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第四話 六四五年・飛鳥(倭)、長安(唐)プロローグ


── 乙巳(いっし)の変、天竺(てんじく)(きょう) ──


 ()国、飛鳥(あすか)


 皇極(こうぎょく)天皇四年。西暦六四五年。


 長安から東へ約四千里、海を二度渡り、半島を縦断して、ようやく辿(たど)り着く東の果て。倭という国の中心は、この時代、奈良盆地の南端、飛鳥の地にあった。


 飛鳥は、都というには小さい。


 唐の長安が、城郭(じょうかく)に囲まれた百万の人口を(よう)する世界都市であったのに対し、飛鳥は、山と川と田と(やしろ)と、いくらかの宮殿(きゅうでん)と寺と豪族(ごうぞく)の屋敷から成る、いわば、大集落(だいしゅうらく)に近い都であった。


 しかし、規模が小さいということは、必ずしも事件の規模が小さいことを意味しない。むしろ狭い場所であるほど、政治の(やいば)は、近い距離で振るわれる。





 その年、六月十二日。


 飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)に、三韓(さんかん)――新羅(しらぎ)百済(くだら)高句麗(こうくり)――の朝貢使(ちょうこうし)を迎える儀式が予定されていた。


 玉座(ぎょくざ)に座すのは、皇極天皇。女帝(じょてい)であった。その傍らに(はべ)るは、当時の倭国の最高権力者、大臣(おおおみ)蘇我入鹿(そがのいるか)


 蘇我氏は、すでに半世紀にわたり、倭の朝廷を実質的に支配していた。曽祖父(そうそふ)馬子(うまこ)崇峻(すしゅん)天皇を(しい)し、推古(すいこ)天皇を擁立(ようりつ)して以来、祖父(そふ)蝦夷(えみし)、そして父子・入鹿の代に至るまで、皇統そのものを左右する地位を独占(どくせん)し続けてきた一族である。


 入鹿に至っては、前々年(六四三年)、聖徳太子の遺族(いぞく)たる山背大兄王やましろのおおえのおう斑鳩宮(いかるがのみや)(おそ)い、一族もろとも自死(じし)に追い込んだ。これにより、聖徳太子の血筋(ちすじ)は、完全に絶えた。


 倭の朝廷は、もはや、蘇我氏のものであった。


 しかし、そのとき、玉座のすぐ手前――石榻(いしのうてな)(かげ)に、一人の若き皇族が、(けん)を握って震えていた。


 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)


 時に二十歳。皇極天皇の子であり、皇統の正嫡(せいちゃく)に近い位置にあった皇子である。彼は、その日、入鹿を()るために、ここにいた。





 中大兄皇子の隣には、もう一人、男がいる。


 中臣鎌子(なかとみのかまこ)。後の鎌足(かまたり)。鎌足はこのとき、おそらく三十一、二歳。中臣氏は、神祇(じんぎ)(つかさど)る古い氏族であったが、政治的には、ほとんど無位無官(むいむかん)に近い家であった。


 しかし鎌足は、ただ者ではなかった。学問を好み、史書を読み、当時の倭としては破格に唐の制度に通じていた。


 一説に、彼は若き日、僧旻(そうみん)(じゅく)に通って『周易(しゅうえき)』を学んだという。僧旻は、推古朝の遣隋使(けんずいし)の一行として(ずい)に渡り、二十四年の留学を経て帰国した、当代きっての知識人である。


 鎌足は、僧旻の塾で、もう一人の青年と出会った。


 南淵請安(みなぶちのしょうあん)。やはり、隋への留学経験を持つ。鎌足は彼の塾に通い、漢籍と政治思想を学んだ。そして、こう確信したという。


「倭は、変わらねば滅びる」


 唐は、すでに東突厥を滅ぼし、高句麗の遠征を開始している。新羅は唐と接近し、百済は親唐から麗済(れいさい)同盟へと寝返りつつある。半島の三国はいずれも王権の強化に努め、官僚制(かんりょうせい)の整備に走っている。


 ところが、倭の朝廷は、いまだに豪族の合議制(ごうぎせい)の延長線上にある。皇族と豪族の境界は曖昧(あいまい)で、税制(ぜいせい)も土地制度も、未整備のまま。蘇我氏の専横(せんおう)は、その「未整備」の(やみ)の上に、寄生(きせい)して肥大(ひだい)したものであった。


 このまま唐の遠征軍が向けられれば――もしくは、半島の三国のいずれかが連合軍を組んで攻めてくれば――倭は、ひとたまりもない。


 鎌足は、それを見通していた。


 蹴鞠(けまり)の場で、彼は中大兄皇子の脱げた靴を拾った――と、それが二人の出会いであった、と。事実かどうかは知らない。しかし、知識人と皇族の出会いというものは、たいてい、こうした、何でもないような場面で訪れる。


 二人は、密談(みつだん)を重ねた。蘇我氏を、倒す。倒した上で、唐に(なら)った国家機構を、倭の地に作る。それが、彼らの計画であった。





 六月十二日、未刻(ひつじこく)


 板蓋宮の大極殿(だいごくでん)の前庭。皇極天皇が玉座に座し、入鹿が脇に侍り、皇族と諸豪族が居並ぶ。広場には、三韓の使者が三列にひかえている。


 新羅の使、百済の使、そして高句麗の使。倭が、半島三国を「朝貢国」として(ぐう)していたのか、それとも単に「友好国の使者」として迎えていたのか――倭の側は前者と書き、半島の史書は後者と書く。要するに、双方が双方の物語を持っていた、ということである。


 このような外交儀式は、普段ならば、何ごともなく終わる。だが、この日は、何ごともなく終わらなかった。


 「上表文(じょうひょうぶん)」を捧読(ほうどく)する係に任ぜられたのは、石川麻呂(いしかわのまろ)。蘇我氏の傍流(ぼうりゅう)でありながら、密かに中大兄皇子・鎌足側に通じていた男である。


 彼が表文を読み始める。その瞬間、宮の門が、外から閉じられた。


 中大兄皇子と佐伯子麻呂(さえきのこまろ)葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみた二剣士(にけんし)が、それぞれ持ち場(もちば)を取った。


 しかし――


 二人の剣士は、動かなかった。腰が(くだ)け、足が()え、顔は蒼白になり、汗が滝のように流れた、という。中大兄皇子の合図を待つはずの彼らは、いざその瞬間(しゅんかん)に至って、震えて動けなくなった。


 これは、歴史の残酷な瞬間でしばしば起こる現象である。日頃(ひごろ)勇士(ゆうし)(しょう)される者が、その瞬間に至って動けなくなる。


 中大兄皇子は、自ら剣を抜いた。そして、入鹿の頭頂部(とうちょうぶ)に、斬りつけた。





 入鹿は、瞬時(しゅんじ)に状況を(さと)った。


 血を流しながら、彼は玉座のほうへ(ころ)がるように()い寄り、皇極天皇の足にすがって(さけ)んだ。


(しん)、何の罪ぞ――!」


 天皇は、立ち上がっていた。


「これは、何ごとぞ」


 中大兄皇子は、母である天皇に向かって、(ひざまず)いた。


「入鹿は、皇族を滅し、皇位を(うかが)う者にござります。お許しを」


 天皇は、しばらく動かなかった。


 そして――。無言のまま、奥へと退()いた。


 これが、退位(たいい)の意思表示であった。あるいは、母として息子の所業を黙認(もくにん)した瞬間でもあった。母が黙って退いたとき、息子は止められなくなる。


 子麻呂と網田が、ようやく動いた。二人がかりで、入鹿を、斬り殺した。血は、玉座の前を、赤く()らした。





 入鹿の遺体(いたい)は、雨の中、庭にうち捨てられた。父の蘇我蝦夷は、自邸(じてい)に火を(はな)して自害(じがい)した。


 このとき、蝦夷の邸には、彼が編纂(へんさん)させていた歴史書が二部、収蔵(しゅうぞう)されていた。『天皇記(てんのうき)』と『国記(こっき)』である。両書とも、火の中に消えかけた。


 しかし、船史恵尺(ふねのふびとえさか)という男が、燃え(さか)る炎の中に飛び込み、『国記』を抜き出して、中大兄皇子に献上(けんじょう)したという。『天皇記』は、焼失(しょうしつ)した。


 これは『日本書紀』が伝える事実である。考えてみれば、奇妙な話ではある。歴史書が焼かれかけ、ぎりぎりで救われる。これだけのために、一人の男の名が、千年あまりを生き延びる。


 しかしそれは、当時の人々が、書かれた言葉――紙に書かれた歴史――を、いかに重く見ていたかの証左(しょうさ)でもある。


 紙が燃えれば、歴史も燃える。歴史が燃えれば、国もまた、その記憶を失う。


 中大兄皇子と鎌足は、おそらくは、その重みを、誰よりも分かっていた。





 乙巳(いっし)の変――この日、干支(えと)乙巳(きのとみ)であったことから、後にこう呼ばれる――の翌日。


 皇極天皇は、譲位(じょうい)した。弟の軽皇子(かるのみこ)が、皇位を継いだ。これが孝徳(こうとく)天皇である。中大兄皇子は、皇太子となった。


 そして、この国に、初めての元号が定められた。


「大化」――大いなる、化。


「化」とは、変化、教化、感化、すなわち「変わる」ことそのものである。倭の地に、変革(へんかく)の時代が、ここから始まる。


 後世「大化の改新」と呼ばれることになる、唐に(なら)った国家改造(こっかかいぞう)の最初の一歩。中央官制(ちゅうおうかんせい)の整備、戸籍(こせき)の制定、班田収授法はんでんしゅうじゅほうの構想、地方行政の再編――。


 これらの改革のすべてが、紙を必要とした。


 戸籍は紙に書く。地租(ちそ)台帳(だいちょう)も紙に書く。詔勅(しょうちょく)も、勅令(ちょくれい)も、すべて紙を介して伝達される。律令を整備するということは、すなわち、紙の使用量を、国家規模で爆発的(ばくはつてき)に増やすということでもある。


 倭の地でも、紙はすでに作られていた。推古朝の頃に高句麗の僧曇徴(どんちょう)が製紙法を伝えたとされ、(こうぞ)(あさ)を原料とする倭独自の紙作りが、地方の工房(こうぼう)で始まっていた。


 しかし、それを「国家規模」に拡張するには、まだ、時間が必要であった。


 その仕事を担うのは、五十六年後に大宝律令を編纂し、二十年後に紙屋院(しおくいん)を設置する、一人の男――。その男は、まだ、生まれていない。母の胎内(たいない)にも、いない。


 しかし、彼の父・鎌足は、いま、血刀(ちがたな)()げて、新しい国家の枠組みを設計しようとしている。





 ここで、舞台は、ふたたび西へ。長安。


 貞観十九年。倭でいう大化元年と、まさに同じ年である。


 長安の春の日、城門の外に、巨大な行列が到着した。僧侶(そうりょ)の一団、数百匹(すうひゃっぴき)の馬、さらにそれに引かれた荷車(にぐるま)には、おびただしい数の経巻(きょうかん)仏像(ぶつぞう)が積まれていた。


 行列の先頭にいたのは、日に焼け、()せ、(ひげ)(たくわ)えた、四十五歳の僧であった。


 玄奘。


 俗名(ぞくみょう)陳褘(ちんい)河南(かなん)の出身。十三歳で出家し、二十六歳のとき、ひそかに国境を越え、西域(さいいき)踏破(とうは)して天竺(てんじく)――インド――へ向かった。


 なぜ、彼は国を越えたのか。


「経典に、誤りが多すぎる」


 それが、彼の理由であった。中国に伝わる仏典(ぶってん)は、その大半が西域や中央アジアを経由して翻訳(ほんやく)されたものであり、訳語(やくご)の違い、釈義(しゃくぎ)の対立、用語の不統一があまりにも多かった。


 玄奘は、それらをすべて、原典(げんてん)に当たって、正したいと考えた。そのために、十七年。往路(おうろ)三年、滞在十一年、復路(ふくろ)三年。その間に踏破した国は、彼自身の記述(『大唐西域記(だいとうさいいきき)』)によれば、百三十八ヶ国。持ち帰った経典は、六百五十七部。


 そして六四五年正月、彼は、長安に帰り着いた。





 太宗・李世民は、玄奘を引見(いんけん)した。


 宮城(きゅうじょう)弘福寺(こうふくじ)の一室で、皇帝は、痩せた僧と向かい合った。太宗は、もはや、若き日の英姿(えいし)ではない。皇太子の廃立(はいりつ)魏徴(ぎちょう)の死、そして、いま準備中の高句麗遠征。心労(しんろう)の影は、(かく)せない。


「西域百三十八ヶ国を歩いたとか」


左様(さよう)にござります」


「経典は、何ゆえ、必要であったか」


 玄奘は、(あわ)く笑った。


「言葉が違えば、同じ仏陀(ぶっだ)の教えも、別物になり申す。陛下が新しき国を建てられるとき、文字と用語を統一なされましょう。それと同じことを、仏教界においても()さねばならぬ、と思うたまでにござります」


 太宗は、(うず)いた。


「経の訳出(やくしゅつ)に、どれほどの時を要する」


(しん)生涯(しょうがい)の、残り、すべて」


 玄奘は、淡々と答えた。太宗は、玄奘に最大の支援(しえん)を約束した。弘福寺(こうふくじ)慈恩寺(じおんじ)玉華宮(ぎょくかきゅう)と場を移しつつ、玄奘はその後十九年、ひたすら経典を翻訳し続けることになる。


 そして彼の翻訳のなかから、後年、東アジア仏教の中核を成す思想が一つ、結晶(けっしょう)する。


 唯識。


 すべての存在は心の現れであり、外界の事物は心の作り出した(ぞう)に過ぎない――というインド大乗仏教の中観(ちゅうがん)と並ぶ二大思想潮流。玄奘の弟子・慈恩大師(じおんだいし)窺基(きき)によって体系化されるこの教学(きょうがく)は、後年、法相宗として中国・朝鮮・倭へ伝えられる。


 倭においては、これが奈良の興福寺(こうふくじ)に伝わり、藤原氏の氏寺(うじでら)の中核教義となる。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立(だいぶつぞうりゅう)思想にも、間接的に影響を与える。


 つまり、玄奘が長安に持ち帰った経巻の山は、いずれ、海を越え、倭の地で、藤原氏という氏族の宗教的背骨(せぼね)を形成することになる。


 倭の地で、いま、中大兄皇子と鎌足が新しい国の枠組みを作ろうとしているまさに同じ時に、長安では、その新しい国の宗教的装備(そうび)を担う経典が、運ばれてきた。歴史というのは、しばしば、こういう奇妙な対称性(たいしょうせい)を見せる。





 玄奘が翻訳に着手するや、長安の弘福寺には、無数の写経生(しゃきょうしょう)(つど)った。


 『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』百巻、『大般若波羅蜜多経だいはんにゃはらみたきょう』六百巻、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』十巻――その膨大(ぼうだい)訳経(やくきょう)事業を、紙が支えた。


 唐代の写経用紙には、麻紙(まし)楮紙(ちょし)、そして黄麻紙(おうまし)――虫害を防ぐために黄檗(きはだ)()めた紙――が用いられた。長安の慈恩寺だけで、玄奘の訳業(やくぎょう)歳月(さいげつ)に消費された紙は、おそらく数十万枚にのぼる。


 紙がなければ、玄奘の旅は、無意味であった。百三十八ヶ国を歩き、命懸(いのちが)けで原典を持ち帰っても、それを書き写す紙がなければ、彼の十七年は徒労(とろう)に終わる。


 だからこそ太宗は、彼に紙を与えた。皇帝が玄奘に与えたのは、寺と弟子と保護――そして、何より、紙であった。


 玄奘の弟子のなかには、のちに新羅から留学する元暁(がんぎょう)義湘(ぎしょう)円測(えんそく)らもいる。義湘は華厳を、円測は唯識を学び、それぞれ半島へ持ち帰る。元暁は半島で独自の体系を(きず)く。


 そして、これらの弟子の弟子の世代――百年後に、新羅の僧・審祥という男が、海を渡り、倭の地で『華厳経』を講じ、奈良の東大寺の大仏造立思想の精神的基盤(きばん)を築くことになる。


 長安の春の日に、太宗の前で淡く笑った僧の翻訳事業――それが、はるか百年後、倭の地に巨大な毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を出現させる、その(とお)い、遠い起点であった。





 しかし、それは、すべて、まだ先の話である。


 倭の地では、入鹿の血が、板蓋宮の前庭でようやく(かわ)いたばかりであった。


 長安の弘福寺では、玄奘が初めての訳経を始めようとしていた。


 そして、海を越えた半島では、金春秋(こんしゅんじゅう)が、唐への使節派遣を、(ひそ)かに準備していた。


 世界は、動いていた。ただ、誰もが、自分の国の中の出来事だけに、目を(うば)われていた、というに過ぎない。


 倭の地に、藤原不比等という男が生まれるのは、まだ、十四年も先である。


 しかし、その男のための舞台は、すでに、整い始めていた。

〔正史より──〕


歴史を(さかのぼ)るということは、しばしば、一日のうちに起こった出来事を、その背後にある十年・百年・千年の時間と並べて読み直す作業である。


皇極(こうぎょく)天皇4年・貞観(じょうがん)19年。


西暦645年は、東アジアの東西二地点で、ほぼ同時に重要な事件が記録された年であった。


東の倭国における、乙巳(いっし)の変。


西の唐の都・長安における、玄奘の帰還。


この二つの出来事を、まずは史料の側から、それぞれ整理しておきたい。



倭国の事件について、最も詳しい記述を残すのは、いうまでもなく『日本書紀』である。


同書・皇極天皇四年六月十二日条には、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがのいるか)誅殺(ちゅうさつ)の経緯が、比較的詳細に記録されている。


同日、三韓――新羅・百済・高句麗――の朝貢使(ちょうこうし)を迎える儀式が大極殿前庭において予定されていた。皇極天皇が玉座に座し、大臣(おおおみ)・蘇我入鹿が脇に(はべ)る。表文の捧読(ほうどく)役を務めたのは、蘇我氏の傍流(ぼうりゅう)でありながら密かに中大兄皇子側に通じていた蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろであった。


実行役として配置されていたのは、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみたの二剣士である。


ここで興味深いのは、『日本書紀』が、この二剣士の動揺(どうよう)をきわめて率直に記録している点である。


両者がいざ実行の瞬間に至って動けなくなった様子は、「子麻呂等、水を以て送飯(そうはん)すれども、恐れて反吐(へんと)せり」――水をもって飯を呑み込もうとするが、恐怖のあまり吐き戻した――との一節に集約されている。


歴史の決定的な瞬間(しゅんかん)において、日頃(ひごろ)勇士(ゆうし)が動けなくなる、という現象は、東西の史書に散見(さんけん)される。『日本書紀』の筆者(ひっしゃ)がこの場面を削除(さくじょ)せず書き留めたことには、それなりの意図(いと)があったと考えられる。中大兄皇子が(みずか)ら剣を取って入鹿に斬りつけ、皇極天皇が無言のまま殿内に退き、最終的に子麻呂・網田が二人がかりで入鹿を斬殺した、という結末も、いずれも同条に記される。



事件翌々日の六月十四日、皇極天皇は譲位(じょうい)した。


皇位は弟の軽皇子(かるのみこ)継承(けいしょう)され、孝徳(こうとく)天皇となる。同月十九日、初の元号として「大化」が定められた。中大兄皇子は皇太子に立てられ、中臣鎌足(なかとみのかまたり)内臣(うちつおみ)(にん)ぜられた。これらの一連の改革については、『日本書紀』孝徳天皇紀および後世の『藤氏家伝(とうしかでん)』にやや詳しい記述がある。


ここで関連して触れておくべきは、事件の翌日の蘇我蝦夷の自害と、それに伴う『天皇記(てんのうき)』『国記(こっき)』の焼失(しょうしつ)騒動である。


『日本書紀』皇極天皇四年六月十三日条には、蝦夷が自邸を焼いて自害した際、邸内に収蔵(しゅうぞう)されていた両書が炎上(えんじょう)しかけたが、船史恵尺(ふねのふびとえさか)炎中(えんちゅう)より『国記』を()き出して中大兄皇子に(けん)じた、と記される。『天皇記』のほうは焼失した。


これらの歴史書は、推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子(そがのうまこ)が編纂したと『日本書紀』推古天皇二十八年是歳条に記される。すなわち乙巳の変において焼失した『天皇記』は、聖徳太子の手による日本最古級の歴史書であった可能性が高い。


『国記』を一冊救うために炎の中へ飛び込んだ男の名が、千四百年を経た今日に至るまで残されているという事実は、当時の人々が「書かれた歴史」というものをいかに重く見ていたかを示す証左(しょうさ)として、しばしば言及される。


紙が燃えれば、歴史も燃える。歴史が燃えれば、国もまた、その記憶を失う。


中大兄皇子と鎌足が血刀(ちがたな)を提げたその同じ日に、もう一人の男が炎の中へ飛び込み、紙の束を救い出していた。これは偶然ではない。乙巳の変は、政治闘争であると同時に、「書かれた歴史」をめぐる争奪戦(そうだつせん)でもあったのである。



中臣鎌足(なかとみのかまたり)出自(しゅつじ)と教養については、『日本書紀』および『藤氏家伝』が補足的な情報を提供している。


鎌足は若き日、僧旻(そうみん)の塾と南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾に通って漢籍と政治思想を学んだとされる。両者はいずれも遣隋(けんずい)留学を経て長期にわたり大陸に滞在(たいざい)した知識人であり、僧旻は24年、南淵請安は32年の留学経験を持つ。


これは決して(みじか)い年数ではない。


僧旻が隋に渡ったのは推古15年(607年)、帰国したのが舒明4年(632年)。すなわち彼は、隋の滅亡(めつぼう)と唐の建国(けんこく)、太宗の即位(そくい)という大陸の大変動(だいへんどう)を、現地で目撃した男である。南淵請安もまた、(おな)じ世代の留学生として、同じ大変動を見ていた。


その両人の(じゅく)で、鎌足は何を学んだか。


史書はその具体的な内容(ないよう)を記さない。


しかし、僧旻と南淵請安が大陸で目撃したものを想像(そうぞう)すれば、おのずと(さっ)しはつく。倭国を、大陸の最新の国家機構(こっかきこう)に倣って作り変えなければ、半島三国の趨勢(すうせい)のなかで()み込まれる――。鎌足が中大兄皇子と出会ったとされる蹴鞠(けまり)挿話(そうわ)は、『藤氏家伝』にのみ詳しい記述が見え、『日本書紀』には対応する記載がない。歴史的事実としての信憑性(しんぴょうせい)については議論(ぎろん)があるが、両者の結束(けっそく)の早期からの形成を示す挿話として、後世広く流布(るふ)した。



一方、唐における同時期の動きとして、玄奘三蔵の長安帰還を挙げねばならない。


大慈恩寺三蔵法師伝だいじおんじさんぞうほうしでん』および『続高僧伝(ぞくこうそうでん)』玄奘伝によれば、玄奘は貞観19年正月24日(西暦三月初頭)、17年に及ぶ天竺往還の旅を終えて長安に帰着した。携えた経典は657部、仏舎利150粒、仏像7体に及ぶ。


ここで注目すべきは、太宗李世民の対応である。


玄奘の出発は貞観3年(629年)、(ひそ)かに国境を越える形で実行されたものであった。太宗は当初、玄奘の出国(しゅっこく)許可(きょか)していなかった。


すなわち玄奘は、本来であれば、帰国に際して処罰(しょばつ)されてもおかしくない立場(たちば)であった。


ところが太宗は、宮城の弘福寺(こうふくじ)において玄奘を引見(いんけん)し、出国の経緯について問い(ただ)した上で、なお玄奘の業績(ぎょうせき)を高く評価し、訳経(やくきょう)事業への全面的な支援を約束したという。これは『大慈恩寺三蔵法師伝』が伝えるところである。


なぜ太宗が玄奘を許したか――この問いについて、史書は明確な答えを残していない。後世の研究では、玄奘がもたらした西域・天竺の地理情報および外交知識が、当時の唐帝国の西方経営(せいほうけいえい)にとって不可欠であったとする説が有力(ゆうりょく)である。



訳経事業はこの後、玄奘の死(顕慶四年・664年)まで継続される。


生涯の翻訳経典総数は76部、1347巻に及び、漢訳仏教経典の歴史において最大規模の業績となった。とりわけ『大般若波羅蜜多経だいはんにゃはらみたきょう』600巻、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』100巻、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』10巻などは、後世の東アジア仏教の根幹を形成する経典として位置づけられている。


ここで、玄奘の門下(もんか)の動向にも触れておきたい。


後年、玄奘の門下からは新羅出身の留学僧が複数輩出(はいしゅつ)した。円測(えんそく)(613―696年)は唯識(ゆいしき)を、義湘(ぎしょう)(625―702年)は華厳(けごん)を学び、それぞれ半島へ持ち帰った。元暁(がんぎょう)(617―686年)は半島で独自の教学体系を(きず)いた。


これらの僧の活動は、新羅における仏教思想の隆盛(りゅうせい)をもたらすとともに、後年、海を越えて倭国にも波及(はきゅう)する。とりわけ後の天平(てんぴょう)年間(八世紀前半)に倭国で『華厳経』が講じられる際、その思想的源流(げんりゅう)は玄奘の訳経事業にまで(さかのぼ)ることになる。



倭国における製紙技術(せいしぎじゅつ)については、『日本書紀』推古天皇十八年(610年)三月条に、高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が来日して五経をよくし、紙・墨・絵具・水車(すいしゃ)碾磑(てんがい))の製法を伝えたとの記述がある。


曇徴の伝えた技法を倭国における製紙(せいし)の直接の起源とするか否かについては議論があるが、七世紀前半の倭国においてすでに製紙が行われていたことは、複数の史料および考古学的(こうこがくてき)調査からも(うら)づけられている。


乙巳の変の後の大化改新が戸籍(こせき)の整備、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の構想、地方官制の整備を含むことを考えれば、倭国における紙の本格的な需要は、まさにこの時代から国家規模で拡大(かくだい)することとなる。


唐代の宮廷においては、皇帝の詔書(しょうしょ)を「制書(せいしょ)」と呼び、白麻紙(はくましし)が用いられた。これに対し、玄奘の訳経の正本は黄麻紙(こうましし)――黄檗(きはだ)で染めた防虫紙――に書写された。経典が長期保存されることを前提としたこの素材選択は、当時の唐帝国の文書文化の到達点(とうたつてん)を示している。


慈恩寺における玄奘の訳経事業の歳月(さいげつ)において消費(しょうひ)された紙の総量は、おそらく数十万枚に及んだと推定される。



長安における玄奘の帰還と、倭国における乙巳の変。


書かれた場所も、書かれた書物も、書いた人物もまったく異なるこれら二つの出来事を、645年という同じ年に並べて読むとき、そこに(なに)かの構造(こうぞう)が浮かび上がるかどうか――これは、史料の側からは断定(だんてい)できない問いである。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


倭の地で炎の中から救い出された『国記』も、長安の慈恩寺で書写され続けた数十万枚の経典も、その素材(そざい)はいずれも紙であった。紙は、()かれれば(うしな)われ、保存されれば千年を生き()びる。


我々が今日、この645年の出来事を、飛鳥(あすか)の血と長安の(きょう)のいずれをも(ふく)めて再構成し得るのは、()け残った紙と、()められた紙とが、それぞれの場所で千四百年を生き延びたからに(ほか)ならない。

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