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後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


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第6話:妬む者

 通訳房つうやくぼうの朝は、墨の匂いから始まる。

 大国・こうの後宮には、諸国から嫁いだ妃が集う。妃の数だけ言葉があり、言葉の数だけ、訳し違えの種がある。それを束ねるのが、宮廷通訳長・黎大人レイたいじんだった。

 その朝も、李冰リヒョウ――男装の紅蘭こうらんは、机に積まれた書状を、片端から正しく訳していた。


「南宮の薬の処方、『二銭』を『二両』と写し違えています。このまま渡せば、妃が倒れます」

「西宮の祝詞しゅくし、ここは敬語が一段、足りません。直しておきます」

「北宮へ回すび状――この一語は『遺憾』ではなく『かしこみ』。怒りを買う前に、書き換えを」


 筆が止まらない。事件が起きる前に、紅蘭は誤訳の芽を摘んでいく。三日前は呪いの詩、昨日は毒の薬名。そのたびに女官たちが、平らな胸の少年通訳官を、神でも見るように仰いだ。

 若い通訳たちまで、難しい一語に詰まると、いつしか黎大人ではなく「李冰どの」へ紙を運ぶようになっていた。

 その様子を、上座から見つめる眼があった。黎大人である。

(……たかが、新参の若造が)

 形式主義の眼鏡の奥で、老いた通訳長の眼が、じっとりと濁っていた。三十年、この房を守ってきたのは自分だ。七つも言語を操るわけではない。だが前例をそらんじ、旧例きゅうれいの帳面を守り、波風を立てずに、ここまで上り詰めた。それが、官というものだ。

 なのに、潜入してまだひと月の少年が、前例を飛び越え、次々と新しい訳を出す。房の眼差しが、日に日に、己から離れて若造へ移っていくのが、肌で分かる。

(あれは、危うい。前例にない訳など、いつか後宮を混乱させる)

 そう己に言い聞かせる声の底で、別の声が、ねっとりと囁いていた。――妬ましい。己の年月が、たった一語で古びていくのが。


 その日のひる、皇后さまより、節句の通達が下りた。

 諸宮へ一斉に配る、改まった一文。中に、西方の妃の故国から届いた供物くもつの扱いを記した、一語があった。

 西方の古語で、「リサ」。

 紅蘭の頭の中で、その文字が、いつものように淡く光った。


「黎大人。この『リサ』は、『返し賜う』です。故国の品を妃の手元へ戻し、面目を立てる――皇后さまの、お心遣いの一語かと」


 黎大人は、旧例の帳面を、ばさりと開いた。

「前例が、ある。先帝の御代より、『リサ』は『収公しゅうこう』――召し上げ、と訳すと決まっておる」

「文脈が、違います。あれは戦利品の没収を命じた古いみことのり今宵こよいのこれは、節句の、寿ことほぎの文です。同じ『リサ』でも、意味は裏返る」

「越権だ」

 黎大人の声が、ぴしゃりと房を打った。筆を止めた若い通訳たちが、息を呑んで二人を見比べる。

「新参が、前例を覆すというのか。お前の一存で皇后さまの言葉を変え、もし事があれば、誰が責めを負う。――わしは負わぬぞ」

 その一言に、紅蘭は黎大人の本心を、淡く光る言葉の裏に読んだ。責めを負いたくない。正しいか否かではない。前例どおりに訳しておけば、たとえ事が起きても「決まりに従った」と言い逃れができる。この老人が守っているのは、後宮ではなく、己の保身だ。

 黎大人は、紅蘭の書いた訳文を、ひょいとつまみ上げ、反故籠ほごかごへ落とした。

「控えも要らぬ。前例帳どおり、『収公』で清書せよ。それが、この房の流儀だ」


 紅蘭は、奥歯を噛んだ。

 反論すれば、男装の身に余計な眼が集まる。ここで通訳長と事を構えるのは、得策ではない。

 彼女は黙って一礼し、命じられたとおり、「収公」と清書した。だが、籠に落とされた己の正訳を、人目を盗んで懐へ拾い、写しを一枚、別に控えた。原文の写しを懐に持つのは、八年来の癖だ。控えのない言葉は、いつでも、誰の手でも、書き換えられる。

(……こうして、正しい訳が握り潰され、写しも記録も残らぬなら)

 筆を運びながら、紅蘭の胸を、冷たいものがかすめた。

 黎大人の握り潰しは、保身ゆえの、ただの臆病だ。だが、この房には、訳を一人が握り潰せる隙間がある。控えを取らず、前例の名で押し通せば、誰も後から確かめられない。

(もしこの隙間を、悪意が利用したら――誰かが、わざと一語を訳し違えても、誰も、気づけない)

 ノアの夜の、あの不自然な誤訳が、ふと脳裏をかすめた。


 誤訳は、その夜のうちに、牙を剥いた。

 「故国の供物を、召し上げる」――没収を告げる通達が、西方の妃の宮で読み上げられた途端、面目を潰された女官たちの怨嗟えんさが宮を渦巻き、回廊に墨色のもやが湧いた。

 報せを運んできたのは、下働きの小鈴シャオリンだった。


「李冰さま、大変っ。西の宮が、靄に呑まれて……皆、閉じ込められてる!」


 紅蘭は懐の写しを掴み、駆けた。

 靄は回廊を這い、灯火を一つ、また一つと喰い消していく。その中心で、黎大人が腰を抜かしていた。前例の訳を配った、その本人が。

「な、なぜだ……前例どおりに、訳したのだぞ……!」

「前例が、文脈を殺したんです」

 紅蘭は、靄の根へ歩み出た。懐から、握り潰されたはずの正訳の写しを引き抜く。淡い金の光が、墨色の靄の中で、一枚の紙だけを照らした。

「捨てたつもりの一語が、ここに残っていてよかった。――あなたが己の名を惜しんで握り潰した訳が、この妖を呼んだ。けれど、これを祓えるのも、同じ一語です」

 靄が、ぞろりと首をもたげる。彼女は怯まず、空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名まなを、正しい意味で、書く。


「『リサ』――『返し賜う』。『故国の品を、あなたの手に戻す』。これは、奪う言葉ではない。寿ことほぐ言葉だ」


 誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。

 墨色の靄は声もなく裂け、淡い光の粒となって夜気に溶けた。喰われていた灯火が、ぽつ、ぽつ、と息を吹き返した。

 閉じ込められていた女官たちが、平らな胸の少年通訳官を、震えながら仰ぐ。


 あとには、靄の引いた回廊に、紅蘭と、座り込んだままの黎大人だけが残った。

 紅蘭は、正訳の写しを、黎大人の足元へ、そっと置いた。

「……前例は、過去の文脈に正しかった訳です。今の文脈には、今の訳が要る。それだけのことです」

 黎大人は、しわの刻まれた手で、その紙を拾うことも、突き返すこともできず、ただ見下ろしていた。閉じ込められていた女官の一人が、すすり泣きながら、紅蘭にだけ深く頭を下げて去っていく。その背を、黎大人は見ていられなかった。

「わしは……保身で、妖を、呼んだと――そう言うか」

「私は、ただ、訳し直しただけです」

 紅蘭は、深く一礼し、夜気の戻った回廊を、足早に去った。


 残された黎大人は、しばらく、動けなかった。

 握り潰したはずの一語が、足元で、淡く白く光って見える。三十年守ってきた前例帳が、今ほど薄っぺらく感じたことはなかった。

 老いた通訳長は、震える指で、その写しを、ようやく拾い上げた。

 認めるものか。認めれば、三十年が崩れる。あれは越権だ。新参の、危うい思い上がりだ。――そう、何度も己に言い聞かせ、それでも、唇から漏れた言葉は、別のものだった。


「あの者の訳は……正しい、のか」


 誰もいない回廊に、その独り言だけが、墨の匂いとともに、ひそやかに沈んでいった。


お読みいただきありがとうございます。今回は妖との戦いより、「人の壁」――上司・黎大人との一戦でした。

 正しい訳を出せる者が、必ずしも組織で重んじられるとは限りません。前例と保身が、正しさを握り潰す。その握り潰しが、妖を呼んでしまう――言葉の事故は、悪意がなくとも起きるのです。そしてもし、ここに悪意が混じったら? 紅蘭がふと抱いた寒気は、この物語の大きな糸へ繋がっていきます。

 頑固な黎大人も、最後にほんの少し、揺らぎました。彼が紅蘭の背を押す側へ回る日が来るのか――どうか見届けてください。

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