第三話 六四三年・長安(唐)、金城(新羅)プロローグ
── 二人の太子と、女王の屈辱 ──
長安。
貞観十七年。西暦六四三年。
唐の都に、その年、二つの大きな出来事があった。一つは皇太子の廃立。もう一つは、ある老臣の死である。
廃立された皇太子の名は、李承乾。死んだ老臣の名は、魏徴。
太宗・李世民の治世は、この二人を失ったことで、緩やかに、しかし確実に、傾き始めた。後世「貞観の治」と称された清明の世は、内部から軋み始めていたのである。
英主の晩年とは、どこでも、おおむねこういうものである。
李承乾は、太宗の長男であった。
母は長孫皇后。すなわち、長孫無忌の妹。武家の名門中の名門の、嫡出の御曹司である。八歳で皇太子に立てられた彼の前途には、何ひとつ陰というものはなかった――はずであった。
ただ、彼には、軽い跛行があった。
幼い頃に落馬して足を悪くしたとも、原因不明の病を患ったとも伝わる。歩行に難があり、馬術もままならなかった。武人の血を引く太宗にとって、これは、どこかしら受け入れがたい欠点であった――と、おそらく李承乾は感じていた。
そして父・太宗の関心は、次第に、四男の李泰に向かい始めていた。
李泰は、同じく長孫皇后の腹に生まれた皇子であり、利発で学問を好み、特に文人たちの庇護者として宮中に名声を得ていた。彼の周囲には常に学者と詩人が集い、編纂事業に没頭する姿は、太宗の若き日を思わせた。
太宗は、しばしば、李泰を寵愛した。その寵愛が、李承乾の心を蝕んでいった。
李承乾の奇行は、二十歳を過ぎる頃から目立つようになる。
突厥の風習を真似、宮殿に天幕を張って遊牧民の真似事をする。突厥語を喋ると言って意味不明の言葉を発する。臣下の前で「自分が皇帝になったら万騎を率いて漠北に遊ぶ」などと放言する。男色に耽り、寵愛していた美少年・称心が父・太宗に殺されると、宮中に祠を建てて朝夕これを拝んだ。
ただし、奇行と狂気は、紙一重で違う。多くの場合、人は奇行を通して何かを父親に伝えようとする。「私を見てくれ」と、屈折した形で叫んでいるのである。
太宗は、それを見なかった。正確に言えば、見ようとしなかった。
魏徴――唐第一の諫臣であり、太宗が「人を以て鏡となせば、得失を明らかにすべし」と評した男――は、晩年、この親子の溝を埋めようと幾度も諫言した。だが、貞観十七年正月、その魏徴が病で世を去る。
享年六十四。
魏徴の死に際し、太宗は手ずから碑文を撰み、ひどく嘆いたと伝わる。だが、皮肉なことに、魏徴の死の数か月後、太宗は碑を倒させ、嫁入り前であった魏徴の孫娘との縁談も破棄した。魏徴が生前に推した臣下の数名が太宗に背いた事件があったためである。
英主にして、こうである。人とは、こういうものなのである、と、これ以上の例を挙げる必要もあるまい。
そして、四月。李承乾の謀反が、発覚する。
弟の李泰が立太子されることを恐れた皇太子は、漢王李元昌、駙馬の杜荷、侯君集らと結び、武力で李泰を排除し、太宗を退位に追い込もうと企てた。が、計画は事前に漏れた。
太宗は、震えあがった。我が子に、刃を向けられる。それは、玄武門にて兄弟を斬った父帝――いや、彼自身の業が、そのまま我が子に跳ね返ってきた、ということでもあった。
李承乾は廃太子。庶人に落とされ、黔州に流される。翌年、その地で世を去った。享年二十六。謀反の連座で、漢王李元昌は自殺、侯君集は処刑された。
ここで、誰もが次の皇太子は李泰であろうと考えた。李泰自身も、そう考えていた。彼は宮中に駆けつけ、父帝に縋って言った。
「私が皇太子に立てば、即位した日に我が子を殺し、弟の李治に位を譲ります」
我が子を殺してでも弟に皇位を譲ると、彼は父に誓ったのである。それを聞いた太宗は涙を流して感激し、李泰の立太子を心に決めた。
決めた、その夜のことである。長孫無忌が、太宗の前に伏した。
「陛下、お聞きください」
長孫無忌は、長孫皇后の兄。すなわち李承乾・李泰・李治――皇后腹の三人の皇子の、伯父にあたる。唐建国以来の元勲であり、太宗の最も古く、最も信頼の厚い臣であった。
「李泰様の言葉、それを真と信じる者は、おりませぬ。父子の情を口にする者ほど、それを破るものでございます。我が子を殺してでも、と申す者が、即位したのちに弟を生かすと、誰が信じましょうや」
太宗は黙った。
「九男・晋王治は、性、温和にして仁愛に篤く、争わぬお方にございます。承乾と泰の兄弟相争いの末、唯一、血を流させぬ皇太子は、治さま以外におられませぬ」
太宗は、ようやく口を開いた。
「治は、弱い」
「強き太子は、すでにお二人とも、互いに食み合うて滅び申しました」
長孫無忌の声は、淡々としていた。
これが、貞観十七年の四月初め、唐の皇統が、ある一人の男から、別の男へと、移った瞬間の会話である
四月七日、晋王・李治、皇太子に立てられる。時に十六歳。
長孫無忌の言うところの「弱い」少年であった。性温和、武略乏し、決断弱く、しかし、誰の眼にも優しい――武照が後宮で密かに見初めていた、あの太子である。
宮中に二人が出会うのは、もう五年ほど後のことになる。だが、運命の歯車は、確実に、噛み合い始めていた。
長孫無忌が、新太子の後見人となった。そして、これが、後年、彼自身の破滅の伏線となるのだが――それも、まだ、先の話である。
◆
舞台は、東に移る。
朝鮮半島。新羅の都・金城。
季節は秋。前年の大耶城の役の傷は、まだ、まったく癒えていない。
金春秋は、すでに、動き始めていた。
冬になる前、彼は高句麗に旅立った。新羅一国では、もはや百済を抑えられない。北の大国・高句麗を頼る以外、道はない――そう判断したからである。
冷静に見れば、これは無謀に近い賭けであった。
高句麗は、新羅の長年の敵である。前年、義慈王の百済と「麗済同盟」を結び、共に新羅を圧迫しているのも、ほかならぬ高句麗である。そこへ、新羅の王族が単身乗り込み、援軍を乞う――こうした行動は、外交ではなく、ほとんど命懸けの賭けである。
しかし金春秋は、行った。
平壌で、金春秋を迎えたのは、一人の男であった。
淵蓋蘇文。
高句麗の宰相にして、前年の正月、栄留王を弑して宝蔵王を擁立した、武断政治家。後年、唐の太宗の高句麗遠征を撃退することになる、半島最大の豪傑である。
淵蓋蘇文は、金春秋を一瞥し、こう言った。
「援軍が欲しくば、麻木峴と竹嶺以北の地を、新羅より割譲せよ。さすれば、援兵を出そう」
要するに、新羅の領土を割け、と言ったのである。
これは外交ではない。新羅の王族を、人質として捕らえるための口実である。淵蓋蘇文の真意は、はじめから、援軍を出す気などなかった。
金春秋は、答えた。
「臣が、土地の割譲を独断で約束することはできかねます。一度、王に諮る必要が……」
淵蓋蘇文は、笑った。
「そうか。ならば、答えが出るまで、ここに留まってもらおう」
そして、軟禁した。
これが、金春秋の高句麗滞在の経緯である。彼は別館に閉じ込められ、外との連絡を絶たれた。新羅から金庾信が決死隊を率いて高句麗の境界に迫り、ようやく、淵蓋蘇文は金春秋の解放に応じた――。
このとき金春秋は、別館の隅で、ある男に賄賂を握らせた、とも伝えられる。高句麗の臣・先道解という男に、青布三百歩を与え、彼の入れ知恵で「土地割譲を承知する」旨の口約束をして、辛うじて解放されたのだという。
口約束など、国を出れば反故にできる。金春秋は、そう判断した。判断したからには、どこまでも下劣に、どこまでも狡猾に、生き延びる。
これは、後世「鶏林社」と呼ばれる新羅の影の機構が示すことになる、一種の精神的特質――目的のためには、手段の格を問わない、というあの冷徹――の、最も早い顕現であった。
金城に戻った金春秋を、迎えたのは金庾信の沈黙であった。
「兄者」
金春秋は、義兄を「兄者」と呼んだ。
「高句麗は、頼むに足らず」
「では」
「唐へ、行く」
金庾信は、目を細めた。
「唐は、女王を退けよと言うてくる。我らが女王陛下のお首を差し出さねば、援軍は出ぬぞ」
「承知の上」
金春秋の眼は、冷たかった。
「兄者。援軍とは、出させるものではない。出さざるを得ぬ状況に、相手を追い込むものである」
二人は、しばらく沈黙した。それが、新羅の戦略の、もう一つの転換点であった。
◆
実際、この同じ年の九月、新羅は唐に使者を送り、高句麗・百済を討つ救援軍を求めている。そして唐の太宗から返ってきた答えは、三策であった。
第一策。契丹・靺鞨に命じて遼東を攻めさせ、百済への圧力を緩める。
第二策。新羅の旗印として、唐の軍服と旗を貸し与え、唐軍来援の威勢を見せつける。
そして、第三策。
「新羅の王が女である故に、隣国が侮るのである。新羅は女王を廃し、唐の皇族を王として立てよ。さすれば、唐より新王を遣わし、援軍も派遣せん」
これが、太宗の言葉である。要するに――善徳女王の首と引き換えに、援軍をやる、と。
金春秋が金城に帰り、これを伝えたとき、玉座の上の女王は、しばらく無言のままであった。
善徳女王。
新羅第二十七代の王。先王・真平王の長女。男兄弟がいなかったため、聖骨の血を保つために選ばれた、新羅初の女王である。
彼女には、ある種の神秘的な聡明さがあった。
唐の太宗が牡丹の花の絵と種を贈ってきたとき、彼女は一目見て言ったという。
「この花には、香りがあるまい」
理由を尋ねられ、彼女はこう答えた。
「絵に蝶も蜂も描かれておらぬ。花に虫が群れぬのは、香りがないからである」
種を蒔いて咲かせると、果たして無香の牡丹であった。
宮中の玉門池に蝦蟇が群れて鳴いたとき、彼女は西の国境に賊が潜んでいると見抜き、兵を派遣して殲滅させた。
蝦蟇の怒った眼は兵士を表し、玉門は女陰の暗喩であり、西方の地名「女根谷」が侵犯されている象徴であった――というのが、その理由であった。
その女王が、玉座に座っている。
そして、玉座の前で、金春秋が、長孫無忌に劣らぬ静けさで、唐の三策を読み上げ終えていた。
「……三つ目の策は」
女王は、ようやく口を開いた。
「私の首を差し出せ、という話のようね」
「は」
金春秋は、伏した。
「妾に、その用意がある、と思うか」
金春秋は、言葉を選ばなかった。
「ございませぬ」
「であろう」
女王は、わずかに笑った。
「妾は、女王であるが故に、新羅を守らねばならぬ。男王ならば、首を差し出してもよい局面かもしれぬ。だが、女王の首は、女王であるが故に、容易くは差し出せぬ。差し出した瞬間、女王というものそのものが、新羅から失われるからじゃ」
「金春秋」
「は」
「唐は、ならば、用いるな」
「は」
「いずれ、唐は、自ら新羅を必要とするときが来る。そのときまで、耐えよ」
女王は、玉座の肘掛けを、軽く叩いた。
「妾の首は、そのときまで、繋がっていよう」
◆
しかし、新羅の朝廷内では、すでに不穏な空気が漂い始めていた。
唐が「女王を廃せよ」と言ってきた事実は、隠しおおせるものではない。情報は漏れる。漏れた情報は、必ず、政治の道具となる。
上大等――新羅の大貴族の代表――の地位にあったのは、毗曇。彼は、王権の強化を進める女王と、若き王族・金春秋に対し、深い不満を抱き始めていた。
これより四年後、毗曇は反乱を起こすことになる。「女王が国を治められないこと、これ天意である」と、内乱の檄文に書く。それが、新羅の一つの大きな転換点となる――が、それは、また別の話である。
その同じ年、九月。倭の朝廷では、皇極天皇が在位し、蘇我入鹿が政権を握っていた。
中大兄皇子は、まだ青年。中臣鎌足は、神祇官の家に生まれた、無位無官に近い男にすぎない。倭の地に、藤原不比等と名づけられる男が生まれるのは、なお十六年ものちのことである。
しかし、すでに東アジア全体は、目に見えぬ蜘蛛の糸のように、絡まり合い始めていた。
長安で李治が皇太子に立てられたこと、平壌で金春秋が軟禁されたこと、金城で女王が玉座に留まり続けたこと――そのすべてが、やがて十二年後、長安の宮城のひと部屋で、ある女が皇后になる日と、繋がっている。
そしてその十二年後、金城で生まれた一人の女王の決断が、倭の国号と運命を定める、五十年後の未来までも――。
歴史とは、つねに、後ろから見れば必然であり、前を見れば、幾筋もの細い糸の縺れである。
その縺れを、いま、誰も読み取れずにいた。
〔正史より──〕
歴史という名の巨大な伽藍を眺めるとき、我々はそこに、ときとして驚くほど精密な「論理の連鎖」を見出すことになる。
貞観17年。西暦643年の長安。
この年、唐の都を揺るがした皇太子・李承乾の廃立という事件は、『旧唐書』『新唐書』の李承乾伝、ならびに『資治通鑑』唐紀十二に、比較的詳しい経緯が記される。
ここで注目すべきは、史書がこの事件を、単なる宮廷内の失脚劇としては描いていないということである。
李承乾は、太宗の長子であった。8歳で皇太子に立てられて以来、その地位は揺るがぬはずであった。しかし『旧唐書』李承乾伝には、彼に跛行があったと明記されている。落馬によるものか、病によるものかについては史書間にやや異同がある。
『旧唐書』『新唐書』が伝える李承乾の奇行――突厥の風習を真似、宮中に天幕を張り、寵愛した美少年・称心の死を悼んで祠を建てたという一連の行動――は、現代の研究者の間でも、その解釈をめぐって意見が分かれる。単なる精神の逸脱と読むか、父・太宗の関心が四男・李泰に傾いていったことへの示威行動と読むか。後者の解釈は、『資治通鑑』が伝える李承乾と李泰の確執の記述からは、十分に裏づけ得るものである。
史書が伝える結末は、残酷である。
貞観17年4月、李承乾の謀反が発覚。彼は廃され、庶民に落とされた。
代わって、長孫無忌の強力な推挙により、9男の李治――後の高宗が、皇太子に立てられた。『旧唐書』高宗本紀および『資治通鑑』唐紀十二は、この決定の経緯を比較的詳細に記す。
ここで興味深いのは、長孫無忌がなぜ李泰ではなく李治を推したか、という問題である。『資治通鑑』は、長孫無忌が李治の温和な性格を評価したと伝える。しかし現代の研究では、外戚としての長孫氏の権力維持を考えれば、より与しやすい李治を選んだとの解釈も有力である。
いずれにせよ、ひとつの事実が残る。
太宗の死後、武照という女が後宮から甦り、皇后となり、やがて唐そのものを乗っ取ることになるのは、ほかならぬこの「弱い太子」李治の代である。643年の皇太子交代と、12年後の655年の立后とのあいだに、果たして因果の糸はあるのか。これは史書が直接答えを与えてくれない問いであり、千四百年を経た今日に至るまで、研究者の興味を引き続けている。
◆
視点を東へ、朝鮮半島へと移そう。
新羅の金春秋は、貞観17年、絶体絶命の窮地に立たされていた。
前年の大耶城陥落により、娘と婿を百済に殺されたことは、すでに前章で触れた通りである。『三国史記』金庾信列伝が伝える金春秋の高句麗渡航の経緯は、ここに改めて整理しておく必要がある。
金春秋を迎えたのは、淵蓋蘇文であった。前年10月にクーデターを起こして栄留王を弑し、宝蔵王を擁立した、当時の高句麗における事実上の最高権力者である。
『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀および同書・列伝・金庾信伝によれば、淵蓋蘇文は金春秋に対し、援軍の条件として麻木峴と竹嶺以北の地の割譲を要求した。新羅にとって到底受け入れがたい条件であり、金春秋がこれを独断では決定できないと答えると、淵蓋蘇文は彼を別館に軟禁した。
ここで興味深いのは、金春秋の脱出の経緯である。
『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅本国では金庾信が決死隊を率いて高句麗の境界に向かい、金春秋の解放を圧迫した。同時に金春秋は、別館にて高句麗の臣・先道解に青布三百歩を贈り、その入れ知恵により「土地割譲を承知する」旨の口約束を行うことで、ようやく解放されたとされる。なお、この先道解の助言には、亀と兎の説話――『三国史記』に収められた逸話であり、後年朝鮮半島で広く流布する寓話の原型となる――が用いられたと伝えられる。
半島内に、信じられる友軍など存在しない。
この事実を、金春秋はこの旅で骨身に染みて学んだはずである。
新羅に残された道は、ただひとつ。大陸の巨神、唐との同盟であった。
しかし、その唐が新羅に示した条件は――史書が伝えるところによれば――苛烈なものであった。
最も詳細な記述を残すのは『冊府元亀』巻九九一・外臣部・備禦三である。同書は、太宗が新羅使に対して三策を提示したと伝える。すなわち、第一に契丹・靺鞨を動員して遼東を攻めさせること、第二に唐の軍服と旗を新羅に貸与し唐軍来援の威勢を見せかけること、そして第三に女王を退位させ唐の皇族から新王を立てればさらに援軍を派遣すること、である。
『旧唐書』新羅伝にも類似の記述があるが、女王廃位の要求についての記載は『冊府元亀』ほど明示的ではない。
この女王廃位要求の記述については、現代の研究者からも疑義が示されている。『冊府元亀』は十一世紀(北宋・真宗の代)に編纂された大規模類書であり、原典の引用において後世の解釈や潤色が加わった可能性は否定できない。義江明子の研究は、七世紀後半に新羅・倭・唐において女性君主が相次いで登場したことに対する後世の否定的評価の中で、こうした女王廃位の逸話が形成された可能性を指摘している。
ただし、いずれにせよ、新羅朝廷が唐の援軍要請をめぐって深刻な政治対立を抱えていたことは、4年後の毗曇の乱に直接つながる事実として、これは疑いようがない。
◆
長安での皇太子交代。
平壌での金春秋の屈辱。
金城での女王の沈黙。
一見無関係に見えるこれら三つの点を、史書はそれぞれ別の篇に、別の文脈で記録した。『旧唐書』高宗本紀、『三国史記』金庾信列伝、『冊府元亀』外臣部――書かれた場所も、書かれた時代も、書いた人物も異なる。
だが、千数百年を経た今日、我々がこれらを並べて読むとき、そこには確かにひとつの構造が浮かび上がる。
「弱い太子」の誕生。半島の強国たちの相剋。女王を戴く小国の忍耐。
これらが、後年の白村江、半島統一、武周革命へと結実していくことを、当時の誰がどこまで予見していたか。これは史料の側からは、ついに完全には答えられない問いである。
倭国における動向についても、ここで触れておかねばならない。
貞観17年は皇極天皇2年にあたる。同年11月、蘇我入鹿による山背大兄王襲撃事件が発生している。『日本書紀』皇極天皇二年十一月一日条には、入鹿が斑鳩宮を襲い、聖徳太子の遺族である山背大兄王とその一族を自害に追い込んだ経緯が詳しく記される。聖徳太子の血脈はここに絶えた。
この事件が、2年後の乙巳の変の心理的伏線となったことは、『日本書紀』孝徳天皇即位前紀および『藤氏家伝』のいずれもが示唆するところである。
最後に、唐代の宮廷文書事務について補足しておきたい。皇太子の廃立は、唐の制度上、最も重要な国家事項のひとつであり、その手続きは厳格に文書化された。廃太子の詔書は中書省が起草し、門下省が審議し、尚書省が施行した。詔書の正本は白麻紙に書写され、副本は黄麻紙に保存された。長安の弘文館には、こうした重要詔書の原本が体系的に保管されており、後年の編纂史料『資治通鑑』『冊府元亀』はこれらの一次資料を引用元として成立している。
朝鮮半島においても、外交文書の素材は楮紙が主流であった。金春秋が高句麗で軟禁されていた折、新羅本国に救援を求めた密書が存在したとすれば、それもまた楮紙の上に記されたものであったと考えられる。後年、統一新羅期に唐へ「鶏林紙」として輸出されるほどの品質を獲得する半島の楮紙は、すでにこの時代から、半島の外交と政治を支える基礎的な素材となっていた。
我々が歴史と呼んでいるものは、案外、こうした文書の片隅に書きとめられた、一滴の冷たい汗から始まっているのかもしれない。
その汗が紙の繊維に染み込み、千四百年を経て今日の我々の眼に届く。
それを可能にしたのもまた、紙という素材の、沈黙する堅牢さなのである。




