第17話:後宮の、裏道
壁というものは、煉瓦や石でできているとは限らない。
李冰——男装の紅蘭は、通訳房の片隅で、幾日もかけて集めた写しの束を前に、低く唸った。誤訳の事件が起きるたび、もとの文書を「写した」女官たちは、皆そろって同じことを言う。
「言われたとおりに、写しただけです」
誰に言われた、と問えば、答えは途切れる。札を渡した相手の顔も、受け取った刻限も、誰も覚えていない。糸は、そこでふつりと切れた。
(写し役は、ただの手だ。どこかに、元締めがいる)
誤った訳文を「正しい原本」と偽り、後宮の各所へ毒の一語を撒く、ひとつの手元。それを辿らねば、八年前の戦にも届かない。だが、その元締めへ続く道が、どうしても見えなかった。皇弟・蒼月と手を組んでなお、二人の目では、その一筋を拾えない。
その日の昼、人払いした東屋で、蒼月は紅蘭の集めた写しを指で繰りながら、つまらなそうに言った。
「行き止まりだな。写し役は、口を揃えて『言われたとおり』。命じた者の顔は、誰も覚えていない。——よくできた仕組みだ。手だけがあって、頭が見えん」
「殿下のお力でも、女官房の奥までは覗けませんか」
「皇族が後宮の女官房を嗅ぎ回れば、それだけで噂が立つ。お前のように、床を這う目が要るのさ」蒼月は、人の悪い笑みを寄せた。「——さて、どう辿る、李冰」
どう辿る、か。紅蘭は写しの束を抱え、通訳房へ戻った。皇弟が動けぬ場所を、動ける者がいる。それが、誰なのか——その答えは、思いがけず軽い足音で、向こうからやって来た。
「むずかしい顔してると、眉間に妖が湧くよ、李冰さま」
振り向くまでもなかった。床を蹴る軽い足音と、何かを齧る音。下働きの小鈴が、棗を頬に詰めたまま、戸口にしゃがんでいた。そばかすの散った鼻に、悪戯っぽい皺を寄せている。
「人の眉間を、勝手に妖の巣にするな」
「だって、ずーっと紙とにらめっこしてるんだもん。ねえ、何を探してるの。あたし、後宮のことなら、お偉い女官さまより詳しいよ」
紅蘭は、束ねた写しに目を戻した。下働きの童女に話すことではない——そう思いかけて、ふと、手が止まる。
(……いや。後宮の「道」を、誰より知っているのは)
妃でも、官でもない。床を磨き、桶を運び、裏の裏まで足で歩く者だ。
紅蘭は、写しの一枚を灯にかざした。誤った訳の記された紙。その右下の隅に、爪の先ほどの墨の印が、ぽつりと打たれている。事件の起きた写しには、どれにも、同じ印があった。
「小鈴。この印に、見覚えは」
小鈴は棗の種をぺっと吐き、ひょいと覗き込んだ。
「あー、それ、検め印だ。各宮から上がった書きものは、いっぺん一か所に集めて、印つけて、それからまた配るの。配り先を間違えないように」
「——符牒か」
紅蘭の目に、その一画が、ふいに言葉として光った。七つの言語が地図のように見える彼女には、それが分かる。文字ではない。だが、文字を書く者の癖だ。意味を持つ、たった一筆の。
(これは、行き先を指す印だ。誰が、どこへ回すかを、これひとつが決めている)
毒の一札は、闇雲に撒かれていたのではない。仕分けられ、印を打たれ、狙った宮へ、正しく届けられていた。誤訳を配るその段取りだけは、恐ろしく、正確だった。
「小鈴。この印を打つ場所は、後宮のどこだ」
小鈴は、床に指で後宮の絵図を描いた。妃の宮を花びらのように囲む、女官たちの房。その奥へ、一本の細い線を引く。
「ここ。表の回廊からは見えない、裏道。下働きと、女官しか通らない道。各宮の荷は、みーんなこの道を通って、奥の房に集まるの。あたし、毎朝そこを桶担いで通るから、知ってる」
絵図を覗き込んで、紅蘭は息を詰めた。妃たちが香を競い、官たちが面子を張り合う表の後宮。その裏に、もう一つの後宮があった。人と物が、誰の目にも触れずに流れていく、静かな水路。
(私は、表ばかり見ていた。言葉を、文字を。だが言葉は、足で運ばれる)
「殿下の力でも、私の目でも、この道は辿れなかった」紅蘭は、童女を見た。「お前でなければ、見えない道だ」
小鈴は、にっと笑った。「でしょ。李冰さま。あたしの足、貸したげる」
刻は、灯ともし頃。
紅蘭と小鈴は、裏道の梁の陰に身を潜めた。表の華やぎ——朱と金の回廊が嘘のように、ここは狭く、薄暗い。それでいて、息づいている。女官が紙束を抱えて行き、下働きが桶を提げて戻る。後宮という大きな体の、血の流れる管。その一筋を、紅蘭は初めて、目で辿った。
低い梁の下をくぐったとき、結い上げた紅蘭の髪が、半ば崩れて肩に落ちた。男にしては長すぎる、黒い一筋。
紅蘭は、はっと手で押さえた。小鈴が、すぐ後ろにいる。
だが、童女は何も言わなかった。ただ手を伸ばし、崩れた髪をそっと襟の内へ押し込んで、被り物を直してやった。
「……裏道は、埃っぽいからね。髪、汚れちゃうよ、李冰さま」
目は、笑っていた。知っていて、知らぬふりをする目だ。
(こいつは——とうに、気づいているな)
それでも口にせず、こうして隠してくれる小さな手が、ここにある。嘘を暴こうとする者ばかりの後宮で、嘘を守る手が。紅蘭の胸の奥が、ふいに温もった。
「……礼を言う」
「えへへ。棗、ひとつでいいよ」
二人は、息を殺して荷の流れを追った。
各宮から運ばれる紙束は、裏道を一筋にくだり、やがて、ひとつの房の前へ吸い込まれていく。検め印の符牒は、すべてそこで打たれていた。毒の一語も、祝いの詩も、薬の処方も——後宮じゅうの言葉が、いったんその一室を通り、選り分けられ、配られていく。
(元締めは、ここだ)
言葉の、関所。誤訳を仕込むなら、これ以上の場所はない。何を正しく届け、何を歪めて回すか。この一室の主は、後宮の言葉そのものを、握っている。
たった一画の符牒を打ち替えるだけで、祝いを呪いに、薬を毒に変えられる。三人がかりでも消せぬ妖を、紙の隅で、生めるのだ。剣も、毒杯も要らない。要るのは、言葉を選り分ける、この一室だけ。
紅蘭は、ふと寒気を覚えた。自分が言葉で妖を祓うのと、まるで裏返しの、同じ業。同じ理を、逆さに使う者がいる。
紅蘭は、闇に沈むその房の扁額を見上げ、低く問うた。
「小鈴。——この房を、束ねているのは、誰だ」
小鈴は、当たり前のことのように、ささやき返した。
「女官房を束ねるのは、女官長さま。——白霜さま、だよ」
夜気が、すっと冷えた。
紅蘭は、握りしめた写しの隅の、爪先ほどの墨の印を見た。誤訳を、正確に配っていた一筆。後宮の言葉を選り分ける、ただひとつの手元。それが、あの優美な女官長に繋がる。
(……元締めは、白霜の手元か)
点と点が、一本の線になっていく。仕組まれた誤訳の糸を手繰れば、その先に立っているのは――鈴の付いた、あの長い爪か。
八年前に故郷を燃やした匂いが、また、ほんの少しだけ、夜の裏道に立ちのぼった。
第17話、お読みいただきありがとうございます。今回は妖を祓う回ではなく、その妖を「呼ばせている」糸を、紅蘭が辿る話でした。
武器は、言葉だけ。けれど言葉は、書く者の癖や、たった一筆の符牒にも宿ります。紅蘭の目はそれを読み、小鈴の足はそれを追いました。後宮の表の華やぎではなく、その裏を流れる「道」を知っているのは、床を磨き桶を運ぶ少女だった——という回です。
そして小鈴は、たぶん、とっくに気づいています。李冰の正体に。気づいて、なお守ってくれる。この二人の相棒関係を、これからも書いていけたらと思います。
辿り着いた元締めの名は、女官長・白霜。けれど確たる証には、まだ手が届きません。次回は、西方の妃・桂才人さま。書物では届かない故国の一語をめぐる事件に、紅蘭が向き合います。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




