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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第9話:鏡の言葉

 黒幕の輪郭は、いつも一歩手前で霧に溶ける。

 連続する誤訳の影をたぐり、写し役の出入りをたどるうち、紅蘭こうらんの足は後宮の北――女官房の領分へと、少しずつ寄っていた。皇弟・蒼月そうげつが「お前の隠し事、そろそろ訳させてもらおうか」と笑った夜から、二人はそれぞれの糸を手繰っている。蒼月は人の出入りを、紅蘭は言葉を。そうして辿り着いた北の界隈の妖害には、ひとつ、奇妙な共通点があった。

(妖が、暴れていない)


「ねえ李冰リヒョウさま」

 日暮れの渡殿わたどので、小鈴シャオリンが干しなつめかじりながら声を潜めた。「北の側殿、またもやが出たんだって。でも、誰も怪我してないの。妖が出たのに、誰も。……変じゃない?」

「変だ」

 紅蘭は短く頷いた。喰われるはずの灯火が、消えていない。逃げ惑う女官の悲鳴も、上がっていない。妖が湧いて、何も起きない。そんな夜は、本来あり得ない。

(誰かが、湧いた妖を、その場で手懐てなずけている)

 小鈴を渡殿に残し、紅蘭はその足で北の側殿へ向かった。朱と金で飾られた表の宮とは違い、女官房の奥は灰がかった漆喰しっくいの壁が続く。香の匂いも薄い。表向きの華やぎから一枚剝がれた、後宮の裏側だった。


 側殿の奥、誰もいない香炉こうろの間に、それは在った。

 墨色の靄が、床の隅でとぐろを巻いている。だが牙を剝かない。怨嗟えんさを吐かない。ただ、飼われた獣のように、低くうずくまっているだけだ。紅蘭の頭の中で、靄の芯にわだかまる「言葉」が、いつものように淡く光って見えた。

(誤訳から湧いた妖だ。なのに――鎮められている)

 それは祓いではない。正しい名を返して行き場を失わせる、母国のことわりとは違う。誤った名のまま、なだめ、すかし、飼い殺しにする手つき。妖を消すのではなく、誤訳を、そのまま手元に置いておくやり方だ。

 言葉で、妖を飼っている者がいる。


「あなた、見えるのね」


 涼やかな声が、背を撫でた。

 振り向くと、女官房を束ねる女官長・白霜はくそうが、柱の影に立っていた。白髪まじりの結髪、隙のない微笑。長い爪の先で、小さな鈴がちりと鳴る。彼女は紅蘭の脇を、衣擦きぬずれの音も立てずに抜け、うずくまる靄のそばへ寄ると、その爪先で、慈しむように靄を撫でた。

 靄が、喉を鳴らすように、ふるりと震えた。

「いい子。今宵こよいは、静かにしておいで」

(妖を、撫でた。怯えもせずに――いや、この女にとって、こいつは道具だ)


「……女官長さま」紅蘭は声色を低く保った。「この妖は、祓われていない。鎮められているだけです。湧いた誤訳を、正していない」

「あら」白霜の微笑が、深くなる。「正す? どうして、わざわざ?」

「妖が残れば、また人を喰います」

「喰わせなければいいのよ。手綱たづなさえ握っていれば、いつ、誰を喰うかも、こちらで決められる」


 ちり、と鈴が鳴った。

 白霜の眼が、紅蘭を上から下へ、ひと撫でする。値踏みする目だ。そして紅蘭もまた、この女の頭の中を覗き見ていた。靄にささやいた言葉――それは七つの言語のどれよりも古い、複数の語が幾重にもり合わさった、恐ろしく精緻な歪曲だった。一語を、正しい意味から半歩だけずらす。気づかれぬほど、わずかに。

(この女、読める。私と同じだ。言葉が、光って見えている)

 鏡を覗き込んだような心地がした。同じ天分。だが、向きが、真逆だ。

 紅蘭は正しい名を返して妖を消す。白霜は誤った名のまま妖を飼い、誤訳を意図して生み、後宮を裏から操る。誤訳は召喚――ならばこの女は、召喚を、いつでも好きなだけ起こせる側に立っている。


「ひとつ、伺っても」紅蘭は探りを入れた。「先ごろ西七宮せいしちきゅうで湧いた妖。あれに囁いた名――『静』。あなたは『鎮まれ』と訳して聞かせた。だが原語の『静』は、文脈次第で『黙れ』にも裏返る。あなたは、わざと半歩、ずらしましたね」

 白霜の指が、ほんの一瞬、止まった。

「……まあ。そこまで読むの」

 からかいではない、本物の感心が、声に滲んだ。「面白い子。宮廷通訳の三人を出し抜いて、一語で妖を砕くのですってね。けれど――消してしまうなんて、もったいない。あれは、よくしつければ、いくらでも言うことを聞くのに」

 今度は、白霜が探る番だった。鈴の付いた長爪が、紅蘭の頰の高さで、つと止まる。

「あなた、こうの生まれではないでしょう。その耳――七つの言葉が、よほど深くみている。どこの国で、誰に習ったのかしら。……ずいぶん、痛い習い方を、したようね」

 心臓が、ひやりとした。声色も、平らな胸も崩していない。なのにこの女は、紅蘭の言葉の底に滲む「焦げた匂い」を、嗅ぎ当てようとしている。鏡は、こちらを映すと同時に、向こうからも覗き込んでくる。

迂闊うかつに答えれば、真名まで読まれる)

 紅蘭は、にこりともせずに受け流した。「習いは、独学です。痛みは、後宮の方が余程」

「ふふ。可愛げのないこと」

「言葉は、人を救うためにある」

 言ってしまってから、紅蘭は奥歯を噛んだ。八年前、誤った一語に故郷を焼かれた娘の、譲れぬ一線だ。

 その一瞬の硬さを、白霜は見逃さなかった。微笑の底で、何かが、すっと冷えた。

「救う、ね」

 その声が、ふいに遠くなった。年経た井戸を覗き込むような、暗い遠さだった。

「昔、わたくしもそう信じていた。言葉は、弱い者の味方だと。正しく訳されさえすれば、わたくしは助かるのだと。――けれど、わたくしの言葉を、正しく訳してくれる人は、ひとりも、いなかった」

(……被害者の、目だ。この女、かつて言葉に、裏切られている)

 だが影は、またたきの間に消えた。白霜は爪先で靄をひと撫でし、すっと立ち上がる。鈴の音が、もとの優美さを取り戻していた。


「言葉はね、李冰。支配する側のためにあるのよ。正しいか間違っているかを決めるのは、いつだって、手綱を握る者。あなたが『正しい』と信じるその訳も、結局は、誰かがそう決めただけ」

「違います。文脈が、意味を決める。私情では、裏返らない」

「あなた、本当に莫迦ばかね」


 白霜は、楽しげに目を細めた。からかいではない。あわれみだ。

 彼女は靄を従えるように身をひるがえし、香炉の間を出ていく。その背が、闇に紛れる手前で、ふと止まった。長爪の鈴が、ちり、と最後に鳴る。


「正しく訳す? ――それが、何の役に立つの」


 冷ややかな一言を残して、女官長は夜へ溶けた。

 紅蘭は、うずくまる靄のそばに、一人取り残された。飼い慣らされた妖が、彼女を見上げて、低く、低く、喉を鳴らしている。

(あの女が、黒幕だ。間違いない)

 そして、それだけではなかった。

 白霜が靄に囁いた、あの歪曲の手つき。一語を半歩ずらし、幾重にも縒り合わせて妖をなだめる、その語の組み方。紅蘭の指先が、ひとりでに強張った。初めて見るはずの技なのに、身の奥のどこかが、それを「知って」いた。

 故郷がまだ燃える前の、ずっと昔。霧の向こうで、誰かの声が、同じ手つきで言葉を縒っていた気がした。


 第9話、お読みいただきありがとうございます。ついに、紅蘭の「鏡像」――女官長・白霜が、本性の一端を見せました。

 正しく訳して妖を祓う紅蘭に対し、白霜は妖を言葉で飼い慣らし、誤訳をわざと生んで後宮を操る側。同じ言語の天分を、真逆に使う二人です。言葉は救いか、それとも支配の道具か――この問いが、これから二人を正面からぶつけていきます。

 そして白霜が一瞬だけ覗かせた、暗く遠い目。彼女もまた、かつて言葉に裏切られた誰かだったのかもしれません。その影が、紅蘭の故郷の記憶と、わずかに触れ合いました。

 次回はいよいよ、同じ詩を巡って、紅蘭の正訳と白霜の歪曲が、真正面から衝突します。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の一語を書く励みになります。


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