第10話:同じ詩を、違えて
その夜、後宮の華やかさは、罠のように整えられていた。
月のない晩をわざわざ選んで、女官長・白霜が詩会を開いた。朱と金の灯籠が宮を満たし、妃たちが香を競いながら居並ぶ。中央の台には、一巻の古詩が広げられている。百年前、とある小国の歌人が、戦に追われた故国へ宛てて詠んだ「望郷の詩」だという。
李冰――男装の紅蘭は、末席で奥歯を噛んでいた。
(月のない夜に、滅んだ国の古詩を読む詩会。――妖を、呼ぶ気だ)
香炉の間で対峙したあの夜、ようやく掴んだ。白霜は、妖を言葉で飼い慣らす鏡像の使い手だ。誤訳でわざと妖を呼び、後宮を裏から揺さぶる。その尾を、初めて同じ場で踏んだ。
末席の隅、配膳の盆を抱えた下働きの小鈴が、そっと紅蘭の袖を引いた。
「李冰さま……あの女官長さま、なんだか、笑いすぎてて怖い」
「下がっていろ、小鈴。――灯が消えたら、振り返らずに逃げろ」
上座で、白霜が鈴の付いた長爪を持ち上げ、古詩の一節をなぞった。優美に、底冷えのする声で。
「――『燕は歸る』。この『歸』を、わたくしはこう読みます。『燕は、滅びへ歸る』と」
とたん、紅蘭の頭の中で、文字がざっと色を変えた。
(違う)
古語の「歸」は、文脈に縛られて意味が裏返る。戦の歌なら「身罷る」。だがこれは望郷の詩だ。次の句は「故の軒に」と続く。帰る先は、死ではない。故郷だ。少しでも古語を学んだ者なら、間違えようがない。
なのに白霜は、確信を持って訳し違えた。わざと。なお悪いことに、この古詩を選んだのも彼女だ。故郷を喪った歌人の歌を、月のない夜に、わざわざ。
(妖を呼ぶのに、いちばん効く一語を、いちばん深い詩から選んでいる)
古詩の墨字から、墨色の靄が噴き上げた。灯籠の朱を一つ、また一つと喰い消し、妃たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。靄は人の形を捨て、長い喪服の袖のように、宮の梁へ広がっていく。袖の先からは、嗚咽に似た低い音が、絶えず零れていた。誤って「滅び」と呼ばれた望郷の祈りが、行き場を失って、泣いている。
逃げ惑う妃たちが、宮の出口で折り重なり、悲鳴がひときわ高くなった。
「慌てるな。――墨の届かぬ、灯のある方へ」
壁際を離れた皇弟・蒼月が、紫の衣をひるがえして人の流れを割った。倒れかけた妃の腕を取り、墨色の触れぬ柱の陰へと押しやる。皇弟が退路を捌いたわずかな間に、宮の混乱は、かろうじて道筋を得た。
そうして人払いを済ませてから、彼は初めて、末席の紅蘭へ目を向けた。
「李冰。お前の出番だ。――それとも、女官長の詩のほうが、正しいか?」
紅蘭は答えず、立ち上がった。懐から、控えておいた原詩の写しを抜く。七つの言語が、頭の中で淡く光る。
靄が、彼女めがけて喪服の袖を振り下ろした。
怯まず、空に指を走らせる。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かんだ。真名を、正しい意味で、書く。
「『歸』――『燕は、故郷へ歸る』。これは、滅びの詩ではない。帰郷の、祈りだ」
金の文字が、靄の喉元を縛った。墨色が、内側からほどけかける――が。
「あら。ずいぶん、甘いこと」
白霜が、長爪を空へかざした。彼女の指がなぞった跡には、紅蘭の金とは違う、霜のように白い文字が浮かぶ。鏡に映したような、もう一つの真名。
「『歸』――『燕は、還らず』。故郷など、とうに焼けて無いのよ。帰る家のない者に、帰郷の祈りが、何の役に立つの」
白い文字が、金の文字に喰らいついた。靄が、二つの真名の間で引き裂かれ、悲鳴のように渦を巻く。空に金と白の文字が交差し、灯の消えた宮に、二人ぶんの真名が眩く乱れ咲いた。
紅蘭は、すかさず次の一語を空に重ねた。「歸」の傍らに、「故」と「軒」を書き足す。文脈ごと、真名を固めにかかる。だが白霜の白い爪も止まらない。彼女は「還らず」に、「焼」「無」と冷たい字を継いで、紅蘭の文脈そのものを塗り潰そうとした。金が一句書けば、白が一句で削る。空中で、二つの詩が、同じ韻を踏みながら、真逆へ伸びていく。
(この型――)
紅蘭の背筋を、冷たいものが這った。白霜の歪曲は、ただの不注意ではない。正しい意味を知り尽くした上で、最も人を傷つける一語を選び、そこへ言葉をねじ曲げる。一語の傷口に、的確に指を入れてくる手つきが――妙に、古い傷をなぞる指のように、馴染んでいた。
(……いや。今は、妖だ)
小鈴が、柱の陰から声を震わせた。「李冰さま、それって……同じ詩を、二人で別々に訳して、引っぱり合ってるの?」
「そうだ」紅蘭は靄を睨んだまま答えた。「先に、正しい一語を信じさせたほうが、勝つ」
紅蘭は、もう一歩踏み込んだ。金の文字を、書き継ぐ。
「焼けて無くとも、帰る場所は、言葉の中に残る。――『燕は、故郷へ歸る』。たとえ、その故郷が、もう、無くとも」
これは、紅蘭自身への言葉でもあった。燃え落ちた故郷を持つ者の、嘘のない一語。だからこそ、それは妖の芯まで届いた。
金の文字が、白い文字を押し返す。嗚咽に似た靄の音が、ふと、凪いだ。喪服の袖が力を失い、墨色がゆっくりと床へ沈み、光の粒になってほどけていく。消えていた灯籠の朱が、ひとつ、またひとつと、ともり直した。柱の陰へ退いていた妃たちが、おそるおそる顔を上げ、平らな胸の少年通訳官を、息を呑んで見つめている。
妖は、鎮まった。
だが――白霜は、倒れていない。
彼女は白い文字の最後の一画を、つと指で消した。妖を失っても、優美な微笑みは欠けもしない。
「見事。妖を鎮めるところまでは、ね」
白霜は、鈴の音を鳴らして紅蘭へ歩み寄った。「でも、あなたはわたくしを縛れなかった。わたくしも、あなたを呑めなかった。――引き分け、ね」
紅蘭は、息を整えながら、初めてまっすぐに白霜を見た。
(この女……妖を呼んでおきながら、一度も、自分の手は汚していない)
言葉だけで妖を呼び、言葉だけで退く。紅蘭と、同じ武器。同じ天才。
「なぜ、です」紅蘭は、低く問うた。「正しく訳せる頭を持ちながら、なぜ、わざと歪める」
「正しく訳す?」
白霜の微笑みが、ほんの一瞬、凍った。底のほうに、ずっと昔の、凍えた何かが覗く。
その刹那、紅蘭の頭の中で、白霜の言葉が淡く光った。声の裏で、彼女が本当に言いたかったもの――それは、嘲りではなく、まだ凍りついたままの、古い痛みだった。
「それが――何の役に立つの。わたくしは昔、正しい言葉を、誰よりも信じていた。正しく訳されれば、きっと助かると。……信じて、裏切られたわ。一語の誤りで、何もかも」
その目が、すぐにまた優美な膜で覆われる。「言葉は、支配する側のためにあるのよ。歪める者が勝ち、信じた者が喰われる。――あなたも、いずれ分かる」
白霜は、紅蘭の耳元に、鈴の付いた爪をかざした。そして、囁く。
「李冰。いいえ――あなた、ほんとうは、その名ではないでしょう」
紅蘭の心臓が、跳ねた。
「次は、あなたの真名を、訳してあげる。――誤って呼ばれた妖が、正しい名で消えるように。正しく呼ばれた偽りも、真名で、ほどけるものよ」
鈴の音を残して、白霜は朱金の宮を去っていった。
後に残された紅蘭は、冷たい汗の滲んだ手を、強く握りしめる。
壁際の蒼月が、めずらしく笑わぬ顔で、呟いた。
「……厄介な好敵手を、見つけたな。李冰」
紅蘭は、答えられなかった。
白霜の白い文字が、まだ目の裏に焼きついている。正しい意味を知り抜いた上で、最も深い一語を選んで外す、あの歪め方――どこで覚えた手だろう。
(思い出せ。あれは……どこかで、たしかに)
だが、記憶は霧の向こうで形にならない。ただ、胸の奥が、理由もなく軋んだ。あの白い文字の冷たさが、なぜか、ずっと昔に失くした何かと、同じ匂いがした。
月のない夜の宮に、消えたはずの墨の匂いが、ほんの少しだけ、残っていた。
第10話、お読みいただきありがとうございます。第1章の締めくくり――女官長・白霜との、初めての正面衝突でした。
同じ一語、同じ詩を、正しく訳す者と、わざと歪める者が、空に金と白の真名を書き合う。紅蘭が初めて出会った、自分と同じ武器を持つ好敵手です。妖は鎮めたものの、白霜は縛れず、引き分け。互いに「侮れない」と認め合う一戦になりました。
そして白霜が残した一言――「次は、あなたの真名を訳してあげる」。彼女は、李冰の正体に、もう手をかけています。白霜はなぜ、正しい言葉を捨てたのか。その歪曲の手口に、紅蘭が覚える既視感の正体は何か。物語はここから、第2章へ進みます。
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