第12話:薬名、一字の差
通訳房の昼は、墨の匂いに、薬の匂いが混じる刻だ。
大国・煌の後宮では、諸国から嫁いだ妃が病めば、太医房が異国の薬方を取り寄せる。だが薬方は、書かれた国の言葉で書かれている。それを煌の字へ訳し直し、清書して各宮へ回すのが、通訳房の役目だった。
李冰――男装の紅蘭は、その日も、机に積まれた書状を片端から正しく訳していた。
「南宮の供物の目録、この一語は『賜う』。『奪う』ではありません。書き換えを」
「北宮の挨拶状、ここは敬語が一段、足りません。直しておきます」
筆が止まらない。事件が起きる前に、誤訳の芽を摘んでいく。それが、潜入してからの紅蘭の、変わらぬ朝だった。
訳した紙は、写し役の女官たちが清書し、印を捺して各宮へ運ぶ。訳す者と、写す者は、別なのだ。その隙間のことを、紅蘭は前に一度、寒い思いで考えたことがある――控えを取らず、一語を書き換えても、誰も後から確かめられぬ隙間が、この房にはある、と。
その写し役の一人が、紅蘭の机の脇を、音もなく通り過ぎた。痩せて、伏し目がちの女官だ。指先は、写し物のせいか、墨で黒く汚れている。
(……また、墨に汚れた指か)
ふと引っかかったが、紅蘭は筆を止めなかった。後宮には、墨で指を汚した女官など、掃いて捨てるほどいる。
異変は、午後の鐘とともに来た。
「李冰さまっ、大変っ!」
飛び込んできたのは、下働きの小鈴だった。「西七宮が……朱華妃さまが、お倒れにっ。宮に、靄が湧いてる!」
紅蘭は懐の写しを掴み、駆けた。
西七宮の前庭は、すでに墨色の靄に呑まれかけていた。
灯火がひとつ、またひとつと喰い消され、昼だというのに庭は薄暮の色に沈んでいる。靄の中心、寝台の上で、朱華妃が喉を掻きむしっていた。唇は紫に変じ、指の先が痺れて動かぬらしい。その苦悶から滲み出るように、半透明の手が、幾本も天井へ伸びていた。
「妃さまは、太医さまの薬を、お飲みになっただけです……っ」
付きの女官が、泣きながら一枚の紙を差し出した。各宮へ配られた、清書済みの薬方。紅蘭はそれを引ったくり、用法の一行へ目を走らせた。
――「これを、服すべし」。
(……飲んだ、だと)
配られた薬方の用法は、確かに「服すべし」と読める。だが、煌の字に直したこの一行が、そもそも正しいとは限らない。
紅蘭は懐から、太医房に控えてあった原本の写しを抜いた。異国の薬方の、元の一枚だ。原文の写しを懐に控えるのは、八年来の癖だった。控えのない言葉は、いつでも、誰の手でも、書き換えられる。
七つの言語が、彼女の頭の中で、いつものように淡く光る。配られた訳文と、原本と。二枚を並べ、紅蘭は用法の一語を、文字の上で引き比べた。
(やはり、だ)
腫れ物の段に記された、用法の一語。西方の医語で、「ハル」。
「莫迦が」
紅蘭の声が、靄の庭に低く落ちた。
「西方の医語で『ハル』は、文脈で意味が裏返る。戦地の急場なら、傷口を焼く毒を『煽り飲ませる』。だが――療養の、腫れ物に効く薬方でのこれは」
薬方には、はっきりと書かれている。烏頭。肌に塗れば腫れを散らし、口に入れれば命を奪う、両刃の薬草。
「『塗る』だ。飲む薬ではない。患部に、塗るものだ」
たった一字。煌の字へ訳すなら、用法は「傅」――肌に塗布する、の一字でなければならなかった。それを誰かが、よく似た一字、「服」――内に服す、と訳し違えた。
外と内。一字の差で、薬は、毒に変わる。
「李冰さま、それってつまり……」小鈴が、青い顔で唾を呑む。「塗る薬を、間違えて飲んじゃった、ってこと……?」
「そうだ。そして妖は、その『間違えた一語』から、湧いている」
靄が、ぞろりと首をもたげた。痺れた朱華妃の苦痛を喰らって、墨の手が紅蘭めがけて伸びる。
彼女は怯まず、空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名を、正しい意味で、書く。
「『ハル』――肌に、与える。『この薬は、飲むのではない。腫れに、塗るものだ』。これは、命を絶つ毒ではない。命を救う薬だ」
誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。
靄が、内側から砕けた。光の粒になってほどけ、西七宮に昼の光が戻る。喰われていた灯火が、ぽつ、ぽつ、と息を吹き返した。
寝台の上で、朱華妃が、大きく咳き込んだ。紫の唇に、わずかに血の気が差していく。
「太医を、早く。烏頭の毒消しを」紅蘭は付きの女官へ命じ、原本の写しを押しつけた。「用法は『塗る』。二度と、飲ませるな」
女官が、転げるように駆けていく。朱華妃の喉が、ゆっくりと、息を継ぐ音を立てた。
――間に合った。今度も。
ふと気づくと、靄の引いた庭の隅に、宮廷通訳長・黎大人が立っていた。
この薬方の清書を、前例どおりの手筈で出したのは、この房だ。妖害の責めが、向きかねない。少し前の黎大人なら、老いた通訳長は「越権だ」と紅蘭の訳を握り潰したかもしれない。前例の名を盾に、己の保身を先に立てて。
だが、黎大人は、何も言わなかった。
(……あの者は、また、訳し直した)
形式主義の眼鏡の奥で、老いた眼が、紅蘭の手の中の原本を、じっと見ている。前例帳のどこにも、この一語の正解は載っていない。載っていないものを、あの少年は、原文一枚で言い当てた。
黎大人は、口を開きかけ――やめた。皺の刻まれた手を、ただ袖の中へ収め、一歩、後ろへ退いた。今日は、口を出さぬ。それが、この頑固な老人にできる、精一杯の譲歩だった。
紅蘭は、その沈黙の意味を、淡く光る気配の裏に読んだ。何も言わぬことが、今日は、味方なのだと。
息を吐き、額の汗を拭いかけて――紅蘭の手が、止まった。
清書済みの薬方。その隅に捺された、写し役の印。墨で汚れた指の跡が、紙の端に、薄く残っている。
(この印)
恋文を写したのとは、違う印だ。違う女官の、違う指。――写した手は、別人だ。
だが紅蘭は、思い出していた。数日前――妃の恋文の一語が「慕う」から「呪う」へ化け、妖を呼んだ、あの夜。訳し違えを問い詰めたとき、震えながら「わたしは……言われたとおりに、写しただけです」と繰り返した、あの梅花宮の女官。
そして今日の薬方も、配られたとおりに清書されただけ。写した者は別なのに――誤りの形だけが、揃っている。意味の裏返る一語を選び、前後を黙殺して、確信を持って踏み外す。まるで、同じ手本を、別々の手で写したかのように。
(写した者は、別人だ。だが――配られる『手本』の出どころが、同じだ)
偶然なら、ありえる。後宮の写し役は、限られている。だが、紅蘭の背筋を、八年前の戦の匂いが、冷たく撫でた。
誰かが、同じ歪んだ手本を、何人もの指先へ配っている。妃を呪う恋文も、命を奪う薬名も――「言われたとおりに写しただけ」の、それと知らぬ手を、いくつも通って。
「……これは、不運な事故じゃない」
紅蘭は、墨に汚れた印を、指の腹でなぞった。
誤訳が妖を呼ぶこの後宮で、その誤りが、いつも同じ型で起きているのなら。
(写し役に、その一語を『写させて』いる手本は――誰が、配っている)
昼の光の戻った西七宮に、薬の匂いだけが、まだ濃く、流れていた。
第12話、お読みいただきありがとうございます。今回の「誤訳」は、薬の処方――たった一字、「傅《塗る》」が「服《飲む》」に化けただけで、薬が毒に変わる、という事件でした。言葉の事故は、詩や恋文だけでなく、人の命の際でも起こります。
そして、頑固な黎大人が、今日は何も言いませんでした。第6話で「あの者の訳は、正しいのか」と漏らした、あの揺らぎの続きです。彼が紅蘭の背を押す側へ回る日は、少しずつ近づいています。
最後に紅蘭が気づいた、もう一つのこと――恋文の事件と、薬名の事件。写した女官は別人なのに、誤りの形が、寸分違わず揃っていた。「言われたとおりに写しただけ」の手へ、同じ歪んだ手本を配る者が、どこかにいる。物語の奥の糸が、また一本、たぐり寄せられました。
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