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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第18話:故国の、言葉で

李冰リヒョウさま、大変——桂才人けいさいじんさまの宮が!」


 小鈴シャオリンが通訳房へ転がり込んできたのは、昼下がりのことだった。そばかすの頬を上気させ、息を切らして、いつもかじっている何かを今日は手にしていない。それだけで、事の大きさが知れる。

「西方の宮に、もやが出たの。それも、桂才人さまご自身を、責めるみたいに巻きついてて……女官たちが、『あの方が、こうに降伏せよと書いた』って!」

(降伏、だと)

 紅蘭こうらんは懐に写しの束を押し込み、立ち上がった。


 西七宮の奥、桂才人の宮には、昼だというのに墨を流したような靄が満ちていた。

 褐色の肌に異国の刺繍衣をまとった妃が、靄の中心で立ち尽くしている。逃げないのではない。逃げれば「認めた」ことになると、知っているのだ。靄は半透明の手を幾本も伸ばし、彼女の喉を、何度も撫でていた。

「桂才人さまが、故国の言葉で文をしたためられたのです」

 居合わせた女官が、震える指で一枚の訳文を差し出した。「それを宮廷通訳が読み下したところ——『煌よ、我に服従せよ』と。西方が、和平と偽って我らを脅したのだと、皆が……!」

 紅蘭は訳文を一瞥した。問題の一語に、朱で印がつけてある。原語で《ハリーヤ》――宮廷通訳はそれを「服従」と読み下していた。

(ハリーヤ……西方の典籍語なら、確かに「服従・降伏」だ)

 頭の中で、七つの言語がいつものように淡く光る。だがその一語だけは、光が鈍い。書物で覚えた意味の上に、もう一枚、別の意味がかすんで重なっている。届かない。

「桂才人さま」

 紅蘭は靄を恐れず歩み寄った。「この文は、どなたへ宛てたものですか」


 桂才人の唇が、わずかに動いた。たどたどしい煌語。

「皇后さまへ……春の、贈り物に、添えて。私の、故国の、いちばん大切な、言葉を」

「では、原文を。ご自身の筆で、もう一度」

 差し出された紙に、桂才人は震える手で母語を綴った。流れるような西方文字。紅蘭の目に、その一語——ハリーヤ——が、やはり二重に光って見える。

(書物の意味では、靄は祓えない。これは、生きた言葉だ)

 紅蘭は、初めて己の七言語が壁に突き当たるのを感じた。典籍は「服従」と言う。だが献上の文に「服従せよ」と書く妃がいるか。意味は、文脈で決まる。そしてこの文脈を本当に知るのは——書物ではなく、このひとだ。


「桂才人さま。教えてください」

 紅蘭は膝を折り、妃の目の高さに合わせた。「あなたの里で、この『ハリーヤ』を、人はどんなときに口にするのですか」

 桂才人の瞳が、揺れた。

「……どうせ、また、誤って伝わる。私の言葉は、いつも。煌の人は、私の故国を、脅す者だと——」

「私は、あなたの言葉を、誰かのために訳しはしません」

 紅蘭は静かに遮った。「あなたの言葉のあるじは、あなただ。私はただ、あなたが本当に言ったことに、正しい名を返すだけ。——だから、教えてほしい。あなたの母が、あなたを呼んだときの、その一語を」

 靄が、ぞろりと首をもたげる。桂才人はそれを見もせず、紅蘭だけを見ていた。

 長い沈黙のあと、妃は自分の胸に、そっと手を当てた。

「里では……母が、子の胸に、こうして手を置いて、言うのです。ハリーヤ、と。『あなたに、この身を、預けます』。信じて、委ねる、という——いちばん、やわらかい言葉。くだるのでは、ない。信じる、のです」

 光が、揃った。

 紅蘭の頭の中で、鈍く霞んでいたもう一枚の意味が、くっきりと灯る。典籍の「服従」の下にあった、生きた原意。母から子へ、心を預ける言葉。

(そうか。これは、脅しの文じゃない。差し出された、手だ)


 紅蘭は立ち上がり、靄の根へ歩み出た。半透明の手が、彼女めがけて伸びる。

 怯まず、空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名まなを、正しい意味で、書く。


「『ハリーヤ』——『服従せよ』ではない。『あなたに、この身を信じて預けます』。これは降伏の要求ではない。差し伸べられた、和平の手だ」


 誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。

 靄が、内側からほどけた。光の粒になって散り、桂才人の喉から手が剥がれ落ちる。宮に、西方のこうの匂いが戻ってきた。

 桂才人が、よろめいた。紅蘭はその腕を支える。

「……あなたは」

 妃は、初めて煌語ではなく、母語でそれを言いかけ、それから、ゆっくりと、たどたどしい煌語に直した。

「あなたは、私の言葉を、私のまま、訳してくれた。誰も、してくれなかったことを」

 褐色の頬に、涙が一筋走った。誇りを折らぬ涙だった。

「李冰さま。私の故国の言葉が、いつか、あなたの役に立つなら——私のすべてを、あなたに、預けます。ハリーヤ、と」

 紅蘭は、その手を握り返した。後宮で、言葉の壁ゆえに最も孤独だった妃が、いま、最も確かな理解者になった。


 宮を辞すと、回廊の柱の陰に、紫の衣が待っていた。蒼月そうげつだった。

「西七宮で靄が出たと聞いて、足を運んだら――もう、終わっていたか」皇弟は、紅蘭の白い顔を一瞥した。「無理をしたな。書物にない一語は、お前でも重かろう」

「殿下こそ、皇族がこんな宮の外れまで」

「黒幕が次に毒を盛るとすれば、こういう、孤立した妃だ」蒼月の声が、ふと低くなる。「桂才人は、狙われやすい。――今日のところは、間に合ったがな」

 その目が、ちらと西の闇へ向いた。まるで、これから何かが動くのを、ぎ取ったように。


 ——その夜。

 桂才人の宮の前を、すずの音が通り過ぎた。

 長い爪に小さな鈴をつけた女官長・白霜はくそうが、優美な微笑を浮かべて、妃の前に立っていた。白髪まじりの結髪、隙のない物腰。

「おいたわしいこと。あなたの故国の言葉は、いつも誤って伝わるのですね」

 白霜は、桂才人の頬に、そっと長い指を寄せた。

「ねえ、桂才人。これからは、わたくしに任せてごらんなさい。——あなたの言葉、わたくしが、正しく訳してあげましょうか」

 鈴が、ちりん、と鳴る。

 その微笑の底に、桂才人はまだ気づかない。墨色の冷たさが、ひとすじ、混じっていることに。


 第18話、お読みいただきありがとうございます。今回は、書物の知識だけでは届かない一語のお話でした。

 紅蘭は七つの言語を操りますが、それは「書物で覚えた意味」。母から子へ手渡されるような、生きた言葉の原意は、それを生きてきた人にしか分かりません。だから紅蘭は、桂才人に頭を下げて教えを乞いました。言葉の主は、いつもその人自身——この物語が大切にしている考え方です。

 言葉が通じず孤立していた桂才人が、紅蘭にすべてを「預けます」と告げた、二人の絆の話でもあります。けれど、その絆に手を伸ばす者が、もう一人。優しい声で「訳してあげましょうか」と囁く女官長・白霜の狙いは、いったい何なのか。

 次回も一話=一事件で解いていきます。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の妖を祓う励みになります。


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