第一話 六三七年・長安(唐)プロローグ
── 武照入宮 ──
長安の春は、塵と風と、そして人の声に満ちている。
唐の都は、世界の中心であった。少なくとも、当時の世界がそう信じていた、という点においては。
城郭の周囲はおよそ36里。南北9里、東西10里に整然と区画された街路は、碁盤の目のように交差し、北端には宮城が、その背後には皇帝の居所たる太極宮が、青空を背負ってそびえ立っていた。
貞観11年。西暦に換算すれば637年にあたる。
時の皇帝は、太宗・李世民。
父・李淵から帝位を奪うために兄弟を玄武門で斬り捨てた、あの男である。
即位して11年。武徳の世を引き継ぎ、国土を統一し、東突厥を滅ぼし、鉄勒諸部から「天可汗」――遊牧世界の最高君主の称号を奉じられた皇帝。
後世、その治世を「貞観の治」と称することになる、当代随一の英主であった。
しかし英主にも、衰えは訪れる。
40歳にさしかかった太宗の眼には、若き日のような炎はもはやなかった。
皇太子の李承乾は奇行が目立ち、四男の李泰は学問にすぐれるが野心が透けて見える。
長孫皇后はすでに世を去り、宮中には冷たい風が吹きはじめていた。
その風が運んできた一人の少女が、この物語のすべての始まりとなる。
◆
利州都督・武士彠の次女、武照。
父は唐建国の功臣であり、関隴貴族集団の中では傍流に列する家柄であったが、代々の財産家であった。
父はこの聡明な娘に、女子としては破格の教育を授けていた。
漢籍を読ませ、史書を諳んじさせ、書を学ばせた。
父はその才を愛し、また、何かを期待していた。
武照が12歳のとき、その父は世を去った。
異母兄と従兄の家に身を寄せた少女は、ここで人生で初めて「人の悪意」というものを学んだ。
財産は奪われ、母とともに隅に追いやられ、食事は冷たく、衣服は薄かった。
彼女は耐えた。
耐えながら、観察した。
人がどう動くか。何を言い、何を隠すか。誰が誰を恐れ、誰が誰を欺くか。
14歳になる頃には、武照は自分より10も20も歳上の者の心を、平然と読みとれるようになっていた。
そして、ある日。
太宗が美貌の処女を後宮に求めるとの報が、利州にも届いた。
母は涙し、武照は微笑んだ。
母は別れを嘆いて泣いたが、武照はこう言ったという。
「天子に見えるのです。何を泣くことがありましょう」
これが、史書(『新唐書』)に伝わる14歳の少女の言葉である。
実話か、潤色か、後世の創作か――それを問うことに意味はあるまい。
重要なのは、こう語り継がれる女がここに居た、という一事である。
◆
長安に到着した武照は、太極宮の北東、後宮の門をくぐった。
唐の後宮制度は、皇后を頂点として、四夫人――貴妃・淑妃・徳妃・賢妃――、九嬪、27世婦、81御妻と続く、緻密な階層構造をなしていた。
武照に与えられたのは、27世婦の一つ、「才人」。
位階にして正五品。
皇帝の側室としては中の下、というところであった。
太宗は、少女の容姿に「媚」という字を一つ与えた。
「媚娘」――これが彼女の宮中での通称となる。
漆黒の髪、切れ長で大きな眼、雪のような肌。
後年の史書はその容貌を、ほとんど詠嘆するように描く。
だが太宗を惹きつけたのは、おそらくは美貌だけではなかった。
少女は文字を解した。
それも、ただ読めるというのではない。
経書を諳んじ、史書を批評し、奏上文の文体を判別した。
後宮にあって、これは異様であった。
当時の後宮の女たちにとって、文字とは恋文を綴るための道具であって、政を読むための鍵ではない。
武照にとって、文字は、別の意味を持っていた。
文字とは、世界を書き換えるための鑿である。
口で語られた言葉は、風に吹かれて消える。
だが紙に書かれた言葉は、残る。
残るということは、後の世にまで影響を及ぼすということである。
皇帝の詔も、官人の任免も、罪人の判決も、すべては紙の上の文字によって決まる。
ならば、その文字を握る者が、世界を握る。
少女はまだ14歳であったが、おそらく、それを知っていた。
◆
しかし、太宗は武照を寵愛しなかった。
正確に言えば、初めの一時期は寵愛したが、やがて遠ざけた。
きっかけは、宮中に流れた一つの謡である。
「唐三代にして、女王昌」
「李に代わり、武が栄える」
唐の三代目に女の王が立つ。
李氏の代わりに武氏が天下を取る――そういう謡であった。
誰が広めたのかは分からない。
流言とは、たいてい、誰が始めたのかが分からないものである。
太宗は震撼した。
太史令――宮中の天文官の首座――に占わせると、「40年のうちに女主が天下に君臨する」との卦が出たという。
宮中の李姓の者は、震えあがった。
とりわけ、武将の李君羨という男は、幼名を「五娘子」――「5番目の娘」――といったため、不運にも疑惑の的となり、無実の罪で処刑された。
奇妙なことに、太宗は李君羨を処刑したのちもなお、武照を遠ざけ続けた。
おそらく、太宗は気づいていたのである。
謡の指す「武」が、まさにあの少女であることに。
気づいていながら、殺すこともできなかった。
殺せば、未来は別の形でやってくる。
生かしておけば、いつか、その日は来る。
皇帝とは、本来そうした非情の判断を下せる者でなければならない。
しかし太宗は、ためらった。
英主が老いるとは、ためらうようになるということなのかもしれない。
◆
武照は、十数年を後宮で過ごした。
寵愛から外れた才人の暮らしは、退屈と屈辱に満ちていた。
同じ位階の女たちは、皇帝の御渡りを待ちわびて泣き、嫉み、互いを陥れた。
武照は、それらすべてを傍観した。
そして、書を読んだ。
史書を、繰り返し読んだ。
漢の呂后、北魏の馮太后――先例はあった。
女が天下を動かした例は、決して少なくはなかった。
ただし、いずれも「皇后」あるいは「太后」としてである。
皇帝そのものとなった女は、いまだ、いない。
ない、ということは、いずれ、出る、ということでもある。
少女から女になっていく十数年のあいだ、武照は、ただひたすらに、書と、人と、宮中の構造を、読み続けていた。
そしてある日、彼女は、一人の青年を見た。
太子・李治。
太宗の九男にして、後継。
長兄の李承乾と四兄の李泰が皇太子の座を争い、共に倒れた末に、消去法で繰り上がった、いささか影の薄い青年である。
性格は穏やか。
長孫皇后の死後、伯父の長孫無忌の後見を受けて生きてきた。
武略に乏しく、決断に欠け、しかし、誰の眼にも優しかった。
武照は、彼を見た。
それは、運命の発火点であった。
ただし、この時点では、まだ、火花に過ぎない。
太宗の死までは、なお12年の歳月が流れる。
◆
長安の春の風は、塵を運び、噂を運び、人の運命を運ぶ。
ある王朝の絶頂期に、その王朝を呑み込む女が、14歳で宮門をくぐった。
]太宗はそれを予感し、しかし殺さなかった。
太子は、まだ、何も知らなかった。
そして遠く東方の島国――倭と呼ばれる、辺境の小さな朝廷――では、まだ、藤原という氏族すら成立していない。
鎌足と呼ばれる男が後にその姓を賜るのは、なお32年も先のことである。
その鎌足の次男として「不比等」と名づけられる男児が産声をあげるのは、さらに22年後――武照が皇后になり、唐の半分を握ったその4年後――のことになる。
世界は、すでに動き始めていた。
ただ、誰もそれに気づいていなかった、というだけである。
〔正史より──〕
我々は、歴史という名の、出口のない巨大な伽藍に閉じ込められている。
貞観11年。西暦637年。
この年、長安の宮廷という名の、世界で最も巨大で、かつ最も密閉された「実験室」に、一人の少女が足を踏み入れた。
武照。
後に「則天武后」という、血塗られた、しかしあまりに眩耀たる名で呼ばれることになる存在だ。
まず、彼女の出自という名の「見取り図」を厳密に検証せねばなるまい。
『旧唐書』則天皇后本紀、あるいは『新唐書』武則天伝という、後世の人間が継ぎ接ぎした設計図によれば、彼女は唐建国の功臣・武士彠の次女として生まれた。
生年については、武徳7年を軸に前後一、二年の誤差が付き纏うが、そんなものは些細なディテールだ。
重要なのは、父・武士彠という男の立ち位置である。
利州都督を歴任したこの男は、関隴貴族という特権階級のサークルにおいて、実力はありながらも常に「傍流」の烙印を押されていた。
莫大な富を持ちながらも、血統という壁に阻まれた疎外感。
この家系的なコンプレックスこそが、武照という少女の心臓に組み込まれた最初のゼンマイ、すなわち権力への渇望だったのではないか。
◆
貞観11年、14歳の彼女は「才人」という階級を与えられ、後宮という名の迷宮に配置される。
正五品。
それは、広大な宮廷機構における、単なる交換可能な一つの部品に過ぎない。
太宗――この「天可汗」と呼ばれた冷徹な英主は、彼女の容姿を検分し、そこに「媚」という、いささか通俗的で侮蔑的なレッテルを貼った。
「媚娘」。
だが、文字を解し、史書を貪り、奏上文の文体から政治の動向を読み解く彼女の瞳に宿っていたのは、決して男に媚びるための色香などではなかった。
それは、世界という名の複雑怪奇な数式を解こうとする、数学者のような冷ややかな知性、あるいは冷徹な論理学者のそれであったはずだ。
◆
ここで、当時の宮廷を揺るがした不気味な「ノイズ」、あるいは「呪い」について触れねばならない。
「唐三代の後、女主武王が天下を代える」
この流言は、当時、長安の空気を支配する、正体不明の重低音として鳴り響いていた。
『資治通鑑』唐紀十三は、この呪文のような言葉が宮中に蔓延していたことを記録している。
さらに、稀代の占星術師であり、天文官の首座にいた李淳風が、太宗の問いに対し「40年のうちに女の主が天下に君臨する」と、死の宣告に等しい卦を出したという。
これを後世の潤色、あるいは安っぽい怪談と切り捨てるのは容易だが、私はそこに、集団心理という名の「装置」が作動した痕跡を見る。
李淳風という男が、単なる占い師ではなく、膨大なデータを処理する論理的直感の持ち主であったとするならば、彼は宮廷という閉鎖環境の中で、特定の変数が引き起こす破滅を予見していたのではないか。
そして、この「装置」は、一人の不運な生贄を必要とした。
武将・李君羨。
彼は勇猛な軍人であったが、一つの致命的な「暗号」をその身に宿していた。
彼の幼名が「五娘子」――すなわち「5番目の娘」であったという、ただそれだけの、あまりに稚拙で悪意に満ちた理由によって、彼は流言の指す「武王」と結び付けられた。
貞観22年、彼は謀反の罪を着せられ、断頭台へと送られる。
これは裁判ではない。
言葉の連想ゲーム、あるいは「名前」という呪物による処刑だ。
恐怖に駆られた権力者は、往々にして、こうした非論理的な暴挙に自らの安寧を託す。
武則天が後年、天授2年に彼の冤罪を認めたのは、自らが辿った「武」という名の数奇な運命に対する、彼女なりの論理的な清算であったのかもしれない。
◆
興味深いのは、太宗が武照を一時寵愛しながらも、その後、執拗なまでに遠ざけ続けたという事実だ。
史書は具体的な理由を語らず、重苦しい沈黙を守っている。
だが、その沈黙こそが、どの記述よりも饒舌に真相を物語っている。
太宗は、彼女の背後に、自らの王朝を呑み込む「未来の破滅」を、直感的に幻視したのではないか。
彼女が太宗との間に一人の子もなさなかったという記録は、単なる生理学的な不運ではない。
権力の磁場が引き起こした強烈な斥力、あるいは、老いた英雄が若き簒奪者の予兆に対して示した、本能的な拒絶反応の結果と考える方が、私にはよほど論理的に思える。
後に、病床に伏し、死の影に怯える太宗を看病する皇太子・李治の前に、彼女は現れる。
運命の歯車が、ようやくその凶悪な噛み合わせを見つけた瞬間だ。
貞観末年、おおむね648年から649年にかけての出来事。
だが、我々が今見つめている貞観11年の時点では、彼らはまだ、平行線を辿る二つの点に過ぎない。
しかし、その平行線は、確実に一つの「特異点」に向かって収束を始めていた。
◆
視座を極限まで広げれば、大陸の周辺諸国もまた、逃れられぬ変革の予兆に震えていたことが分かる。
新羅では、善徳女王がその治世5年にあって、仏教という名の巨大な精神的障壁を構築し、唐に慈蔵法師を派遣していた。
百済や高句麗においても、武王や栄留王の治世が終焉を迎え、淵蓋蘇文によるクーデターという激震が今まさに起きようとしていた。
そして、東方の辺境――倭国。
舒明天皇の影で蘇我蝦夷・入鹿親子という巨大な権力が膨張し、大化改新という名の「外科手術」を待つばかりの状態にあった。
まだ12歳の中大兄皇子。そして24歳の中臣鎌足。
彼らが歴史の表舞台に躍り出るまでには、まだ長い潜伏期間が必要だった。
藤原という、日本史を千年にわたって支配することになる氏族は、この地上にまだ影すら落としていなかったのだ。
◆
最後に、彼女がその人生を賭けて操った「文字」という名のデバイスについて語らねばならない。
唐代の宮廷において、紙は単なる記録媒体ではなかった。
黄檗で染められた黄麻紙は、虫を退け、腐敗を拒む、時を凍結させるための魔術的な器だ。
弘文館や崇文館に積み上げられた文書群は、世界を記述し、固定するための、巨大なデータベースである。
武照にとって、文字とは、世界を書き換えるための鑿であり、神の権能を奪い取るためのコードであった。
後年、彼女が「曌」や「圀」といった則天文字という、独自のシステムを制定したのも、既存の言語体系を破壊し、自らの定義によって宇宙を再構築しようとした、人類史上稀に見る壮大なハッキング行為であったと言えるだろう。
徳川光圀の名に今も残る「圀」という文字。
それが千数百年の時空を超え、極東の島国にひっそりと、しかし確実に息づいているという事実は、彼女が放った論理の矢が、いまだに我々の世界の深層を射抜いていることを示唆している。
――歴史とは、解かれるのを待っている、最も巨大で、最も残酷なパズルなのだ。




