第3話:一語で、妖は消える
後宮の朝は、香の匂いから始まる。
白檀、龍涎、妃たちが競うように焚きしめる香が、回廊の冷えた空気に幾筋も流れている。だがその朝、東六宮の一角だけは、香ではなく、焦げ臭い恐慌の匂いに満ちていた。
李冰――男装の紅蘭が通訳房から駆けつけたとき、二人の妃が、それぞれの女官を背に従えて睨み合っていた。
朱金の襦裙が、墨色の靄を背に、痛いほど鮮やかだった。
「白蓮妃が、わたくしを呪ったのです! 祝いの詩と偽って、こんな……こんな言葉を寄越して!」
「言いがかりを! わたくしは祝詞を贈っただけ。曲解したのはそちらでしょう!」
春の節句に、東六宮の白蓮妃が、西七宮の朱華妃へ祝いの詩を贈った。後宮では珍しい、派閥を越えた歩み寄り――のはずだった。
ところが届いた詩を、朱華妃付きの宮廷通訳が読み下した瞬間、その一節がこう訳された。
――「あなたの花が、早く散りますように」。
祝いが、呪いに化けた。
朱華妃は激昂し、白蓮妃は弁明し、声と声がぶつかって、もはや言葉の体を成さない。西七宮の女官が東六宮の侍女の襟を掴み、引き倒す。簪が落ち、結われた髪がほどけ、朱と墨の袖が中庭の砂を巻き上げて取っ組み合う。
「呪詛の証を、皇后さまへ突き出しておやり!」
「触れるな、西の狐どもが!」
女官たちは互いの主の名を盾に、罵り合う。年若い侍女が一人、隅で震えながら泣いている。誰も、誰の言葉も、もう信じていない。
(言葉が、人を喰っている)
紅蘭は、ひとつ息を吐いた。妖が湧くより先に、人の心のほうが先に崩れる。いつも、その順だ。
(また、ノアの夜と同じだ)
そして昨夜、両宮を隔てる中庭に、墨色の靄が湧いた。
紅蘭は、人垣の隙間から中庭を覗いた。靄は陽の光にも消えず、井戸を中心にとぐろを巻いている。朱金の宮を背景に、その一画だけが墨を流したように昏い。半透明の手のようなものが、何度も水面を掻いていた。掻くたびに、靄は人の喉のような形に膨らみ、しぼむ。怨嗟が、形を得かけている。
女官の一人が、靄に近づきすぎた。指先が触れた途端、その者の口から漏れたのは――言葉にならぬ、軋むような音だった。仲間が悲鳴を上げて引き戻す。
(早く、正しい名を返さないと。あれは、もうじき喋りだす)
「李冰。お前の出番だ」
背後から、聞き慣れた声。皇弟・蒼月が、相変わらず人の悪い笑みで腕を組んでいた。「宮廷通訳が三人がかりでも消せん。さて、どう訳す?」
「……見物ですか、殿下」
「ああ。お前の言葉が、後宮で一番面白いのでな」
紅蘭は答えず、白蓮妃に向き直った。
「白蓮妃さま。お贈りになった詩の、原文の写しを。――ご自身の筆で、もう一度」
白蓮妃は戸惑いながらも、震える手で紙に書いた。北方の古詩の一節。
紅蘭の頭の中で、その文字がいつものように、淡く光る。横に、朱華妃付きの通訳が書いた読み下しを並べる。光る原文と、光らぬ訳文。二つの文字の重なりが、ずれている。
(やはり、だ)
七つの言語が、彼女には地図のように見える。どの語が、どこから来て、どこへ意味を運ぶのか――道筋が、灯りのように連なって見えるのだ。
問題の一語は「謝」。北方の古語のなかでも、扱いの難しい字だ。これは――枯れる、散る、という意味と、感謝する、敬意を返す、という意味を、字形ひとつで併せ持つ。
同じ筆画の、表と裏。どちらに転ぶかは、前後の一語が決める。
(散る、と読むなら。前に「風」か「露」、後ろに「尽きる」か「果てる」が要る)
紅蘭は、白蓮妃の詩を、一字ずつ指でなぞった。「謝」の前は「春」。後ろは――。
「白蓮妃さま。この『謝』の、次の句は」
「……『めぐりて』、と。春が、また巡り来るように、と」
その一語で、決まった。
「春よ、めぐりて、と続く詩で、『謝』を『散る』と読むことはできません。めぐり来る春に向けて、花が散れと願う者はおりません。これは『礼を返す』――敬意を、めぐらせ返す、という意味です」
北方の妃の言葉が、すとんと胸に落ちる。語が正しい場所に嵌る、あの手応え。
紅蘭は、靄の湧く中庭へ歩み出た。女官たちが息を呑む。靄の手が、彼女めがけて伸びた。井戸の縁が、低く軋むような音を立てる。
怯まず、空に指を走らせる。一画、また一画。なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名を、正しい意味で、書く。
靄が、書き上がる字を阻もうと、墨色の腕を伸ばす。だが指先は、ただ淡く滲んで、金の筆画を消せない。
「『謝』――『春よ、めぐりて、あなたに礼を返す』。これは、呪いではない。歩み寄りの、祝いだ」
誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。
金文字が、ひときわ強く光った。
靄の喉が、ぐ、と詰まる。膨らみかけた人の形がほどけ、軋みが、長い吐息に変わる。やがて靄は、井戸の底へ吸い込まれるように崩れた。光の粒が水面に散り、波紋がひとつ、ふたつ。後宮の朝に、ようやく香の匂いが戻ってくる。
「……わたくしの、詩は」
白蓮妃が、よろめいた。「祝いだったのですね。ずっと、呪いだと、責められて……」
その目に、涙が盛り上がる。
朱華妃も、青ざめて立ち尽くしていた。やがて唇を噛み、震える声で告げる。「……非礼を、いたしました。わたくしは、訳された言葉だけを見て、あなたを疑った」
白蓮妃が、首を横に振る。二人の妃の間にあった敵意が、一語の訳し直しで、ゆっくりとほどけていく。取っ組み合っていた女官たちも、いつのまにか手を放し、ばつの悪そうに襟を直していた。
女官たちが、平らな胸の少年通訳官を、神でも見るように仰いだ。
――解決した。今度も。
だが紅蘭の胸には、爽快よりも先に、冷たい引っかかりが残っていた。
彼女は、朱華妃付きの宮廷通訳が最初に書いた訳文を拾い上げ、もう一度、見た。
(おかしい)
訳文の筆は、淀みがなかった。迷った跡が、ない。難しい字に当たれば、人は筆を止める。墨の濃淡が乱れ、書き直しの痕が残る。だがこの訳は、はじめから「散る」と決めていたように、まっすぐ書かれていた。
それに――と紅蘭は思う。「謝」を「散る」と読むには、前後の文脈を、まるごと無視しなければならない。「春よ、めぐりて」と続く詩を、どう読めば「早く散れ」になる。前の一語を見れば、後ろの一語を見れば、答えは一つしかない。少しでも北方の古語を学んだ者なら、迷う場面ですらない。
文脈を見れば、間違えようがない一語。
なのに、この通訳は間違えた。それも、三人がかりで靄を消せないほど、強く、確信を持って、間違えた。
(知らずに、こうは書けない。「謝」が両義だと知っていて、そのうえで、悪いほうを選んだ)
(……まるで、わざと訳し違えたみたいだ)
ノアの夜と、同じ感触。あのときの「呪い」の訳にも、同じ淀みのなさがあった。偶然の不注意では、説明がつかない。一度なら、見過ごせた。だが二度。同じ手つきで、二度。
「どうした、李冰」
蒼月が、いつのまにか隣に立っていた。からかいの色が、わずかに引いている。「いい顔だ。何かを、見つけた顔だな」
紅蘭は、訳文を握りしめた。そして、自分でも気づかぬうちに、声に出していた。
「これは……誰かが、わざと訳し違えた」
春の中庭に、香の匂いだけが流れている。
誤訳が妖を呼ぶこの後宮で、その誤訳が「事故」でないとしたら――
紅蘭の背筋を、八年前に燃えた故郷の匂いが、もう一度、撫でていった。
お読みいただきありがとうございます。紅蘭が「一語」で妖を祓う、初めての本格的な事件の話でした。
祝いの詩が呪いに化ける――言葉の事故は、後宮ではただの喧嘩では済みません。そして紅蘭は、その事故が「事故ではない」ことに気づいてしまいました。
誰が、何のために、わざと訳し違えているのか。物語の大きな謎が、ここから動き始めます。次回からも一話=一事件で解決しつつ、その奥の糸を、紅蘭と一緒にたぐっていってください。
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