第20話:黒幕の、名
その夜、皇弟の私室には、灯火が一つしか点されていなかった。
卓の上には、紙の山。後宮で起きた誤訳事件の写し、女官房の配り帳、妃たちへ渡った原文の控え――紅蘭と蒼月が、この一月かけて集めた、すべての証だった。
李冰として通訳房を抜け出してきた紅蘭は、胸の布を巻いたまま、その紙束の前に座っている。蒼月の私室に二人きり。男装が崩れる危うさよりも、いま卓に広げた紙のほうが、よほど胸を騒がせた。
「もう一度、並べる」
紅蘭は短く言って、写しを三枚、横に置いた。「ノアの夜の献上詩。白蓮妃の祝詞(春の節句)。妃の恋文の『慕う』が『呪う』に化けたあれ。――三つとも、原文を後宮へ写した手が、同じだ」
蒼月が、灯火を引き寄せる。紙の隅に、ごく薄く、同じ癖の跳ねがあった。
「写し役が一人、ということか」
「いいえ」
紅蘭は、配り帳の一行を指で押さえた。「写し役は事件ごとに別人です。ですが、その別人たちへ『この一字をこう写せ』と渡していた元は、一つ。配り帳を辿ると、すべて女官房の同じ棚へ戻る」
(写し役は、駒だ。誰かが、駒に同じ型の誤りを握らせている)
蒼月の指が、卓を一度、軽く打った。
「俺も、同じところで止まっていた。だが、決め手がない。女官房は広い。棚を使う者は、何十人といる」
「決め手は、棚じゃありません」
紅蘭は、三枚の写しを、ゆっくり重ねた。光に透かすと、三つの誤訳の歪み方が、ぴたりと一つに重なる。
「歪曲の型です。――この三件、どれも『裏返る一語』だけを、わざと裏返している」
ノアは、文脈で意味が裏返る語。謝は、字形ひとつで散ると礼を併せ持つ語。慕と呪も、北方の崩し字では一画しか違わない。
「ふつうの誤訳は、知らない語を間違える。けれどこの黒幕は、知らない語には手を出さない。――どちらにも訳せる語だけを選んで、悪いほうへ倒す。証拠が残らないように。『うっかり間違えた』と言い逃れできるように」
蒼月の目が、すっと細くなった。「……だから、誰も作為に気づかなかったのか」
「ええ。これは、語の弱点を知り尽くした者の手口です。後宮で、七つの言語の弱みをこれだけ正確に突ける者は――」
紅蘭は、言葉を切った。喉の奥が、わずかに乾く。
二度、知的に渡り合った相手。鈴の付いた長爪で、妖の靄を撫でてみせた女。
「女官房を束ね、配り帳の棚を握り、語の裏表を知り尽くす者は、一人だけです」
「白霜」
蒼月が、その名を口にした。問いではなく、確かめる声で。
「ええ」
紅蘭は、静かに頷いた。「後宮の妖害を仕組んだ黒幕は、女官長・白霜。――これで、証が揃いました」
灯火が、ぱちりと爆ぜた。
確信は、爽快ではなかった。むしろ、胸の底が冷えていく。なぜなら紅蘭は、この「裏返る一語だけを倒す」手口に、覚えがあったからだ。
(……この型を、私は知っている)
三枚の写しを見つめるうち、頭の中で、別の文字が淡く光りはじめた。八年前の、あの一語。
「殿下」
声が、自分でも驚くほど低く出た。「白霜の歪曲は――八年前、私の故郷を滅ぼした戦の、誤訳と同じ型です。ずっと『似ている』とだけ思ってきました。けれど、もう疑いようがない。――あの戦の誤訳と、同じだ」
蒼月が、紙から顔を上げた。からかいの色は、もうどこにもない。
「故郷、と言ったか」
「和を結ぶはずの言葉が、たった一語で宣戦に化けました。『下る』――両国ともにこうべを垂れ、和を結ぶ。その一語が、汝を従わせる『下す』へ。字は同じ、読みが半分だけ違う。知らぬ語の取り違えではない。――どちらにも訳せる一語を、わざと、悪いほうへ倒したものでした」
紅蘭は、奥歯を噛んだ。九つの歳に燃えた家の匂いが、紙の上に、よみがえってくる。
「私はずっと、後宮の事件と、故郷の戦は別のものだと思っていました。けれど、型が同じだ。同じ手が、八年前にも、いまも、言葉を倒している」
私怨と、職務。
家族を喪った理由と、後宮で湧く妖。二本の糸だと思っていたものが、灯火の下で、一本に縒り合わさった。
(偶然じゃない。最初から、繋がっていた)
「李冰」
蒼月が、めずらしく、静かな声で名を呼んだ。「お前の探していたものと、後宮の黒幕が、同じ顔をしているかもしれん、ということだな」
「ええ」
「――一人で抱えるな。お前は言葉を読む。俺は、皇族の足を使える。次は、二人で踏み込む」
紅蘭は、その言葉を、断らなかった。守られる側だった自分が、皇弟と並んで黒幕の名を突き止めた。この一月で、関係は確かに、入れ替わっている。
紙の山を、紅蘭はそっと束ね直した。
白霜は、語の弱点を倒して妖を飼う。ならば、勝つ手はただ一つ。倒された一語を、正しい意味へ訳し直すこと。歪められた真実に、正しい名を返すこと。
武器は、言葉しかない。それで、足りる。
「殿下」
灯火に照らされた横顔で、紅蘭は静かに言った。
「私が次に訳すのは――妖の名でも、誤訳された詩でもありません」
空に、まだ指は走らせない。だが胸の中で、淡い金の文字が、もう一字、形を結びはじめていた。
「白霜の、真名です」
第20話、お読みいただきありがとうございます。第2章「言葉の坩堝」の締めくくりでした。
集めた証拠が一本に繋がり、紅蘭と蒼月が「黒幕は女官長・白霜」と確信する回です。そして、後宮の事件と、紅蘭が故郷を喪った八年前の戦が、「同じ歪曲の型」で繋がってしまいました。私怨と職務が一本に縒り合わさったとき、紅蘭の覚悟が定まります。
武器は、最後まで言葉だけ。次の第3章「亡国の影」では、いよいよ白霜の真名へ踏み込みます。八年前の一語と、後宮の妖害――その奥にいる「もう一つの手」とは。
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