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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第13話:慣習という棘

 後宮に、これほど多くの言葉が一度に集まる夜は、年に幾度もない。

 春の終わりのえん。諸国の妃が睦み、煌と各国の和を結ぶための席だった。こうの后妃に交じり、西方・北方・南方から輿入こしいれした妃たちが、それぞれの故国の衣をまとって席に着いている。朱と金の煌の襦裙じゅくん、褐色の肌に映える西方の刺繍衣、銀の額飾りを鳴らす北方の妃――広間は、色とこうと、七つに分かれた言葉のさざめきで満ちている。

 楽士の弦が鳴り、酒が回る。下働きの小鈴シャオリンが、料理の皿を危なっかしく抱え、席の間をすばしこく縫っていった。

李冰リヒョウさま、すごい人。耳が、いくつあっても足りないね」

 すれ違いざま、小鈴が早口でささやく。壁際の通訳官の列に立つ男装の紅蘭こうらんは、小さく頷いた。

(言葉が多いということは――訳し違える隙も、多いということだ)

 淡い不安が、にぎわいの底に、ひとすじ沈んでいた。

 通訳房を束ねる黎大人レイたいじんが、上座の近くで額の汗を拭っている。「前例が、ない」――多民族の妃を一堂に集めた宴など、過去の儀礼帳に記された作法だけではさばききれぬのだろう。紅蘭はふところに、いつものように、主立った妃の故国の言い回しを書き写した紙を控えていた。七つの言語が、彼女の頭の中ではいつも、淡く光って見える。光の数が多いほど、訳し違える影もまた、濃くなる。


 宴がたけなわとなり、献杯けんぱいの儀が始まった。

 西方から先ごろ輿入れしたばかりの若い妃が、席を立つ。慣れぬ煌語に頬を強張らせながら、彼女は両手で杯を掲げ、煌の高位――朱華しゅか妃の前に、それを静かに差し出した。故国の、最もあつい敬いの作法であったのだろう。

 西方の言葉が、ひとつ、こぼれる。

「……セヴァ」

 朱華妃付きの宮廷通訳が、すかさず読み下した。

「『この杯、お返しいたす』――突き返す、と仰せです」

 広間の空気が、凍った。


 煌の作法で、差し出された杯を相手へ返すのは、「あなたとは杯を交わさぬ」という、おもてを潰す拒絶にほかならない。満座の前で、朱華妃の顔から血の気が引いた。

「……わたくしとは、酒も飲めぬと?」

 声が、震えている。それでも朱華妃は、煌の妃らしく取り繕おうとした。へりくだりの言葉を、西方の妃へ向ける。

「いえ……わたくしなど、あなたの杯を受けるに、足りぬ女ですから」

 今度は、西方の妃の侍女が、母語へ訳した。直訳の、ひと言で。

 西方の妃の褐色の頬が、かっと朱に染まる。その耳には、こう届いたのだ――「お前など、取るに足りぬ」。

 双方の面子めんつが、同時に潰れた。


 恥と怒りが、二人の妃の間で火花になる。女官たちがざわめき、楽士の弦が、ぴたりと止んだ。

 その時だった。

 差し出されたままの杯の酒が、墨を一滴落としたように、黒く濁る。卓の上を、見覚えのあるもやが這い始めた。こと‐の‐は妖。訳し違えと、潰された面子の恥が、形を得かけている。

 靄は見る間に膨れ、宴の灯を一つ、また一つと喰い消していく。黒い手のようなものが、二人の妃の間を割って伸び、それぞれの衣の裾を掴もうとした。恥が深いほど、妖は太る。煌の妃と西方の妃、二つの恥を同時に喰らって、靄は卓の上でぐるりと胴を太らせた。色と香に満ちていた広間が、悲鳴に裏返る。

 黎大人が腰を抜かし、女官たちが我先に逃げ惑った。誰も、靄に名を返せる者はいない。


 紅蘭は、通訳官の列から進み出た。

(西方の作法と、煌の作法。同じ一語が、互いの慣習の中で、正反対に裏返っている)

 頭の中で、二つの言葉が、別々の色に光る。西方語の「セヴァ」と、煌語の謙りの言葉。どちらも――嘘ではない。ただ、相手の慣習に置かれた途端、とげになっただけだ。

「李冰どの」

 低い、たどたどしい煌語。桂才人けいさいじんだった。西方の妃のそばへ寄り、母語で素早く何かを囁いて、若い妃の震える肩をなだめている。それから紅蘭を振り返り、確かな声で告げた。

「あの娘は、『セヴァ』と言いました。……『退ける』では、ありません。私の、故国の言葉です」

 桂才人の瞳が、まっすぐに紅蘭を射ていた。――あなたなら、正しく訳せる。そう託す目だった。

 桂才人は卓の端に置かれた献辞の紙を取り、自らの指で、西方の文字を一字、書き添えた。「セヴァ」。紅蘭の頭の中で、そのつづりが、ことさら強く光る。

(やはり、だ)

 西方の古い作法で、己の杯を相手に「委ねる」ことは、最上位の者にしか許されぬ献身の形。一方、煌の卓では、杯を返すのは絶交の合図。同じ動作が、慣習の境目で、敬意と侮辱に裂けている。間違えようがないほど明白な裂け目だ――それを、訳す者が一人もいなかった。ただ、それだけのことだった。

 紅蘭は、頷いた。


 彼女は、靄の湧く卓へ歩み出る。半透明の手が、酒杯の縁をいた。ひるまず、宙に指を滑らせた。なぞる先から、淡い金の文字が結ばれてゆく。真名まなを、正しい意味のまま、書きつける。


「『セヴァ』――『この杯、あなたにゆだねる』」


 声を張り、満座へ向けた。

「西方では、己の杯を相手に差し出すことこそ、最も篤い敬いの作法。突き返したのではない。朱華妃さまを、誰より高く置いたのです」

 朱華妃が、息を呑む。紅蘭は振り向きざま、今度は西方の妃へ向き直り、もう一語を継いだ。

「そして朱華妃さまの『わたくしなど』は、煌の謙りの礼。己を低くして、相手を高みに据える――西方の作法と、向きは同じ。お二人は、同じ敬いを、違う言葉で差し出しただけだ」


 どちらの顔も、立つやく

 誤って呼ばれた妖は、まことの名を返されたその時、よりどころを失う。

 金の文字が、墨の靄を縫い止めた。靄は内側からほどけ、光の粒になって酒杯の中へ沈む。濁りの消えた酒に、灯火の色が、ゆらりと戻った。


 西方の妃と朱華妃が、おそるおそる互いを見た。先ほどまでの恥が、戸惑いに、そして淡い笑みへと変わっていく。朱華妃が、ためらいがちに杯を取り、口をつける。広間に、ほどけるような吐息と、やがて大きなどよめきが広がった。止まっていた弦が、また鳴り始める。

 桂才人が、紅蘭のかたわらに立った。

「あなたは……言葉の、向きを変える。棘を、礼に」

「慣習は、棘ではありません」紅蘭は短く返した。「ただ、訳す者がいないと、棘になる。それだけです」

 桂才人が、ふっと笑った。たどたどしい煌語の奥で、二人の間に、確かなしんが一つ、結ばれた気がした。


 賑わいの戻った広間の隅で、紫の衣が、柱に背を預けていた。

 皇弟・蒼月そうげつ。いつから見ていたのか、その目から、いつものからかいの色が消えている。

「見事だ。二つの慣習を、どちらも傷つけずに訳し分けた」

 彼は杯を片手に、ゆっくりと紅蘭へ歩み寄り、声を落とした。

「だが――妙だな。お前は、いつも、ちょうどいい時に、ちょうどいい場所にいる」

 紅蘭の背筋が、わずかに強張る。

 蒼月の指が、紅蘭のふところから覗いた紙の端――原文の写しを、軽く弾いた。

「誤訳が湧くたび、お前が現れて、一語で収める。まるで、誰かが筋書きを書いているようにな」

 灯火が、二人の影を長く伸ばす。蒼月は、ささやくように問うた。


「お前は――誰の差し金でもないのか?」


 その問いの底に、からかいではない、冷えた何かが沈んでいた。

 紅蘭は、答えられなかった。

(この男は――どこまで、訳している)

 賑わいの戻った宴の灯が、不意に、ひどく遠く見えた。


 第13話、お読みいただきありがとうございます。今回の誤訳事件は「言葉」そのものではなく、「慣習の取り違え」でした。同じ一語が、西方と煌、それぞれの作法の中で正反対の意味に裏返る――紅蘭の出番は、まさに「どちらの顔も立てる一語」を見つけることでした。

 杯を差し出すことが、ある国では拒絶に、ある国では最も篤い敬意になる。言葉の事故は、辞書の外側、慣習の境目でこそ起きるのかもしれません。桂才人が橋を架けてくれたことで、二人の信頼も一歩深まりました。

 そして宴の隅から、皇弟・蒼月が投げかけた問い――「お前は、誰の差し金でもないのか?」。からかいの消えたあの声の意味を、次回、紅蘭は受け止めることになります。

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