新羅・唐同盟は、この瞬間に、成立した。そして、それは、十二年後の百済滅亡、二十年後の高句麗滅亡、二十八年後の朝鮮半島南部の統一に、直結することになる。





 謁見(えっけん)の終わり、太宗は、独り言のように、こう(つぶや)いた。


「卿は」


「は」


「卿は、誰に似ておるか、分かるか」


 金春秋は、頭を下げたまま答えた。


「臣、無学(むがく)にござりますれば」


 太宗は、(あわ)く笑った。


(ちん)に似ておる」


 殿内が、しんと静まった。


「朕も、若き日、玄武門(げんぶもん)にて、兄弟を()った。卿もまた、毗曇を斬り、貴族二十余名を族滅(ぞくめつ)した、と聞く」


「は」


「血を流すことを、躊躇(ちゅうちょ)しなかった、ということだ」


 金春秋は、答えなかった。太宗は、続けた。


「血を流す者は、二種類ある。流したくて流す者と、流さねばならぬから流す者と。前者は、いつか、必ず、誰かに殺される。後者は、しばしば、長く生きる」


「……」


「卿は、後者であろう」


 金春秋は、ようやく、顔を上げた。


「陛下、もまた」


「うむ」


太宗は、頷いた。


「朕も、後者であった」


 そして、皇帝は、もう一度、笑った。その笑いは、しかし、どこか――疲れた笑いであった。





 謁見が終わり、金春秋は退出した。殿内に残った長孫無忌が、太宗に問うた。


「陛下、新羅をあれほどまでに厚遇なさるは、いかなる理由(ゆえ)にございましょうや」


 太宗は、しばらく答えなかった。そして、こう言った。


「無忌よ。朕は、もはや、長くない」


「陛下、何を(おお)せられまするか――」


(だま)れ。聞け」


 太宗の声は、静かであった。


「朕の死後、高句麗を撃つは、容易(たやす)いことではない。だが、朕の代に、これを完全に倒す(すべ)も、また、ない。ならば――朕の死後、誰が、これを倒すか」


「李勣将軍ならば」


「老いた」


「皇太子は」


「弱い」


 太宗は、首を振った。


「武で、高句麗は倒れぬ。南から、新羅に突かせる以外に、道はない。朕は、その種を、今日、()いたのだ」


「種、にござりまするか」


「あの男、金春秋――いずれ、新羅の王となろう。王となれば、息子も王となる。父子二代にわたって、唐に忠誠を誓い、唐の力を借りて、半島南部を握りに行くであろう」


「半島南部を握れば」


「握った瞬間に、唐に(そむ)く」


 太宗は、にやりと笑った。


「無忌よ、朕は、それも見越しておる」


 長孫無忌は、息を()んだ。


「ならば、なぜ」


「それでも、よいからじゃ」


太宗は、答えた。


「朕の生きている間に高句麗を滅ぼせるなら、それでよい。朕の死後、新羅が唐に背いても、それは朕の関知するところではない。朕は、ただ、高句麗を見届けたい」


「……」


「人とは、結局、自分の代に始末(しまつ)したい仕事を、持っておるものよ」


 これは、後年の歴史の流れを踏まえれば、ほとんど的中(てきちゅう)した予言(よげん)である。太宗の死後一年で高宗(こうそう)が新羅と協調(きょうちょう)して百済を滅ぼし、その八年後に高句麗を滅ぼす。そして、そこから二十年で、新羅は半島から唐の都督府(ととくふ)駆逐(くちく)する。


 獅子と狐の同盟は、獅子が高句麗を倒すために狐を使い、狐は獅子の力で百済・高句麗を倒したのち、獅子そのものを半島から追い出す――そういう構造(こうぞう)であった。太宗は、それを、見抜いていた。見抜いた上で、それを承知の上で、金春秋に「特進」を授けた。


 これが、英主(えいしゅ)の英主たる所以(ゆえん)である。同時に――英主の悲哀でもある。自分の死後の世界の青写真(あおじゃしん)を、自分で描き、自分で受け入れる。それは、ある種の諦念(ていねん)(ともな)作業(さぎょう)である。





 長安の宿(やど)に戻った金春秋は、その夜、息子・金文王と最後の(さかずき)を交わした。


「父上」


少年は、ようやく、口を開いた。


「長安に残れ、と仰せにございますな」


「うむ」


「いつまでにござりまするか」


「分からぬ。ただし――」


金春秋は、息子の盃に、酒を注いだ。


「お前は、ここで、唐の宮廷を、見尽(みつ)くせ。皇帝がどう動き、宰相がどう動き、官人がどう動くか――その一部始終(いちぶしじゅう)を、お前は、見るのだ」


観察(かんさつ)せよ、と」


「観察せよ。そして、書け」


「書く、にござりますか」


 金春秋は、息子の手に、紙の(たば)を握らせた。新羅から持参(じさん)した、楮紙(ちょし)の束である。


「これに、書け。お前が見たもの、聞いたもの、感じたものを、すべて、書け。年に二度、新羅へ送る使者に(たく)して、わしの元へ届けよ」


「はい」


「文字とはな、距離を超える唯一(ゆいいつ)の手段だ。お前の眼は、お前一人のものだ。だが、お前が紙に書けば、その眼は、わしの眼にもなる。新羅の朝廷の眼にもなる。お前は、新羅の眼として、長安にいるのだ」


 少年は、紙の束を、両手で受け取った。


「父上、では、私は」


「何だ」


「父上の、出張(しゅっちょう)した眼でございますな」


 金春秋は、はじめて、笑った。


「うまく言うた。その通りじゃ」

 

二人の盃が、合わされた。





 これが、後世「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構の、最も具体的な作動(さどう)形態であった。


 王族の子弟を、人質という名目で他国に置く。彼らはそこで観察し、書き、本国に送る。情報は、紙の上に記録され、楮紙の束となって、海を渡る。


 国家とは、刀槍(とうそう)の力で守られるのではない。情報の集積(しゅうせき)と、その共有の速度で守られる。新羅の朝廷は、八世紀に半島で唯一の統一国家となったとき、そのために必要な情報資産(じょうほうしさん)を、すでに半世紀以上にわたって蓄積(ちくせき)していた。そしてその蓄積を、海を越えて運んだのが、紙であった。


 紙は、軽く、運びやすく、燃えやすく、しかし、書かれた文字は千里を渡る。金春秋は、それを、誰よりも知っていた。





 数日後、金春秋は、長安を()った。長安城の春明門(しゅんめいもん)を出る彼の馬車には、唐の(きぬ)と書物と、そして太宗から(たまわ)った「特進」の誥命(こうめい)――任命書――が積まれていた。


 息子・金文王は、城門の前で、父を見送(みおく)った。少年は、泣かなかった。馬車が遠ざかるのを、ただ、じっと見つめていた。やがてその姿が見えなくなると、彼は懐から父に渡された紙の束を取り出し、丁寧(ていねい)にめくり、最初の一枚に、こう書きつけた。


「貞観二十二年、戊申(ぼしん)の春。父、長安を発つ。臣文王、宿衛として、ここに残れり。今日(こんにち)より、新羅の眼となる」


 これが、長安における新羅の情報網(じょうほうもう)の――その最も古い、確かな記録の、はじまりであった。





 そしてその同じ年、海の向こうの倭の地では――。


 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足が、改新の事業(じぎょう)()し進めていた。前年に死んだ古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ遺臣(いしん)たちは、すでに整理(せいり)され、孝徳(こうとく)天皇の難波宮(なにわのみや)には、新しい官制が()かれつつあった。


 戸籍の整備、班田(はんでん)の構想、地方官の派遣――そのいずれもが、紙を必要とした。


 倭の地でも、製紙の工房(こうぼう)が、数を増しつつあった。長安の華やかさには遠く及ばないが、しかし、確実に。


 そして、そのさらに十一年後――鎌足の次男として、一人の男児が生まれることになる。

「史」と名づけられる、その男児が。

〔正史より──〕


 ここで、当時の状況について、史料の側から少しく整理(せいり)しておく必要がある。読者(どくしゃ)諸氏(しょし)の中には、本作の前段における太宗(たいそう)金春秋(こんしゅんじゅう)対話(たいわ)長孫無忌(ちょうそんむき)との宮中における会話(かいわ)、および息子・金文王(こんぶんのう)との別離(べつり)の場面――これらが、果たしてどこまで歴史的事実に基づくものであるのか、疑念(ぎねん)を抱かれた方も少なくないと思われるからである。


 結論から述べれば、それらの会話の具体的(ぐたいてき)内容は、いずれも史書に直接の記載を持たない。すなわち、本作における筆者の想像(そうぞう)である。しかしながら――ここが重要な点であるが――そうした想像が、史実の枠組み(わくぐみ)からまったく外れた恣意的(しいてき)なものであるかと言えば、決してそうではない。むしろ逆である。


 『三国史記(さんごくしき)』新羅本紀・真徳女王(しんとくじょおう)紀には、貞観(じょうがん)二十二年(西暦六四八年)冬、新羅の伊飡(いさん)・金春秋が唐に朝貢使(ちょうこうし)として渡海(とかい)し、太宗李世民(りせいみん)謁見(えっけん)したことが明確に記録されている。同行者は子の金文王。『旧唐書(くとうじょ)』『新唐書(しんとうじょ)』の新羅伝にも、ほぼ同様の記述が見える。問題は、その謁見の場で何が起こったか、である。


 第一に、官位の授与(じゅよ)。太宗は金春秋に「特進(とくしん)」――正二品――の官位を授けた。これは、外国の使者に与えられる地位としては、当時の唐の制度において、極めて異例(いれい)の高位である。外国の王に対する冊封(さくほう)ですら、通常は「開府儀同三司(かいふぎどうさんし)」(従一品)か、あるいはそれよりやや下の格付けが与えられる。しかし「特進」は、唐朝廷内部の序列(じょれつ)における、いわば「(じゅん)・宰相格」の地位である。これを、いまだ新羅の王ですらない一介の伊飡に与えるという行為は、太宗が金春秋を、単なる外国の使者としてではなく、唐の権力構造の内部に取り込もうとした、そう解釈(かいしゃく)する以外に、合理的(ごうりてき)な説明がつかない。


 第二に、朝服(ちょうふく)の改変。同じ謁見の席で、金春秋は新羅における官人の朝服を唐風に改めることを約束した。これも『三国史記』新羅本紀の記すところである。衣服とは、文化的服従の最も視覚的な表現である。唐の官服(かんぷく)を新羅で着用するということは、新羅の官人たちが、長安の朝廷の同僚と外見上区別がつかなくなる、ということを意味する。これは、後年、新羅が「小中華(しょうちゅうか)」を自称するに至る、その最も早い文化的源流のひとつである。


 第三に、人質の差し出し。子の金文王が、長安に宿衛(しゅくえい)として残された。「宿衛」とは、字義的(じぎてき)には皇帝直属の警備官であり、形式上は名誉職である。しかし、その実態は、誰もが知る通り、人質である。金春秋自身が前年(六四七年)まで倭国に人質として滞在していた経緯を踏まえれば、彼が今度は自分の息子を唐の宮廷に「差し出す」ことの意味を、最も深く理解していたのは、ほかならぬ彼自身であったはずである。


 これら三つの事実から、われわれは、何を読み取ることができるか。


 それは、太宗と金春秋の間に、相当に深い水準の戦略的(せんりゃくてき)合意(ごうい)が成立した、という一事である。単なる儀礼的(ぎれいてき)な朝貢関係であったならば、特進の授与も、朝服の改変も、宿衛の派遣も、いずれも必要のない手続きである。これらが揃って実行されたという事実は、両者の間で、より具体的かつ長期的な――つまり、それぞれの本国の利害に直結する――何らかの密約が交わされていた可能性を、強く示唆(しさ)する。


 ここで、われわれは、後年の歴史の流れを参照(さんしょう)する必要がある。


 貞観二十三年(六四九年)、すなわち金春秋の長安訪問の翌年、太宗は崩御(ほうぎょ)する。それから十一年後の顕慶(けんけい)五年(六六〇年)、唐は新羅と連合して百済を攻め、これを滅ぼす。さらに八年後の総章(そうしょう)元年(六六八年)、両者は連合して高句麗をも滅ぼす。そしてその後、新羅は唐に対して反乱を起こし、咸亨(かんきょう)元年(六七〇年)以降の対唐戦争において、結果的に朝鮮半島南部の支配権を確立する。


 これらの一連の出来事は、いずれも、貞観二十二年(六四八年)の長安における謁見の延長線上にある、と理解することができる。太宗が金春秋に「特進」を与えたのは、彼を高句麗攻略の南方戦線における(こま)として使うためであり、金春秋が宿衛として息子を残したのは、唐の宮廷における情報網を確保するためであった。両者は互いを利用し合うつもりであり、そして実際に、双方とも目的を果たした。


 しかしながら――ここで、もう一つの問いが浮上する。


 両者は、相手が自分を利用していることを、それぞれ知っていたのか。


 『資治通鑑(しじつがん)』『冊府元亀(さっぷげんき)』などの編年(へんねん)史料には、この点に直接答える記述はない。しかし、太宗李世民という人物が、唐建国期の血みどろの権力闘争を生き抜き、玄武門(げんぶもん)にて実の兄と弟を斬って帝位を得た男であること。そして金春秋もまた、毗曇(びどん)の乱において貴族二十余名を族滅(ぞくめつ)させ、自らの娘の死を国家戦略に転化した男であること。これら二人の経歴を踏まえれば、両者がそれぞれ、相手の意図を見抜いていなかった、と仮定する方が、むしろ非合理的(ひごうりてき)である。


 太宗は、金春秋がいずれ唐に(そむ)くことを、見抜いていた可能性が高い。

 金春秋もまた、太宗が自分を駒として使い捨てるつもりであることを、見抜いていた可能性が高い。

 そして、両者がそれぞれ相手の意図を見抜いていながら、なお手を結んだ。


 これが、本作前段において描かれた「獅子(しし)(きつね)の同盟」の、史料的な裏付けである。会話そのものは想像の産物(さんぶつ)であるが、その背後にある政治的判断の構造は、後の歴史展開から逆算して、ほぼ確実に再構築できる。これを、筆者は「歴史小説における合理的(ごうりてき)推論(すいろん)」と呼ぶ。


 最後に、年号(ねんごう)の問題について付記(ふき)しておきたい。


 新羅は、永徽(えいき)元年(六五〇年)より、それまで独自に用いていた年号「太和(たいわ)」を廃し、唐の年号を奉じるようになる。これは、金春秋が長安謁見において太宗と取り交わした約束を、二年後に実行に移したものと考えられている。すなわち、貞観二十二年の謁見における口頭の合意が、永徽元年の制度的変更となって結実した、ということである。


 口頭の合意が、二年後に制度として実行される。


 この間、両者の宮廷の間で、何度の使者が往来(おうらい)し、何枚の文書が交わされたか。それを直接記録する史料は、現存しない。しかし、合意が実行に移された、という事実そのものが、その間に膨大な量の文書――白麻紙(はくまし)に書かれた制書、黄麻紙(こうまし)に書かれた副本、楮紙(ちょし)に書かれた新羅側の応答――が、海を越えて行き来したことを、間接的に証明している。


 紙のないところに、外交はない。

 外交のないところに、同盟はない。

 同盟のないところに、東アジアの八世紀以降の歴史はない。


 この一文を、筆者は本作の主題のひとつとして、繰り返し提示することになる。読者諸氏には、各章末に置かれる本注釈の役割を、そのように理解していただければ幸甚(こうじん)である。

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