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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第14話:近づく、皇弟

 この十日で、後宮は三度、あやかしを見た。


 恋文の一語が「慕う」を「呪う」に化けた夜。薬の処方が一字を取り違えられ、妃が床に伏した昼。西方の作法とこうの作法が訳し違えられ、和睦の宴が修羅場に変わった宵。いずれも紅蘭こうらんが――男装の通訳官「李冰リヒョウ」が、一語でもやを祓ってきた。

 だが祓うたびに、爽快よりも先に、冷たいものが胸の底に沈んでいく。


(多すぎる。後宮の言葉は、こんなにもろくない)


 深夜の通訳房。紅蘭は灯火ともしびを一つだけ残し、三つの事件で押さえた紙を、冷えた床に並べていた。恋文、処方、口上。書いた言語も違う。訳した者も違う。仕える宮も、房も、何一つ重ならない。

 なのに、胸騒ぎだけが、三度とも同じ匂いをしていた。八年前に燃えた、故郷の匂いに、似ている。


 七つの言語が、紅蘭の頭の中ではいつも淡く光って見える。その光の地図を指でなぞるうち、三枚の紙のある一点だけが、同じ色で灯った。


(訳文じゃない。――訳す前の、写しだ)


 原文の「写し」。事件のたび、女官や下女が「言われたとおりに写しただけ」と繰り返した、あの一枚。

 恋文を写したのは、梅花宮の若い女官。処方を写したのは、薬房付きの下女。口上を写したのは、宴を仕切った別の女官。三人に、互いの面識はない。

 その三枚に、紅蘭は灯火を近づけた。そして、息を止めた。


 原文の、たった一画。


 恋文の「慕」の、心を表す下の部首が、わずかに崩されている。処方の数を表す字に、横棒が一本、足されている。口上の敬語の語尾から、一字が抜かれている。どれも「写し損ない」と言い張れる程度の、小さな傷だ。

 だが、その傷が入った瞬間、訳す者は必ずそこで足を取られる。取られれば、誤る。誤れば――妖が湧く。


(写し役が、訳す手前で誤訳を仕込んでいる。訳す者は、罠を踏まされただけだ)


 三人の手は、別々だ。なのに、傷の入れ方の癖が、揃っていた。筆の運び。画を崩す角度。力の抜き方。まるで、同じ一つの手が、三度、別の名を借りて紙を握ったように。


(……一人だ。三人の写し役を、後ろで動かしている者が、一人いる)


 背筋が、冷えた。これは不運の連鎖ではない。誰かが写し役を駒にして、後宮中に誤訳の種を、丁寧に撒いている。

 その時、並べた三枚の傷の上で、墨色の靄が、ちろりと舌のように揺れた。歪んだ字が引き寄せる、小さな残り火。


「『写し損ない』だ」


 紅蘭は怯まず、空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。

「――誤りではない。ただの、写し間違い。妖になるほどの、悪意はない」

 名を、軽く返してやる。靄は行き場を失い、ほどけて夜気に消えた。仕込まれた傷を、傷のまま「無害な過ち」と訳し直す。それだけで、種は芽吹かない。


「――そこまで読めたか」


 灯火の油が、ふっと傾いだ。

 戸口に、紫の衣。皇弟・蒼月そうげつが、いつからそこにいたのか、柱に肩を預けて立っていた。いつものからかいの笑みは、今夜は薄い。


「人の房に、無断で。殿下のご趣味は、夜這いですか」

「夜這いなら、もっと無口に来る」蒼月は、床の紙へ顎をしゃくった。「恋文、処方、口上。三枚並べたな。――奇遇だ。俺も、同じ三枚を追っていた」


 紅蘭の指が、止まった。


 蒼月は懐から折りたたんだ紙を抜き、紅蘭の紙の隣へ広げた。そこには三人の写し役の名と、仕える宮、そして女官房への出入りの刻限が、几帳面に書き連ねてあった。

 紅蘭が言葉で辿り着いた結論の、ちょうど足の裏側。誰が、いつ、どこを通ったか。


「お前は、紙の傷から読んだ。俺は、人の足取りから読んだ」蒼月の目が、紅蘭を捉えた。「行き着いた先が、同じだ。――三人の写し役は、別々に見えて、同じ一人に繋がっている」


 二つの調べが、ぴたりと噛み合う音がした。

 言葉から入った紅蘭と、人から入った蒼月。文字の傷を手繰った線と、人脈を手繰った線。別々の道を引かれた二本が、後宮の奥の一点で、確かに交わっていた。手札が、ほとんど重なっている。足りない一枚を、互いが握っている。


(この男……どこまで、読んでいる)


 紅蘭は、油断なく蒼月を見返した。ここからは探り合いだ。相手が何を知り、何を知らぬか。一語でも踏み込みすぎれば、こちらの正体まで訳されかねない。

 探るなら、まず相手の手札の縁を、一枚ずつめくる。


「三人の写し役は、女官房への出入りがある。殿下の紙には、そう書いてある」紅蘭は、蒼月の紙の刻限の列を指した。「ですが、写し役を動かしている『一人』の名は、書かれていない。――殿下も、そこは、まだ読めていない」

「読めていない、ではない」蒼月は、薄く笑った。「読めているが、名を出すには、まだ一枚足りん。お前の言葉という、一枚がな」

 紅蘭は、内心で舌を巻いた。こちらの探りを、そのまま打ち返してくる。手の内を見せず、相手に一歩踏ませる。やはり、ただの退屈な皇族ではない。


「殿下は、なぜ写し役などを追うのです」

「後宮の妖害を、止めたい。それだけだ」蒼月は即答し、逆に問い返した。「お前は、なぜ追う」

「……通訳官の、務めです」

「嘘だな」蒼月は、とがめる色もなく笑った。「務めだけの目を、お前はしていない。もっと古い、もっと深い目だ。――誰かに、言葉で殺された者の目だ」


 灯火が、二人の影を床に長く伸ばしていた。

 紅蘭は、答えなかった。答えれば、八年前の故郷の火に、この男の手が届いてしまう。沈黙もまた、一つの返答だと知りながら、それでも口を閉ざした。


「言いたくないなら、いい」蒼月は、あっさりと退いた。「だが、これだけは言える。お前が追っている『一人』と、俺が追っている『一人』は、同じ顔だ。誤訳を撒く者を放っておけば、後宮の妖害は止まらない。――次は、もっと大きな言葉が、訳し違えられる」

(大きな、言葉)

 紅蘭の胸が、ざわついた。恋文。処方。口上。種は、次第に大きくなっている。この調子で撒かれ続ければ、いずれ国を動かす一語に、誰かが傷を入れる日が来る。その確信が、蒼月の声の底にも、同じ温度であった。


 心臓が、一つ跳ねた。

 この男は、紙の傷を読むように、人の傷も読む。八年前を、覗かれた気がした。


「まあいい。今夜は、暴かん」

 蒼月は床に片膝をつき、二人の紙を、並べて置き直した。傷の癖と、足取り。言葉と、人。二枚が揃って初めて、後宮の奥に潜む一つの影が、輪郭を結びはじめる。まだ顔は見えない。だが、確かに、そこに「一人」がいる。


「ここから先は、俺の足と、お前の言葉が、両方いる」蒼月は紅蘭を見上げた。低く、静かな声だった。からかいは、もう微塵もない。「だから――提案がある」


 蒼月が、膝をついたまま、わずかに身を寄せた。灯火の届く間合いへ、紫の衣が入ってくる。

(来る)

 紅蘭は動かなかった。逃げれば、隠し事があると白状するに等しい。この男の前では、引くことすら、一つの言葉になる。だから、その黒い瞳を、正面から受け止めた。受け止めながら、頭の隅で計算していた。――この手を取れば、私の首は、この男の口一つに預けられる。取らなければ、後宮の誤訳は、誰にも止められぬまま太り続ける。

 天秤の、どちらにも、刃がある。


 紅蘭の喉が、鳴った。


「俺と組まないか。お前の正体は、黙っておく」


 灯火が、ひとつ、長く揺れた。


 第14話、お読みいただきありがとうございます。一語=一事件で妖を祓ってきた紅蘭が、ついに「事件の奥にいる一人」へ手をかけた回でした。

 訳す者ではなく、その手前の「写し役」に誤訳が仕込まれていた――この縦軸の謎を、紅蘭は言葉の傷から、蒼月は人の足取りから、別々に追い、同じ一点で出会います。守られる側だった紅蘭と、傍観者だった皇弟。二人の手札が重なったとき、物語は「協力」の一歩手前まで来ました。

 そして蒼月の、あの取引。「お前の正体は、黙っておく」――次回、紅蘭はこの手を取るのか。守る/守られるの関係が、いよいよ動き始めます。

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