第19話:鏡、二度目
黒幕の名は、もう、ほとんど形になっていた。
連続する誤訳の写し役をたどれば、糸はことごとく女官房へ集まる。その房を束ねるのは、白霜。皇弟・蒼月と突き合わせた証は、捕縛にはまだ足りぬ。だが二人の見ているものは、同じ一点を指していた。
(あと一歩。あの女の歪曲の尾を、もう一度この手で掴めば)
李冰――男装の紅蘭が、桂才人の宮へ急いだのは、その矢先だった。
西方の妃・桂才人の故国から、一通の誓詞が届いていた。煌との和平へ向けた、信義の言葉。本来なら、その原文は紅蘭の手に回るはずだった。だが今宵、それを「訳してあげましょう」と先に攫ったのは――白霜だった。
その急報を、紅蘭の手に握らせたのは、蒼月だった。
「皇族の俺が、女官長を妃の宮から遠ざければ、それこそ噂が立つ。咎める名分もない」皇弟は、舌打ち混じりに言った。それから、ふと声を落とす。「――李冰。あの女は、お前と同じ武器を使う。呑まれるなよ」
その一言を背に、紅蘭は宮の奥へ踏み込んだ。
宮の前庭。朱と金の灯籠の下で、白霜は鈴の付いた長爪に誓詞を広げ、優美に、底冷えのする声で読み下していた。傍らで、桂才人が青ざめて立ち尽くしている。
「――この一語、〈沙羅〉。わたくしは、こう訳します。『我ら、煌に屈せん』と」
とたん、紅蘭の頭の中で、文字がざっと色を変えた。
(違う)
西方の古語で〈沙羅〉は、文脈に縛られて意味が裏返る一語だ。戦の口上なら「屈する」「隷う」。だがこれは和平の誓詞。次の句は「対い合う友として」と続く。〈沙羅〉は――身を委ね、信を託す、という意味。屈服では、断じてない。
なのに白霜は、確信を持って訳し違えた。桂才人の故国を最も辱め、最も深く傷つける一語を、的確に選んで。
桂才人が、震える声を絞り出した。
「ちがう……私の国は、屈すると、言っていない。信じる、と……ただ、それだけを……」
その嘆きに応じるように、誓詞の墨字から、墨色の靄が噴き上げた。灯籠の朱を一つ、また一つと喰い消し、靄は人の形を捨て、縛めの縄のように、宮の柱へ巻きついていく。縄の節々からは、低い呻きが絶えず零れた。誤って「屈服」と呼ばれた信義の言葉が、行き場を失って、泣いている。
「李冰さま……!」
柱の陰で、下働きの小鈴が盆を抱えて震えていた。紅蘭は短く言った。「下がっていろ、小鈴。灯が消えても、振り返るな」
紅蘭は、白霜の正面へ進み出た。懐から、控えておいた誓詞の写しを抜く。七つの言語が、頭の中で淡く光る。
靄が、縄の先を鞭のように振り上げた。
怯まず、空に指を走らせる。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かんだ。真名を、正しい意味で、書く。
「〈沙羅〉――『我ら、煌に、信を託さん』。これは屈服の口上ではない。和平の、誓いだ」
金の文字が、靄の喉元を縛った。墨色が、内側からほどけかける――が。
「あら。二度目なのに、まだそんなに甘いの」
白霜が、長爪を空へかざした。指のなぞった跡に、霜のように白い文字が浮かぶ。鏡に映したような、もう一つの真名。
「〈沙羅〉――『弱き者は、強き者に屈す』。それが、この世の理でしょう。信を託す? ――託した先に、裏切りが待つだけよ」
白い文字が、金の文字に喰らいついた。靄が、二つの真名の間で引き裂かれ、悲鳴のように渦を巻く。空に金と白が交差し、灯の消えた宮に、二人ぶんの真名が眩く乱れ咲いた。
紅蘭は、すかさず「対」「友」と書き足し、文脈ごと真名を固めにかかる。白霜は「弱」「裏」と冷たい字を継ぎ、紅蘭の文脈を塗り潰そうとする。金が一句書けば、白が一句で削る。白霜と初めて言葉で斬り結んだ、あの夜と同じ拮抗。
(だが――今度は、見える)
一度目の対決で、紅蘭はこの女の手を、たしかに一度見た。白霜の歪曲は、いつも「最も人を傷つける一語」へ寄せてくる。傷口の在処を知り尽くし、そこへ正確に指を入れる。ならば――傷を恐れず、その一語を真っ向から抱きにいく。
紅蘭は、もう一歩踏み込んだ。金の文字を、書き継ぐ。
「託した先に裏切りがあろうと、託す言葉そのものは、汚れない。――〈沙羅〉。たとえ裏切られても、信を差し出した者の言葉のほうが、正しい」
金の文字が、白い文字を、ぐ、と押し返した。靄の呻きが、ふと凪ぐ。縄の縛めがゆるみ、墨色がゆっくりと床へ沈んで、光の粒になってほどけていく。灯籠の朱が、ぽつ、ぽつと息を吹き返した。桂才人が、両手で口を覆い、崩れるように膝をついた。
妖は、鎮まった。
だが――白霜は、倒れていない。
白い文字の最後の一画を、つと指で消す。妖を失っても、優美な微笑みは欠けもしない。
「なぜ、歪める」紅蘭は、低く問うた。一度目に、聞けなかった問いだ。「正しく訳せる頭を持ちながら、なぜ、わざと」
「正しさ?」
白霜の声が、底のほうで、すっと冷えた。
「いいことを教えてあげる。――歪曲こそ、言葉の、正しい使い方よ。弱い者は、いつだって言葉に殺される。一語の誤りで、国も、人も、いとも容易く。だったら、殺される側にとどまる必要が、どこにあって?」
その目の底に、ずっと昔の、凍えた何かが覗いた。
「わたくしは、支配する側に回っただけ。言葉を歪める者が勝ち、信じた者が喰われる。それだけのこと。――あなただって、ほんとうは知っているでしょう。一語で、何もかも失う側の、痛みを」
紅蘭の奥歯が、わずかに鳴った。
(この女――)
言葉だけで妖を呼び、言葉だけで退く。紅蘭と同じ武器、同じ天才。そして、その手の内をさらに測れば測るほど、白霜の歪曲は、ただの悪意ではなく、何か古い傷の形をして見えてくる。一語で何もかも失った側の痛みを、なぜこの女は、こうも正確に知っている。
白霜は、鈴の音を鳴らして、紅蘭へ歩み寄った。引き分けの一礼を交わすように、ゆっくりと。
だが、その足が、ふと止まった。
彼女は、灯籠の朱に照らされた紅蘭の横顔を、まじまじと見た。優美な微笑みが、はじめて、わずかに揺れる。
「……あなた」
長爪の先が、紅蘭の頬の輪郭を、宙でそっとなぞった。触れぬまま、何かを思い出そうとするように。
「あなた……どこかで、会ったかしら」
紅蘭の心臓が、跳ねた。
会ったはずがない。この女と一度でも会っていれば、忘れるわけがない。――なのに、白霜の凍えた目の奥から、なぜか、八年前に燃えた故郷の匂いが、ちらと立ちのぼった気がした。
「人違いです、女官長さま」
声色を作って、紅蘭はそう返すのが、精一杯だった。
白霜は、答えを待たなかった。ただ、紅蘭の目をもう一度だけ、長く見つめ――それから、鈴の音を残して、朱金の宮を去っていく。
後に残された紅蘭は、冷たい汗の滲んだ手を、強く握りしめた。
(どこかで、会った……? いつ。どこで。――まさか、あの)
だが、記憶は霧の向こうで、形にならない。ただ、胸の奥が、理由もなく軋んだ。
膝をついたままの桂才人が、震える声で呟いた。「李冰さま……あの方の言葉は、なぜ、あんなにも……正しく、聞こえるのでしょう」
紅蘭は、答えられなかった。
月のない夜の宮に、消えたはずの墨の匂いだけが、ほんの少し、残っていた。
第19話、お読みいただきありがとうございます。女官長・白霜との、二度目の正面衝突でした。
十話で「引き分け」に終わった二人が、今度は西方の誓詞をめぐって、ふたたび空に金と白の真名を書き合います。一度手の内を見た紅蘭は、白霜の歪曲が「最も人を傷つける一語」を狙うと読み、傷を恐れず正面から抱きにいきました。それでも勝ちきれず、白霜も縛れない――やはり、引き分け。互いの天才を、いっそう深く測り合う一戦です。
そして白霜は、ついに己の信条を口にします。「歪曲こそ、言葉の正しい使い方。弱い者は言葉に殺される。ならば支配する側に回る」――その言葉の底に凍りついた、古い痛み。一語で何もかも失う側の痛みを、なぜ白霜はこうも正確に知っているのか。
最後の一言、「あなた……どこかで、会ったかしら」。会ったはずのない二人の間に、八年前に燃えた故郷の匂いが立ちのぼります。白霜と紅蘭の過去は、どこで交わるのか。物語は、黒幕の名がはっきりと立つ次回・第20話へ進みます。
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