第8話:皇弟の目
誤訳は、仕組まれている。
その確信を懐に抱えてから、紅蘭の夜は短くなった。
眠るふりで女官の寝息を待ち、月のない宵を選んで、後宮の文書庫へ忍ぶ。続発した誤訳事件の写しを、一つ残らず照らし合わせるためだ。
文書庫の奥、灯火を一つだけ灯して、紅蘭は並べた訳文に指を滑らせた。
ノアの夜。白蓮妃の詩。西の宮で供物が「没収」と訳された夜。——どれも、訳し違えた一語が、同じ角度で歪んでいる。少しでも学んだ者なら間違えようのない箇所を、確信を持って踏み外す。まるで、誰かが同じ型で文字を鋳たかのように。
(筆の癖が、違う。なのに、訳の崩し方だけが、揃っている)
七つの言語が、彼女の頭の中で淡く光る。その光の地図の上で、五つの誤訳が、同じ一点を指していた。誰かが、写し役たちに「こう訳せ」と渡している。
「熱心なことだ。後宮で一番眠らない通訳官は、お前だな」
声は、闇の側から落ちてきた。
紅蘭の指が、紙の上で止まる。振り向くまでもない。紫の衣の裾が、灯火の縁にひたりと触れていた。皇弟・蒼月。気配もなく、いつからそこにいたのか。
「……夜歩きは、皇族の御役目には数えられぬと存じますが」
「お前こそ。少年通訳官が、女官の使う裏戸から忍び込むとは。器用なものだ」
見られていた。それも、一夜ではない。紅蘭は表情を動かさず、訳文を一枚、さりげなく袖の下へ引いた。
「俺の目から隠しても遅い」
蒼月は灯火を回り込み、卓を挟んだ向かいに腰を下ろした。からかうような笑みの底で、その目だけが、紅蘭の手元を正確に追っている。「お前がこのひと月あまり、何を並べて、何を数えていたか。だいたい見当はついている」
まずい。紅蘭は奥歯を噛んだ。
(この男は、妖よりも先に、人を読む)
初めて会ったあの夜に手首の正体を見抜き、それでいて誰にも告げず、ただ泳がせてきた男だ。その理由が、今夜、はじめて輪郭を持って近づいてくる気がした。
「殿下は、私が何を数えていたと?」
「誤訳の、数だ」
蒼月は卓の上の訳文へ、無造作に指を一本置いた。「ノアの夜から数えて、五つ。いや——お前の手元なら、六つ目まで届いているか。後宮の妖害は、たまたま重なったのではない。誰かが、訳し違えを撒いている。そうだろう?」
灯火が、ぱちりと爆ぜた。
紅蘭は、息を一つ分、間を置いた。この男が、どこまで掴んでいるのか。手札を測る。先に多くを見せた方が、負ける。
「もし、そうだとして。殿下に、何の御利益が」
「俺も同じものを追っている、と言ったら」
蒼月の声から、からかいの色が、すっと引いた。「半年前から、後宮の妖害を密かに調べている。だが、俺には読めん。湧いた妖がどの誤訳から生まれたのか、どの一語が歪められたのか——そこまでは、官の誰に聞いても辿れなかった」
彼は、卓の訳文を、紅蘭の方へ静かに押し戻した。
「お前が現れるまではな」
紅蘭の中で、ばらばらだった点が、一本の線に繋がっていく。
(——そういうことか)
手首を見抜きながら、暴かなかった理由。後宮を欺いた罪に問えば、すぐにでも首を刎ねられたはずの嘘を、この男はわざと生かしておいた。
「殿下は、私を……泳がせていたのですね」
「言葉を読める者が、要る」
蒼月は隠さなかった。「妖を呼ぶのが誤訳なら、誤訳を読み解ける者にしか、黒幕は追えん。後宮広しといえど、訳の歪みを一語まで嗅ぎ分ける者は、ただ一人。——お前の正体を暴いて駒にするより、お前の目を、生かしておく方が面白い」
面白い、とまた言う。だがその一言の裏に、初めて、からかいではない温度があった。
「信じよ、とは申しません」
紅蘭は、灯火の芯を見つめたまま、声だけを返した。手札を一枚も見せず、相手の手だけを引き出す。それが、亡国で生き延びるために覚えた術だ。「殿下は、私を泳がせれば黒幕に届くとお考えだ。けれど私から見れば、殿下こそ、いつ私を駒として使い捨てるか分からぬ御方。——人を読むのがお上手な御方ほど、信じてはなりません」
「手厳しいな」
蒼月は怒らなかった。むしろ、待っていたとでも言うように、口の端を上げた。「ならば、一つ貸しを返しておこう。西方の品が『没収』と訳し違えられ、靄が出たあの夜——黎大人がお前の訳文を握り潰そうとした。あれを、上から止めたのは誰だと思う」
紅蘭の指が、わずかに動いた。あの夜、握り潰されるはずだった訳が、なぜか黎大人の手元へ戻された。理由は、分からぬままだった。
「……殿下が」
「皇族が、通訳房の紙一枚に口を出すのは、本来あり得ん。だが、お前の訳が消されれば、黒幕に近づく目が一つ潰れる」蒼月は肩をすくめた。「お前を生かす、とは、そういうことだ。言葉だけではない」
(——この男は、私の知らぬところで、私を生かしていた)
紅蘭の胸の奥で、長く張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩む。警戒は解かない。それでも、目の前の余裕の下に、確かに誠実が一筋、流れているのを、彼女の共感覚に近い勘が読み取っていた。
「では、お聞きします」
紅蘭は、引いた袖を、ゆっくりと卓へ戻した。隠す手を、一つやめてみせる。「殿下が辿った半年で、黒幕の影は、どこまで濃くなりましたか」
「女官房の、奥だ」
蒼月の答えは、迷いがなかった。「写し役を動かしている糸が、女官の側へ伸びている。誰か一人、官の上に立つ者が、誤訳を権力に変えている。——名までは、まだ掴めん。だが、いる」
(女官房の奥。……官の上に立つ者)
紅蘭の頭の中で、その輪郭が、まだ顔のない影として、後宮の朱と金の上に立ち上がる。自分が文字から手繰った線と、この男が人脈から手繰った線が、同じ一点で交わろうとしていた。
「——手口に、癖があります」
紅蘭は、つい、自分の側の札を一枚、滑らせていた。「五つの誤訳。筆跡はばらばらなのに、訳の崩し方だけが揃っている。意味が裏返る一語を選び、文脈を黙殺して、確信を持って踏み外す。これは、訳を学んだ素人の事故ではない。——歪め方そのものを、教え込まれた者の仕業です」
「教え込んだ者が、いる、と」
「ええ。その一人が、女官房の奥に」
言ってしまってから、紅蘭は内心で舌打ちした。蒼月の目が、満足げに細められる。一枚見せれば、相手も一枚返す——そういう取引に、もう片足を踏み入れている。
別々の道を歩いてきた二人が、初めて、同じ闇を指している。
「殿下」
紅蘭は、灯火越しに青年を見た。「私たちは今、同じものを追っている。それは、分かりました」
「ようやく、口を割る気になったか」
「いいえ」
彼女は、わずかに笑った。七つの言語で鍛えた舌で、退かずに。「同じ獲物を追う者同士が、互いの手札を全部見せ合うとは限りません。——殿下は、私を生かしておく理由を話した。けれど、私が殿下を信じる理由は、まだ一つも」
「賢いな」
蒼月は、心底愉しそうに、目元を緩めた。笑うと、酷薄に見えた面差しに、ふと幼さがよぎる。「そうこなくては、つまらん」
彼は、卓に肘をつき、灯火の上へ身を傾けた。淡い炎が、二人の影を壁に長く重ねる。
近い。紅蘭は退かなかった。退けば、読まれる。
「だが、李冰」
蒼月の声が、低く、ひどく静かになった。「お前は一つ、勘違いをしている。俺がお前から訳させたいのは、誤訳でも、黒幕の名でもない」
「……では、何を」
青年の指が、卓の上に、ことりと置かれた。八年前に燃えた故郷の匂いを知らぬはずの男の、その目が、まっすぐに紅蘭の嘘の芯を射貫いている。
「お前の隠し事だ。——そろそろ、訳させてもらおうか」
第8話、お読みいただきありがとうございます。今回は妖を祓う回ではなく、皇弟・蒼月と紅蘭の、灯火を挟んだ探り合いの一話でした。
第1話で手首の正体を見抜きながら、蒼月がなぜすぐに暴かなかったのか。その答えが、ようやく形を持ちました。「言葉を読める者が、要る」——後宮の妖害の黒幕を追うために、彼は紅蘭の目を必要としていた。二人が別々に手繰っていた糸が、今、同じ「女官房の奥」を指し始めています。
とはいえ、同じ獲物を追う者同士。まだ互いに手札は伏せたまま。そして蒼月が最後に「訳させてもらおう」と迫ったのは、誤訳でも黒幕でもなく——紅蘭自身の、隠し事。
次回、二人の取引はどう転がるのか。そして女官房の奥に立つ影の、名は。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の一語を研ぐ励みになります。




