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第二話 六四二年・泗沘(百済)、金城(新羅)プロローグ

 

 ── 大耶城(だいたじょう)の役 ──


 百済(くだら)の都、泗沘(しひ)


 朝鮮半島の中部西岸、白馬江(はくばこう)のほとりに開かれたこの都は、聖王(せいおう)が泗沘へ遷都(せんと)して以来、すでに百年あまりの歴史を刻んでいる。


 北に半月城(はんげつじょう)の山並みを背負い、南に錦江(きんこう)蛇行(だこう)を望む、地勢(ちせい)()い都であった。

 唐の長安を北に、()の飛鳥を東南に、そして高句麗(こうくり)平壌(へいじょう)を北東に望む。その三角の中心に、百済はあった。


 ただし、地勢の佳さは、必ずしも国の安全を意味しない。 むしろ、百済の苦悩は、その「中心」にあることそのものから生じていた。


 ◆


 貞観(じょうがん)16年。

 倭の年号でいえば皇極(こうぎょく)天皇元年。

 新羅では仁平(じんぺい)9年、善徳女王(ぜんとくじょおう)の治世11年。

 百済の義慈王(ぎじおう)2年――西暦642年の夏である。


 百済の宮殿、扶余(ふよ)の王宮で、ひとりの壮年(そうねん)の男が、地図を(にら)んでいた。


 義慈王(ぎじおう)


 年齢は43、4。

 前年に父・武王(ぶおう)崩御(ほうぎょ)を受けて即位したばかりの新王であった。即位前から「海東(かいとう)曽子(そうし)」――孔子(こうし)高弟(こうてい)になぞらえた呼称――と臣民(しんみん)に呼ばれた、孝心(こうしん)(あつ)い太子であったという。

 しかし、王座(おうざ)()いてからの彼は、孝子(こうし)でも仁君(じんくん)でもなかった。

 即位した翌年――この年の正月、義慈王は突如として粛清(しゅくせい)(やいば)を振るった。 異母弟(いぼてい)翹岐(ぎょうき)と、その母、4人の妹たち、そして高名な王族・貴族あわせて40余人を、島に追放(ついほう)したのである。理由は、ほぼ単純であった。


 王権の強化。


 百済の政治は、長らく八姓(はちせい)と呼ばれる大貴族家が、王と並んで国政を分け合う共同統治の構造をなしていた。

 これを義慈王は(きら)い、王の独裁(どくさい)への変革(へんかく)を志した。

 王権を強化したい、という願望(がんぼう)は、新興(しんこう)君主(くんしゅ)にとっては、ほとんど本能(ほんのう)に近い。

 だが、それを実行に移せば、必ず反作用(はんさよう)が生まれる。

 義慈王はその反作用を計算しなかった。

 あるいは、計算してなお突き進んだ。

 王宮の地図には、北の高句麗の境界線、東の新羅の領土、そして南西の海を越えた倭への航路(こうろ)が描かれていた。


 義慈王の指は、東の新羅の領土を、ゆっくりとなぞった。


「新羅を、(おさ)える」


 王の独白(どくはく)は、誰に向けたものでもなかった。

 しかし、それは百済の、ひとつの大きな歴史の岐路(きろ)の言葉であった。


 ◆


 七月。

 義慈王は自ら兵を率いて新羅に親征(しんせい)した。

 獼猴(びこう)はじめ、40余城を一気に陥落(かんらく)させた。

 新羅の西部辺境(へんきょう)防衛線(ぼうえいせん)は、ほぼ完全に粉砕(ふんさい)されたのである。


 新羅の善徳女王の朝廷は、震撼(しんかん)した。

 しかし、百済の真の打撃(だげき)は、このあとに来た。


 八月。


 義慈王は、将軍・允忠(いんちゅう)に1万の兵を与え、大耶城(だいやじょう)に向かわせた。

 大耶城は、慶尚南道(けいしょうなんどう)陜川郡(こうせんぐん)の地に築かれた山城(さんじょう)である。


 新羅の南西の要衝(ようしょう)にして、首都の金城(きんじょう)――現代の慶州(けいしゅう)――を守る最終防衛線。

 ここを失えば、新羅の中心部が丸裸(まるはだか)になる。

 そして、その城を守る城主の名は――。


品釈(ほんしゃく)聖骨(せいこつ)の女を(めと)った男だ」


 義慈王は、地図上の小さな点を指した。

 品釈は、新羅の上大等(じょうだいとう)一族に連なる(しょう)であった。

 そして彼の妻は――新羅の王族・金春秋(こんしゅんじゅう)の長女、古陀炤娘(こだしょうじょう)であった。

 王の指は、その点を、強く押した。


 ◆


 大耶城の戦いについて、史書(『三国史記』)が伝えるところは、意外にあっさりしている。

 寡兵(かへい)にして守る品釈は、籠城(ろうじょう)して善戦したが、城内に内応者(ないおうしゃ)が出たとも言われる。

 一説には品釈の腹心(ふくしん)のひとりが百済軍に通じ、城門を内側から開いたのだという。

 あるいは穀物倉(こくもつぐら)に火が放たれ、籠城は不可能になったとも伝わる。

 何にせよ、城は落ちた。

 落ちた、というだけならば、戦国の常である。

 問題は、そのあとである。

 将軍允忠は、捕らえた品釈と、その妻・古陀炤娘を、城の前に引き出した。

 そして、ふたりの首を、はねた。

 降伏した者を斬るのは、兵法(へいほう)の正道ではない。

 それも、女までもを。

 古陀炤娘は新羅の王族、いずれの婚家(こんか)の妻といえども、聖骨(せいこつ)の流れを引く女である。

 当時の感覚において、これを斬るというのは、ほとんど神聖(しんせい)冒瀆(ぼうとく)に近い。

 允忠は、躊躇(ちゅうちょ)しなかった。

 彼の背後(はいご)には、義慈王の意志があった。

 義慈王は、新羅の王族そのものに、消すことのできぬ(きず)を刻みたかったのである。

 そしてさらに、男女1千人を捕虜(ほりょ)として、百済の西部に強制移住(きょうせいいじゅう)させた。

 これが、後世「大耶城(だいやじょう)(えき)」と呼ばれる事件の、(おもて)の経緯である。


 ◆


 裏の事情を、ここでひとつだけ書き留めておく必要がある。


 百済の歴代の王たちは、唐との関係を、つねに巧妙(こうみょう)に保ってきた。

 武王の代まで、百済は唐に朝貢(ちょうこう)し、冊封(さくほう)を受け、その権威を背に、半島の中央部における優位を確保していた。

 ところが、義慈王は、その均衡(きんこう)を、自ら崩した。

 正確に言えば、彼は、新羅と唐との「あいだ」が薄いと、そう判断したのである。


 唐は、当時、第三次の高句麗遠征(えんせい)を準備していた。

 皇帝・太宗の関心はもっぱら遼東(りょうとう)にあり、半島南部の問題に介入する余力は(とぼ)しい。

 新羅は孤立(こりつ)しており、女王の時代に入って国際的な影響力(えいきょうりょく)も低下している。


 ならば、いま、新羅を(たた)くべし――。


 これが、義慈王の戦略的判断であった。

 判断そのものは、不当(ふとう)ではない。

 しかし彼が見落としていたのは、人間の感情の重みであった。


 戦争は、地図と兵数(へいすう)だけで終わるものではない。

 戦争で死んだ者の名前、その遺族(いぞく)の悲しみ、そして、その悲しみが何年、何十年経っても消えないという事実――。


 これらを計算に入れない戦略は、必ず、後年(こうねん)報復(ほうふく)として戻ってくる。


 義慈王は、それを知らなかった。


 ◆


 ここで、舞台は東に移る。


 新羅の都・金城(きんじょう)――現代の慶州市。


 新羅の首都は、唐の長安や百済の泗沘とは、まるで規模も性格も違う。

 城郭(じょうかく)に囲まれた整然(せいぜん)たる碁盤の街ではなく、丘陵地(きゅうりょうち)古墳(こふん)点在(てんざい)し、王宮を中心に集落(しゅうらく)(ゆる)やかに広がる、いくぶん牧歌的(ぼっかてき)な都であった。

 その王宮の一室に、いま、ひとりの男が(ひざ)をついている。


 年齢は39。


 背は中肉中背、(ひげ)は短く整えられ、衣服は伊飡(いさん)――新羅の二等官の格式(かくしき)を示す紫の(きぬ)

 眼は、ふつうの眼ではない。

 何かを射抜(いぬ)くような、冷ややかで、鋭い眼である。


 金春秋(こんしゅんじゅう)


 新羅第25代真智王(しんちおう)の孫にあたる王族。

 父は伊飡・金龍春(こんりゅうしゅん)

 母は天明(てんめい)公主、第26代真平王(しんぴょうおう)の娘。

 つまり、彼は王統の主流から少しずれた、しかし王家の血を濃く引く男であった。

 そしてもうひとり、その傍らに立つ男がいる。


 金庾信(こんゆしん)

 47歳。

 金春秋より8つ年長。


 父は角干(かっかん)――一等官――の金舒玄(こんじょげん)

 新羅に併合された金官伽倻(こんかんかや)の王家の血を引く。

 妹の文姫(ぶんき)は、金春秋の妻となっている。

 すなわち、ふたりは義兄弟(ぎけいてい)である。


 金春秋と金庾信。


 新羅の歴史上、最も重要なふたりと言ってよいこの両者は、すでに長い結束(けっそく)の歴史をもっていた。

 若き日、ふたりで蹴鞠(けまり)に興じ、金庾信の妹を金春秋と結ばせるよう仕組(しく)んだのも、すべて金庾信の策略(さくりゃく)であったとも伝わる。

 要するに、彼らは互いを骨の(ずい)まで知っている。

 そのふたりの前に、伝令(でんれい)が駆け込んできたのは、夏の終わりであった。


 ◆


「大耶城、()ち申した」


 伝令の声は、震えていた。

 金春秋は、目を伏せた。


「品釈は」


「斬られました」


「娘は」


 伝令は、そこで言葉を詰まらせた。


「言え」


 金春秋の声は、低かった。


「……御娘、古陀炤娘さまも、城前にて、首を打たれた由にござりまする」


 部屋の中の空気が、止まった。

 金春秋は、しばらく動かなかった。

 その(ほお)に、涙はなかった。

 表情も、ほとんど変わらなかった。

 ただ、彼は、立ち上がろうとした。

 立ち上がろうとして――そのまま、(はしら)に手をついた。


 このとき金春秋は終日、柱に寄りかかったまま立ち、人が前を通っても気づかなかったという。

 誰かが「君の前を歩いているのに、気づかれない」と話しかけると、ようやく振り返り、こう言ったとされる。


「ああ、丈夫(じょうふ)にして、なんぞ百済を()まんや」


 ――男たる者、いずれは百済を呑み込んでみせる、と。

 これが、後年(こうねん)「大耶城の役」が新羅にとってどれほど深い傷であったかを示す逸話(いつわ)である。

 彼は娘の死を(いた)んだのではない。

 娘の死を、国家の意志(いし)に変えたのである。


 ◆


 金庾信は、それを横で見ていた。

 彼は何も言わなかった。

 言う必要はなかった。

 ふたりのあいだには、すでに言葉以前の理解(りかい)があった。

 これより先、新羅は変わる。

 徹底的に変わる。

 これまでの貴族合議制(きぞくごうぎせい)(ゆる)王国(おうこく)から、王と限られた股肱(ここう)(しん)が国家を直接動かす、強固(きょうこ)で、執念深(しゅうねんぶか)い国家へ。


 そして、その「執念」は、ひとりの娘の死から、生まれることになった。

 百済の義慈王は、戦略を計算した。

 だが、感情を計算しなかった。

 新羅の金春秋は、この日から、感情を戦略に変える方法を学んだ。


 これは、後世(こうせい)に「鶏林社(けいりんしゃ)」と呼ばれることになる、新羅の影の機構(きこう)の、精神的な起点である。

 組織として実在したかどうかは、史書には書かれていない。


 しかし、新羅という国家が以後百年にわたって示した、あの異様(いよう)なほどの「予兆察知(よちょうさっち)」「先制排除(せんせいはいじょ)」――敵となるべき者を、敵となる前に(つぶ)す、という冷徹(れいてつ)行動原理(こうどうげんり)――は、まさしく、この瞬間に芽生(めば)えたといってよい。


 ◆


 この日のあと、金春秋の動きは早かった。

 冬になる前に、彼はまず高句麗へと旅立つ。

 北の大国に救援(きゅうえん)を求めるためである。

 だがそれは、結果的に彼自身が人質(ひとじち)として(とら)えられかける屈辱(くつじょく)の旅となる。


 そして、より長い射程(しゃてい)で見れば、彼はやがて唐へ(おもむ)き、太宗と謁見(えっけん)し、唐との同盟を成立させる。


 18年後、百済は滅ぶ。

 義慈王は捕虜として長安へ送られ、その地で病死する。


 そのとき、長安の市中(しちゅう)で義慈王の護送を目撃する一団がある。

 倭の遣唐使、伊吉博徳(いきのはかとこ)らの一行である。

 さらにその4年前、倭で生まれたひとりの男児が、藤原(ふじわら)と名づけられる氏族の祖となる。

 しかし、それらすべては、まだ、先の話である。


 ◆


 夏の終わりの金城の空は、群青(ぐんじょう)に近い色をしていた。

 王宮の屋根を黄金(おうごん)に染める夕陽の下で、金春秋と金庾信は、地図を広げていた。

 地図の中央には、百済の文字が記されている。

 その文字を、金春秋の指が、ゆっくりと、しかし、強く――。

 なぞった。

〔正史より──〕

 我々は、歴史という巨大な時計の文字盤の上を、盲目的に這い回る虫に過ぎないのかもしれない。


 貞観(じょうがん)十六年。西暦六四二年の夏。朝鮮半島という閉鎖的な「密室」において、一つの凄惨な事件が起きた。

大耶城(だいやじょう)の陥落である。


 だが、これを単なる局地的な紛争と見なすのは、論理的な誤謬(ごびゅう)というものだ。

これは、後に百済(くだら)という国家を、そして半島全体の勢力図を、完膚なきまでに書き換えてしまうことになる「運命のトリガー」だったのだ。


 まず、この事件の「主犯」である百済の義慈王(ぎじおう)について、正史が語る図面を検証せねばなるまい。


 『旧唐書(くとうじょ)』百済伝、あるいは『三国史記(さんごくしき)』百済本紀によれば、彼は即位当初「海東(かいとう)曽子(そうし)」と称えられるほどの仁君(じんくん)であった。

だが、権力の座というものは、時として人間の精神構造を根底から組み替える装置となる。


 即位翌年、彼は王族四十余名を島へ流すという、唐突かつ苛烈(かれつ)粛清(しゅくせい)を断行した。

これは、既存の貴族合議制――すなわち「八族(はちぞく)」による共同統治という古い機構を破壊し、絶対王政という新たな統治の図面を、強引に上から重ね描こうとする、若き独裁者の野心的な試みであった。


 この内政の激変を外征へと転化させたのが、大耶城への親征(しんせい)である。

百済軍は新羅(しらぎ)の西部防衛線を蹂躙(じゅうりん)し、将軍・允忠(いんちゅう)は一万の兵を率いて、新羅の心臓部へ通じる最終防衛線、大耶城を包囲した。


 ここで起きたことは、戦術的な勝利を超えた、修復不可能な「感情の破壊」であった。


 城主・品釈(ほんしゃく)は、新羅の最高位に連なる王族・金春秋(きんしゅんじゅう)娘婿(むすめむこ)であり、その妻・古陀炤娘(こだしょうじょう)は、王家の神聖な血を引く女であった。

允忠は、降伏したこの夫婦を無残に処刑したのである。


 義慈王にとって、これは新羅の自尊心に消えない傷を負わせるための、計算された見せしめであった。

だが、彼は致命的な計算違いをしていた。

論理学者が解を見誤るように、彼は「悲しみ」という変数が、どれほどのエネルギーを持って歴史を逆流させるかを見落としていたのだ。


 新羅の都、金城(きんじょう)――現在の慶州(けいしゅう)――でこの報を受け取った金春秋の様子を、史料は戦慄(せんりつ)すべき静寂とともに伝えている。

彼は柱に寄りかかったまま一日中身動きもせず、目の前を人が通り過ぎることにさえ気づかなかったという。


 この「凝視(ぎょうし)」こそが、百済という国家を地上から抹消(まっしょう)するための、精密な復讐(ふくしゅう)の歯車を回し始める、最初の一押しであった。


 彼は娘の死を(いた)む「父親」であることを捨て、百済を呑み込むための「冷徹な意志」へと変貌した。

その傍らには、金庾信(きんゆしん)という名の、軍事と謀略のスペシャリストがいた。


 この義兄弟による結束は、新羅という、かつては脆弱(ぜいじゃく)であった王国を、やがて大陸の覇者・(とう)と手を結び半島を統一することになる「執念の化身」へと作り変えていったのである。


 正史を紐解(ひもと)けば、その後の推移は驚くほど論理的だ。

金春秋は高句麗(こうくり)へ、そして()へ、ついには唐へと奔走(ほんそう)し、やがて太宗を説得して「唐・新羅同盟」という巨大な包囲網を完成させていく。


 十八年後。かつて大耶城で無慈悲な命令を下した義慈王は、逆に捕虜として長安(ちょうあん)へ送られることになる。

それは、あの日、金春秋が柱に寄りかかって描き出した復讐の図面が、一ミリの狂いもなく完成した瞬間であった。


 ――大耶城の役とは、単なる城取りの物語ではない。それは、一人の男の「執念」が、いかにして一つの王朝を滅亡の(ふち)へと追い詰めていったかを示す、最も残酷で、最も完璧な論理の帰結なのだ。

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