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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第16話:筆跡を、追う

 誤訳を仕込む手は、どこかで必ず、紙に触れる。


 皇弟・蒼月そうげつが「組まないか」と持ちかけた夜から、三日。紅蘭こうらん――男装の少年通訳官「李冰リヒョウ」は、後宮の外れにある古びた書庫の一室を、ひそかな調べの場と定めていた。誰も使わぬ棚にほこりが積もり、こうの匂いも届かぬ部屋。だが人目がないという一点で、ここは後宮で最も贅沢ぜいたくな場所だった。


 卓の上に、紅蘭は懐から取り出した写しを並べていく。ノアの献上詩。白蓮びゃくれん妃の祝詞しゅくし(春の節句)。薬名の一字。北方の言伝ことづて。――誤訳がものを呼んだ夜ごとの、原文と訳文の写しだ。七つの言語が頭の中で淡く光って見える彼女は、事件のたびに、こうして一枚ずつ書き留めてきた。


「相変わらず、よく集めたものだ」蒼月が卓に身を乗り出す。紫の衣の袖を無造作にまくり、その目だけは笑っていない。「俺の方は、人の足を集めた。どの宮で、いつもやが出て、その前夜に誰が出入りしたか。――合わせてみるか」


「お願いします」


殊勝しゅしょうだな。お前にしては」


「殿下の足が役に立つうちは、頭も下げます」


 蒼月が、ふっと喉を鳴らした。「お前の言葉は、後宮で一番面白い。――いいだろう。つがえてやる」


 二人は、紙を突き合わせた。紅蘭の写しが「いつ・どの言葉が・どう外された」を語り、蒼月の覚え書きが「その紙が、いつ・誰の手を通ったか」を語る。別々だった二本の糸が、卓の上で、ゆっくりとり合わさっていく。


「妙だな」蒼月が、覚え書きの一行を爪で押さえた。「西七宮せいしちきゅうの妖の前夜も、北の側殿の前夜も、出入りした者の名は違う。だが、運んできた荷は同じだ。――『清書済みの訳文』。それを、宮へ返しに来ている」


「届けに来た者が、誤訳を運んでいる」紅蘭は頷いた。「ですが、その者たちは下働きです。文字を読めぬ者も多い。運び手は、罪を知らない」


「では、罪は誰の手にある」


「紙が、どこで化けたか。――そこに、手があります」


(やはり――揃っている)


 どの事件も、訳文は宮へ配られる前に、いったん女官房にょかんぼうを通っていた。そこで清書され、体裁を整えられ、各宮へかれる。靄が湧くのは、決まってその翌晩。出入りした顔は毎度違う。だが、紙の通り道だけは、一本だった。


「写し役を、当たりましょう」紅蘭は言った。「清書する手は、必ず原文に触れている。誰かが、その手に何を握らせたか」


   *


 小鈴シャオリンの手引きで、二人は一人の写し役の女に行き当たった。年若い、おどおどとした下級の女官だ。蒼月が皇族の証を伏せ、紅蘭がただ「訳の確かめだ」とだけ告げると、女は青ざめながらも、震える声で語りはじめた。


「わたくしは……ただ、写しただけです。言われたとおりに」


「言われたとおり、とは」紅蘭は声色を低く保つ。


「清書のときは、見本てほんが回ってくるのです。『この通りに、一字も違えず写せ』と。……わたくし、西の言葉も北の言葉も、読めません。文字の形が、絵のようにしか見えなくて」女は袖を握りしめた。「だから、見本のとおりに、形を真似るだけで……それが、何と書いてあるかなんて、わたくしには」


(読めぬ手に、写させている)


 紅蘭の背を、冷たいものが伝った。巧妙だ。読める者に訳させれば、迷いの跡が残る。良心が、筆をよどませる。だが、文字を絵としか見ぬ者に「見本どおり」を命じれば、誤った一語は、ためらいなく、正確にふくされる。写し役は、自分が何を世に放っているかも知らぬまま、妖を呼ぶ紙を撒いていたのだ。


「その見本は、どこから」蒼月が問うた。


「……女官房の、奥から。誰が書いたものかは、わたくしには。届くときには、もう」女はうつむいた。「ただ、見本の字は、いつも……同じ癖が、ありました。書いた人は、別々のはずなのに。なぜか、外し方が、似ているのです」


「外し方が、似ている」紅蘭は、その一言を、ゆっくりと繰り返した。「――お前は、文字を読めぬと言ったな。なのに、なぜそれが分かる」


「字の、形ではなく……運びが、です」女は、自分の指で、宙に小さく曲線を描いた。「ここで、一度ためらって、それから一気に返す。その手つきが、どの見本も、よく似ていて。……わたくしのような者にも、それだけは、なぜか分かるのです。気味が悪いほど」


 紅蘭と蒼月が、目を見交わした。読めぬ者の目にすら映るほど、その癖は、深く染みついているのだ。


   *


 書庫の一室に戻り、紅蘭は写しと、女から借り受けた見本の写しとを、灯火の下にきっちりと並べた。


(型を、洗う)


 筆跡は、ばらばらだ。書いた手は、確かに別々。だが――誤った一語の「外し方」が、揃っている。祝福を、呪いへ。らいを、別れへ。待つを、捨てるへ。どれも、善い意味を選び、その正反対の極へ、半歩ずつ、ためらいなく寄せている。気づかれぬほど、わずかに。だが、必ず、心をえぐる方へ。


「見ろ」紅蘭は一枚を指した。「文脈を断ち切る位置が、同じです。必ず、一語の前で意味の流れを切り、後ろの言葉と縒り合わせて、裏返す。――誤訳ではない。これは、織り方だ。同じ織り手の、同じ手つきが、四枚、いや、すべての紙に通っている」


「言葉で、はたを織るようにか」


「ええ。一語を緯糸よこいとにして、意味を、わざと裏地へ返す」


 蒼月が低くうなった。「ばらばらの筆跡で、同じ型。……一人の頭が、何人もの手を借りて書いている、ということか」


「そうです。手は、いくらでも替えられる。読めぬ写し役に、見本を握らせればいい。――だが、外し方の癖だけは、替えられない」


 紅蘭は、並んだ紙の上に、指を滑らせた。なぞるように、一枚、また一枚。その織り目を、目でたどっていく。


 たどって――指が、止まった。


(……この、寄せ方)


 胸の奥が、ざわりと鳴った。あの祝詞しゅくしの夜にも、香炉こうろの間で白霜はくそうと対峙した夜にも、煙のように逃げていった、あの感触。どこかで見た。ずっと昔に。思い出そうとすると、いつも霧に溶けた。


 だが今、四枚が、十数枚が、一つの型として目の前に揃っている。織り目が、はっきりと見える。善を選んで悪の極へ返す、その縒り方。一語の前で文脈を断ち、後ろと結び直して、祝いをやいばに変える、その手順。


 紅蘭の頭の中で、淡く光る文字が、ふいに別の景色を照らした。


 九つの歳。故郷の、最後の夜。


 二つの国の間を行き来した、たった一通の国書。和を結ぶはずの一語が、届いた先で、刃に変わっていた。『くだる』――両国ともに天命の前にこうべを垂れ、和を結ぶ。その一語が、『くだす』――汝を従わせる、という宣戦に化けていた。字は、同じ『下』。読みが、くだる と くだす で、半分だけ違う。誰もが「不注意な誤訳だ」と言った。使者の、不運な一語だと。


 だが――あの一語の、外し方。文脈を断った位置。善き言葉を選んで、最も人を殺す極へ、半歩、寄せたその手つき。


(似て、いる)


 全身の血が、すうっと引いた。灯火が、やけに遠く見える。指先が、紙の上で冷えていく。


「どうした、李冰」蒼月の声が、どこか遠くで聞こえた。「顔が、白い」


 紅蘭は、答えられなかった。並んだ紙を見つめたまま、奥歯を噛む。喉の奥に、八年前の焦げた匂いが、こみ上げてくる。家族の声が。燃えるはりの音が。


 これは、後宮の事件ではない。少なくとも、それだけではない。


 彼女は、震える声を、やっとのことで押し出した。


「……この、歪曲わいきょくの型に、覚えがある」


「覚えが?」


 紅蘭は、ゆっくりと顔を上げた。その目が、卓の灯火を映して、揺れている。


「あのいくさの、誤訳に……よく、似ている」


 書庫の闇が、息を呑んだように、静まり返っていた。


 第16話、お読みいただきありがとうございます。蒼月と手を組んだ紅蘭が、いよいよ「黒幕の筆跡」を追いはじめる回でした。


 言葉を読める者に訳させれば、良心が筆を淀ませる。だから黒幕は、文字を絵としか見ぬ写し役に「見本どおり」を写させていました。読めぬ手を借りれば、誤った一語は、ためらいなく世へ放たれる。――そのからくりを、紅蘭は蒼月の「足」と自分の「言葉」を縒り合わせて、たぐり寄せます。


 そして、すべての紙に通う、たった一つの「歪曲の型」。善い言葉を選んで、最も人を傷つける極へ半歩寄せる、その手つき。何度も「どこかで見た」と逃げていったその正体に、紅蘭はとうとう触れかけます。八年前、故郷を焼いた、あの一語と――どこか、似た織り方ではないか、と。


 後宮の事件と、紅蘭の喪った故郷。別物だったはずの二つが、一本の糸で繋がりかけています。次回、その糸の先に、誰の影が立つのか――ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が震える手で次の一語をたぐる励みになります。


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