第5話:訳せない妃
「あなたは、私の言葉を正しく訳してくれるの?」
後宮の端、人気の少ない宮の格子窓――その奥から、たどたどしい煌語でそう問うてきたのは、西方出身の妃、桂才人だった。
褐色の肌に、煌の宮ではついぞ見ない異国の刺繍衣。誇り高く背を伸ばしているのに、瞳の奥だけが、いつも誰かに置き去りにされたように凍えている。
李冰――男装の紅蘭は、正しく訳し直した上奏の写しを女官に託したその足を止め、格子の向こうの目を、まっすぐに見返した。
(この人は、言葉が通じない、のではない。通じないことに、慣れすぎている)
「正しく訳します。――あなたが、本当に言いたかったことを」
桂才人の唇が、わずかに震えた。だが彼女は何も言わず、格子の奥へ、静かに身を引いた。
その言葉が試されたのは、三日後の昼だった。
西七宮の茶宴で、また事件が起きたのだ。
紅蘭が駆けつけたとき、回廊にはすでに薄い墨色の靄が、床を這い始めていた。月のない夜でもないのに、妖が滲み出かけている。それだけ、人の怒気が濃いということだ。
中庭では、煌の妃たちが桂才人を取り囲んでいた。
「聞きましたか。桂才人ったら、皇后さまの賜った茶を『冷たい』と。せっかくの御心を、よくもそんな」
「西方の方は、礼というものを知らぬのね」
円の中心で、桂才人は唇を結んでいた。たどたどしい煌語で、必死に何かを言おうとして、言葉が出ず、ただ屈辱に頬を強張らせている。その沈黙が、また「不遜」と取られていく。
靄が、彼女の足元で、ぞろりと頭をもたげた。
「お待ちを」
紅蘭は人垣を割って入った。妃たちの非難の目が、平らな胸の少年通訳官へ集まる。
「桂才人さまは、何と仰った。煌語ではなく、ご自身の言葉で。――どうか、もう一度」
桂才人が、はっと顔を上げた。すがるような目で、彼女は故国の言葉を、ぽつりと零した。
西方の、滑らかな母語。
その一語が、紅蘭の頭の中で、淡く光った。七つの言語は、彼女にはいつも地図のように見える。だからわかる。煌語に移し替えるとき、どこで意味が裏返ったのかが。
「皆さま、思い違いをなさっています」
紅蘭は、靄の湧く中庭の只中で、静かに言った。
「西方の古語で、いま桂才人さまが仰った一語――『冷たい』ではありません。これは、温度の語ではなく、敬いの語です」
妃の一人が眉をひそめる。「敬い? 茶を冷たいと貶したのではなくて?」
「西方では、貴人から賜った品を、軽々しく『熱い』『甘い』と評するのは無作法とされます。だから一度、己の感情を冷まして、恭しく押しいただく。その所作を表す一語が、煌語に正しく移し替えられぬまま――」
紅蘭は、空に指を走らせた。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名を、正しい意味で、書く。
「『辱し』。――『この身に余る、ありがたきお茶を』。桂才人さまは、皇后さまに、最上の礼を返しておられた」
誤って訳された言葉は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。
桂才人の足元の靄が、内側から崩れ、光の粒になってほどけた。回廊に、白檀の香が戻ってくる。
妃たちは、ばつの悪そうな顔で目を見交わし、一人、また一人と去っていった。
ふと、回廊の柱の陰で、紫の衣がひらりと揺れた。蒼月だった。いつから見ていたのか。彼は咎めるでも、からかうでもなく、ただ紅蘭の手際を見届けるように、目を細めた。そして声には出さず、唇だけを、確かにこう動かした。
――よく、訳した。
それきり、紫の影は、人気の引いた回廊へ音もなく退いていく。去り際、ほんの一瞬、その視線が紅蘭に絡んだ。心臓が、また勝手に跳ねる。
(……あの人は、いつもそうだ。肝心なところだけ、見ている)
あとには、桂才人と、紅蘭だけが残った。
「……ずっと」
桂才人の声が、震えていた。たどたどしい、けれど確かな煌語で。
「ずっと、逆に、聞かれてきた。私が、礼を言えば、皮肉と。私が、譲れば、見下したと。言葉が……届かない」
その瞳から、誇りの氷が、ほろりと溶けた。
「あなたは、私の言葉を、正しく訳してくれた。初めて……初めて、正しく」
(この人は、ずっと、自分を正しく訳してくれる誰かを、待っていたのだ)
紅蘭は、胸の奥が静かに痛むのを感じた。言葉が通じぬまま喪われた者を、彼女は一人、知っている。遠い、あの夜に。
桂才人は、衣の袖から、小さく折り畳んだ布を取り出した。西方の文字が、びっしりと縫い取られている。
「李冰。ひとつ、頼みがある」
彼女の声が、初めて、まっすぐに紅蘭へ向いた。
「私の故国は……戦を、望んでいない。和を、結びたいと、ずっと願っている。けれど、その願いは、煌の言葉に移すたび、別のものに変わってしまう。脅しに、ねだりに、嘘に」
桂才人は、その布を、紅蘭の手にそっと握らせた。
「いつか――この願いを、正しく訳して、伝えてほしい。あなたになら、託せる」
布越しに、桂才人の指は、冷たく、けれど固く、紅蘭の手を握っていた。
紅蘭は、縫い取られた西方の文字を、そっと指でなぞった。和を願う、故国の言葉。
(……この言葉が、いつか)
なぜか、背筋を、八年前に燃えた故郷の匂いが、ひやりと撫でていった。
まだ、その意味はわからない。
ただ、握らされたこの願いが、後宮の小さな茶宴では終わらぬ何かへ繋がっているのだと、胸の奥が、淡く、確かに、告げていた。
お読みいただきありがとうございます。今回は、言葉が通じぬがゆえに孤立していた妃・桂才人と、紅蘭が「言葉の橋」を架ける話でした。
桂才人は、礼を述べれば皮肉と取られ、譲れば見下したと取られ――本心と逆に訳されることで、後宮で独りぼっちになっていました。妖を呼ぶのは、いつも「誰かの誤訳」です。それは悪意とは限らず、ただ「正しく訳してくれる人がいなかった」だけでも、人を追い詰めます。
そして桂才人は、自分を初めて正しく訳してくれた紅蘭に、故国の和平の願いを託しました。この願いが、いつ、どんな形で効いてくるのか――どうか覚えておいてください。
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