第7話:仕組まれた一語
夜の通訳房は、墨と紙の匂いがする。
昼間は黎大人の重い咳払いと、官たちの筆の音で満ちる部屋も、灯火が一つきりになれば、ただ静かだ。紅蘭――男装の少年通訳官「李冰」は、その静けさの中に、いくつもの訳文の写しを並べていた。
ノアの夜の、献上詩。春の節句の、白蓮妃の祝詞。先ごろ西の宮で、供物の一語が「没収」と訳し違えられ、靄を呼んだ、あの一件。
どれも、紅蘭が懐に控えた写しがある。七つの言語が頭の中で淡く光って見える彼女は、事件のたびに原文を写し取る癖があった。誤訳が妖を呼ぶこの後宮では、写しの一枚が、命綱になる。
潜入して、ひと月あまり。後宮の妖害は、思っていたより多い。多すぎる。月のない夜のたびに、どこかの宮で誰かが言葉を取り違え、墨色の靄が湧く。黎大人はそれを「言葉の壁ゆえの、避けられぬ事故」と言って片づける。官たちも、そう信じている。
(だが、本当にそうか)
一つひとつは、確かに事故に見えた。だが、こうも続けば。
(並べてみれば、わかることもある)
彼女は灯火を引き寄せ、一枚ずつ、指でなぞっていった。
「李冰さま、まだ起きてたの」
戸の隙間から、そばかすの顔がのぞいた。下働きの小鈴だ。手には、どこからくすねてきたのか、蒸し餅を一つ齧っている。
「お前こそ、こんな刻限にうろついて叱られるぞ」
「平気平気。あたし、後宮の裏道なら誰より知ってるもん」小鈴は身軽に滑り込み、並んだ訳文をのぞき込んだ。「うわ、辛気くさい。それ、ぜんぶ妖が出たやつ?」
「ああ。――小鈴。お前、訊きたいことがある」
紅蘭は、訳文から目を上げた。「この詩を読んだ通訳と、供物を『没収』と訳した官と、ノアを『呪い』と訳した者。あれは、別々の人間だな」
「うん、別々だよ。だってノアの時のは西七宮付きだし、供物のはまた別の宮の書役だし」小鈴は指を折る。「みんな顔も知らない者同士。仲良しってわけじゃない」
「噂は。お前の耳に、何か入っているか」
「噂ねえ……」小鈴は蒸し餅をもう一口齧り、声をひそめた。「みんな言ってるよ。今年は、妖が出すぎだって。どの宮も、夜が怖いって。――それとね、変なの。事件のあった宮って、その前に決まって、女官房から人が来てるんだ。訳文の写しを届けるとか、回収するとか言って」
「女官房から」
「うん。あたし、何度か見た。同じ顔じゃないんだけどね、来るのは。でも、来た次の晩に、靄が出る」
(人の出入りが、事件の前に揃っている)
別々の通訳が、別々の宮で、別々の言語を、訳し違えた。繋がりはない。――ないはずだった。なのに、その「前夜」だけが、一本の糸で繋がりかけている。紅蘭の胸の引っかかりは、消えるどころか、太くなった。
彼女は三枚の訳文を、灯火の下にきっちりと揃えた。
(共通点を、洗う)
ノアの「祝福」は、文脈を見れば「呪い」になりようがなかった。春の「謝」も、「春よ、めぐりて」と続く以上、「散る」と読むには前後をまるごと捨てねばならなかった。西の宮の「リサ」も同じ。寿ぐ文脈で「没収」と読むのは、無理がすぎる。少しでもその言葉を学んだ者なら、間違えようがない。
なのに、三人とも間違えた。それも、迷った跡がない。
「……確信を持って、間違えている」
声に出すと、背筋が冷えた。誤訳というのは、本来、迷いの産物だ。どちらの意味か決めかねて、誤った方を選ぶ。だがこの三枚には、その迷いがない。最初から「散る」と決めていたように、筆が淀みなく走っている。
「ねえ、それって変なこと?」小鈴が首をかしげた。
「ああ。――間違えようのない一語を、迷わず間違える。そんな器用な不注意は、ない」
そのときだった。
房の外で、女官の悲鳴が上がった。続いて、灯火が一つ、ふっと墨に呑まれる気配。紅蘭は弾かれたように立ち、戸を開けた。
回廊の角に、墨色の靄が湧いていた。小さい。井戸ほどもない、生まれたての妖だ。だが中心では、丸めた一枚の紙が、ぐずぐずと黒く溶けかけている。
「誰かが、また何かを訳し違えた」
紅蘭は靄へ歩み寄り、震える女官の手から、その紙を奪った。北方の妃が下女に宛てた、ただの言伝。「待つ」の一語が、「捨てる」と訳されている。
(また、だ)
文脈を見れば、待つ以外にありえない。彼女は迷わず空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名を、正しい意味で、書く。
「『待つ』だ。――『日の暮れまで、ここで待つ』。捨てた者など、どこにもいない」
誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。
靄が、内側から砕けた。光の粒になってほどけ、回廊に夜気が戻る。小鈴が「うわ、何度見てもすごい……」と息を漏らした。
だが紅蘭は、祓ったばかりの訳文を握ったまま、動かなかった。
四枚目を、灯火の下へ運ぶ。
そして――気づいた。
(この、言い換えの癖)
四枚の訳文は、書き手が違う。筆跡そのものは、四つとも別人のものだ。だが、誤った一語の「外し方」が、揃っている。どれも、本来の意味と正反対の語へ、ためらいなく寄せている。祝福を呪いへ。礼を散るへ。待つを捨てるへ。――善い意味を、悪い意味の極へ。
しかも、訳文を清書し、宮へ配るときの体裁。冒頭に添える決まり文句、行を起こす位置、語尾の崩し方。その「型」が、四枚すべてで同じだった。
「小鈴」紅蘭の声が、低くなる。「この訳文の写しを宮へ配るのは、誰の手を通る」
「配るの? ……それは、女官房でいっぺん清書してから回すんだよ。どの宮の訳文も、いったんあそこを通る」
一つの手を、通る。
別々の通訳が、別々の言語を訳し違えた、その「写し」が――一箇所に集められ、同じ型で清書され、宮へ撒かれていた。
紅蘭は、四枚を並べた。筆跡は四つ。だが言い換えの型は、一つ。
偶然ではない。不運でもない。誰かが、間違えようのない一語を選んで、迷いなく外し、同じ型で世に流していた。
(これは――事故じゃない。仕組まれている)
八年前、たった一語の誤訳で故郷が燃えた、あの夜の匂いが、ふいに鼻の奥でよみがえった。胸の奥が、ざわりと鳴る。
(この外し方……どこかで、見た気がする)
どこで、とは言えない。思い出そうとすると、煙のように逃げる。だが、善い言葉を選んで悪意の極へ寄せるこの手つきに、紅蘭は確かに、覚えがあった。知っているのに、思い出せない。その隔たりが、薄気味悪かった。
灯火が、揺れた。
「李冰さま……?」小鈴が、不安げに袖を引く。
紅蘭は四枚の訳文を握りしめ、闇の奥――女官房のある方角を、じっと見据えた。
「これは、誰かが仕込んでいる。――一語ずつ、わざと」
お読みいただきありがとうございます。今回は妖を祓うより、紅蘭が「机に向かう」回でした。
ノアの誤訳、春の祝詞、西の宮の供物――これまで一話ずつ解いてきた事件を、紅蘭が並べ直したとき、見えてくるものがありました。筆跡はばらばら。でも「間違え方の癖」と「配られ方の型」は、たった一つ。偶然のはずがない、と紅蘭は確信します。
武器は、相変わらず言葉だけ。今回は小鈴が、後宮の人の出入りという「足」で紅蘭を助けてくれました。次回からは、その型をたぐった先に、誰の影が立つのか――そして紅蘭が感じた「この外し方、どこかで見た」という引っかかりの正体も、少しずつ近づいてきます。
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