第六話 六四八年・長安(唐)プロローグ
── 獅子と狐の同盟 ──
貞観二十二年。西暦六四八年。
唐の太宗・李世民は、五十歳。即位して二十二年。栄光の頂点にあるはずの皇帝は、しかし、この年すでに、確かな衰えを感じていた。
身体の節々に痛みが走る。古傷――若き日、戦場で受けた数々の傷痕――が、季節の変わり目ごとに、疼く。眼の力もやや弱り、夜半の燈下で奏文を読むのが、いささか困難になっていた。
そして何より、心の痛手が、彼を確実に蝕んでいた。
五年前――貞観十七年――に喪った、皇太子の問題。長男・承乾は廃され、流刑地で死んだ。寵愛していた四男・泰は、自分の言葉で皇太子の座を逃した。残ったのは、九男・李治――いま二十一歳になる、温和にして武略に乏しい青年。長孫無忌が立てた、あの皇太子。
太宗は、承乾を流したことを後悔してはいない。あの子の謀反は事実であった。だが――承乾を「ああ」させたのは、自分自身なのではないか、という疑問だけは、夜ごと、太宗の枕辺に立ち昇っていた。
そして、もう一つの問題。高句麗。
◆
太宗は、高句麗を、二度攻めた。
貞観十九年(六四五年)の第一次遠征は、安市城の攻防で停滞し、冬の到来とともに撤退。貞観二十一年(六四七年)の第二次遠征は、海陸からの攻撃を試みたが、決定打に欠けた。
そして、いま。太宗は、第三次遠征を準備していた。
なぜ、これほどまでに高句麗にこだわるのか。それは、隋の煬帝が三度遠征して三度敗れ、結果として隋王朝そのものが崩壊した、あの記憶があるからである。高句麗を屈服させぬ限り、唐は隋を超えたとは言えぬ――それが、太宗の執念であった。
しかし、彼は知っていた。正面から押し続ける限り、高句麗は落ちない。淵蓋蘇文の防衛線は、堅固に過ぎる。
ならば、どうするか。
「南から、新羅を使って、突かせる」
太宗の戦略は、すでに、ここに固まりつつあった。ところが、その新羅から、ちょうどそのとき、一人の使者が、長安に到着しつつあった。
◆
冬の終わり、長安の通化門。
一団の使節が、馬と馬車を連ねて、城門をくぐった。新羅の朝貢使――その先頭に、紫の袍を纏った壮年の男がいた。
四十六歳。背は中肉中背、髭は短く整えられ、眼差しは、深い。
金春秋。
新羅の伊飡――二等官にあたる――の地位にあり、かつ、聖骨――王位継承資格を持つ最高位の血統――の血を引く王族。新羅の事実上の最高決裁者。前年の毗曇の乱を鎮め、真徳女王を擁立したばかりの男である。
そして、彼の傍らには、十五、六の少年がいた。第二子・金文王。長安に残し、人質として唐の宮廷に仕えさせるための、息子であった。
金春秋は、この旅に、息子を連れてきた。理由は明白である。新羅の誠意を、もっとも分かりやすく示す方法は、自らの血を、相手の宮廷に置くことだからである。
これは、外交ではない。半ば、人身を担保にした、一種の質草取引である。しかし金春秋は、それを微塵も恥じる素振りを見せなかった。
恥じる、ということは、相手より下に立つことである。彼は新羅の王族として、唐の皇帝と対等の立場で交渉する、という覚悟であった。覚悟は、覚悟である。覚悟というものは、それを持つ者の背筋を、自然に伸ばす。
長安の人々は、この異国の使者を見て、思わず振り返った、と伝わる。
「威儀あり、容儀麗し」――『三国史記』金春秋伝が伝える、唐人の彼への評である。
◆
太極宮、含光殿。
太宗・李世民は、玉座に座していた。傍らには、長孫無忌、褚遂良、李勣――唐建国以来の重臣たちが居並ぶ。皇太子・李治もまた、父の側に侍っていた。
金春秋が、絨毯の上に進み出て、平伏した。
「臣、新羅伊飡・金春秋、朝貢の儀に参り上がりましてござります」
声は、低く、深く、よく通った。太宗は、目を細めた。そして、しばらくの沈黙の後、こう言った。
「面を上げよ」
金春秋は、顔を上げた。太宗の眼と、金春秋の眼が、合った。
それは、ほとんど一瞬の出来事である。だが、後年の歴史を踏まえて言えば、この瞬間、二つの計算が、互いを認識した。
太宗は、思った。「この男は、使える」
金春秋もまた、思った。「この皇帝は、使える」
獅子と狐。
獅子は、獅子であるがゆえに、自分の力で物事を進めようとする。狐は、狐であるがゆえに、獅子の力を借りて物事を進めようとする。両者は、本来、相容れないはずである。獅子は狐を呑み、狐は獅子を欺く。
しかし、この瞬間、両者は、互いに相手を必要としていた。
獅子は、高句麗の南側を脅かす駒として、狐を必要とした。狐は、北方の獅子の威光を借りて、半島を生き延びるために、獅子を必要とした。
利害が、一致した。
そして、利害の一致から始まる関係というものは――しばしば、血縁から始まる関係よりも、強い。
◆
「卿、新羅の年号は、何という」
太宗は、冒頭から、核心を突いてきた。
金春秋は、迷わず答えた。
「太和と申しまする」
「それは」
太宗は、軽く眉を上げた。
「我が唐の貞観の中にあって、別の元号を立てておると申すか」
金春秋は、頭を下げた。
「先王・善徳の代より、独自の年号を奉じておりまする。古き慣わしにござりますれば、急に変じることは難しゅうござります」
太宗は、笑った。
「ならば、変えよ」
「は」
「次の年より、唐の年号を用いよ。それが、唐に属する国の、礼儀である」
これは、端的な要求であった。新羅の独立性を象徴する独自年号を捨て、唐の暦に従え、ということである。
しかし、金春秋の返答は、迅速であった。
「畏まりました」
迷いも、抗弁も、なかった。太宗は、わずかに、意外そうな顔をした。
「即答する、か」
「年号は、ただの文字にござります。陛下、年号を変えたところで、新羅の山河が変わるわけではござりませぬ。山河を守るためならば、文字の一つや二つは、いつでも変えてご覧に入れまする」
その後実際に金春秋が永徽元年(六五〇年)から唐の年号を用いるようになった事実は、彼が「年号は文字に過ぎない」という哲学を持っていたことを、雄弁に物語っている。
新羅の独立とは、文字の上の独立ではなく、地の上の独立である――というのが、彼の信念であった。後年、新羅が唐に対し対等を主張するようになるのは、半島南部を実質的に握ってからのことである。それまでは、いくらでも下手に出る。
これが、後年「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構が示すことになる、一種の徹底した実利主義の、最も早い顕現であった。
◆
太宗は、頷いた。
「気に入った」
そして、続けた。
「次に、新羅の朝服――官人の衣服――を、唐風に改めよ」
「は」
「そのほか、唐の制度を、大いに学ばせよ。卿の長男はすでに新羅にあろうが、次男――そこにおる若者を、長安に残して、宿衛に仕えさせよ」
宿衛とは、皇帝直属の警備官である。形式上は名誉あるポストだが、実質は人質である。金春秋は、息子の方を見もせず、即答した。
「謹んで」
息子・金文王は、十六歳であった。父が自分を異国に置いていくことを、すでに承知していた。表情を変えなかった、と『三国史記』金文王伝は伝える。
太宗は、次に、長孫無忌に何かを耳打ちした。長孫無忌が、頷いた。そして、太宗は、金春秋に向かって、こう告げた。
「卿に、特進を授ける」
殿内が、ざわめいた。特進――正二品の地位。唐の貴族の最高位の一つである。本来、外国の使者がこのような高位を授けられることは、極めて異例である。
これは、太宗が、金春秋を、ただの使者ではなく、「唐の側の人間」として、扱うことを宣言したのである。
新羅・唐同盟は、この瞬間に、成立した。そして、それは、十二年後の百済滅亡、二十年後の高句麗滅亡、二十八年後の朝鮮半島南部の統一に、直結することになる。
◆
謁見の終わり、太宗は、独り言のように、こう呟いた。
「卿は」
「は」
「卿は、誰に似ておるか、分かるか」
金春秋は、頭を下げたまま答えた。
「臣、無学にござりますれば」
太宗は、淡く笑った。
「朕に似ておる」
殿内が、しんと静まった。
「朕も、若き日、玄武門にて、兄弟を斬った。卿もまた、毗曇を斬り、貴族二十余名を族滅した、と聞く」
「は」
「血を流すことを、躊躇しなかった、ということだ」
金春秋は、答えなかった。太宗は、続けた。
「血を流す者は、二種類ある。流したくて流す者と、流さねばならぬから流す者と。前者は、いつか、必ず、誰かに殺される。後者は、しばしば、長く生きる」
「……」
「卿は、後者であろう」
金春秋は、ようやく、顔を上げた。
「陛下、もまた」
「うむ」
太宗は、頷いた。
「朕も、後者であった」
そして、皇帝は、もう一度、笑った。その笑いは、しかし、どこか――疲れた笑いであった。
◆
謁見が終わり、金春秋は退出した。殿内に残った長孫無忌が、太宗に問うた。
「陛下、新羅をあれほどまでに厚遇なさるは、いかなる理由にございましょうや」
太宗は、しばらく答えなかった。そして、こう言った。
「無忌よ。朕は、もはや、長くない」
「陛下、何を仰せられまするか――」
「黙れ。聞け」
太宗の声は、静かであった。
「朕の死後、高句麗を撃つは、容易いことではない。だが、朕の代に、これを完全に倒す術も、また、ない。ならば――朕の死後、誰が、これを倒すか」
「李勣将軍ならば」
「老いた」
「皇太子は」
「弱い」
太宗は、首を振った。
「武で、高句麗は倒れぬ。南から、新羅に突かせる以外に、道はない。朕は、その種を、今日、撒いたのだ」
「種、にござりまするか」
「あの男、金春秋――いずれ、新羅の王となろう。王となれば、息子も王となる。父子二代にわたって、唐に忠誠を誓い、唐の力を借りて、半島南部を握りに行くであろう」
「半島南部を握れば」
「握った瞬間に、唐に背く」
太宗は、にやりと笑った。
「無忌よ、朕は、それも見越しておる」
長孫無忌は、息を呑んだ。
「ならば、なぜ」
「それでも、よいからじゃ」
太宗は、答えた。
「朕の生きている間に高句麗を滅ぼせるなら、それでよい。朕の死後、新羅が唐に背いても、それは朕の関知するところではない。朕は、ただ、高句麗を見届けたい」
「……」
「人とは、結局、自分の代に始末したい仕事を、持っておるものよ」
これは、後年の歴史の流れを踏まえれば、ほとんど的中した予言である。太宗の死後一年で高宗が新羅と協調して百済を滅ぼし、その八年後に高句麗を滅ぼす。そして、そこから二十年で、新羅は半島から唐の都督府を駆逐する。
獅子と狐の同盟は、獅子が高句麗を倒すために狐を使い、狐は獅子の力で百済・高句麗を倒したのち、獅子そのものを半島から追い出す――そういう構造であった。太宗は、それを、見抜いていた。見抜いた上で、それを承知の上で、金春秋に「特進」を授けた。
これが、英主の英主たる所以である。同時に――英主の悲哀でもある。自分の死後の世界の青写真を、自分で描き、自分で受け入れる。それは、ある種の諦念を伴う作業である。
◆
長安の宿に戻った金春秋は、その夜、息子・金文王と最後の盃を交わした。
「父上」
少年は、ようやく、口を開いた。
「長安に残れ、と仰せにございますな」
「うむ」
「いつまでにござりまするか」
「分からぬ。ただし――」
金春秋は、息子の盃に、酒を注いだ。
「お前は、ここで、唐の宮廷を、見尽くせ。皇帝がどう動き、宰相がどう動き、官人がどう動くか――その一部始終を、お前は、見るのだ」
「観察せよ、と」
「観察せよ。そして、書け」
「書く、にござりますか」
金春秋は、息子の手に、紙の束を握らせた。新羅から持参した、楮紙の束である。
「これに、書け。お前が見たもの、聞いたもの、感じたものを、すべて、書け。年に二度、新羅へ送る使者に託して、わしの元へ届けよ」
「はい」
「文字とはな、距離を超える唯一の手段だ。お前の眼は、お前一人のものだ。だが、お前が紙に書けば、その眼は、わしの眼にもなる。新羅の朝廷の眼にもなる。お前は、新羅の眼として、長安にいるのだ」
少年は、紙の束を、両手で受け取った。
「父上、では、私は」
「何だ」
「父上の、出張した眼でございますな」
金春秋は、はじめて、笑った。
「うまく言うた。その通りじゃ」
二人の盃が、合わされた。
◆
これが、後世「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構の、最も具体的な作動形態であった。
王族の子弟を、人質という名目で他国に置く。彼らはそこで観察し、書き、本国に送る。情報は、紙の上に記録され、楮紙の束となって、海を渡る。
国家とは、刀槍の力で守られるのではない。情報の集積と、その共有の速度で守られる。新羅の朝廷は、八世紀に半島で唯一の統一国家となったとき、そのために必要な情報資産を、すでに半世紀以上にわたって蓄積していた。そしてその蓄積を、海を越えて運んだのが、紙であった。
紙は、軽く、運びやすく、燃えやすく、しかし、書かれた文字は千里を渡る。金春秋は、それを、誰よりも知っていた。
◆
数日後、金春秋は、長安を発った。長安城の春明門を出る彼の馬車には、唐の絹と書物と、そして太宗から賜った「特進」の誥命――任命書――が積まれていた。
息子・金文王は、城門の前で、父を見送った。少年は、泣かなかった。馬車が遠ざかるのを、ただ、じっと見つめていた。やがてその姿が見えなくなると、彼は懐から父に渡された紙の束を取り出し、丁寧にめくり、最初の一枚に、こう書きつけた。
「貞観二十二年、戊申の春。父、長安を発つ。臣文王、宿衛として、ここに残れり。今日より、新羅の眼となる」
これが、長安における新羅の情報網の――その最も古い、確かな記録の、はじまりであった。
◆
そしてその同じ年、海の向こうの倭の地では――。
中大兄皇子と中臣鎌足が、改新の事業を推し進めていた。前年に死んだ古人大兄皇子の遺臣たちは、すでに整理され、孝徳天皇の難波宮には、新しい官制が敷かれつつあった。
戸籍の整備、班田の構想、地方官の派遣――そのいずれもが、紙を必要とした。
倭の地でも、製紙の工房が、数を増しつつあった。長安の華やかさには遠く及ばないが、しかし、確実に。
そして、そのさらに十一年後――鎌足の次男として、一人の男児が生まれることになる。
「史」と名づけられる、その男児が。
〔正史より──〕
ここで、当時の状況について、史料の側から少しく整理しておく必要がある。読者諸氏の中には、本作の前段における太宗と金春秋の対話、長孫無忌との宮中における会話、および息子・金文王との別離の場面――これらが、果たしてどこまで歴史的事実に基づくものであるのか、疑念を抱かれた方も少なくないと思われるからである。
結論から述べれば、それらの会話の具体的内容は、いずれも史書に直接の記載を持たない。すなわち、本作における筆者の想像である。しかしながら――ここが重要な点であるが――そうした想像が、史実の枠組みからまったく外れた恣意的なものであるかと言えば、決してそうではない。むしろ逆である。
『三国史記』新羅本紀・真徳女王紀には、貞観二十二年(西暦六四八年)冬、新羅の伊飡・金春秋が唐に朝貢使として渡海し、太宗李世民に謁見したことが明確に記録されている。同行者は子の金文王。『旧唐書』『新唐書』の新羅伝にも、ほぼ同様の記述が見える。問題は、その謁見の場で何が起こったか、である。
第一に、官位の授与。太宗は金春秋に「特進」――正二品――の官位を授けた。これは、外国の使者に与えられる地位としては、当時の唐の制度において、極めて異例の高位である。外国の王に対する冊封ですら、通常は「開府儀同三司」(従一品)か、あるいはそれよりやや下の格付けが与えられる。しかし「特進」は、唐朝廷内部の序列における、いわば「準・宰相格」の地位である。これを、いまだ新羅の王ですらない一介の伊飡に与えるという行為は、太宗が金春秋を、単なる外国の使者としてではなく、唐の権力構造の内部に取り込もうとした、そう解釈する以外に、合理的な説明がつかない。
第二に、朝服の改変。同じ謁見の席で、金春秋は新羅における官人の朝服を唐風に改めることを約束した。これも『三国史記』新羅本紀の記すところである。衣服とは、文化的服従の最も視覚的な表現である。唐の官服を新羅で着用するということは、新羅の官人たちが、長安の朝廷の同僚と外見上区別がつかなくなる、ということを意味する。これは、後年、新羅が「小中華」を自称するに至る、その最も早い文化的源流のひとつである。
第三に、人質の差し出し。子の金文王が、長安に宿衛として残された。「宿衛」とは、字義的には皇帝直属の警備官であり、形式上は名誉職である。しかし、その実態は、誰もが知る通り、人質である。金春秋自身が前年(六四七年)まで倭国に人質として滞在していた経緯を踏まえれば、彼が今度は自分の息子を唐の宮廷に「差し出す」ことの意味を、最も深く理解していたのは、ほかならぬ彼自身であったはずである。
これら三つの事実から、われわれは、何を読み取ることができるか。
それは、太宗と金春秋の間に、相当に深い水準の戦略的合意が成立した、という一事である。単なる儀礼的な朝貢関係であったならば、特進の授与も、朝服の改変も、宿衛の派遣も、いずれも必要のない手続きである。これらが揃って実行されたという事実は、両者の間で、より具体的かつ長期的な――つまり、それぞれの本国の利害に直結する――何らかの密約が交わされていた可能性を、強く示唆する。
ここで、われわれは、後年の歴史の流れを参照する必要がある。
貞観二十三年(六四九年)、すなわち金春秋の長安訪問の翌年、太宗は崩御する。それから十一年後の顕慶五年(六六〇年)、唐は新羅と連合して百済を攻め、これを滅ぼす。さらに八年後の総章元年(六六八年)、両者は連合して高句麗をも滅ぼす。そしてその後、新羅は唐に対して反乱を起こし、咸亨元年(六七〇年)以降の対唐戦争において、結果的に朝鮮半島南部の支配権を確立する。
これらの一連の出来事は、いずれも、貞観二十二年(六四八年)の長安における謁見の延長線上にある、と理解することができる。太宗が金春秋に「特進」を与えたのは、彼を高句麗攻略の南方戦線における駒として使うためであり、金春秋が宿衛として息子を残したのは、唐の宮廷における情報網を確保するためであった。両者は互いを利用し合うつもりであり、そして実際に、双方とも目的を果たした。
しかしながら――ここで、もう一つの問いが浮上する。
両者は、相手が自分を利用していることを、それぞれ知っていたのか。
『資治通鑑』『冊府元亀』などの編年史料には、この点に直接答える記述はない。しかし、太宗李世民という人物が、唐建国期の血みどろの権力闘争を生き抜き、玄武門にて実の兄と弟を斬って帝位を得た男であること。そして金春秋もまた、毗曇の乱において貴族二十余名を族滅させ、自らの娘の死を国家戦略に転化した男であること。これら二人の経歴を踏まえれば、両者がそれぞれ、相手の意図を見抜いていなかった、と仮定する方が、むしろ非合理的である。
太宗は、金春秋がいずれ唐に背くことを、見抜いていた可能性が高い。
金春秋もまた、太宗が自分を駒として使い捨てるつもりであることを、見抜いていた可能性が高い。
そして、両者がそれぞれ相手の意図を見抜いていながら、なお手を結んだ。
これが、本作前段において描かれた「獅子と狐の同盟」の、史料的な裏付けである。会話そのものは想像の産物であるが、その背後にある政治的判断の構造は、後の歴史展開から逆算して、ほぼ確実に再構築できる。これを、筆者は「歴史小説における合理的推論」と呼ぶ。
最後に、年号の問題について付記しておきたい。
新羅は、永徽元年(六五〇年)より、それまで独自に用いていた年号「太和」を廃し、唐の年号を奉じるようになる。これは、金春秋が長安謁見において太宗と取り交わした約束を、二年後に実行に移したものと考えられている。すなわち、貞観二十二年の謁見における口頭の合意が、永徽元年の制度的変更となって結実した、ということである。
口頭の合意が、二年後に制度として実行される。
この間、両者の宮廷の間で、何度の使者が往来し、何枚の文書が交わされたか。それを直接記録する史料は、現存しない。しかし、合意が実行に移された、という事実そのものが、その間に膨大な量の文書――白麻紙に書かれた制書、黄麻紙に書かれた副本、楮紙に書かれた新羅側の応答――が、海を越えて行き来したことを、間接的に証明している。
紙のないところに、外交はない。
外交のないところに、同盟はない。
同盟のないところに、東アジアの八世紀以降の歴史はない。
この一文を、筆者は本作の主題のひとつとして、繰り返し提示することになる。読者諸氏には、各章末に置かれる本注釈の役割を、そのように理解していただければ幸甚である。




