第2話:平らな胸の通訳官
胸の布は、夜のうちに少し緩む。
潜入四日目の朝、紅蘭は誰もいない房の隅で、巻きなおした晒を一周きつく締めた。息を細く吐きながら、布の端を脇の下で結ぶ。きつく巻けば苦しく、緩めれば膨らみが出る。少年の平らな胸は、毎朝この加減で、作り直さねばならない。
結い上げた黒髪が一筋、襟から零れた。それも指で押し込み、墨で汚れた指先を袖で隠す。水盤に映る顔へ、低く掠れた声を、一度だけ落としてみた。
「……李冰」
喉の奥で響かせる、少年の声。朝いちばんに作っておかねば、うっかり地の声が出る。
(少年・李冰は、髪も胸も、持たない。声も、紅蘭のものではない)
昨夜、皇弟・蒼月に手首を掴まれた感触が、まだ残っていた。女の手をしている、と笑ったあの男の前では、息のひとつも気を抜けない。指の節が細いのを隠すため、今日は墨を、わざと多めに塗っておいた。歩幅は広く、肩は落とさず、笑うときは口の端だけ。三日かけて作り上げた所作を、もう一度、頭の中で確かめる。
(一つでも崩せば、首が飛ぶ)
亡国の姫だと知れれば、政治の駒にされる。家族を喪った理由に近づくことすら、できなくなる。だから李冰は、平らで、賢く、目立たぬ少年でなければならなかった。
大国・煌の後宮には、通訳房という小さな官房がある。
多民族の妃が集う後宮では、言葉が国の数だけ行き交う。妃の上奏、妃同士の文、薬の処方、献上の品の目録――そのすべてを煌語へ訳し、また各国の言葉へ返すのが、通訳官たちの務めだ。
窓の小さな房に、几がいくつも詰め込まれ、墨と古い紙の匂いが澱んでいる。壁際には、代々の訳例を綴じた分厚い帳面――前例帳が、棚を埋め尽くしていた。官たちは何かを訳すたび、まずその帳をめくる。新しい言葉に出会っても、己の頭ではなく、帳の中の「型」を探すのだ。
その房の主が、宮廷通訳長・黎大人だった。
「李冰、と言ったな」
五十がらみの、痩せた官だった。形式ばった眼鏡の奥から、新入りの少年通訳官を、値踏みするように見る。
「西方の古語に、北方の古詩。なるほど、口だけは達者と聞いた。だが、ここは後宮だ。才は要らぬ。要るのは、前例だ」
「前例、ですか」
「訳には型がある。代々の通訳長が積み上げた、正しい型がな」
黎大人は棚の前例帳を、節くれだった指で叩いた。
「ここにある通りに訳せば、誰も咎められぬ。お前のような小僧が、思いつきで字をいじることは、許さん」
紅蘭は黙って一礼した。
(型。――八年前、私の故郷を焼いたのも、その「型」だったが)
胸の奥でだけ、奥歯を噛む。表には出さない。出せば、李冰は終わる。
最初の仕事は、妃たちの上奏文の写しと訳の点検だった。
房には、朝から小さな諍いの種が、次々と持ち込まれていた。北方の妃が「布を分けてほしい」と書いた文が、「布を寄越せ」と訳されて、女官が気を悪くする。南方の妃の礼の言葉が、そっけない命令に化けて伝わる。どれも、命に関わるほどではない。けれど後宮では、その小さな行き違いが、日々、静かに積もっていく。
(言葉の通じぬ者同士は、こんなにも容易く、互いを誤解する)
そしてこの後宮では、積もった誤解は、ただの喧嘩では済まない。紅蘭は、それを誰よりも知っていた。
紅蘭は几に積まれた文を、一枚ずつ繰る。原文と訳を見比べ、気になった一語は、懐の小さな帳に、そっと書き写しておく。原文さえ手元にあれば、いつでも訳し直せる。――それが、滅びた故郷で叩き込まれた習いだった。
七つの言語が、彼女の頭の中ではいつも、淡く光って見える。光は、書いた者の気持ちまで照らす。怒り、媚び、祈り――言葉の裏で本当に言いたかったことが、字の奥に透ける。
その中に、一枚、ひどく歪に光る訳文があった。
西方出身の妃、桂才人の上奏。原文は西方の言葉、添えられた煌語訳は、たどたどしい。
――「皇后さまの御恵み、私は要らぬ」。
「黎大人。この訳は、誤りです」
紅蘭が口を開くと、黎大人の眉が跳ねた。
「桂才人さまは、皇后さまの賜り物を断った。無礼な妃だと、もう女官房で評判だ。訳は正しい」
「いいえ。西方の言葉で、この一語は『要らぬ』ではなく――『恐れ多くて、受け取れぬ』。謙譲です。へりくだって、辞退しておられる」
房が、しんとした。
「原文には、こう続いています。『私のような者には、過分にすぎる』と。断りではなく、感謝の辞退だ。煌語の型に押し込んだから、無礼に化けた」
黎大人の顔が、みるみる赤くなった。
「……前例にない訳だ。認めぬ」
「前例の訳が、妃お一人を、無礼者に仕立てています」
黎大人は答えに詰まり、それから、声を低くした。
「いいか、小僧。前例どおりに訳しておけば、たとえ妃が気を悪くしようと、咎はわしらに及ばぬ。だが、新しい訳を上げて、もしそれが間違いであったら――誰が、責めを負う」
その声が、わずかに上ずっていた。
「わしか。お前か。前例とは、わしらが五十年、首をつないで生き延びてきた作法だ。小僧の思いつきで、崩されてたまるか」
「では、桂才人さまの首は」
「黙れ、小僧!」
黎大人が訳文を奪い取り、几に叩きつけた。
「この房では、わしの型が、すべてだ。お前の役目は、写すこと。考えることではない」
紅蘭は、それ以上は言わなかった。
言えば、新入りの少年が一日で長に楯突いたと知れる。目立てば、蒼月の耳にも入る。男装の李冰は、賢く、控えめでなければならない。出すぎた釘は、抜かれる前に、正体を暴かれる。
(だが――桂才人の言葉は、間違って後宮じゅうに広まっている)
言葉の壁が、一人の妃を、孤島にしている。誤って訳された一語は、いつか必ず、墨色の靄を――妖を、呼ぶ。
(言葉が通じぬ場所には、いつか必ず、靄が湧く)
ノアの夜が、紅蘭の頭をよぎった。あれも、西方の妃が皇后へ献じた詩の、たった一語だった。
(……あの詩を献じたのも、確か――この、桂才人だ)
その日の夕、紅蘭は懐に原文の写しを忍ばせ、通訳房を出た。
桂才人の宮は、後宮の端の、人気の少ない一角にあった。妃たちが競って香を焚き、衣を競う華やぎは、ここまでは届かない。朱も金もない、色の褪めた一角だ。
褐色の肌に異国の刺繍衣をまとった妃が、格子窓の奥で、独り、膝を抱えていた。女官が膳を運んでも、言葉を交わすことはない。問うことも、答えることも、許しを乞うこともできぬまま、ただ座っている。その背は、誇り高く伸びているのに、ひどく小さく見えた。
煌語が通じぬまま、無礼者と噂され、後宮じゅうに、本当の言葉が一つも届かない。
(……それがどれほど寒いことか)
異国に独り取り残された妃の姿に、八年前、すべての言葉を失った自分が、かすかに重なった。
紅蘭が几で見た、あの歪んだ訳文。それを正しく訳し直した写しを、紅蘭は女官に託そうとした――その気配に、妃が顔を上げた。
ふと、回廊の柱の陰で、紫の衣がひらりと翻った気がした。
(……蒼月)
見られていたか。背に冷たいものが走る。だが振り向いたときには、もう、誰もいなかった。気のせいか。あの男は、いつもそこにいて、いない。
桂才人が、格子の向こうから、紅蘭をじっと見ていた。
たどたどしい、けれど必死の煌語で、妃は問うた。
「あなたは――あなたは、私の言葉を、正しく訳してくれるの?」
お読みいただきありがとうございます。男装の翻訳姫・紅蘭が、後宮の通訳房に正式配属となる回でした。
前例しか認めぬ通訳長・黎大人、そして言葉の壁ゆえに孤立する西方の妃・桂才人――後宮に渦巻く「言葉のすれ違い」が、次に何を呼ぶのか。次回はいよいよ、紅蘭が「一語」で妖を祓う、初めての本格事件です。
桂才人の問いに、紅蘭は何と答えるのか。続きが気になっていただけたら、ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




