第15話:皇弟の取引
月のない夜の、誰も使わぬ東の四阿だった。
皇弟・蒼月に呼び出されたのが、よりによってこの刻限。李冰――男装の紅蘭は、灯火を一つだけ持って、闇の濃い庭を渡った。
昨夜、連続した誤訳の写し役が、ばらばらの女官でありながら、同じ一人に操られていると掴んだばかりだ。そして同じ夜、蒼月もまた、別の道から同じ結論へ辿り着いていた。
「俺と組まないか。お前の正体は、黙っておく」
昨夜、通訳房で交わされたその一言の、これは続きだった。
四阿の卓に、蒼月は一人で座っていた。供も連れず、紫の衣の裾だけが闇に沈んでいる。皇族が、護衛も置かずに男装の通訳官と二人で会う――それ自体が、彼の本気の証だった。
(駆け引きの場では、ない)
紅蘭は、卓を挟んで腰を下ろした。
「お話を、うかがいます。殿下」
「単純な取引だ」
蒼月は、灯火の上で指を組んだ。からかいの色は、今宵は薄い。「お前の隠し事を、俺は口外しない。後宮を欺いた罪も、お前が女であることも、亡国の素性も――何一つ、誰にも言わん。その代わり、お前の目を、貸せ。後宮妖害の、黒幕探しに」
灯火が、ぱちりと爆ぜた。
紅蘭は、すぐには頷かなかった。言葉の裏を読む。これは脅しか、それとも対等の盟約か。七つの言語で鍛えた勘が、青年の声の底を探る。
「殿下は、私の弱みを握っておられる。組まずとも、命じればよろしいのでは。――泳がせた駒を、いつでも捨てられる立場で」
「命じた駒は、保身で嘘をつく」
蒼月は、即座に返した。「俺が欲しいのは、命令で動く通訳ではない。自分の意志で、一語まで正しく訳す者だ。それは――脅して手に入るものではない」
紅蘭の中で、張り詰めていた何かが、わずかに緩んだ。
(この男は、言葉の価値を、分かっている)
正しい訳は、命じて出るものではない。畏れの下では、人は必ず、安全な誤りへ逃げる。それを知っている者だけが、こう言える。
(だが――信じて、いいのか)
亡国を出てから、紅蘭は誰も信じてこなかった。信じた者から、まず喰われる。八年前、正しい言葉を信じ、和平を信じて――たった一語の誤りで、家族も故郷も失った。皇弟の盟約など、明日には反故にできる紙きれだ。
(けれど)
灯火の上で、青年の声に、嘘の濁りはなかった。共感覚に近い勘が、何度測っても、同じことを告げる。この男の「黙っておく」には、裏がない。
信じるのは、賭けだ。だが賭けねば、焼けた故郷の根へは、永遠に届かない。
「では、対等に。一つ、確かめさせてください」
紅蘭は、卓へ身を寄せた。「殿下は、なぜ後宮の妖害を、これほど追われるのです。皇弟の御身が、女官房の闇に首を突っ込む理由が」
蒼月の目が、ふと、遠くなった。
「兄上が――帝が、後宮の異変に気づいておられる」
声が、低く落ちた。「だが、玉座から動けば、宮は揺れる。帝が女官房を疑ったと知れれば、それだけで後宮は割れ、外へ漏れ、付け入る者が出る。だから俺が、表に出さず、闇のうちに片をつける。――兄と、この後宮を、守るためだ」
(守る、ため)
紅蘭は、その一語が嘘でないことを、声の光で読んだ。皇族の傍観者と見えたこの男の芯に、確かに、守るべきものがある。
皇弟という地位は、玉座の影だ。表で動けば兄を脅かし、動かねば後宮が腐る。その狭間で、この男は闇の側を選び、一人で背負ってきた。飄々《ひょうひょう》と見えた余裕の下に、ずっと、降ろせぬ荷があったのだ。
そして、気づいた。
守られる側だった自分が、今、この取引で、皇弟という権を動かす側に回ろうとしている。初めて出会った夜、手首を掴まれ、ただ逃げるしかなかった者が。皇族の力を借りて、八年前に焼けた故郷の真相へ――あの戦を呼んだ「仕組まれた誤訳」の根へ、ようやく、踏み込める。
(私が、この男を、動かせる)
怖れではなく、初めて、対等の手応えだった。
「では、さっそく一つ、殿下にお願いがございます」
紅蘭は、伏せていた目を上げた。「黎大人が握り潰そうとする訳文を、今後は私の手元へ戻るよう、上から計らっていただきたい。誤訳の証は、一枚でも欠ければ、黒幕の影が薄れます」
「――いいだろう」
蒼月は、わずかに目を見張り、それから、愉快そうに頷いた。「ほう。庇われるばかりだった通訳官が、皇弟に注文をつけるか」
紅蘭は、答えなかった。だが、胸の内で、確かに思う。
(そうだ。私はもう、ただ掴まれて、逃げるだけの者ではない)
「殿下。私にも、利があります」
紅蘭は、隠していた札を、一枚だけ伏せたまま口を開いた。「後宮の誤訳の黒幕を追うことは、私にとっても――ある古い事件の、根へ続いている気がしてなりません。それが何かは、まだ申せません。けれど、私は私のために、この調べに加わります」
「結構だ」
蒼月は、深く問わなかった。「互いに、別の理由で、同じ闇を追う。――盟約とは、本来そういうものだ」
二人は、しばし灯火を挟んで黙した。
やがて蒼月が、卓の上に、指で一本の線を引いた。見えぬ地図を描くように。
「では、ここまでで分かったことを、合わせよう。お前から先に」
命令ではなく、促し。紅蘭は、初めて、自分の手札を進んで広げた。
「五つ――いえ、もう七つの誤訳。筆跡は、すべて別人。ですが、訳の崩し方だけが、寸分違わず揃っています」
紅蘭は、卓の見えぬ線へ、指を重ねた。「意味が裏返る一語だけを選び、文脈を黙殺して、確信を持って踏み外す。これは、歪め方そのものを、誰かに教え込まれた者の仕業。写し役は、操られている。元締めが、一人います」
「俺の側も、同じ一点を指した」
蒼月の指が、紅蘭の指の先で、止まった。「写し役を動かす糸を、人脈から手繰った。行き着く先は――女官房の、奥だ」
「官の、上に立つ者」
紅蘭が、声を継いだ。
文字から手繰った線と、人脈から手繰った線。別々の道の先で出会った二本が、今、同じ一点を指していた。
まだ顔はない。名もない。だが確かに、女官房の奥に、誤訳を権力へ鋳替える者が――一人、立っている。
「名は」蒼月が、低く問うた。
「まだ。ですが、近づいています」紅蘭は、見えぬ輪郭を、指でそっと撫でた。「この型を辿れば――歪曲の癖が、必ず一人の手を指します。筆跡は隠せても、訳の崩し方は、その者の声と同じ。隠しきれません」
「お前の言葉は、つくづく恐ろしいな」蒼月が、苦笑した。「人を、声紋のように訳す」
「殿下」
紅蘭は、灯火越しに青年を見た。「その者の真名を、私が訳します。誤って呼ばれた妖が、正しい名で消えるように。――歪められた者の正体も、いつか、正しい一語で、ほどけます」
「頼もしいな」
蒼月の口の端が、ようやく緩んだ。笑うと、酷薄な面差しに、また幼さがよぎる。「これで俺たちは、共犯だ。李冰」
共犯、という一語が、紅蘭の胸に、思いのほか温かく落ちた。
信じきってはいない。それでも、ひとりではなくなった。亡国を出てから、初めての感触だった。
(味方、ではない。けれど――敵でも、ない)
立ち上がりかけた紅蘭を、蒼月の声が、ふと引き留めた。
「一つだけ、言っておく」
青年は、闇の奥へ目をやった。「女官房の奥にいるその者は――お前が思うより、ずっと近くで、お前を見ている。お前の真名を、もう、訳しにかかっているかもしれん」
紅蘭の背筋を、冷たいものが這った。
月のない夜の四阿に、消えたはずの墨の匂いが、ほんの少しだけ、混じっていた。
第15話、お読みいただきありがとうございます。第2章の山場――皇弟・蒼月と紅蘭が、ついに正式に手を組む「取引」の回でした。
第1話で手首を掴まれ、ただ逃げるしかなかった紅蘭が、今度は皇弟という力を動かす側へ回る。守られる者と守る者の、静かな逆転です。蒼月が正体を口外しない理由は、ここで「盟約」という形に結実しました。互いに別の理由で――紅蘭は故郷の真相へ、蒼月は兄帝と後宮を守るために――同じ闇を追う、対等の共犯です。
そして二人は初めて、黒幕の輪郭を共に囲みました。女官房の奥、官の上に立つ者。まだ顔も名もないその影が、すでに紅蘭の真名へ手をかけているとしたら……。次回、調べは「歪曲の型」そのものへ踏み込みます。
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