第五話 六四七年・金城(新羅)プロローグ
── 毗曇の乱、女王の最期 ──
新羅、仁平十四年、正月。
西暦に直せば六四七年の冬の終わり。半島の北の山々には、まだ雪が残り、慶州盆地の朝は、白い息で満たされていた。
新羅の都・金城。その王宮の奥に、一人の女王が、玉座にあった。
善徳女王。
第二十七代の王。新羅初の女王。即位して十六年。父・真平王に男子なく、母方の祖父・葛文王福勝の血に支えられ、聖骨――王位継承資格を持つ最高位の血統――の女として、玉座を継いだ。
聡明、と讃えられた女王であった。
唐の太宗が牡丹の絵と種を送ってきたとき、絵に虫が描かれていないのを見て「この花には香りがない」と言い当てた逸話。玉門池に蝦蟇が群れ鳴いたとき、西の国境に賊が潜むと見抜き、兵を派遣して殲滅させた逸話。これらの予知譚は、すでに前章でも触れた。
新羅の人々は、彼女を「聖祖皇姑」と呼び、ある種のシャーマン的な権威として畏れていた。
しかし。聖性と政治は、別のものである。
そして、政治の場において、女王は、いま、追い詰められていた。
◆
四年前、貞観十七年(六四三年)、唐への救援要請に対し、太宗が返してきたあの三策。
第三策――「新羅の王が女である故に、隣国が侮るのである。女王を廃し、唐の皇族を王として立てよ。さすれば援軍を派遣せん」。
この一文は、新羅の朝廷に、深い亀裂を走らせた。唐は、新羅最大の実質的な後ろ盾であった。その唐から、女王の首を要求された。朝廷は、二派に分裂した。
親唐派――唐の援軍を得るためには、女王の退位もやむを得ないと考える者たち。
反唐派――女王と新羅の独立を守るために、唐の要求を拒絶する者たち。
そして、その親唐派の中心に立ったのが、上大等――新羅の最高貴族議会の代表――の地位にあった一人の男であった。
毗曇。
伊飡以上の高位を歴任し、貞観十九年(六四五年)十一月、上大等に任ぜられた人物である。皮肉なことに、彼を上大等に推したのは、ほかならぬ善徳女王自身であった。
つまり、女王は、自らの権威を脅かすことになる男を、自らの手で、最高位に座らせていた。それを「失策」と見るか、「やむを得ぬ均衡」と見るかは、立場による。新羅の貴族制――聖骨と真骨に分かれた、骨品制度と呼ばれる血の階級制――は、上大等を頂点とする貴族合議の上にしか成立しない。女王が王権を強化したいと望んでも、上大等を立てなければ、政治は動かない。
毗曇は、それを知っていた。知った上で、彼は、待っていたのである。
◆
正月、毗曇は動いた。
明活城――金城の東、山の上に築かれた古い山城――に旗を立て、貴族たちと兵を集めた。掲げた標語は、こうである。
「女主、不能善理」――女の主は、善く治むることあたわず。
女王には国を治める能力がない、という意味である。これは、新羅の王家にとって、致命的な言葉であった。なぜなら、王権の正統性そのものを否定する、神学的な攻撃だからである。聖骨の血を引く女王の存在を、「女である」という一点で否定する。それは、新羅の血統制度そのものを揺るがす革命の宣言であった。
しかし、毗曇はそれを承知の上で、敢えて掲げた。なぜなら、そこには「唐の太宗の言葉」という後ろ盾があったからである。太宗は四年前、ほぼ同じ言葉で女王の廃位を要求した。今、毗曇は、同じ理屈で兵を挙げた。これはもはや反乱ではなく、「唐の意志の代行」であると、毗曇は宣言したのである。
◆
王宮の善徳女王は、その報を受けて、深く息をついた。そして、傍らに侍る金春秋を見た。
「妾は」
女王の声は、ほとんど囁きに近かった。
「予測しておった」
金春秋は、伏した。
「それゆえに」
女王の眼が、わずかに細められた。
「この日のために、そなたを、育ててきた」
「畏れ多くござります」
金春秋は、額を床につけた。
女王は、ふたたび眼を閉じた。
「妾は、もう、長くない。妾の知る限り、人は自分の死期を、ある程度、感じる。今日、明日のことではないが――この春のうちには、おそらく」
「陛下」
「金春秋」
女王は、瞼を開いた。
「ひとつだけ、命じる」
「は」
「妾の死後、新羅の玉座に、女を立てよ」
金春秋は、顔を上げた。
「……陛下」
「驚くな。妾にはまだ、聖骨の従妹が一人、おる。勝曼――そなたも知っての通りじゃ。あの娘を、立てよ」
「しかし、それでは、毗曇の言い分に、二度の口実を与えることに……」
「与えてやれ」
女王は、淡く笑った。
「毗曇には、もう、一度だけ、勝たせてやる。だが、その『勝った』という事実こそが、毗曇の最後となる」
金春秋は、しばらく、その意味を測りかねた。
女王は、ゆっくりと続けた。
「考えてみよ。毗曇が今ここで勝てば、新羅は唐の属国となる。妾の首を差し出せば、唐は満足する。だが、満足した唐は、次に何を求める。新羅そのものを呑み込むに決まっておるのじゃ。今は百済を恐れ、高句麗を恐れて、新羅を必要としておる。だが、いったん百済が滅び、高句麗が滅びれば――唐にとって新羅は、もはや、用済みの駒」
「……」
「妾の代で女王を廃せば、次の代で新羅そのものが廃される。だから、妾の死後にもう一人女王を立てよ。立てて、そして、その女王の代を耐え忍べ。耐え忍んで、唐に隷従するふりをし、唐の力を借りて百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼせ。そして、その後で――唐を、追い払え」
これが、後年「鶏林社」として伝説化される、新羅の影の戦略の――その最も根源的な設計図である。
歴史に書かれているのは、ここまでではない。歴史に書かれているのは、ただ「真徳女王が立てられた」という事実のみである。だが、そこに至る判断のすべてが、この瞬間の女王の枕辺の言葉に集約されていた、と仮定するならば――。
新羅という国家のその後の四十年間――武烈王・文武王の代に至る統一戦争、その後の対唐戦争、半島南部全域の確保――そのすべての戦略の起点が、この善徳女王の最後の言葉にあった、と言ってよい。
◆
その夜、王宮の門外に、もう一人の男が現れた。
金庾信。金春秋の義兄。新羅軍の最高指揮官。すでに五十二歳。彼の手には、剣と、そしてもう一つ、奇妙なものがあった。藁で作られた、人形である。しかも、その人形の手脚には、火薬を仕込んだ袋が結びつけられ、さらに大きな凧に縛りつけられていた。
「兄者」
金春秋が声をかけた。
「これは、何ぞ」
金庾信は、にやりと笑った。
「兵は、士気で動く。士気は、徴で動く。明日の夜、明活城より見て、東の空に、星が落ちる」
「星が落ちる」
「うむ。毗曇の陣に、流星が落ちたと見える。流星は凶兆。明活城の兵は震え、王宮の兵は奮い立つ」
金春秋は、義兄の眼を見つめた。
「……兄者は、星まで操るおつもりか」
「人を動かすには、人を動かす道具が要る。文字と紙で人を動かす者もあれば、星と凧で人を動かす者もある。それだけのことよ」
金庾信は、淡々と言った。これは、後世『三国史記』金庾信列伝に記される、有名な逸話である。
毗曇の陣に流星が落ちる凶兆が現れた。新羅軍は士気を失い、明活城の包囲を続けることが困難になりかけた。そのとき金庾信は、夜陰に乗じて、火を点した藁人形を凧に括りつけ、夜空に飛ばした。
それを地上から見ると――流星が、明活城の方角に向けて、再び昇っていくように見えた。これは、星が落ちたのではない。星が、天に戻っていく瑞兆である――と、金庾信は兵に告げた。さらに、白馬を屠って血を流し、神に勝利を祈った。
新羅軍の士気は、たちまち回復した。毗曇軍は、迷信的恐怖に動揺した。
「予兆」と「星」と「神」――その三つを、金庾信は、ひとつの戦術としていた。これが、後世「鶏林社」が「予兆察知」「神秘的徴候の操作」を組織原理とすることになる、最も古い起源の一つである、と言ってよい。
◆
正月八日。明活城の包囲が続く中、王宮では、善徳女王が床に就いていた。
『三国史記』は、その死を、淡々と記す。「八日、王、軍中に薨ず」。軍中、とは、毗曇の乱の最中、という意味である。女王は、戦争の喧騒の中で、息を引き取った。彼女の予言の通り、その正月のうちに。享年、不詳。
新羅の人々は、彼女を「善徳」――善き徳――と諡った。狼山の南に葬られた。
これも、彼女の遺言の通りであった。生前、彼女は群臣に「妾を忉利天の中に葬れ」と言ったという。群臣が「忉利天とはどこか」と尋ねると、彼女は「狼山の南である」と答えた。
そして実際に、後年、文武王の代になって、女王の陵の下に四天王寺が建てられる。仏教の世界観において、忉利天は四天王の上にある。すなわち女王の陵が四天王寺の上にあるのは、彼女が「忉利天」に葬られたことを意味する――そう新羅の人々は信じた。
これは『三国遺事』が伝える、いささか神秘めいた話である。しかし、神秘めいた話を信じる、あるいは信じさせる――それもまた、新羅という国の、ひとつの政治技法であった。
◆
女王の死は、隠匿された。
数日のあいだ、王宮は喪を伏せ、玉座の主が変わったことを、誰にも知らせなかった。これは、毗曇軍が女王の死を知って勢いづくことを防ぐためであった。その間に、金春秋と金庾信は、急いで、もう一人の聖骨の女――勝曼――を擁立する手続きを進めた。彼女は善徳女王の従妹にあたる、聖骨の王族の最後の女である。これが、後の真徳女王である。
そして、彼女が即位した直後の正月十七日、毗曇の乱は鎮圧された。毗曇および反乱に加わった貴族二十余名、誅殺。九族にいたるまで族滅された者もあった、と伝わる。
新羅の貴族層は、一気に粛清され、王権直属の臣が政治の中枢に座る体制が、ここに固まった。具体的には、執事部――王の直属事務機関――が、上大等を頂点とする貴族合議制と並ぶ地位に格上げされた。これにより、王権は、上大等を経由せずに、直接政治を動かせるようになった。
これは、後年、新羅の律令制への大転換の、その第一歩であった。そして、それを実質的に動かしたのは、王ではなく、金春秋と金庾信である。ここから、後年「鶏林社」と呼ばれる仕組みが、組織として形を取り始める。王と、王に直結する数名の重臣、そして彼らに仕える執事部の官僚たち。彼らは、表向きは新羅の朝廷の機構であるが、実質的には、金春秋・金庾信の私的なネットワークでもあった。
王のためでもなく、貴族のためでもなく、新羅という国家そのものを生き延びさせるための――冷徹な、そして、ある種、無感情な――機構。
◆
正月の終わり、金城に春の気配が漂い始めた頃。金春秋は、王宮の一室で、一通の書簡を書いていた。
紙は、新羅独自の楮紙。墨は、上等のもの。筆は、唐から取り寄せた狼毫筆。宛先――倭国。
書簡の内容は、簡潔であった。新羅は唐との関係を再構築する。倭との関係も、改善したい。ついては、倭の遣新羅使として高向玄理が新羅に来訪した折の話し合いを継承し、新羅から倭に人質を送る用意がある。その人質として、自分――金春秋自身――が、倭に赴むく用意がある、と。
書き終えて、金春秋は墨痕の乾くのを、しばらく待った。この書簡が、彼自身の運命の、次の章を開くことになる。彼はやがて、自ら倭に渡り、人質として滞在する。そこで、倭の皇族たち――中大兄皇子、中臣鎌足――と直接対面することになる。
倭で生まれることになる、まだ見ぬ一人の少年――藤原不比等――の父と、金春秋は、相見えるのである。ただし、それは、まだ翌年の話である。
◆
書簡を巻き、紐で結びながら、金春秋は思った。
紙とは、奇妙なものである。これを焼けば、灰になる。これを水に浸せば、墨が滲む。これを風に飛ばせば、雲のように消える。
しかし、これに書かれた文字は、海を渡る。山を越える。代を経る。千里離れた国の、見たこともない男の、運命を、変える。紙とは、人と人とを繋ぐ、最も細く、最も強い糸である。
そして、その糸は、しばしば、書いた本人の意図を超えて、思いがけぬ未来を編み出す。
金春秋は、それを知っていた。知っていたから、彼は紙を、丁寧に、扱った。
〔正史より──〕
歴史を遡るということは、しばしば、ひとつの政変を、その背後にある制度の変容と並べて読み直す作業である。
仁平14年。西暦647年。
朝鮮半島の新羅で、毗曇の乱と呼ばれる事件が起こった。
この事件の輪郭を、まずは史料の側から整理しておきたい。
◆
毗曇の乱の発生年次については、史書間にやや混乱がある。
『三国史記』新羅本紀は、乱を善徳女王の最末年すなわち仁平14年正月のこととし、同月8日に女王が薨じ、17日に乱が鎮圧された、と記す。
一方、『三国史記』金庾信列伝は、乱の発生をやや遡らせて記述する箇所もある。現代の研究では、おおむね本紀の記述に従い、乱の発生から鎮圧までの一連の経緯を仁平14年正月のうちの出来事として整理する立場が主流である。
毗曇の乱は、上大等であった毗曇が貴族層を率いて明活城に拠り、女王廃位を求めて起こした内乱である。『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀には、その旗印として「女主不能善理」――女の主は善く治めることあたわず――の標語が掲げられたと記される。
ここで注目すべきは、毗曇の上大等就任の経緯である。
『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀によれば、毗曇が上大等に任命されたのは、乱の発生のわずか1年余り前、仁平12年(645年)11月のことである。
すなわち、女王の廃位を求めて反乱を起こした人物は、ほかならぬその女王自身が最高位に推した男であった。
この事実は、当時の新羅における王権と貴族層との関係を考える上で、きわめて示唆的である。新羅の骨品制度の下では、王権の強化を図ろうとしても、上大等を頂点とする貴族合議制を経由せずには政治を動かせなかった。女王が毗曇を上大等に任じたこと自体が、新羅の制度的な制約の表れであった、と理解されている。
◆
善徳女王の薨去については、『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀が「八年、春正月、王薨ず。諡して善徳と曰う。狼山に葬る」と簡潔に記すにとどまる。
死因や年齢についての記述はない。「在位十六年」とあるのみである。なお、唐からは光禄大夫の号が追贈されたことも、同条に記される。
ここで興味深いのは、女王の薨去と毗曇の乱の鎮圧の時系列である。
女王が息を引き取った正月8日の時点で、戦火は鎮まっていなかった。乱の鎮圧は同月17日。女王の死から9日後である。すなわち善徳女王は、自らの正統性を否定するために蜂起した重臣を、ついにその目で誅殺されるところまで見届けることなく、世を去ったことになる。
毗曇の乱の鎮圧における金庾信の役割については、『三国史記』金庾信列伝に注目すべき記述がある。
同列伝によれば、新羅軍が明活城を包囲する最中、毗曇の陣に流星が落ちる凶兆が現れ、新羅軍の士気が動揺した。これを受けて金庾信は、夜陰に乗じて火を点した藁人形を凧に括りつけ、夜空に飛ばすことで、星が天に昇って戻る瑞兆として演出した。さらに白馬を屠って血を流し、神に勝利を祈ったとされる。
なお、『三国遺事』にも類似の記述があるが、そこでは流星と藁人形の挿話に加え、金庾信が天に祈ったところ大星が毗曇の陣営に落ちた、とされる。両書の記述には細部に異同があるが、いずれにせよ金庾信が天文現象を巧みに利用して士気を操作した、という構図は共通している。
これは、当時の東アジアにおいて、戦争が単なる兵力の問題ではなく、天意の解釈をめぐる象徴闘争でもあったことを示す事例として、現代の研究でもしばしば言及される。
乱の鎮圧後の処置については、同月17日に毗曇および加担した二十余名が誅殺された、と『三国史記』新羅本紀は記す。九族にいたるまで族滅された者があったとも伝わる。これにより新羅の貴族層は大規模な粛清を受け、王権直属の臣による政治運営の構図が決定的となった。
◆
女王の墓所は狼山の南に営まれた。
『三国遺事』紀異・善徳王知幾三事の項には、女王が自らの死期と埋葬地(忉利天/狼山の南)を予言したとする挿話が記される。後に文武王の代になって女王陵の下に四天王寺が建立され、結果として女王の予言が成就した、との記述がある。
ただし、ここで留保しておくべきことがある。
『三国遺事』は十三世紀末の編纂であり、説話的色彩が強い書物である。狼山の予言の挿話については、女王の神格化が後世に進行する過程で形成された伝承と考えられている。同書には、女王が唐の太宗から贈られた牡丹の絵に虫が描かれていないことから無香を見抜いた挿話、玉門池の蝦蟇から西部国境の賊の侵入を察知した挿話など、女王の|シャーマン的性格を伝える逸話が複数記録されている。
これらが事実そのものであったのか、あるいは女王を神の座へ押し上げるために形成された装置であったのか――史料の側からは断定できない問いである。
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真徳女王の擁立は、女王薨去から半月の間に進められた。
『三国史記』新羅本紀・真徳女王紀によれば、彼女の諱は勝曼、善徳女王の従妹(一説に妹)にあたる聖骨の女子であった。即位に際して新羅独自の年号「太和」が制定されたが、これは3年後の永徽元年(650年)に廃止され、唐の年号に切り替えられることになる。
ここで関連して、新羅における執事部の整備について触れておきたい。
執事部は王の直属の事務機関であり、その長官は中侍と呼ばれた。『三国史記』職官志によれば、執事部の前身となる稟主が真徳女王5年(651年)に執事部に改編され、王権直属の行政機関として機能し始めた。
これは、上大等を頂点とする貴族合議制と並立する形で設置されたものであり、毗曇の乱以後の新羅における王権強化の制度的表現と位置づけられている。執事部の設置は唐の三省六部制に部分的に倣った機構整備であり、後年の武烈王代における理法府格六十余条の制定(654年)とともに、新羅における唐風律令制度の導入の段階的な進展を示している。
◆
ここで、新羅の文書事務に用いられた紙について、改めて整理しておきたい。
毗曇の乱の鎮圧後、新羅朝廷は二十余名の処刑、貴族層の粛清、新女王の擁立、執事部の機構整備など、一連の重要事項を文書として処理せねばならなかった。これらの公文書は、楮を主原料とする楮紙の上に書写されて流通したものと考えられる。
半島の楮紙は、繊維が長く、保存性に優れていた。後年、統一新羅期に唐へ「鶏林紙」として輸出されるほどの品質を誇るに至るこの素材は、新羅の国家機構の再編期において、すでに重要な役割を担っていた。
貴族の大量粛清という政治的空白を埋めたのは、王と、金春秋、金庾信という限られた股肱の臣による、文書を通じた統治であった。新羅が以後百余年にわたって示した、あの執念深いほどの王権集中は、刀槍の力のみではなく、紙の上の墨痕によっても支えられたのである。
◆
倭国における動向にも、ここで目を転じておきたい。
仁平14年は、倭でいう大化3年にあたる。
皇極天皇は前々年すでに譲位しており、孝徳天皇の治世下にあった。同年、新羅から金春秋に伴われて高向玄理が来朝している。これについては、『日本書紀』孝徳天皇大化三年条に記述があり、新羅が倭国に対して人質を差し出す形で外交関係を再構築したことが伝えられる。
毗曇の乱を鎮めたばかりの金春秋が、その同じ年のうちに自ら倭国へ赴いていた、という事実は、新羅の外交上の焦燥を示すものとして、しばしば指摘される。
◆
女王が最後に遺した意志、毗曇の挙兵の真意、金庾信の演出の現場における具体的なやりとり――これらの細部の多くは、紙にすら書かれず、人々の記憶の中にだけ沈殿して消えた。
記憶は紙よりも頼りない。
しかし、紙に書かれて残ったものもまた、書き手の選択を経た上での記録であり、書かれなかった事実のほうが、圧倒的に多いというのが、史料というものの本質である。
我々が今日、毗曇の乱について語り得るのは、『三国史記』および『三国遺事』という二つの書物――いずれも事件から数百年を経て編纂された書物――が、楮紙の上に残っていたからに他ならない。
その紙の残存そのものが、歴史である。




