第11話:恋文は、毒になる
白霜と同じ詩を書き、別々の真名で競った――あの対決から、一夜が明けた。
引き分け。互いの手の内を、半分だけ見せ合った夜だった。紅蘭は通訳房の窓辺で、まだ醒めきらぬ頭に、別れ際の一言を転がしていた。
(次は、あなたの真名を訳してあげる、か)
白霜の声が、耳の奥でまだ鈴の音を立てている。優美で、底冷えのする声。あれは脅しではない。予告だ。
胸の布の上で、紅蘭はひとつ息を吐いた。男装の少年通訳官「李冰」として、今日もまた、誰かの訳し違えを拾う一日が始まる。
――その朝が、思いのほか早く来た。
「李冰さま! 李冰さま、大変だよ!」
下働きの小鈴が、何かを齧りかけたまま駆け込んできた。「梅花宮の妃さまが、皇上に恋文を出したんだって。そしたら……その紙から、墨の靄が!」
恋文。紅蘭の眉が、わずかに寄った。
(祝詞、そして今度は――恋文か)
言葉の事故は、所を選ばない。
梅花宮の前庭は、すでに人だかりだった。
文机の上に広げられた一通の文。そこから、墨を溶いたような黒い靄が、ゆらりと立ちのぼっていた。陽の光にも消えず、見る間に膨らんで、人の背丈ほどの影になる。靄の中で、文字の形をした黒い欠片が、ぐるぐると渦を巻いていた。
梅花宮の妃が、女官に支えられて青ざめている。
「わたくしは……ただ、お慕いする気持ちを、文に……それが、どうして……」
妃の故郷は南方。煌の言葉に不慣れな彼女は、母語で文をしたため、女官に煌語へ写させて献じたのだという。
「李冰。お前の出番のようだぞ」
いつのまにか、皇弟・蒼月が回廊の柱にもたれていた。からかうような目で、靄を顎で示す。「皇上への恋文が、呪詛になって妖を吐いた。――さて、どう訳す」
紅蘭は答えず、女官の手から、献じられた煌語の写しを受け取った。
読み下す。問題の一語は、すぐに知れた。
「『呪う』――妃さまは、皇上を『呪う』と書いて差し出された。これでは、妖も湧く」
「そ、そんな……! わたくしは、そんなこと……!」
妃が悲鳴を上げる。靄が、その声に呼ばれたように、ぶわりと膨らんだ。
紅蘭は懐から、もう一枚の紙を引き抜いた。妃が最初にしたためた、南方語の原文。彼女はいつも、事件のたびに原文の写しを控えている。
(やはり、写しと原文が、食い違っている)
七つの言語が、紅蘭の頭の中で淡く光る。南方の言葉で、その一語は「慕う」。恋い焦がれる、心を寄せる――そういう字だ。
字形は、煌語の「呪」とよく似ている。だが、似ているだけだ。
「南方語のこの一語は、『慕う』。文はこう続いています。『遠き宮に在れど、月を見るたび、あなたを――』」
紅蘭は、靄の渦へ歩み出た。黒い欠片が、彼女めがけて殺到する。
怯まず、宙へ指を走らせる。なぞった先に、淡い金の文字が灯った。真名を、正しい意味のままに、書きつける。
「『慕う』だ。――『月を見るたび、あなたを慕う』。これは呪いではない。恋文だ」
誤って呼ばれた妖は、正しい名を返されて、行き場を失った。
靄が、内側から崩れた。光の粒になってほどけ、文机の上に、一通の文だけが残る。喰われかけていた前庭の影が、すうと薄れて、梅花の香が戻ってきた。
「……わたくしの、文は」
妃が、震える声で言った。「呪いでは、なかったのですね。お慕いすると、ちゃんと……」
「ええ」紅蘭は静かに頷いた。「あなたは、正しく恋を書いておられた。訳し違えたのは、あなたではない」
――解決した。今度も。
だが紅蘭の胸には、爽快よりも先に、いつもの冷たい引っかかりが残っていた。
彼女は、献じられた煌語の写しを、もう一度灯火にかざした。
(おかしい)
南方語の「慕う」と煌語の「呪う」は、字形こそ似ている。だが、写した者がほんの少しでも前後を読めば、「月を見るたびあなたを呪う」などという一文が、恋文に紛れ込むはずがない。意味が、通らないのだ。
後宮では、献上の正本だけが重んじられ、写しなど用が済めば竃の火にくべられる。誰も、写し違えた一字など見返さない。
――だが紅蘭は、いつも控える。だから、気づいてしまう。
彼女は、写しの「呪」の一字を、指でなぞった。墨の運びが、他の字と、わずかに違う。そこだけ、何度も書き慣れたように、淀みがない。
(この一字だけ……まるで、最初からそう書くと決めていたみたいだ)
ノアの夜。祝いの詩。――そして、恋文。
訳し違えた者が、いつも「うっかり」では、片付かない。
「李冰」
蒼月が、いつのまにか隣にいた。からかいの色が、引いている。「また、その顔だな。何を見つけた」
紅蘭は答えず、写しを手に、梅花宮の女官たちを振り返った。
「この文を、煌語に写したのは、どなたですか」
女官たちが、互いに顔を見合わせる。やがて、一番端にいた若い女官が、おずおずと進み出た。墨で汚れた指を、所在なげに揉んでいる。
紅蘭は、その指先と、写しの筆跡を、見比べた。同じ手だ。
「あなたは、南方語が読めますか」
「……いいえ」女官は、首を振った。「読めません。わたくしは、ただ……」
声が、震えた。
「わたくしは、ただ……言われたとおりに、写しただけです」
前庭に、梅花の香だけが流れている。
言われたとおりに。――では、そう「言った」者が、どこかにいる。
紅蘭の背筋を、八年前に燃えた故郷の匂いが、もう一度、撫でていった。
第11話、お読みいただきありがとうございます。祝詞ときて、今度は「恋文」が妖を呼びました。お慕いするはずの一語が、呪いに化ける――言葉の事故は、想いの形すら歪めてしまいます。
紅蘭が正しく訳し直し、妃の恋文はちゃんと恋文に戻りました。ですが、訳し違えた女官は読めない言葉を「言われたとおりに写しただけ」。誰が、何のために、その一字を書かせたのか。後宮の誰も見返さない「写し」の中にこそ、作為は隠れています。
一話=一事件で解決しつつ、その奥の糸を、紅蘭と一緒にたぐっていってください。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の一語を訳す励みになります。




