第四話 六四五年・飛鳥(倭)、長安(唐)プロローグ
── 乙巳の変、天竺の経 ──
倭国、飛鳥。
皇極天皇四年。西暦六四五年。
長安から東へ約四千里、海を二度渡り、半島を縦断して、ようやく辿り着く東の果て。倭という国の中心は、この時代、奈良盆地の南端、飛鳥の地にあった。
飛鳥は、都というには小さい。
唐の長安が、城郭に囲まれた百万の人口を擁する世界都市であったのに対し、飛鳥は、山と川と田と社と、いくらかの宮殿と寺と豪族の屋敷から成る、いわば、大集落に近い都であった。
しかし、規模が小さいということは、必ずしも事件の規模が小さいことを意味しない。むしろ狭い場所であるほど、政治の刃は、近い距離で振るわれる。
◆
その年、六月十二日。
飛鳥板蓋宮に、三韓――新羅・百済・高句麗――の朝貢使を迎える儀式が予定されていた。
玉座に座すのは、皇極天皇。女帝であった。その傍らに侍るは、当時の倭国の最高権力者、大臣・蘇我入鹿。
蘇我氏は、すでに半世紀にわたり、倭の朝廷を実質的に支配していた。曽祖父・馬子が崇峻天皇を弑し、推古天皇を擁立して以来、祖父・蝦夷、そして父子・入鹿の代に至るまで、皇統そのものを左右する地位を独占し続けてきた一族である。
入鹿に至っては、前々年(六四三年)、聖徳太子の遺族たる山背大兄王を斑鳩宮に襲い、一族もろとも自死に追い込んだ。これにより、聖徳太子の血筋は、完全に絶えた。
倭の朝廷は、もはや、蘇我氏のものであった。
しかし、そのとき、玉座のすぐ手前――石榻の陰に、一人の若き皇族が、剣を握って震えていた。
中大兄皇子。
時に二十歳。皇極天皇の子であり、皇統の正嫡に近い位置にあった皇子である。彼は、その日、入鹿を斬るために、ここにいた。
◆
中大兄皇子の隣には、もう一人、男がいる。
中臣鎌子。後の鎌足。鎌足はこのとき、おそらく三十一、二歳。中臣氏は、神祇を司る古い氏族であったが、政治的には、ほとんど無位無官に近い家であった。
しかし鎌足は、ただ者ではなかった。学問を好み、史書を読み、当時の倭としては破格に唐の制度に通じていた。
一説に、彼は若き日、僧旻の塾に通って『周易』を学んだという。僧旻は、推古朝の遣隋使の一行として隋に渡り、二十四年の留学を経て帰国した、当代きっての知識人である。
鎌足は、僧旻の塾で、もう一人の青年と出会った。
南淵請安。やはり、隋への留学経験を持つ。鎌足は彼の塾に通い、漢籍と政治思想を学んだ。そして、こう確信したという。
「倭は、変わらねば滅びる」
唐は、すでに東突厥を滅ぼし、高句麗の遠征を開始している。新羅は唐と接近し、百済は親唐から麗済同盟へと寝返りつつある。半島の三国はいずれも王権の強化に努め、官僚制の整備に走っている。
ところが、倭の朝廷は、いまだに豪族の合議制の延長線上にある。皇族と豪族の境界は曖昧で、税制も土地制度も、未整備のまま。蘇我氏の専横は、その「未整備」の闇の上に、寄生して肥大したものであった。
このまま唐の遠征軍が向けられれば――もしくは、半島の三国のいずれかが連合軍を組んで攻めてくれば――倭は、ひとたまりもない。
鎌足は、それを見通していた。
蹴鞠の場で、彼は中大兄皇子の脱げた靴を拾った――と、それが二人の出会いであった、と。事実かどうかは知らない。しかし、知識人と皇族の出会いというものは、たいてい、こうした、何でもないような場面で訪れる。
二人は、密談を重ねた。蘇我氏を、倒す。倒した上で、唐に倣った国家機構を、倭の地に作る。それが、彼らの計画であった。
◆
六月十二日、未刻。
板蓋宮の大極殿の前庭。皇極天皇が玉座に座し、入鹿が脇に侍り、皇族と諸豪族が居並ぶ。広場には、三韓の使者が三列にひかえている。
新羅の使、百済の使、そして高句麗の使。倭が、半島三国を「朝貢国」として遇していたのか、それとも単に「友好国の使者」として迎えていたのか――倭の側は前者と書き、半島の史書は後者と書く。要するに、双方が双方の物語を持っていた、ということである。
このような外交儀式は、普段ならば、何ごともなく終わる。だが、この日は、何ごともなく終わらなかった。
「上表文」を捧読する係に任ぜられたのは、石川麻呂。蘇我氏の傍流でありながら、密かに中大兄皇子・鎌足側に通じていた男である。
彼が表文を読み始める。その瞬間、宮の門が、外から閉じられた。
中大兄皇子と佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田の二剣士が、それぞれ持ち場を取った。
しかし――
二人の剣士は、動かなかった。腰が砕け、足が萎え、顔は蒼白になり、汗が滝のように流れた、という。中大兄皇子の合図を待つはずの彼らは、いざその瞬間に至って、震えて動けなくなった。
これは、歴史の残酷な瞬間でしばしば起こる現象である。日頃、勇士と称される者が、その瞬間に至って動けなくなる。
中大兄皇子は、自ら剣を抜いた。そして、入鹿の頭頂部に、斬りつけた。
◆
入鹿は、瞬時に状況を悟った。
血を流しながら、彼は玉座のほうへ転がるように這い寄り、皇極天皇の足にすがって叫んだ。
「臣、何の罪ぞ――!」
天皇は、立ち上がっていた。
「これは、何ごとぞ」
中大兄皇子は、母である天皇に向かって、跪いた。
「入鹿は、皇族を滅し、皇位を窺う者にござります。お許しを」
天皇は、しばらく動かなかった。
そして――。無言のまま、奥へと退いた。
これが、退位の意思表示であった。あるいは、母として息子の所業を黙認した瞬間でもあった。母が黙って退いたとき、息子は止められなくなる。
子麻呂と網田が、ようやく動いた。二人がかりで、入鹿を、斬り殺した。血は、玉座の前を、赤く濡らした。
◆
入鹿の遺体は、雨の中、庭にうち捨てられた。父の蘇我蝦夷は、自邸に火を放して自害した。
このとき、蝦夷の邸には、彼が編纂させていた歴史書が二部、収蔵されていた。『天皇記』と『国記』である。両書とも、火の中に消えかけた。
しかし、船史恵尺という男が、燃え盛る炎の中に飛び込み、『国記』を抜き出して、中大兄皇子に献上したという。『天皇記』は、焼失した。
これは『日本書紀』が伝える事実である。考えてみれば、奇妙な話ではある。歴史書が焼かれかけ、ぎりぎりで救われる。これだけのために、一人の男の名が、千年あまりを生き延びる。
しかしそれは、当時の人々が、書かれた言葉――紙に書かれた歴史――を、いかに重く見ていたかの証左でもある。
紙が燃えれば、歴史も燃える。歴史が燃えれば、国もまた、その記憶を失う。
中大兄皇子と鎌足は、おそらくは、その重みを、誰よりも分かっていた。
◆
乙巳の変――この日、干支が乙巳であったことから、後にこう呼ばれる――の翌日。
皇極天皇は、譲位した。弟の軽皇子が、皇位を継いだ。これが孝徳天皇である。中大兄皇子は、皇太子となった。
そして、この国に、初めての元号が定められた。
「大化」――大いなる、化。
「化」とは、変化、教化、感化、すなわち「変わる」ことそのものである。倭の地に、変革の時代が、ここから始まる。
後世「大化の改新」と呼ばれることになる、唐に倣った国家改造の最初の一歩。中央官制の整備、戸籍の制定、班田収授法の構想、地方行政の再編――。
これらの改革のすべてが、紙を必要とした。
戸籍は紙に書く。地租の台帳も紙に書く。詔勅も、勅令も、すべて紙を介して伝達される。律令を整備するということは、すなわち、紙の使用量を、国家規模で爆発的に増やすということでもある。
倭の地でも、紙はすでに作られていた。推古朝の頃に高句麗の僧曇徴が製紙法を伝えたとされ、楮や麻を原料とする倭独自の紙作りが、地方の工房で始まっていた。
しかし、それを「国家規模」に拡張するには、まだ、時間が必要であった。
その仕事を担うのは、五十六年後に大宝律令を編纂し、二十年後に紙屋院を設置する、一人の男――。その男は、まだ、生まれていない。母の胎内にも、いない。
しかし、彼の父・鎌足は、いま、血刀を提げて、新しい国家の枠組みを設計しようとしている。
◆
ここで、舞台は、ふたたび西へ。長安。
貞観十九年。倭でいう大化元年と、まさに同じ年である。
長安の春の日、城門の外に、巨大な行列が到着した。僧侶の一団、数百匹の馬、さらにそれに引かれた荷車には、おびただしい数の経巻と仏像が積まれていた。
行列の先頭にいたのは、日に焼け、痩せ、髭を蓄えた、四十五歳の僧であった。
玄奘。
俗名、陳褘。河南の出身。十三歳で出家し、二十六歳のとき、ひそかに国境を越え、西域を踏破して天竺――インド――へ向かった。
なぜ、彼は国を越えたのか。
「経典に、誤りが多すぎる」
それが、彼の理由であった。中国に伝わる仏典は、その大半が西域や中央アジアを経由して翻訳されたものであり、訳語の違い、釈義の対立、用語の不統一があまりにも多かった。
玄奘は、それらをすべて、原典に当たって、正したいと考えた。そのために、十七年。往路三年、滞在十一年、復路三年。その間に踏破した国は、彼自身の記述(『大唐西域記』)によれば、百三十八ヶ国。持ち帰った経典は、六百五十七部。
そして六四五年正月、彼は、長安に帰り着いた。
◆
太宗・李世民は、玄奘を引見した。
宮城の弘福寺の一室で、皇帝は、痩せた僧と向かい合った。太宗は、もはや、若き日の英姿ではない。皇太子の廃立、魏徴の死、そして、いま準備中の高句麗遠征。心労の影は、隠せない。
「西域百三十八ヶ国を歩いたとか」
「左様にござります」
「経典は、何ゆえ、必要であったか」
玄奘は、淡く笑った。
「言葉が違えば、同じ仏陀の教えも、別物になり申す。陛下が新しき国を建てられるとき、文字と用語を統一なされましょう。それと同じことを、仏教界においても為さねばならぬ、と思うたまでにござります」
太宗は、頷いた。
「経の訳出に、どれほどの時を要する」
「臣の生涯の、残り、すべて」
玄奘は、淡々と答えた。太宗は、玄奘に最大の支援を約束した。弘福寺、慈恩寺、玉華宮と場を移しつつ、玄奘はその後十九年、ひたすら経典を翻訳し続けることになる。
そして彼の翻訳のなかから、後年、東アジア仏教の中核を成す思想が一つ、結晶する。
唯識。
すべての存在は心の現れであり、外界の事物は心の作り出した像に過ぎない――というインド大乗仏教の中観と並ぶ二大思想潮流。玄奘の弟子・慈恩大師窺基によって体系化されるこの教学は、後年、法相宗として中国・朝鮮・倭へ伝えられる。
倭においては、これが奈良の興福寺に伝わり、藤原氏の氏寺の中核教義となる。聖武天皇の大仏造立思想にも、間接的に影響を与える。
つまり、玄奘が長安に持ち帰った経巻の山は、いずれ、海を越え、倭の地で、藤原氏という氏族の宗教的背骨を形成することになる。
倭の地で、いま、中大兄皇子と鎌足が新しい国の枠組みを作ろうとしているまさに同じ時に、長安では、その新しい国の宗教的装備を担う経典が、運ばれてきた。歴史というのは、しばしば、こういう奇妙な対称性を見せる。
◆
玄奘が翻訳に着手するや、長安の弘福寺には、無数の写経生が集った。
『瑜伽師地論』百巻、『大般若波羅蜜多経』六百巻、『成唯識論』十巻――その膨大な訳経事業を、紙が支えた。
唐代の写経用紙には、麻紙と楮紙、そして黄麻紙――虫害を防ぐために黄檗で染めた紙――が用いられた。長安の慈恩寺だけで、玄奘の訳業の歳月に消費された紙は、おそらく数十万枚にのぼる。
紙がなければ、玄奘の旅は、無意味であった。百三十八ヶ国を歩き、命懸けで原典を持ち帰っても、それを書き写す紙がなければ、彼の十七年は徒労に終わる。
だからこそ太宗は、彼に紙を与えた。皇帝が玄奘に与えたのは、寺と弟子と保護――そして、何より、紙であった。
玄奘の弟子のなかには、のちに新羅から留学する元暁、義湘、円測らもいる。義湘は華厳を、円測は唯識を学び、それぞれ半島へ持ち帰る。元暁は半島で独自の体系を築く。
そして、これらの弟子の弟子の世代――百年後に、新羅の僧・審祥という男が、海を渡り、倭の地で『華厳経』を講じ、奈良の東大寺の大仏造立思想の精神的基盤を築くことになる。
長安の春の日に、太宗の前で淡く笑った僧の翻訳事業――それが、はるか百年後、倭の地に巨大な毘盧遮那仏を出現させる、その遠い、遠い起点であった。
◆
しかし、それは、すべて、まだ先の話である。
倭の地では、入鹿の血が、板蓋宮の前庭でようやく乾いたばかりであった。
長安の弘福寺では、玄奘が初めての訳経を始めようとしていた。
そして、海を越えた半島では、金春秋が、唐への使節派遣を、密かに準備していた。
世界は、動いていた。ただ、誰もが、自分の国の中の出来事だけに、目を奪われていた、というに過ぎない。
倭の地に、藤原不比等という男が生まれるのは、まだ、十四年も先である。
しかし、その男のための舞台は、すでに、整い始めていた。
〔正史より──〕
歴史を遡るということは、しばしば、一日のうちに起こった出来事を、その背後にある十年・百年・千年の時間と並べて読み直す作業である。
皇極天皇4年・貞観19年。
西暦645年は、東アジアの東西二地点で、ほぼ同時に重要な事件が記録された年であった。
東の倭国における、乙巳の変。
西の唐の都・長安における、玄奘の帰還。
この二つの出来事を、まずは史料の側から、それぞれ整理しておきたい。
◆
倭国の事件について、最も詳しい記述を残すのは、いうまでもなく『日本書紀』である。
同書・皇極天皇四年六月十二日条には、飛鳥板蓋宮における蘇我入鹿誅殺の経緯が、比較的詳細に記録されている。
同日、三韓――新羅・百済・高句麗――の朝貢使を迎える儀式が大極殿前庭において予定されていた。皇極天皇が玉座に座し、大臣・蘇我入鹿が脇に侍る。表文の捧読役を務めたのは、蘇我氏の傍流でありながら密かに中大兄皇子側に通じていた蘇我倉山田石川麻呂であった。
実行役として配置されていたのは、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二剣士である。
ここで興味深いのは、『日本書紀』が、この二剣士の動揺をきわめて率直に記録している点である。
両者がいざ実行の瞬間に至って動けなくなった様子は、「子麻呂等、水を以て送飯すれども、恐れて反吐せり」――水をもって飯を呑み込もうとするが、恐怖のあまり吐き戻した――との一節に集約されている。
歴史の決定的な瞬間において、日頃の勇士が動けなくなる、という現象は、東西の史書に散見される。『日本書紀』の筆者がこの場面を削除せず書き留めたことには、それなりの意図があったと考えられる。中大兄皇子が自ら剣を取って入鹿に斬りつけ、皇極天皇が無言のまま殿内に退き、最終的に子麻呂・網田が二人がかりで入鹿を斬殺した、という結末も、いずれも同条に記される。
◆
事件翌々日の六月十四日、皇極天皇は譲位した。
皇位は弟の軽皇子に継承され、孝徳天皇となる。同月十九日、初の元号として「大化」が定められた。中大兄皇子は皇太子に立てられ、中臣鎌足は内臣に任ぜられた。これらの一連の改革については、『日本書紀』孝徳天皇紀および後世の『藤氏家伝』にやや詳しい記述がある。
ここで関連して触れておくべきは、事件の翌日の蘇我蝦夷の自害と、それに伴う『天皇記』『国記』の焼失騒動である。
『日本書紀』皇極天皇四年六月十三日条には、蝦夷が自邸を焼いて自害した際、邸内に収蔵されていた両書が炎上しかけたが、船史恵尺が炎中より『国記』を抜き出して中大兄皇子に献じた、と記される。『天皇記』のほうは焼失した。
これらの歴史書は、推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したと『日本書紀』推古天皇二十八年是歳条に記される。すなわち乙巳の変において焼失した『天皇記』は、聖徳太子の手による日本最古級の歴史書であった可能性が高い。
『国記』を一冊救うために炎の中へ飛び込んだ男の名が、千四百年を経た今日に至るまで残されているという事実は、当時の人々が「書かれた歴史」というものをいかに重く見ていたかを示す証左として、しばしば言及される。
紙が燃えれば、歴史も燃える。歴史が燃えれば、国もまた、その記憶を失う。
中大兄皇子と鎌足が血刀を提げたその同じ日に、もう一人の男が炎の中へ飛び込み、紙の束を救い出していた。これは偶然ではない。乙巳の変は、政治闘争であると同時に、「書かれた歴史」をめぐる争奪戦でもあったのである。
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中臣鎌足の出自と教養については、『日本書紀』および『藤氏家伝』が補足的な情報を提供している。
鎌足は若き日、僧旻の塾と南淵請安の塾に通って漢籍と政治思想を学んだとされる。両者はいずれも遣隋留学を経て長期にわたり大陸に滞在した知識人であり、僧旻は24年、南淵請安は32年の留学経験を持つ。
これは決して短い年数ではない。
僧旻が隋に渡ったのは推古15年(607年)、帰国したのが舒明4年(632年)。すなわち彼は、隋の滅亡と唐の建国、太宗の即位という大陸の大変動を、現地で目撃した男である。南淵請安もまた、同じ世代の留学生として、同じ大変動を見ていた。
その両人の塾で、鎌足は何を学んだか。
史書はその具体的な内容を記さない。
しかし、僧旻と南淵請安が大陸で目撃したものを想像すれば、おのずと察しはつく。倭国を、大陸の最新の国家機構に倣って作り変えなければ、半島三国の趨勢のなかで呑み込まれる――。鎌足が中大兄皇子と出会ったとされる蹴鞠の挿話は、『藤氏家伝』にのみ詳しい記述が見え、『日本書紀』には対応する記載がない。歴史的事実としての信憑性については議論があるが、両者の結束の早期からの形成を示す挿話として、後世広く流布した。
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一方、唐における同時期の動きとして、玄奘三蔵の長安帰還を挙げねばならない。
『大慈恩寺三蔵法師伝』および『続高僧伝』玄奘伝によれば、玄奘は貞観19年正月24日(西暦三月初頭)、17年に及ぶ天竺往還の旅を終えて長安に帰着した。携えた経典は657部、仏舎利150粒、仏像7体に及ぶ。
ここで注目すべきは、太宗李世民の対応である。
玄奘の出発は貞観3年(629年)、密かに国境を越える形で実行されたものであった。太宗は当初、玄奘の出国を許可していなかった。
すなわち玄奘は、本来であれば、帰国に際して処罰されてもおかしくない立場であった。
ところが太宗は、宮城の弘福寺において玄奘を引見し、出国の経緯について問い質した上で、なお玄奘の業績を高く評価し、訳経事業への全面的な支援を約束したという。これは『大慈恩寺三蔵法師伝』が伝えるところである。
なぜ太宗が玄奘を許したか――この問いについて、史書は明確な答えを残していない。後世の研究では、玄奘がもたらした西域・天竺の地理情報および外交知識が、当時の唐帝国の西方経営にとって不可欠であったとする説が有力である。
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訳経事業はこの後、玄奘の死(顕慶四年・664年)まで継続される。
生涯の翻訳経典総数は76部、1347巻に及び、漢訳仏教経典の歴史において最大規模の業績となった。とりわけ『大般若波羅蜜多経』600巻、『瑜伽師地論』100巻、『成唯識論』10巻などは、後世の東アジア仏教の根幹を形成する経典として位置づけられている。
ここで、玄奘の門下の動向にも触れておきたい。
後年、玄奘の門下からは新羅出身の留学僧が複数輩出した。円測(613―696年)は唯識を、義湘(625―702年)は華厳を学び、それぞれ半島へ持ち帰った。元暁(617―686年)は半島で独自の教学体系を築いた。
これらの僧の活動は、新羅における仏教思想の隆盛をもたらすとともに、後年、海を越えて倭国にも波及する。とりわけ後の天平年間(八世紀前半)に倭国で『華厳経』が講じられる際、その思想的源流は玄奘の訳経事業にまで遡ることになる。
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倭国における製紙技術については、『日本書紀』推古天皇十八年(610年)三月条に、高句麗の僧・曇徴が来日して五経をよくし、紙・墨・絵具・水車(碾磑)の製法を伝えたとの記述がある。
曇徴の伝えた技法を倭国における製紙の直接の起源とするか否かについては議論があるが、七世紀前半の倭国においてすでに製紙が行われていたことは、複数の史料および考古学的調査からも裏づけられている。
乙巳の変の後の大化改新が戸籍の整備、班田収授の構想、地方官制の整備を含むことを考えれば、倭国における紙の本格的な需要は、まさにこの時代から国家規模で拡大することとなる。
唐代の宮廷においては、皇帝の詔書を「制書」と呼び、白麻紙が用いられた。これに対し、玄奘の訳経の正本は黄麻紙――黄檗で染めた防虫紙――に書写された。経典が長期保存されることを前提としたこの素材選択は、当時の唐帝国の文書文化の到達点を示している。
慈恩寺における玄奘の訳経事業の歳月において消費された紙の総量は、おそらく数十万枚に及んだと推定される。
◆
長安における玄奘の帰還と、倭国における乙巳の変。
書かれた場所も、書かれた書物も、書いた人物もまったく異なるこれら二つの出来事を、645年という同じ年に並べて読むとき、そこに何かの構造が浮かび上がるかどうか――これは、史料の側からは断定できない問いである。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
倭の地で炎の中から救い出された『国記』も、長安の慈恩寺で書写され続けた数十万枚の経典も、その素材はいずれも紙であった。紙は、焼かれれば失われ、保存されれば千年を生き延びる。
我々が今日、この645年の出来事を、飛鳥の血と長安の経のいずれをも含めて再構成し得るのは、焼け残った紙と、染められた紙とが、それぞれの場所で千四百年を生き延びたからに他ならない。




